祖母の死
6月のある日、満106歳の祖母がついに亡くなった。 朝5時前に睡眠の静寂を破る電話のベルが鳴り受話器を取ると実家の母が淡々として今朝3時過ぎに亡くなった、病院に駆けつけたときは既に亡くなっていた、と告げた。 丁度夕べ、最近おばあちゃんがあまり調子が良くない、と母と話したばかりだっただけに、「あっけない」という感じがした。
耳が遠かったため、会話は耳元で大声でどなるという風だったが、いつも笑顔を絶やさず、たまに帰省すると本当に嬉しそうに迎えてくれた。 100歳になっても新聞が読めるのは、毎朝冷水で目を30回洗うからだとか、毎日両手の指を100回折る健康法だとか、酢を一杯食べるとか、色んな健康法を実践していた。 元々腰が悪く100歳を超えてしばらくしてちょっとした怪我で入院しそのままベットに居着いてしまい、次第に自力でトイレやお風呂に行けなくなった。 とはいえ、リハビリで自転車をこいだり、老人ばかりが伏せる地方都市の病院では模範的な患者であった。
ここ数年はさすがに段々弱ってきていて、一度ならず今回はダメかもしれない、といいう時があった。今年3月もインフルエンザにかかり容態が悪化し、酸素ダクトと点滴のお世話になったが、それも危機を脱した風だったし、母も『あの人は不死身だから』がもう口癖のようになっていた。 金さん銀さんは超えるかね、とか話していたものだ。
セレモニーホールでの通夜の晩、夜も11時過ぎると親族も大体帰宅した。 棺の中には穏やかな顔の祖母が眠る。 頬はまだ柔らく硬直は始まっていなかった。 一人になり線香を絶やさないようにしながら、白寿の時の句集をめくった。
白もまた萌ゆる色なり雪柳
小さな花だが、盛り上がるように咲き誇る庭の雪柳を詠んだ句。 祖母はモモヨさんというが、名前のイメージのとおり、年取っても頬に白い粉をつけ化粧をするような華やいだ気分が好きな人だった。
補聴器をはずせば一日の緊張の
解かれて一人闇に休らう
これは市長賞をもらった句である。 かなり巧みといえる句だ。
火葬場で肉体のある祖母と最後の別れを告げ、父が焼却炉のスイッチを押す。 一時間後、祖母は熱いベッドの上に白い骨となって横たわっていた。 丁度4年ほど前、自分の次男が66歳の若さで東京でなくなったときは、遠い山口のベットに横たわり最後の姿を見ることも出来ず「情けない」思いをした祖母が、今は同じような崩れかけた骨として横たわる。 丁寧に合掌を繰り返す火葬場の係りの指示に従って、足から頭へと順番に骨を拾う。 2人のひ孫も箸を取った。 「あんたらは早く死ねばいいと思ちょるかもしれんが、そう簡単には死なれん」と嘯いたこともあるという祖母。 一方で自分の長い入院生活が経済的に負担になっていることも気にしていた。 最後は、それほど苦しむこともなく旅立ったという祖母。 孫娘の連れ合いの優秀な院長にずっと面倒を見てもらって悔いはなかっただろうか。 今は自分の死を静かに受け入れて天国に行ったであろうか。
笑顔を絶やさず、人への感謝をいつも表現していた祖母。 それは厳しい時代に3世紀に渡って生き抜くために必要だった知恵だったかもしれないが、それは祖母の人格そのものであった。 日々の行いがそれすなわちその人そのものとなる。 「内面」とか「心理」という面倒なものが介入する余地はない。 「幸せ人生」と題した辞世のような手紙をもらったのは10年近く前だったが、「これからは一日一日がもうけもの」と綴った祖母は、「幸せ」と信じることが自分を幸せにすることだと、よく知っていたのだと思う。 大学生になって郷里を離れて20数年、祖母と会うのは年に2回程度だったし、交わした会話も大した数ではなかったが、祖母は生まれてこの方、常に私の記憶のどこかに住んでいた。 神様、仏様、ご先祖様といった神仏習合の宗教を信じた古い人であったが、家族に注ぐ眼差しは、僻目がなく暖かい人だった。 祖母はもう病院にはいないが、祖母は私の記憶の中に生き続けるだろう。 記憶とは他でもない、私たちの精神を形作っているものである。