100-003:荒野 アンナとヨアキムには子供がなかった。ユダヤ教の祭りの日、ヨアキムは神殿に捧げ物を持っていった。しかし、「イスラエルに子孫を残していないので、捧げ物は許されない」と言われ、神殿を追い出されてしまった。 神殿を追われたヨアキムは、家を離れ、荒野の羊飼いのところで40日40夜の修行をし、子供が授かるように祈った。 家に残されたアンナも一心に、子が授かるよう祈っていた。そこへ天使が現れ「あなたの願いは聞き入れられた。聖霊により子が授かります」と告げた。 荒野で犠牲を捧げて祈っているヨアキムのところにも天使が現れる。「あなたの献げ物は受け入れられた」と告げた。 天使はヨアキムの夢にも現れる。妻アンナが身ごもっているからすぐに戻りなさい、と告げらる。ヨアキムは急いでエルサレムの神殿へ向かう。 ヨアキムがエルサレムに下っていくと、アンナは神殿の黄金門のところで待っていた。 二人は、子を宿した幸福を感謝しつつ、抱き合う。 鳳のとなり、ベットにへたり、とうつぶせた宍戸がサイドボートに見つけたのは聖書だった。装飾の少ない、よく使い込まれた辞書のようにヘタヘタの聖書。宍戸はそれを物珍しさで手に取った。気だるくベッドに頬づえをついてペラリと薄いページをめくる。ほとんど目にしたこともないのだろう、印刷された文字の細かさにどこを読めばいいのか分からない様子の宍戸の、伏せた睫毛を、同じく頬づえで鳳は眺めた。 「宍戸さん、聖書読んだことあります?」 「んー…マンガのなら、ちょっと。アダムとエヴァとか、ノアの箱舟とか」 イヴではなくエヴァと言うことで、無学ではない、と主張したいのか。宍戸は文字をおうことを諦めて、目次に目を通し始めた。鳳はその姿を見下ろし微笑む。傷の耐えない硬い指が、端の黒ずんだページをめくった――情事の間も外したことのない鳳の銀のクロスを途中、すこし引っ掛けて。 「ああ、楽園追放と、ノアと洪水。じゃあきっと、新約のほうは読んでませんね」 「そうかも……つか、新約も旧約?も、よく分かんねえよ。オレは仏教徒だ」 「フツーそっスよね。仏教の、どこです?」 「曹洞宗かな。たぶん。寺がそうだったような気がする」 「アバウトっスねー」 「日本人はフツーそうだろ?初詣にお盆お彼岸クリスマス、で墓は寺。ナンか文句あっか、て感じで楽しいよな」 「あー…。そーいや、オレも一緒に初詣行きましたね」 ピロートークらしからぬ、色気皆無の妙な話題。 それでも随所に甘さが漂うのに、鳳はにまりと頬を緩めた。ついで、数え歳七つの時に両親から与えられ、以来自分だけしか触らないその本を、宍戸が弄るのにも幸せを感じる。いまだって大事なそれを、そんなに気安く弄りまわせるのは、それを鳳が許すことが出来るのは、宍戸だけだと改めて実感するからだ。 「なー、この外典てなんだ?」 「アポクリファっていって……まあ、一部では正式に認められていないキリストの歴史、かなぁ」 「ふーん?よく知ってんな」 「いちおープロテスタントなんで…」 隣で適当に感心する宍戸はきっと、キリスト教になんて、興味も信仰もないのだろうと、鳳は笑う。プロテスタントが何かも、恐らく分かっていないだろう。その彼が、色々と尋ねてくる。それに自分は、少しは愛されていると思ってもいいのだろうか、と、鳳はどうしようもなく幸せを感じる。言うなれば、宍戸が与えてくれる精神の快楽だ。 鳳は、宍戸が何気なく指をおいた、その下の文字を見つけた。 「たとえば…、そうスね、キリストの祖父母の話なんかが、新約の外典にありますよ。マリアを身ごもったときの話」 これはキリストの母マリアは汚れなき存在であり、『情欲の交わりなしに』、母アンナの体に宿ったと説くものだ。 鳳はそう語り終える。薄く笑いながら、自分が胸のクロスをいじっているのには気付くことなく。宍戸は横目でそれを眺めていた。鳳は語る途中から、口元をアルカイックに歪めていた――表情はひどく曖昧で、穏やかにも皮肉にも見ることが出来た。 「それって、ダンナの留守に奥さんが浮気したってだけじゃねえの?」 「それは……」 この上なく俗っぽい宍戸の感想に、鳳はいかにも彼らしいと笑う。楽しげに。宍戸はその笑い声にスウッと顔を変えた。そこに、何か嫌なものが含まれいるのに、気付いてしまったからだ。しかし鳳は、宍戸の変化には気付かない。 クスクスと笑い続ける鳳。表情ばかりはいつもどおりなのに、いやだからこそ、笑い声に隠れたヒステリックな響きが耳につく。後悔や、嘲笑や、自己嫌悪。後ろめたさ。鳳が無意識に抱える、この異常な関係への戸惑い。 それを、宍戸はとうの昔に知っていた。 「長太郎」 「はい?」 愚かしいほど幸せそうな、くずれた笑顔で鳳は宍戸を見る。その恋情は紛れもなく本物。それでも、彼の根幹をなす信仰が無自覚に彼を苦しめるのを、宍戸はとうに分かっていた。曇りなく見える笑顔に、自分までも苦しくなる。 宍戸は鳳の顔から目を逸らし、白いシーツを見つめたまま体だけ近づけた。暗い布団のなか、ほてりの残る指先を素肌の体に滑らせる。自分よりも大分高い体温にピタリと体を添わせ、宍戸はほっと息を吐いた。そして戸惑いがちに、次いで強く背中に回される鳳の腕。そして耳元の声。 「大好きです」 間に情欲しかない関係。背徳に苦しんだところで、添った体を引き剥がすことなどもう今更。ならばいっそ、ふたり荒野に堕ちようか。そこで体と心の快楽を交わして、幸福だけを抱え込んで、そして乾いて死に果てるまで。 「バーカ。とうの昔に知ってるっつの」 「じゃあ昔よりずっと好きです」 「バーカ…」 「ずっと好きです」 ふたり荒野に、なんて、そんなこと。出来るものか。 果てにあるのは、別れだけ。 宍戸は、そう、分かっていた。 やっとこアップ。なかなか暗い。荒野=キリスト教=鳳。 非常に分かりやすい流れですが荒野=不毛、のイメージが拭いきれんでこんな感じに。 20030321*ナヴァル鋼 |
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