金子勝 「反グローバリズム」 岩波書店

 この本ほど今2003年)我々に必要な現実認識とその処方箋を示唆しているものはないのではないか。この本が出版された当時(99年)は、まだ不良債権処理の根本的解決、金融ビッグバン、国際会計基準の導入といった市場主義経済学の主流意見が世論からも支持されていた頃である。 金子勝の主張はその当時から、今の状況を予見していたのだ。 株価と土地の下落が続き、雇用不安と消費低迷が改善せず、経済が完全にデフレサイクルに入ったことが認識された今、グローバリズムの弊害とそれへの対抗戦略として、地方から、国家、アジア圏に到る各階層での新しい「セーフティーネット」の構築を解いている。 地方公共団体レベルでの介護の問題、破綻しつつある年金の税方式への転換、短期的投機的資金の暴走によるバブルから国家経済を守るすべとしてのアジア圏通貨基金の設立などがそれだ。 アメリカ型「市場経済市場主義」は、個人の「自立」と「自己責任」が日本の改革には必要というが、新古典派経済学のいうように「合理主義的人間」を前提とした「自立」と「自己責任」に任せることは、逆にリスクを負えない企業や個人が自己判断ができない環境を作っているという洞察は鋭い。
また、グローバリズムへの対抗戦略の主役は、「弱い個人という仮定」から出発すべきという。 なぜ「強い個人の仮定」から出発するのがいけないか。 著者は言う。

- それは「強い個人の仮定」が前提にする人間像は、短期だけでなく長期の将来も合理的に見通して、かつ他者にかかわりなく自己利益だけを追求する「合理的経済人」だからだ。 「強い個人の仮定」から出発する新古典的経済派理論は、明らかに現実によって裏切られている。今日における信用収縮やデフレの悪循環が示すように、セーフティーネットに穴が空いてしまったために、人々は将来を見通すことができず、将来の不安から自己防衛的行動に走って経済活動を萎縮させているからである。

- 「強い個人の仮定」は、政治学や政治理論にも見られる。公民的モラルを身に付けた「市民」を前提とする市民主義、あるいは自ら信念体系をもち、互いに多元的価値を尊重しながら会話を繰り返す「会話的正義」論などがそれにあたる。しかし、このような個人に重い負荷を課す議論からは、決して持続的で建設的なビジョンは出てこない。 これらの議論は、一種のトートロジーに陥る危険性を抱えているからである。 すなわち、その主張に基づけば、社会を変えていくには人々が高邁な「市民」になれなければならないが、日本社会が悪いのは「市民」がいないからだという循環論法になる。 これらの議論では、公民的モラルや会話的正義を追求することのできる知的エリートのみが変革の主体の有資格者であり、ごくありふれた人々が加わる余地がないかれである。

- グローバリズムの名のもとに「強制」される市場原理主義・・・・・それによって生じる失業や倒産は、もはや一人ひとりの人間ではどうしようもないリスクである。 「強い個人の仮定」を前提とする主張を繰り返しても、それは、ただ「自分のことは自分で決めなければならない」とする「近代的自我」の建前を持って、人々を追い詰めてゆくだけである。 やがて、「近代的自我」のプレッシャーに人々が耐えられなくなれば、その先にはすべての裁可を他者にゆだねる快感が待っている。 その他者とは、神であったり、強いリーダーシップであったり、死(自殺)であったりする。かくして、自らすべてを決定しうる「強い個人の仮定」は、何らかの絶対的独裁に帰結するというパラドックスを導くことになるのである。

ここに、経済学者というより、ヒューマニストとしての著者の良心の叫びを聞くのは私だけではあるまい。 アメリカ型市場原理主義は、ウォールストリートのスーパーエリートを金融錬金術の輩となし、経営者を資本の奴隷のごとく短期利益に走らせる。 そこには、顧客価値だの社会のセーフティーネットだの、モラルなどがすっぽり抜け落ちて、成功と富への欲望に人間をひたすら駆り立てる。 過去10年の間にアメリカのトップ100企業のCEOの報酬は10−100倍増えたという。 Winner takes all という社会が21世紀のビジョンであろうはずがない。 

自らを天邪鬼と評する著者であるが、この本や同時期に書かれた入門編「セーフティーネットの政治経済学」(ちくま新書)で展開された歴史認識、洞察は、世界を席捲する「市場原理主義」に対抗し、日本の新しい経済、社会を切り開く起点になるのではないだろうか。