月に向かって昇る坂道、黒い空。 日ももうすっかり暮れた、だれも居ない夜道は安心する。気を使わないですむから。誰にどんな顔で接しようとか、考えないで良いのがほっとする。肩にかけたバックの重さがあまり辛くなくなる。 腕をあげる、のびをする。うん、と自然に声が出る。漏れる息がとても白くて、頬や手に感じる空気がとても冷たい。寒いなあ、と、あまり思ってはいなかったが呟いてみる。誰も聞いてはいないのだが。 寒いなあ。 言い訳のように唱えて、肩のところ引っかかっていたマフラーを掛け直す。そっと顔を掠める毛糸の感触。少しの疲れを引き摺る足元。冷たくなった眼鏡のフレーム。 つまりは、充実感。 クリスマスのイルミネーションが年々ハデになる、坂ばかりの住宅街を通り抜けて、駅から家まで約10分。同じ電車を降りた人たちと、微妙な列を作りながら、サクサク歩く。冬になって、すこし、早くなったみんなの歩調。 流れに乗って思うのは、明日の単語テスト、今夜のテレビ、さっきのかれの無頓着。 単語はクラウンレッスン12のパラグラフ1と2、テレビはガイアの夜明け、そしてかれはカサブタだらけの手の甲。 ラケットを握る大事な大事な右手なのに、手袋が嫌いらしいかれ、冷たい空気に乾いた手の甲は、そこらじゅう細かく切れて赤い筋を残していた。動かす度水に触れる度に痛みはあっただろうに、何にも気付かずに。 ぽつぽつ、と赤く小さな斑点が散る、かれの白いタオルに気付いて忠告すれば、「ああ…」と気のない返事を返される。ああ、ども、と。それだけ。 あまりな自分への無頓着ぶりは、いっそ笑いをさそう程。かれは本当に、強くなること以外はどうでもイイらしい、ひどく純粋純真無垢まっしろ。キーさえ分かってしまえば、扱いやすいことこの上ない。時々かれは、さらに上をいっていまうこともあるから、そう気は抜けないのだけれど。 だから、隣に居て、楽しいのだけれど。 (あしたユースキンを渡そうと思う。) いつのまにか崩れたゆるい列、両側戸建の、ひっそりとした坂道を昇る頃には、もう自分ひとりになっていた。静か静寂、イヤそれはうそ、どこかの家で歌うだれか(おそらく入浴中)。 寒さがもう一度身にしみて、坂を昇るふくらはぎに力を込める。足のつま先で勢いをつけでぐいぐい昇る。群青に見えるアスファルト、白いライン、それらが途切れて黒い空。つぎに黄色い半分の月。 明日は今日よりずっと良くなる、信じられるのはこういう時だ。 どこが乾さんだと突っ込まれれば言い訳のしようがありません。 2002年12月12日 ナヴァル鋼 |