種田山頭火を思う

恒例の夏の山口への帰省時に、日本海側の漁町、仙崎に金子みすず記念館を訪ねつつ、一方で、母の書棚から故郷の防府出身の俳人、種田山頭火の本を引っ張り出して読んだ。

山頭火はこれまであまりよく知らなかったのだが、今回その生き様を村上護の著作「放浪の俳人- 山頭火」によって知った。 山頭火が、全国的に知られるようになってきたのは、永六輔がラジオの「遠くへ行きたい」などで紹介を始めた昭和40年代のようである。 生前は、山頭火の生地の防府(私の故郷でもある)では、「大種田の乞食坊主」などと言われ、評判が悪かったし、死後も俳人としての山頭火を知る人も少なかった。 1981年に毎日新聞社が東京で山頭火回顧展を開いてから、書道家の富永鳩山などが中心になり、防府で第一回山頭火展を開いて、ようやく地元でも本格的に顧みられるようになったという。 

「雨降るふるさとははだしであるく」

これは、昭和29年に防府市戎町で初めて建った山頭火の句碑である。放浪の身で故郷に帰った際の、貧しく寂しい心情を謡ったものと私は考えていたが、村上氏によると、ふるさとの道を、子供の時分のように、自分の裸足で歩く「喜び」を表現したものだという。 11歳の時に若い母親が庭の井戸に身を投げて自殺し、父親の放蕩で、若くして防府を追われたつらい思い出の多い故郷だったが、それでも、山頭火は、故郷を思った句をいくつも残している。

「分け入っても分け入っても青い山」

これは、山頭火の句の中でも最も愛好されているものの1つであろう。 編笠に袈裟の托鉢姿で、熊本から宮崎、大分方面を放浪したときの作と言われているが、山深い道をたった一人でひたすらに歩く姿と、目を射るほどの新緑、青く抜けた空が目の前に開けるようである。

「まったく雲がない傘を脱ぎ」

山頭火は、自然を歩く。野山をひたすら歩く中で、自分の存在を把握した句が最も自由で伸び伸びとしている。 「刹那において永遠を。個において全を表現するような句」を山頭火は目指した。 そこには、山があり、喋々が舞い、トンボがいる。 

「もりもりもりあがる雲へあゆむ」

「いつも一人で赤とんぼ」

「てふてふひらひら甍をこえた」

旅を続ける一方、山頭火は一切の世俗的な願望から離れて、腰を落ち着けるつつましい庵を求め続けた。 しかし、妻子と移り住んだ熊本でも、離婚後、放浪の末、ようやく見つけ7年間も住んだ其中庵(小郡)でもずっと落ち着くことができなかった。山頭火は、また漂白の旅に出る。 

「まっすぐな道でさみしい」

「すべってころんで山がひっそり」

「あるけばかっこういそげばかっこう」

山頭火と酒は切ってもきれない。川原のほとりに座り込んで、一升瓶を抱えて手酌する山頭火の写真がある。 まことに幸せそうである。 

「ほろほろ酔うて木の葉ふる」

「酔うてこおろぎと寝ていたよ」

山頭火は、自分を自堕落などうしようもない酒飲みとして恥じた。 酔っ払うと見境を失って、乱恥気騒ぎをやらかし、温泉宿で芸者を上げて何日も騒いだ。 金がなくなって、親友に無心の手紙を書く。脱俗したつもりでも、哀れな人間の欲望は、彼を再び酒に向かわせ、女に向かわせ、また醜態を演じることになる。 酔った後の惨めの中で、自己を恥じ入る。 堕ちても堕ちても堕ちきれない自分がいる。 その自己省察が、人間の実存を鋭く活写した句を生んだ。

「どうしようもない自分が歩いている」

「うしろすがたのしぐれていくか」

「しぐれ」の句は、大宰府の近くを行乞している際に詠まれたらしい。 時雨の中を、とぼとぼと遠景に立ち去っていく自分のうしろ姿を見つめる透徹した眼がある。 この句には感傷的なものはない。 この眼は、さらに静寂な中で、研ぎ澄まされた聴覚に変ずる。其中庵にいる山頭火には、数里先から近づいてくる時雨の気配が聞こえている。

「おとはしぐれか」

山頭火は、無能無才の自分は、さっさと死んだ方がましだ、と何度も日記に書き付ける。 満州事変から戦争に突き進む日本の状況の中で、実社会の中では何の価値もないと自らを恥じた。 山頭火は、実際、カルモチンという睡眠薬を大量に服用して自殺を図ったこともあった。 しかし、丸4日間、白いご飯にありつけなくても、行乞で得た野菜しか食べるものがなくても、たった一つの彼の技能である句作が山頭火を生活に結びつけ続けた。 さらに正直で人のいい山頭火を暖かく迎えた各地の俳友たち。 「草木塔」を始め、山頭火の句集の出版に尽力し、山頭火を世に出した大山澄人もその一人だ。

澄人が、広島から小郡の碁中庵に山頭火を訪ねる際、広島駅で一升の酒を土産に買おうとしたら、金が足らない。 駅の売り子に事情を話し、これでなんとか、と懇願したら、店の主人に内緒でその若い娘の売り子が酒を渡してくれたそうだ。この話を聞いた山頭火が「それは君にほれちょるからだ。酒は郵便切手と同じで、絶対値切れるものではない」と山頭火が言ったとか。なんともほほえましい話である。自分より、20歳も年下の俳友からそのように慕われた山頭火は、酒席では、陽気な親父であったそうだ。 山口の若い詩人俳人仲間や、早世の詩人だった兄同様に、文学に興味の深かった中原中也の弟、吾朗などは頻繁に山頭火を訪ねている。 山頭火自身も、孤独と酒とともに、友人たちの好意があって自分は生きられた、と日記に記している。

四国松山で、最晩年の山頭火の世話をし、四国八十八箇所のお遍路の一部を同行した松山商大の高橋一甚は、山頭火の句集の巻頭言に「人は(山頭火のように)物乞いをする経験をもつ、もしくは物乞いの目線でものを見ることを知らない限り、人生を本当に味わい尽くすことはできない」と書いている。

山頭火の魅力は、最低の生活の目線で、人間の生き様をまっすぐに見詰めた所にある。 その低い目線から生まれた句は、人生そのものを写しだした。山頭火の句は、彼の望んだとおり、自然と時間の中に生きる人生の相を、自由律の言葉の内に凝縮し固定した。 山頭火の句は、蕪村、一茶を越えて、現代人の孤独な心に共鳴する。

60歳に届かずに念願の「ころり往生」を遂げた山頭火は、あの世で一升瓶を抱えながら、今の自分の人気の高まりを、くすぐったく思いながら一杯やっているような気がする。 坊主頭に、丸縁の厚いメガネ、長い山羊ひげのユーモラスな風貌を持つこの孤独な俳人が、21世紀の都会人に愛されるのはなぜだろうか。 表面だけが異様にモダン化された、メッキ張りの人生を生きる我々は、孤独で裸のもう一人の自分の姿を、山頭火という鏡の中に見るのかもしれない。(8.29.2003       

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