SNOWDAY


気持ちのよい静けさだ、と八戒は思う。


 朝方から降り始めた雪は夜になっても止まず、珍しく二人ともが揃った何もない夜だった。

 退屈しきった悟浄がヒマにあかせて昼から煮込んでいたスープを夕食に摂り、八戒が片付けを引き受けた。

 室内にあるのは、食器を洗う水音、先程セットしたコーヒーサイフォン、暖炉ではぜる薪、そしてソファに寝そべった悟浄が本を捲る音。

 一緒に暮らし始めて八戒が最初に驚いたのは、悟浄が意外に本を読む事だった。家には本棚など一つもないくせに、気が付けば本を読む姿を見かけた。一体何処から手に入れているのかを尋ねてみたら、「賭場のマスターに貸りてる」というアッサリした返事が返ってきた。今は、”オガワミメイ”という異国の作家がお気に入りだそうだ――八戒にも解らなかったのだから、かなりマイナーな趣味である事は間違いないだろう。

 手早く洗い物を片付け、ちょうど二人分溜まったコーヒーを大きめのマグカップに注ぐ。

 八戒が二つのカップを手にソファに近づくと、読書に没頭しているハズの悟浄はもぞもぞと体を起こして彼の為のスペースを作る。視線と思考は本の中に固定したままだ。八戒もまた何も言わずに彼の分のコーヒーをサイドテーブルに置き、悟浄の体温の残るソファに腰掛け自分のコーヒーを口に運んだ。


 淹れたての、少し熱すぎるコーヒーをちびちびと飲みながら、暖炉の火を眺める。隣には人の体温。

 窓の外は、風を伴わない雪がひたすら静かに降り積もっている。きっと、ひどく寒いのだろう。

 彼女の骨も、寒さを感じているのだろうか。

 それとも土の中は温かい?

 どちらにしろ、今の自分ほどではないだろう。無意識に席を空けてくれる人を持つ自分ほどは。僅かに触れ合った太ももから伝わる体温が、どれほど自分に染み込んでいるかを解っているのだろうか、この男は。彼が誰にでも垂れ流す優しさを、ひどく誤解してしまったイキモノが隣に居る事ぐらい解っていてほしい。自分は、何も言わないでイイ時間なんて、彼女以外と持った事はなかったんだから。

 カサ。

 心の深いトコロに向かいそうになる思考を、ページが捲れる微かな物音が呼び止める。

 眼を眇めて両手できつくカップを押し包んでいた自分に気付き、静かに苦笑した。視線を暖炉に戻し、腕の力を抜く。

 どこまで人を放って置いてくれないのだろう、この人は。ソファの上で胡坐をかいて、左膝に本を乗せた姿勢のままコチラを見ようともしないクセに。視界の端で、時折彼の右手がカップを探してテーブルを彷徨うのが何だか滑稽だ。やっと探り当てたソレを啜るように少しだけ飲むと、またテーブルに戻す。コチラが何を考えているかなんで全く気付いていない様子なのに……何故、こうもタイミング良く自分を引き戻すのか。全て偶然だと言ってしまえばそれまでだが、時折全てを見透かされているようで怖くなる。今すぐ肩を掴み本を引き剥がして自分のコトを認識させてメチャクチャにしてやりたい衝動に駆られた。征服欲が募る。ついでに、嫉妬。何とかという作家と賭場のマスターに。

 暖炉の火が一瞬大きく揺れて、また元に戻った。何も無かったかのように。八戒もまた同様に、眼を伏せ静かにコーヒーを嚥下する。いきなり流し込んだ液体は熱すぎて、舌と喉がチリチリしている。軽く火傷をしたのかもしれない。だが、別に構わなかった。翌朝になれば治ってしまう事だから。そう、朝になれば消えてしまうような、些細な怪我だ。今は少々痛くても。

 別に、どうという事ではない。


「あつくね?」

  読書に没頭しているとばかり思っていた悟浄がフイに此方を見上げた。背を丸めて本に向かったままの格好で、顔だけはしっかりと自分に向いている。再び思考の海に呑まれ掛けていただけに、不本意ながらカナリ(いやトテモ)吃驚した。危うく手にあったカップを取り落としそうになる。悟浄は何をやっているんだと言いたげに苦笑しながら体を起こし、僅かにソファに零れたコーヒーを服でさっさと拭ってしまう。表紙の折り返しをページに挟みこみ、本を、閉じた。

「で、どうよ。」

 重ねて問われても、悟浄が何を指して言っているのか解らない。真正面から顔を覗き込まれて、眼を逸らしたくなった――さっきの衝動を気付かれてしまうようで。あるいは、再び突き動かされてしまいそうで。実際には、どんな動きも理性が捻じ伏せた。意識しなくても、笑顔が作れた。それでも、彼が自分を見ている事にくらくらする。毎日、お互いばかり見てるのに。何故だか今は、ヤバイ感じだ。火傷のせいでなく、喉がひりつく感じがした。

 先程まではあんなにも心地よかった静けさが、今は痛い程だ。原因は自分。悟浄には、何の変化も意図もない。この平穏を静かに享受している――例えば、今、無理矢理ヤッたらどんな顔をする?妄想に過ぎない事だが。苦笑っても怒っても、彼なら相応しい。

「何が……ですか?」

「何がて、コーヒー。」

「ああ、熱いのイヤでした?」

 気付かなくってスイマセン、と言いかけた途端、首に腕が回される。そして、キス。

 悟浄の突然の行動に驚いて、それでもとりあえずカップをテーブルにおいた。空いた腕を緩く背中に回す。悟浄は何度か唇を舌でなぞった後、口内に舌を滑り込ませてきた。火傷している舌に舌を重ねられると、それなりに痛かったが彼の行為を拒む気などサラサラ無い――というか敵わない気分だ。先程の暗い衝動が抜け落ちた(否、悟浄に消されたといべきか)、純粋な欲望に身を任せようと悟浄の体に手を這わせかけた時、軽く舌を咬まれた。キリリと痛みを感じ思わず眉を顰めると、再び突然に体が離れた。柔らかく手を拒まれる。

「やっぱ、熱かったんじゃん。」

 悟浄はいやあな顔をしてソファを立つ。遠くなる体。自分の、もう殆ど中身のないカップを取り上げる。そして、何も言わず流し場に行ってしまった。


 少しの間、訳が解らなかった。眼が悟浄を追う。

 あの程度で体が熱くなる青い訳ではなかったが、やはりイキナリ取り残されるのは気分が良くない。

 悟浄が奔放に振舞うのは何時もの事でも、こんな風に人を巻き添えにした勝手はしない。実際、他人の嫌がる事は滅多にしない人なのだ。自分も、今までされた事など……否、一度あった。まだ悟能だったころ、一度。彼は自分を勝手に拾い上げてくれたものだ。あの時は、間違いなく消えてしまいたかったのに。彼女を殺した世界になど居たくは無かったのに、引き止めた。

 自分が愛せるのは彼女だけだと思っていた、あの時は。

 今はもうそれは間違いだったと知っている。結局の所、悟浄の行為に感謝している訳で。

 だからつまりいまもおなじことなのだろうか。

 悟浄は冷蔵庫から何か取り出している。中身をカップに移す――ドア、開けっ放しだ。非常に、困る。

 どうにも思考が混乱しかけた所で、悟浄がマグカップを持って帰ってきた。そのまま隣に座る。触れる体温が暖かくて、彼が席を立った僅かな時間にもう体は冷えていたらしい事を知った。彼が来るまで、気付かなかった。

「八戒。」

 差し出されたのは氷。

 しょーがねなあ、という悟浄の表情。飽きれてるんだか面白がってるんだかよく解らない。

 とりあえず彼が、読書中も自分の事を気にしていたのだという事は解った。何故だか無性に嬉しい。

 悟浄の厚意を素直に受け取ろうかとも思ったが、右手で差し出したグラスを八戒が受け取るにまかせて左手は既に本を開きかけている横顔に、先程のキスは欠片も残っていない様子が気に障った。さっきのキスが、単に舌の火傷を確かめるだけだったと思うと妙に悔しい。

 グラスを差し出す悟浄に手を伸ばす。ただし、左の方。


 紅い宮殿がどうなったのか、続きが気になってしかたなかったのにな。

 思わず洩らしそうになった溜め息を押し止め、噛み砕いた氷の欠片を八戒の口内に滑り込ませる。要するに口移し。なんでこんな事……と思わないでも無いけれど、八戒が嬉しそうだから、いい。火傷したまま放って置かれるより、全然。キスだけで痛いような舌でどうやってセックスするつもりだったんだろう、コイツは。

『悟浄が、やって下さい。』

 突然、八戒が座るのと反対側の手首を掴まれた。全く油断していた体は自然と抱き締められる体勢になってしまい、八戒に耳元で囁かれる。甘ったるい声。舌(と多分喉)痛いんじゃないの?と聞きたくなった。八戒が隣に座った時から結構ノリノリなのは解っていたが、イキナリこう来るとは。予想外の行動だった――手から落ちた本が少し気になる。ページが折れたりしてなきゃイイけど。

 氷を八戒の舌の上で留まらせてから一旦口を離し、グラスからもう一個氷を口に運ぶ。軽く砕いて、もう一回キス。傷ついている舌に触らないよう、そっと。

 人が結構真剣にやってるというのに、肩に添えられていた八戒の手は徐々に下がってきてたりする。嫌な訳ではない、つか行為そのものは大歓迎なんだがもうちょっと後にしろよ、と思う。唇は重ねたまま、お互い薄く開いている眼を合わせ意思を伝えようとしたが、八戒は解ってて止めない。眼が笑ってる。まだ舌とか痛いだろうに……イタイのがイイのかね。自虐的なヤツ。俺がイヤダつーのにね。手加減しながらなんて、俺の趣味じゃないっつの。人の気も知らないでウエスト辿るなバカ。

 仕返しに、ほんの少しだが、合わせた舌で八戒の舌を突付く。腰まで下りてた手が一瞬止まった。

 ざまあみやがれ。


 くちゃり、と静かな部屋に唇の離れる水音が響いた。何だかイヤラシイ。

 ともあれグラスに持ってきた分の氷は皆八戒に含ませて。

 体を反らして空のグラスをテーブルに戻しながら、さてどうしようか、とちょっと迷う。

 八戒の舌とか喉とか。本当はもうちょっと水とか飲ませた方が良いんだと思う。しかし既にシチュエーションはほぼ完璧。お互いソファの上で向き合ってて、八戒の手は俺の腰と太腿だし、俺の右手も八戒の顔に添えられている。果たしてこの状況で席を立てるだろうか……八戒相手に。俺としては、セックスはもうちょっと後がいいんだが。そしたら八戒の痛みも話の続きも、何も気にせず楽しめる。実は後者の理由の方が強かったりして――バレたら絶対ヤラレそう。

 眼を合わせてちょっと笑いかけて、そろりと体を離し掛けた。俺達って大人じゃんとか思った時。

「悟浄……」

 ああもう。

 本当に人の気も知らないでやってくれマス。上着代わりに羽織っていたショールを、八戒が肩から落としていく。衣擦れの音。何時の間に移動したんだの両腕に背を抱かれ、首筋に軽くキス。そして名前を呼ぶ。行為の許可を求める死ぬ程甘い声。拒んだら本当に死ぬんじゃないのか……そんな気ナイけど。こんだけ求められて、そんな事できるかっつの。俺の、負け。

 返事の代わりに此方から唇にキスをする。首に腕を回して、触れるだけのヤツを何度も。八戒が微笑う。凄え幸せそうに、凄え美人で。真近に見える緑の眼は優しい。背筋をなぞる手も、とにかく柔らかく動く。お互い、少しづつ深くなるキス。唇に触れる八戒の吐息が熱い。堪らなくなる感じだ。

 こういうの、アイシテルっていうのかね。

 本の続きはもうどうでもよくなった。正直、八戒の火傷も。

 欲しい、なんて言って退かれても困るんで、キツク抱きついてみた。


 放っておいた暖炉から火が消えた。

 雪の重なる音すら聞こえそうな室内に、お互いの呼吸音が響く――ひどく、煽り立てられる。柄にも無く、理性が飛びそうな位の興奮。目の前の人以外、本当にどうでもよくなってる。

 綺麗な背中。

 うつ伏せた背にぱらぱらと散った赤い髪が扇情的だ。その髪を掻き分けて首筋に強く口付ける。吐息を(に?)感じて小さく跳ねる体がいとおしい。セックスは手馴れている人なのに、自分の行為に感じてくれる事が。その心的な要素が。自分は、この人にとって多少は特別な存在なのではと期待してしまいそうになる。自分が一番に置く人に、自分を想って欲しいと思うのは勝手だろうか。顔に手を添え此方を向かせた眼は赤くうるんでいて、それでも強い力がある。一瞬視線を絡ませた後、悟浄は婀娜っぽく笑った。敵わないと思う。手に当たる彼の乱れた息が、神経を食い破っていく。

 悟浄が軽く体を起こして、からかうように抱きついてくるのをキツク抱き締め返した。彼の肋骨の形をはっきり腕に感じるくらいキツク。耳元で詰めたような声が聞こえた。苦しいのだろうに、何も言ってこない。

 だから、力は緩めない。


 雪が降っている。

 全ての音を吸収したまま。

 地面に落ちた雪は解けずに重なり合っていく。

 やがて堅い根雪になるのだろう。

 それすらも何時か音を立てて流れていくのだろうけれども。 


2002年一月上旬作

2002年二月二日アップ


い……如何でしたでしょうか初の85!

同居時代の日常を目指してみたのですが。難しいです。

お互いに全開で依存しあう、のが八浄の印象。
中々上手に書けないものです。


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