『夢・夢のあと』

フォークタイム(注1)の機関紙「森の音楽通信」第4号掲載
(平成17年7月/フォークタイム・ネットワーク制作)




“♪人は逢ったなら、まして初対面なら、お互いに名乗りあう〜のが、最低の礼儀でしょう♪”


これが、私が偉大なる大はしたつ屋・名人
(注2)に一番初めに発した一言だ。
泉谷しげる
(注3)の歌「黒いカバン」の一節を、いきなり初対面の二つ年上の先輩に歌いかけたのだった。
時は、1972年の春
(注4)
場所は、愛知県江南市にある県立尾北高校
(注5)の中庭みたいな所だったと思う。
大橋名人は、私が当時、所属していた「フォークソング同好会」の先輩・水越さん
(注6)と中学の同級生で、わざわざ名古屋の高校から遊びに(?)来てくれていたのだった。
この出逢いがなかったら、その後の私の人生は大いに違ったものになったに違いない。
良かったのか悪かったのかは、まだ人生が終わっていないので分からない。

そこの若い人!
気を付けなさい。
世の中は、かなり偶然のものなのだ。

一年後、私は江南市から、名古屋市中川区
(注7)に引っ越していた。
その家が何と、大橋名人の自宅や私のギターの師匠であった水越先輩の家とそんなに離れていない距離にあったのだ。

誰かと誰かは、必ず何処かで繋がっている。
フォークタイムで知り合った簑島さん(きいちゃ)
(注8)がある時期、通っていたヤマハの作曲編曲教室。そこで蓑島さんが知り合った長屋吉彦くん(注9)とは、後に2人で一緒にステージをやる事になる。長屋くんの家も偶然、我が家のすぐ近所だった。
長屋くんは、著名なシンガー・山名敏晴さん
(注10)のバックバンドでギターを弾いており、その山名さんのプロデュースをしていた岡本さん(注11)という人が私をラジオの世界に引っ張り込んだ。
それが、今までの私のキャリアとかなり結びついている。

そこの若い人!
安心しなさい。
世の中は、かなり必然のものなのだ。

’70年代の後半、フォークタイムの会長を何年か、やらせて頂いた。
「ワンステップ・コンサート」
(注12)で、北区役所ホールを満員にした時は、本当に嬉しかった。苦しく楽しく、不安なくせに自信にあふれ、皆、一曲は“名曲”を書いていたがそこから抜け出せず、悶々としたりしていた。

それから… 時間が、じゃんじゃん過ぎて行った。

私は、34歳にもなってから東京へ出て、今は俳優とDJをしている。

フォークソング・ブームは、去ったり、またやって来たり…。

でも、世の中のブームなんて、どうでも良い事だと知ったのは、ずっと後だった。

“窓の外は、黒い街 ありもしない社会の口笛が聞こえる”  (泉谷しげる「裸の街」)

昨年の春、長屋吉彦くんは、46歳の若さで亡くなった。
ライブ・ハウスで、よく一緒になった山平和彦さん
(注13)が不慮の事故で亡くなったのは、秋だった。以前、岐阜ラジオで一緒に番組を担当した河島英五さん(注14)も、詩人・高田渡さん (注15)も、今はもういない。

そこの若い人!
やっぱり、気を付けなさい。
世の中も人も、勝手に過ぎて行ってしまうから。

だから、好きな事をじゃんじゃん、やれば良いんだ、と改めて思う。
誰にどう思われたって、いいじゃん。

ああ、久しぶりに、大橋名人の「やっとかめ」が聴きたくなって来た。

大橋さん、やっとかめだなも
(注16)…

1977年8月24日 名古屋市金山ヤマハホールにて 1977年6月 名古屋市北区役所ホールにて

【脚注】
注1
フォークタイム
名古屋の老舗、アマチュアのフォークソング・サークル。’73年春、活動開始。 ’70年代の後半、岡村洋一は、ここの会長を務めていた。
注2
大はしたつ屋・名人
フォークタイムの創立者、大橋達也氏の事。1954年11月12日名古屋市生まれ。独身。自らのレーベルから、CDを十数枚、リリースしている。15歳の時のこの人との出逢いが、その後の岡村洋一の人生を大きく歪め、いや、変えた。知らないうちに、岡村のファン・サイトを作ってくれていた。
いつも、ありがと、なも! 
岡村は、彼の事を古くから敬意を込めて、“名人”と呼んでいる。
顔はデカいけど、いい人ョ。
注3 泉谷しげる
シンガー・ソングライター&俳優。 1948年5月11日、東京都生まれ。’70年代の日本のフォークソング・ブームの立役者の一人。代表曲は、「春夏秋冬」、「春のからっ風」、「眠れない夜」、「デトロイト・ポーカー」ほか。思春期の岡村洋一が最も影響を受けた人物。 
後に、CBCラジオ「お前ら、聴け!」などで共演、現在も交流を続ける。
口は悪いけど、いい人ョ。
注4 1972年の春
よしだたくろうの「結婚しようよ」、「旅の宿」、泉谷しげるの「春夏秋冬」、古井戸の「さなえちゃん」などが、大ヒットし、日本中にフォークソング・ブームが巻き起こった。
当時の総理大臣は、故・田中角栄。
高校に入ったばかりの岡村洋一は、夏休みに鉄工所でアルバイトし、ヤマハの2万円のギターを手にし、自ら、高校内に“フォーク・ソングクラブ”を創設。ギターの腕前と反比例して、学校の成績は、低下する一方だった。
注5 県立尾北高校
愛知県立尾北高校の事。 江南市・布袋地区にある、岡村洋一の卒業校。普通科のみ。1年生の時のみ、学校から徒歩8分くらいの所にある自宅から通うが2年生から、名古屋へ引っ越したため、一時間以上かけて通う事になる。1972年10月17日、体育の授業時間中、右大腿骨を骨折、2ヶ月半の入院生活を強いられる。
ギリギリで留年は免れたものの、成績はさらに低下の一途をたどり、怪我の後遺症は現在も残っている。
注6 水越さん
岡村洋一にとって、唯一人のギターの師匠。何故か、いつもガムを噛んでいる人で、「ガム、ちょう(ガム、おくれ)」と言うと、「にゃあよ!(ないよ)」と即座に答えるのが“お約束”だった。
この人から、“スリー・フィンガー奏法”を徹底的に叩き込まれた。
注7

名古屋市中川区
岡村洋一の実家がある。

父と母が苦労して建てた家で、自らの部屋にはデカいステレオもあるが、岡村がここに住んだのは、わずか11年間だった。

注8

簑島さん(きいちゃ)
’70年代の後半、フォークタイムの代表的女性シンガーだった。「誕生日」は、17歳で亡くなった友人の事を歌った名曲。最近、カムバックして、またステージに立っている。
ジェームス・テイラーばりのギター・テクニックと、ハスキーだが安定したヴォーカルは、今も健在。再び、多くのファンを獲得している。

注9

長屋吉彦くん (1958〜2004)
ギタリスト。 母親は、長唄の師匠だった。’80年代、岡村洋一と最も多くセッションを組んだミュージシャン。
岡村は、“全くリズム感が悪い!基礎がなってない!”と、いつも怒られて喧嘩しては、また仲直りしていた。よくお互いの家も行き来した。彼のバンド“クルーザー”のために、岡村が作詞、彼が作曲した「Love in the fall」は、2005年5月2日(彼の命日)、かわさきFM「岡村洋一のシネマストリート」で、放送された。

注10

山名敏晴さん  
名古屋のシンガー・ソングライターの草分け的存在。1951年4月1日生まれ。代表曲「忘れな草」「コーラが少し」「空港」等。
現在も、ヴォーカル・スクールを運営しながら、名古屋を中心に活動を続けている。

注11

岡本さん
’79年から、山名敏晴さんと共に、シンガーとしての岡村洋一のプロデュースをする。同時に、地元のラジオ局の番組ディレクターもしていたため、岡村も次第にDJをする様になって行った。現在の消息は不明。

注12

ワンステップ・コンサート
フォークタイムで、当時、毎月の様に行われていた定期コンサート。主に、名古屋市内の区役所のホールを利用した。
大学生だった岡村洋一が会長になってから、各大学の音楽サークル等を訪問して交流、観客数を増やす事に力を入れるが、100人以上の時もあれば、たった3人の事もあり、大いに気分が落ち込んだりした。

注13

山平和彦さん (1952〜2004)
秋田県出身のシンガー・ソングライター。
’70年代中ごろ、東海ラジオの深夜放送「ミッドナイト東海」で、中部地区での人気者となる。代表曲は、「放送禁止歌」、「月経」、「明日は、水たまり」、「どうやら私は街が好きらしい」、「玉ねぎ」他。
2004年10月12日夜、東京都内でひき逃げ事故に遭遇し、死去。享年52。加害者は’05年1月に検挙された。

注14

河島英五さん  (1952〜2001)
シンガーソングライター&俳優。大阪府出身。代表曲は「酒と泪と男と女」、「野風増」、「時代おくれ」、「生きてりゃいいさ」、「どんまい、どんまい」など。
岡村洋一が’80年代に担当していた岐阜ラジオのアナーキーな人気番組「ジャスト・ヴァイブレーション」で、“英五のどんまいプラネット”というコーナーを持っていた。
2001年4月、長女の結婚式に参列後、肝臓疾患のため急逝。49歳の誕生日の一週間前だった。
岡村が大阪に住んでいた小学校時代、2人はとても近所に住んでいた事が最近、わかった。

注15

高田渡さん  (1948〜2005)
伝説のシンガー・ソングライター。代表曲は、「自転車にのって」、「自衛隊に入ろう」、「生活の柄」、「値上げ」ほか。
2005年4月16日未明、北海道での公演中に心不全で倒れ、釧路市内の病院で逝去した。享年56。 岡林信康らと共に、日本のフォーク界を代表する存在だった。

注16

やっとかめだなも
名古屋弁(この場合は、正確に言うと尾張弁)で、“久しぶりだなぁ”の意。しかし、中部地区の若い衆が、日常でこういう言い方をする事は、まずない。
ついでに言うと、名古屋人だからといって、“エビフライ”や“きしめん”や“天むす”等を日々食べている訳ではない。その点、香川県の讃岐うどんや大阪のたこ焼きとは、大いに違っている。
 20年程前、「日本は、世界の名古屋だ」と言ったのは、坂本龍一だったが、万博の後、ちょっと空白が出来て、その後、名古屋は、本当に変化していく気がする。

(2005年7月16日)

フォークタイムの公式サイト http://www.d1.dion.ne.jp/~folktime/index.htm

まあ、何でもええで、いっぺん、来たってちょ!