やさしい腕 20021012
恋も愛も友情も、名前をつけてはじめて意義が生まれるものだから。 もっともっと、感情の基本を養おう? 「アンタさ、いい加減まどろっこしいっスよね」 海堂は、いつもながら何でソコまで不機嫌なんだろうと思う程不機嫌に眉を顰めながら言った。そして、正面に立った。オレは椅子に座っていたから自然見下ろされる形になった。天井の蛍光灯が逆光になって海堂の表情は全く見えなかった。そのまま海堂は体の距離を詰めて、触れた。半眼開いた両目蓋の上に、かるく一回づつ。いつのまにか彼の長めの指で眼鏡は自然にずらされていた。 「……ハイ?」 「何スか」 「ナンデスカって……こっちこそ、何、て感じなんですケド」 驚いた。なにが何だか分からなかった。一体、オレの何がまどこっろしくて(いやオレは確かにやっかいな性質だけれど)、海堂がしかめっ面で急接近してきたのか。眼鏡を押さえる海堂の指から伝わるオレよりもずっと高い体温と、目蓋に落ちた柔らかいものが潰れて離れたのは一体何のためなのか。 自分の心臓がうごいているのが分かる。 海堂は、元から鋭すぎる目付きを一層眇めて見下ろしてきた。顔の両端から光を受けた表情は何時もよりもずっと冴えて見える。普段見下ろしてばかりいる見慣れた顔は、見上げてみれば酷く新鮮で奇異に感じた。するどく尖った顎の線を見て、自分とは違う生き物なのだと実感。 海堂は、静かに不機嫌にそしてとても近くでオレを見下ろしていた。その冷ややかな目付きに訳もなく怯みそうになるのと正反対に、コメカミ辺りに添えられた海堂の指先と頬に僅かに当たる細く吐き出される息はひどく熱かった。そして、さっき目蓋に触れたのだろう海堂の下唇が、すこし濡れていることに気が付いた。すこし厚ぼったいそれは微かに掛かる蛍光灯の明かりを受けて、ほんの少しだけ、光を弾いていた。そしてオレはずらされた眼鏡の焦点が狂っているわけではなくて、視界がぐらりとなった。影響は即座に体に反映された。突然の海堂の挑発にポカンと弛緩していた各所の筋肉が、一気にザワリと大きく波打つ感じ。 オレはその衝動に逆らわなかった。 誰であろうと、見下ろされるのは大嫌いだった。過去形。 「センパイ、もーそろそろ教室戻りたいんスけど」 「んー……も、ちょい」 はあっ、というこれ見よがしなため息が頬を撫でた――海堂が、見せ付けるためにやっているのではないのを知っている。ただ海堂はオレに呆れているだけ。だから、オレはそれが楽しかった。ごつごつと骨が当たる胸に頭を押し付けてクツクツ笑う。体勢的に海堂の表情は見えなかったが、チッと鳴った舌打ちがその代わりをしてくれた。鋭角の顎のラインは、相変わらず奇異だけれども、最近はそれがいとおしくも感じられるのだから妙なものだ。 不機嫌に遠くを眺めている海堂は、如何にもイヤイヤな態度を繕ったままだった。それでも、上から抱えるように回された海堂の腕はオレの要望通りそのままでいた。相変わらず高い温度が制服のシャツ越しに背中に届いて気持ちよかった。そして、相変わらず心臓が鳴っていた。安らぐのと緊張するのが交互に、あるいは一遍にやって来る感じ。つまりはオレは海堂に甘えているのがキモチイイと感じている。 屋上の貯水タンクの上。かなり穏やかな日でも、かなりな風が絶えることはない。だからこそ、海堂の体温が唯一の寄る辺のようで一層気持ちよく感じる。海堂にとってのオレも似たようなものだったらしく、ココに誘って断わられたことはまだなかった――こういうことを、するために誘っているにも関わらず。単に人目を避けるためだけに選んだ場所は思いがけない利点があったようだ。 フェンスに体を預けて座る海堂に背中を預けたまま、サージの制服ごしに海堂の細い太腿を肘の辺りに感じたまま、目を閉じた。自分よりも遥かにゴツイ体を支えるのは海堂にとって結構骨だとは分かっていたが、海堂が許容してくれているのにまかせた。 「全然ちょっとのつもりなんかナイじゃないっスか……」 呆れた、でもオレを気遣ったのか潜めた声がボソリと体と通して響いてきて、静かに眼鏡が引き抜かれた。流れのまま髪がかきあげられる。自分がひどく甘えているのはきっと、海堂が甘やかすのが巧いからなのだろう。 そんなことを考えながら、予鈴までの短い眠りに落ちた。 目蓋に透けていた光が失せて、いま海堂が自分を見下ろしているのを感じていた。 一度見上げることになれてしまえば、どうということはない。海堂が教えてくれたのはそういうことだった。 あの時、オレは訳も分からず海堂に欲情した。そうだと思った。自分で欲情だと思った衝動のまま、オレは顔に寄せられた海堂の腕を強く引いて無理に抱き寄せた。ただキスがしたいと思った。相手を思いやることなど二の次、三の次だった。 そして相応の処置が為された。すなわち、軽蔑。反発でも抵抗でもなく、いっそ哀れみさえ含んだ視線で冷ややかに見下された。実際その前に鋭く頬を叩かれていたのだが、そんなものは痛みの内ではなかった。ただの気付け。海堂の軽侮の視線が痛くて恥ずかしくて辛くて悲しかった。きつく回した腕を放し、そっと体を離して下を向いた。海堂の顔は見れなかった。名前の書かれた上履きの先を見つめながら、このまま海堂が去ってくれればと思った、しかし。 「オレ、違うと思うんスけど、乾先輩」 海堂、と太目のマジックで恐らく海堂の親御さんが書いただろう少し滲んだ文字は動かなかった。海堂はそのまま言葉を重ねた、彼らしく、決して饒舌にという訳ではなかったが。 「違うっスよね?アンタが欲しいもの」 言葉が足りなくて、海堂が何を言いたいのかよく分からなかった、その時は。それでも、海堂の語調はさほど、そうさっきの視線ほどキツイものではなかったのに現金にもオレは酷くほっとした。むしろ、今まで聞いたことがない程優しい声に思えた。海堂に拒絶されていないということに、泣きそうな安堵感を覚えたのを憶えている。 そして、腕が伸ばされた。肩の上に手が乗せられ、もう一度座るよう無言で促された。そのあと、緩く頭を抱かれた。オレよりもずっと細くて頼りない腕と胸だった(もちろん海堂がそれほど華奢な性質ではないのも分かっていた)が、さっきのオレよりも何倍も、思慮深い何か、思いやりとか労わりとか憐れみとか、そんなものがあった。 後頭部に添えられた海堂の掌が、軽く二回、あやすように動いた。髪越しに海堂の温度が伝わった。もう駄目だった。みっともなくも、オレは泣いた。 しばらくそうしていた後、海堂がオワリを宣言するようにポツリと言った。 「アンタ、最初っからそうしたかったんでしょ」 そして離れた。 バチッという軽い衝撃。頬へのデジャヴ。 緩く目を開いても世界がブレているのに無意識に手が眼鏡を探った。そこに上からストンと眼鏡が落とされた、というか嵌められた。唐突にクリアになった視界に思い切りの青空が写って一瞬眩暈を覚えた。ついで、海堂がオレを起こすため遠慮なく頬をぴっぱたいてくれたのに、遅ればせながら気付いた。非常に有効なかつ手っ取り早い手段なのは認めよう。 「あと5分で、予鈴。もう戻りたいスから、退いて下さい」 「んー……じゃああと5分」 「……」 「ごめんなさい、すぐ起きます」 海堂に加重を掛けないよう地面に手をついて体を起こした、そしてそのまま立ち上がって貯水タンクから飛び降りる。いつもなら続いて飛び降りてくる海堂を振り返ったら、彼はまだタンクの上に立っていた。単なるタイミングの問題かもしれなかった。しかしソレはまたデジャヴだった。午後一時の太陽がほぼ真上から海堂を照らしていて、こちらを見下ろしている彼の表情は見えなかった。デジャヴ。既知感。今の関係になる最初の一歩、オレにとってはとんでもなく不名誉だったあの時と似通った構図。オレは少しぞくりとした。 海堂は無言だった。何も考えていなかったのかもしれない。ただ何時もより少しだけゆっくりと屋上に飛び降りた。そして先立って階段へと続く重い金属の、すこし錆びた扉に手を掛ける。開ける前にオレを振り返った。オレは口を開いた。 「なんで、あの時オレにキスした」 海堂はすこし驚いていた。大きなつり目をさらに大きくしてみせた。その後破顔した。オレはそれをみて少し恥ずかしくなったが、同時に少し嬉しかった。海堂が顔中で笑うのを見たのは初めてだった。海堂は答えた。 「ガキを、なぐさめたつもりだったんスけど」 ギュキともギャイともつかない音をあげさせて海堂は扉を開けた。 オワリ. |
乾さん葉末あつかいとも言う。