夏休みの。020803
 39度のとろけそうな日。

 一体何匹いるんだか分からないくらい好く鳴いているセミと、直接にジリジリ照りつける太陽にやられてぐらぐらする頭を抱えた海堂薫は、少しばかり自分の軽率さを後悔した。めまいと吐き気が止まらない、どうにも死にそうな感じ。目を閉じたら閉じたで苦しくて、それでももう開けるとこなんで出来ない位に辛い。まぶたに透ける日差しが眩しく、頭を下げるか日陰に入るかを考えた。考えた瞬間に、どちらにせよ今動くのは無理だと思った。
 背中を預けるコンクリート壁すら太陽に焼かれてジリジリと熱い。全身が熱を持ってどうしようもない状態を、ひたすら堪える。波が去るのを待つ。
 真夏の真っ昼間、住宅街のわき道を通るヒトは居ない。一方通行の細い道だから、車も通らない。今の自分の醜態を人目に晒さずにすむ、そのことだけが海堂の救いだった。
 首筋をつたい流れていく汗を酷く不快に感じる。パンツのポケットから小さいタオルを取り出す、が、指が震える上に腕が上手く持ち上がらない。海堂がイライラして無理矢理腕に力を入れると、折角取り出したタオルはあっけなく指から滑り落ちた。しゃがんで拾い上げる、なんてことは到底出来ない。ただ、めまいが酷くなっただけだった。
 海堂は忌々しく舌打ちをした。その時、自分の息が震えているのが分かって更に気分が悪くなる。
 そろそろ自分は死ぬんじゃないか。
 熱に浮かされた頭は湧いたコトを考えはじめていた。


「バカオル」

 出し抜けに届いた声に海堂の体は跳ねた。めまいと吐き気にやられた体はそんな少しの動きにもついていけなくて、カクッと膝が笑う。ヤバイ、倒れる、と遠く思ったときにはもう、傾いだ体に横から腕が伸ばされていた。同じに、面白がってるのと焦ってるの、半々くらいの声が耳の近くに聞こえた。
「こんな時間に走ってたら倒れるに決まってるでしょ、ホントに馬鹿だねオマエ」
 目の前の、それこそ馬鹿のようにしっかりとした相手にしがみつく余裕もなくて、両脇に差し入れられた腕に体重を丸ごと預けてしまう。間違っても軽いはずがない自分を易々とささえる体が妬ましく、またどこかでほっとした。低いボソボソとした声は、この2年間で嫌になるほど聞き覚えのあるものだ。その存在に、海堂はガクッと気が抜けた――何か、頼っているようで悔しくも思う。それでも張り詰めていたモノが切れた体は呆れる程に正直で、吐き気とめまいが更に酷くなった。勝手に突っ走る体に引き摺られながら、一体なんでココに、と頭がぐるぐるする。
 体は熱いのに指先はどんどん冷たくなる。こめかみの辺りを締め付けていたバンダナが解かれていく。海堂は震える息を何とか抑えて自分を支えるヒトを呼んだ。目は、開けられない。
「乾先輩……」
「うん。どっか休めるトコロ、連れてってやるから。ちょっとガマンしてろな」
 言葉と一緒に、ぐい、と顔を流れる汗を拭われた。それは多分、さっき乾が外した海堂のバンダナで。あー、もー、適当なヤツ、と内心ののしりながら海堂は力を抜いた。ぐい、と引き寄せられて近くに感じる体温を暑っ苦しい、と思う。それでも、地面から緩く粘つくように湧き上がる熱気よりはずっと心地よいものに感じる。自然に目蓋が落ちてくるのに、海堂は逆らわなかった。
 そして、暗転。


 ぽつ、と唇がぬれる感触で目が覚める。

 半覚醒のぼんやりした頭で、海堂は辺りがずいぶん涼しいのを感じた。用心してそろりと開けた眼はしかし、心配しためまいも吐き気もなく、視界にまず入ったのは天然水のペットボトル。冷えた容器をつたった水滴がちょうど唇に落ちたようだった。
 無意識に唇の上の水滴をなめとった後、喉が渇いているのに気付く。そして、ちょっと伸びすぎた感のある前髪をそっとかき上げられる。すい、と額を撫でていく暖かい手が気持ちよかった。
「起きた?大丈夫?」
 まだ状況がよく把握できなくて、掛けられた声は海堂を素通りした。彼は透明のペットボトルが視界から去って行くのを目で追う。揺れて蛍光灯の灯りをはじく液体ごしに見えたのは、ぱっと見、感情の読めない顔のヒトで。2年の付き合いで少し分かるようになった、(多分)ほっとしたような表情に、知らない場所を警戒して強張っていたらしい体から力が抜けた。
「ここ、どこですか」
「ん、オレん家」
 乾の言葉に海堂が咳き込むのが重なった。乾いた喉が、少し喉にからまる、と海堂が自分で思うより早くさっきのペットボトルが渡される。言葉の代わりに軽く会釈をして受け取ろうと海堂が体を起こすと、止んだはずのめまいが再びおそってきた。グラリ、ときて、浮かせた背中を戻す。それでも足りずに一度開けた目も閉じてしまった。ドクドクと目蓋まで脈を打っているのが分かる向こう側から、乾が苦笑する気配が伝わる。
「いきなり頭動かしたら、気持ち悪くて当然。こーいう時は少しづつ慣らしていくものだよ、動くならゆっくりだ」
 諭すような口調でホラ、と背、というか肩を片手で支えられて、ゆっくりと体を起こされる。かなり頑張って鍛えているつもりなのにこうも易々と抱き起こされると、海堂は劣等感を刺激されて仕方ない。思わず眉間にシワがよる。しかし乾はソレを面白そうに見下ろしたダケだった。そのままペットボトルの口を向けられて、海堂は本当に不本意ながら助けられる形で水を飲む。
「は……」
 250mlのソレを殆ど飲み干して海堂はようやく人心地ついて、もう一度体を横にされる。よく冷えた水のお陰で大分スッキリして、本気で死にそうに思っためまいも多少ぐらぐらする程度になっている。頭が動き始ると海堂は、まだ礼も言っていなかったコトを思い出した。中の上から上の中、の家庭が主流の青春学園、そういうコトに関する躾けは結構厳しい。普段部活ではかなりの無愛想っぷりを披露する海堂と言えど例外ではなくて、すぐさま礼を言おうと体を起こしかける。そして、右手を付いて体を支えようとしたその時。手の平に触れた柔らかい生暖かい感触に、海堂は乾を真上に見上げている、という自分の体勢がどういう事かに、非常に遅ればせながら気が付いた。血の気の引く思いで左右に目を走らせる。
「ちょっ…と、センパイ?」
「なに?もう起きる?」
 まだ横になっといた方がイイと思うけどね……と上から顔を覗き込まれて、海堂は自分の頬が熱くなっていくのを感じた。何故なら、今の海堂の、というか乾の体勢というのは要するに膝枕状態で。わざわざ好き好んでこの体勢を作っているのは乾だ、という発想もなく、海堂はいい年齢して他人に膝枕をされている、というコトが余りに恥ずかしくて動揺する。特に真正面から見下ろされると本当に恥ずかしい。レンズ越しとはいえ乾と目が合うのが嫌で、海堂はパッと顔を背けた。しかしそうすると、ジーンズ越しの乾の体温が頬に直接伝わってきて生々しいことこの上ない。海堂は礼を言うのも忘れて、乾の膝に頭を載せたまま硬直してしまった。
「海堂?まだキモチワルイ?」
 顔を背けて固まってしまった海堂をどう思ったのか、乾は、らしくなく心配そうな声を掛けてくる。海堂はそれがますます恥ずかしい。アンタは何時ものままで居てくれよ、と内心毒づきながらも、冷房で快適に冷えた室内は、スポーツマンらしく高めの乾の体温を過ぎるほどリアルに伝えている。一度気になってしまったら、もう意識しないで居られるはずもなく。頬や首、肩に伝わる布越しの体温、それと剥き出しの二の腕に添えられている乾の手の平が熱かった――今まで、気付かなかったが。
「頬…あっついな」
 ペットボトルを置いた手が、スルッと海堂の頬を撫でて額へと移動する。熱い手と、指先に付いた水滴の冷たさと、ボソリと落とされた声と、行為それ自体と。全てが一気にうわん、と海堂を襲ってまさしく思考回路はショート寸前、というヤツだ。さらに乾の手は、額の熱を確かめた後にサ、と海堂の真っ直ぐな髪を後頭部までかき上げていく。軽く地肌に当たる爪の感触に海堂はぎゅっと目を閉じ唇をかみ締めた。もう、これ以上感覚を翻弄されるのは御免だというように。

「……かいどう、寝た?」
 お互い動かず、無言のまま、冷房が動く微かな音が音が響くことしばし。本当にそっと、乾が海堂に尋ねる。海堂は勿論寝ては居なかったが、まだ緊張で体を強張らせている。返事を返す余裕はなかった。ただ、唇の端がキツク閉まった――乾とは反対の方向を向いていたから、見られることはない。海堂が眠っていると判断した乾の手が二の腕から離れて、海堂はすこしホッとして力を抜く。そして上の方で何か動いている気配を感じて、この膝枕の体勢を変えてくれるかと期待した。
 ゴソ、ともガサ、ともつかない物音を少し立てて、乾は上半身を捻る。ソファの隣のマガジンラックの中から先々月のナショナルジオグラフィックを取り出して、また姿勢を整えた。ソファの背に雑誌を乗せ片手でめくるようにして、もう片方は海堂の肩に添えた。読む速度に合わせてか、トン・トン、と手の平が規則的に上下させる。おそらく無意識であろう仕草は子供を寝かしつける親のようで、再びの体温に吃驚した海堂も離れては戻ってくるソレに次第に慣れていった。
 そして、トロトロと睡魔がやってくる。
 本当に眠るつもりなんてなかったのに、とぼんやり考えながら、それでも海堂は心地よい感覚に流された。落ち着いてきた体にはほんの少し涼しすぎるくらいの室温に、近くに感じるヒトの体温。とん、とん、というリズムはゆったりと海堂の体から力を抜いた。
 遠い感じで同じく定期的に聞こえるカサ、という音で、海堂は乾が何か読み物をしているのだと分かる。乾の意識の隅に自分がある、というスタンスが海堂には心地よかった。いよいよ眠気が勝って、自分が暗いところに落ちていく。おやすみなさい、という乾の変に真面目な声が聞こえたような気がした。もう声を出す気もしなくて、唇だけで返事をする。乾から見えないのを知っていて、見えていないからこそ。

 おやすみなさい。


 乾が、うん、と返したのを、海堂は知らない。




夏の日の乾さんと薫さん。
恋愛ギリギリまだの、慈しみと親しみと尊敬と嫉妬とからかい。
乾さんがカナリ偽り……ひとりっこだから、「だれかに構う」ってことに飢えてるんですよ!こじつけ。




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