慕情  20020330


 嵐が来て。
 打ち付ける雨が八戒の内側に嵐をよんで。
 それらが通り過ぎるまで、
 八戒はきつく悟浄を抱き締めた。
 悟浄はそれと同じ力で彼を抱き返した。
 もう、すっかり習慣のように馴染んでしまった行為。
 哀しい彼女のものより随分低いはずの悟浄の体温。
 もう記憶の熱を思い出せない八戒には何より暖かく感じて。


 まぶしい。
 目蓋に光を感じて目を開けると、悟浄がベットに仰向いたまま、片手でカーテンを開け外を見ていた。
 月の夜だった。彼の体を下に引いたまま眠ってしまったらしい。慌てて退こうとするのに悟浄が気付き、カーテンを持つ手を放して僕の背に回した。笑っている。そのまま抱きつかれる形になって、くすくす、とこぼれる息が首筋に当たった。肌が粟立つカンジだ。
「もー、ヘーキだな?」
 ゆるく抱き締められて、耳元で喋られる。囁くように、そっとだ。きっと穏やかに笑っているのだろう。酷く優しい、彼らしい顔で。包容力はあるのに安定感にかけるその表情は、同居を始めて以来けっこう頻繁に見る。
 何となく言葉に詰まって頷く仕草で返事を返した。見えずとも伝わったらしく、悟浄は「そっか。」と一言言うなり体を離す。ぐい、と肩を下から押される。まっすぐ上から見下ろす形になった。笑んだまま変わらない悟浄の目とぶつかる。
 途端、悟浄はいきなり身を起こしお互いの顔がぶつかるスレスレで上体を止める。息がはっきりと感じられる位置だ――悟浄の好む、体温が直に感じられる位置。誰とでもくっつきたがる。悟浄のこんな仕草に気付く度、彼が母親の体温を望む子供のように見えてならない。尤も、気付き始めたのは彼のトラウマを知った後のことだったが。
「な、外いこーぜ?」
 甘い、ねだるような声。この場の主導権を持っているのは彼なのに、わざわざ此方の意思をひきつける。やはり相手に嫌われたくない子供のようで。微笑みを誘われる一方、それでも自分は悟浄に言われた途端、窓の外が酷く恋しくなった――久々の、晴れた夜空を見たいと思った。どうしようもなく。
「ええ」
 急いた調子で答える。自分がどんな顔をしているか、全くわからなかった(意識をトばした後は何時もそうだ)が、此方を見ていた悟浄がまた、笑ったから、どうでもいいと思えた。
 悟浄の笑顔がとても好きだ。どうしようもなく優しいから。それがイイコトかワルイコトかは解らないが、今の所、自分には心地イイ。


「わ……あ。」
 後ろを歩いていた八戒の、声が聞こえた。思わずにんまりする。わざわざ連れ出した甲斐があるというものだ。そう思ってみると、大雨の降る前、二日程前には憎らしいほどに咲き誇っていた桜はもう、盛大に散っていた――風もなく、ただ静かに落ちていく無数の花びらはゾクリとするほど美しい。自分連れてきた癖に、ソレに見とれて足を止めてしまうほど。
 そして、しばらく鑑賞した後、少々ヒヤリとした。
「雨、止んだのが夜で、良かったぁ……」
 思わずもれた独り言。足を止めた俺を追い抜いてフラリと桜の木に寄っていた八戒は、耳聡く聞きつけていた。大分やつれた感じの、でも落ち着いた顔がちょっとこちらを振り返る。もうかなり安定しているようで、酷くほっとした。
「なんでです?」
 キレイナモノの、感動に緩んだままの八戒の表情。酷くあどけなく感じて、かわいらしいとすら思える。またその言葉のストレートさも。戻ってきたばかりの八戒は、何時もどこか素のままで、とても新鮮で楽しい。彼の苦悩を愉しむ、なんてのは極めつけに悪趣味だが、現状をそのまま楽しむのはアリ、だろう。バレたら大変だが。
「んん?だって、夜桜観たかったし。アレは花散らしの雨だったからな」
 答えながら思う。もし、明日まで雨が続いていたなら、今ひらひらと闇に積もっていくピンクの花びらは茶色く朽ちて地面に固まっていただろう。その姿も自然だろうが、やはり美しいモノを観たいのが文化を病んだヒトの自然な欲求だ。
 黒に見える群青の空と白に見えるピンクの花びら。花の盛りを過ぎかけた幹には、淡い緑の葉がちらほら出てきている。その色彩は、まるで自分の目の前の男のようだ。静かに華やかに散っていく様など、嫌になるほどそっくりだった――雨が止んで本当に良かったと改めて思う。
 彼は自分がその大樹になぞらえられている事などちっとも気付かず、言葉の意味を図りかねている。やはり、酷くらしくない様子で、戸惑ったように尋ねてきた――花を観ていた時の淡い笑顔は消えていて、彼の情動を自分の言葉が妨げてしまってように思えた。なんとなく、申し訳ない。
「花散らし……って、そういう言葉があるんですか?聞いたことないですよ、僕」
「そう?じゃ、ちゃんとした言葉じゃないのかもしんねえわ」
 どっかの女に聞いたコトだと思うから。いつもの様に続けようかと思った。しかしそれだけで片付けるにはあんまりに勿体無い気がして。
「でもさあ。綺麗な言葉だと思わねえ?なんか、どっかきゅっとする感じしねえの?」
 思わず口走っていた。“きゅっとする”なんて酷く稚拙な台詞。言った傍から失敗したと思った。あまりに自分のキャラと違いすぎる。何と言うか、恥ずかしさで頭に血が上る。体ごと此方を向いた八戒とまっすぐに顔を合わせる気にはとてもなれず(だって笑われそうだ)、視線を下に流してまだ濡れている足元の花びらを見た。そして、やっぱり“きゅっとする”と思う。自分の思考に再び頭に血が上る。
 頭のてっぺんに八戒の視線を感じた。ちりちりした。そのあと、同じように足元の濡れ朽ちかけた花びらに視線は移っていった。


 悟浄が、自分の発言に臍をかんでいるのは知ってた。何時もなら間髪置かずまぜっかえす所なのだがしかし、思いのほか真面目な悟浄の発言をからかう気分にもなれず、どうするべきかなと暫く考えていた、そのうちに。
 茶色く萎れたモノタチをじっと見ていたら、悟浄の言う“きゅっとする”の意味が解ったように思える。
 じっとりと水を含んで靴の裏に纏わりつくソレラ。酷く汚らしいものに見える。しかし、もしかしたら数時間前のソレラは大樹を彩る壮麗な花びらだった。今、ただ静かに地面に降り積もる壮麗な花びらも、そう遠くなく同じように朽ちるものだ。土に還るものだ。先に咲いたものが雨に打たれ早々に朽ち、後に咲いたものが軽やかに降り積もっているのだ。それらにどれほどの違いもなかったろうに、今はこんなにも異なっていて。だから。
 顔を上げて桜樹を仰ぐ。ただ散っていく花びら。酷く美しくて。
「……切ない、ですね」
 ふ、と悟浄の視線が此方を向く。自然の摂理にまで心を寄せるヒト。彼の歯がゆいほどの優しさ。きっと、世の全てをコンナフウにいとおしんでいる。その想いを伝えないままに。
 悟浄と目を合わせた。
 惚けたような顔。にこ、と笑ってみせたら、悟浄は一瞬顔を歪めたあと同じく笑った。さっきまで、好きな表情だったモノ。今はどこか心が痛む感じがした。その意味の一端を知ったからかもしれない。
「も、帰るか」
 悟浄の言葉の意味を、痛いほど理解している。
 なにかが動く感じが、した。


 そうじゃなくて。
 そうじゃなくて。
 そうじゃなくて。
 優しく微笑まれたいのではなくて。
 僕が貴方に望んでいるのはそれじゃない。

八戒×悟浄。
同居時代で、まだオトモダチですね。
ぬるい春の大気なんてものを目指す。
たっぷり水分を含んだアレです。


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