朝倉涼子の面影〜恋文〜 終章

 病院の中に入るとわかるが、その中は外の世界と一種隔絶された独特の臭いというものが漂っている。消毒液の臭いだけじゃなく、なんていうか……なんて言うんだろうな。清潔そうな臭い? ともかくそんな臭いだ。

「あなたが悪いわけではない」
 と、朝倉が消えた教室内で呆然としている俺に向かって、長門はそう言った。
「朝倉涼子の行動には矛盾がある。自分が消えること。自分が存在すること。その両方を強く望んだ。でもその矛盾は……人として当たり前のこと」
「……そうか」
「彼女を受け入れなければならなかったのは、わたし。でも彼女はわたしではなく、あなたにそれを求めた。わたしなら理解できる。彼女とわたしは同じだから。だから、わたしのせい」
「それは、違うだろうな」
「違わない。わたしも、」
「違う。長門と朝倉はまったく違う。おまえはおまえだし、朝倉は朝倉だ。そうだろ」
「……そう」
 長門はそれ以上、何も言わなかった。俺も、何かを言う言葉が見つからない。ああ、でも。
「ミヨキチ、目覚めるよな」
「すぐに、とは言えない。でも、大丈夫」
「そうか」
「吉村美代子の心は、彼女だけのもの」
「そうだよな。それが当たり前だ」
 俺の席で意識を失ってるミヨキチを見て、俺は安堵と別の感情も吐息と一緒に吐き出した。その足下に、何かが落ちていた。落ちていたのは、いつぞや俺がプレゼントした髪留めだった。
「もし、おまえが言うように俺がここに来なければ、別の結末もあったかな?」
 髪留めを拾い上げながら、長門にそんなことを聞く俺も、どうかしている。すでに結果が出ている話を掘り返したって詮無いことだ。それはわかっている。わかっていても、尋ねずにはいられなかった。
「……わからない。でも、これが最善とわたしは判断する」
「そうか?」
「そう。だから」
 長門は小さな声でただ一言、呟いた。『ごめんなさい』だったかもしれない。あるいは『ありがとう』だったかもしれない。
 よく、聞き取れなかった。

 さすがに土曜日ともなると、病院のロビーに人はいない。ある種、閑散としていて場所が場所だけに薄気味悪さを感じることもある。ただ、入院病棟はそうでもない。絶えず看護師が行き交い、清掃の人たちが病室を出入りしていて何かと慌ただしいもんだ。俺も入院していたときに、初めてそれを知った。

 目を覚まさないミヨキチを、そのまま北高の教室に放置しておくわけにもいかない。心神喪失状態ってやつだから、おぶって家に連れて行くわけにもいかないだろう。両親は長門や喜緑さんのせいで出張だっけ?
 ともかく、俺は古泉に連絡を取って、いつぞや俺が入院した病院まで連れて行くことにした。
 その病院の待合室で、古泉はいつものような微笑みを浮かべて声をかけてきた。
「決着しましたか」
「おまえの言う決着が何かしらんが、連絡したことで予想はついてるだろ。もしくは、俺を監視してたんじゃないのか?」
「さて」
 俺の隣に座った古泉は、手に持っていた缶コーヒーを俺に渡した。何も言わずそれを受け取り、口を付けずそれを見ている俺に、古泉は言葉を続ける。
「吉村さんのご両親には連絡をしておきました。ただ、疲れがたまって倒れたのだろう、ということにしてあります。事件性については否定していろいろでっち上げてますので、ボロを出さないように頼みます」
「そりゃ助かる」
「感謝するのは僕の方ですよ」
 こいつに感謝の意を述べられると、どうにも嫌な予感がする。じろりと睨んでやると、古泉はやれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「朝倉涼子の一件は涼宮さんと関係ないことですから。涼宮さんの周囲をに暗躍する敵対組織の対応で手一杯なんですよ、『機関』も」
「だから俺に丸投げしたわけか」
「包み隠さず言えば、その通りです」
 そこまで状況把握で人を動かせるなら、どうしておまえはボードゲームがそこまで弱いんだ? もしかして、いつもわざと負けてるんじゃないだろうな?
 だからと言って、古泉に文句を言うのもお門違いか。逆に『機関』が絡んでくると、ますます厄介なことになっていたかもしれない。これ以上、話がこじれたらどうしようもないしな。
「おまえに助けられたとき、感謝なんてするんじゃなかったよ。あれも込みで『機関』の筋書き通りか?」
「あなたに恩を売れるなら、僕の独断専行と判断していただいて結構ですよ」
「それなら『機関』の筋書き通りってことにしておく」
 珍しく声を出して笑う古泉は、これ以上の会話は必要ないとばかりに腰を上げた。
「それでは明日、学校で」
「ああ。面倒かけたな」
 素直に出た言葉なのに、古泉は何か言いたそうな表情を見せたが、すぐにいつもの……いつもと違うな、どこかくすぐったそうに、普通に微笑むような表情を見せた。
「お互い様です」

 ミヨキチが目を覚ましたという話を聞いたのは、昨日の金曜日のこと。妹からの伝聞であり、妹自身はその日のうちに見舞いに行った。
 けれど、俺は行かなかった。駆けつけるべきと思う気持ちと、顔を出すべきじゃない、という思いがせめぎ合って、結局行かないことを選択した。理由はいろいろあるが、何よりミヨキチが何をどこまで覚えているのか、はっきりしない。だから先に見舞いに行った妹から話を聞いて、決めようと思った。

 古泉が去るのと入れ違いで現れたミヨキチの両親に挨拶をして、その日は家に帰った。一日まるまる家を空けていたこともあって親には苦言を呈されたが、それでも古泉が何かと手回ししてくれていたおかげで、そこまででかい雷が落ちなかったのは幸いだ。
 特大の雷が落ちたのは、翌日木曜日、登校した俺を待ちかまえていたその人からだった。
 涙目で口を横一文字に結び、珍しく眉をつり上げて俺を睨んでいたのは、朝比奈さん。両手で鞄を掴むその手は慎ましやかなのに、醸し出すオーラはいつぞやのハルヒを彷彿させる。
「うわぁ〜……」
 と、声に出したつもりはなかったが、どうやら声に出てしまったらしい。つかつかと歩み寄ってきた朝比奈さんは、俺の目前まで近付くと、下から睨め付けるように見上げてきた。
「キョンくん、あたしに何か言うことありませんか?」
 頭の中ではここでボケるべきかどうか悩んだが、目の前の朝比奈さんを見ればそういう空気じゃないことはわかる。こう見えても、ハルヒと違って空気は読めるんだ。
「心配かけて、すいません」
 俺がそう言うと、朝比奈さんは人目をはばからず大粒の涙をボロボロ流し始めた。それだけならまだしも、大声を上げて泣き出すものだから、周囲の目がもの凄い勢いで突き刺さる。
 こりゃもう、今日は無事に済まないな。『朝比奈みくるファンクラブ』なるものが実在するのかどうか知らないが、仮にそんなものがあれば抹殺されかねないほどの視線を集めた。
「す、すいません朝比奈さん。ええっとその、なんかいろいろ迷惑かけちゃったみたいで、おまけにその……心配かけちゃいましたか?」
「あ、あだりまえじゃないでずがあああああっ! ぜっ、全然、ひっく、昨日も、ぐず、連絡くれなくて、うぅ……、どれだけ心配しでだと思ってるんですかあああああ」
 いや、すいません。ホント、すいません。マジでごめんなさい。平身低頭して謝っていると、なんとか朝比奈さんの泣き声も収まってきた。
「でも、うぅ〜……、キョンくんが無事で、よ、よかったですぅ。もう……ぐすっ、大丈夫なんですよね?」
「ええ……たぶん」
「たぶん、なんですか……?」
「え? いや、もう大丈夫です。万事解決です。なんの憂いもありません。おーるおっけーってヤツです」
「そうですか」
 なんとも言えない雰囲気と、なんとかしないとなぁと思う朝比奈さんの愁いを帯びた表情を前に、俺は胸の内で頭を抱えた。これはやっぱり、俺のせいでここまでふさぎ込んでるんだよなぁ……。逆を言えば、俺のためにそこまで気を病んでくれて有り難い、と思うべきか。
「朝比奈さん、朝倉が消えて未来は何か変わるんですかね?」
「いえ……それはないと思います。詳しくは……ごめんなさい、禁則事項です」
「そうですか」
 なんとなく、想像はできる。以前、朝比奈さん(大)が言っていた。歴史は多少のズレなら自己修復する、と。分岐点にすらなっていない出来事はそういうものらしい。
 おそらく、今回の出来事は『多少のズレ』ってヤツだ。朝倉が生き残る未来では朝倉自身が主体となる事件が、今の歴史では朝倉以外の何者かが同じことを起こす事件として、歴史に刻まれることになるんだろう。
 その程度のものなんだ。俺にとっては一大事の出来事だが、世界にとっては些細なこと。そして今回の出来事に朝比奈さん(大)が関わってこないのは、朝比奈さん(大)が知る未来には関係のない出来事だったからだろう。時間遡航は、俺に対するサービスみたいなもんだったんじゃないだろうか。
 それでいいと思う。
 俺はハルヒと違って世界の中心に居座る気はない。その中心になるのはハルヒだけで十分だし、俺はそのサポート役だ。当事者になることに文句はないが、主役になれる器じゃない。むしろその点だけは謹んで辞退しよう。
「キョンくん、ひとつだけ約束してください」
「え? あ、はい。なんでも言って下さい」
 これ以上、泣かれちゃたまらん。その約束とやらで事なきを得るなら、なんだってやってやりますとも、ええ。
「今日こそは、一緒に帰りましょうね」
「え? っと、それでいいんですか?」
「キョンくん、最近ウソばっかりです……。だから、約束してください。ちゃんとですよ」
 それを言われるとツライな……。
「わ、わかりました。でも、ホントにそれだけでいいんですか?」
「もちろんです」
 エンジェルスマイルを見せる朝比奈さんに、俺は首を傾げるしかない。
 ホントにそれだけでいいんだろうか? もっと何かこう、あるかと思っていたが……そんなものでよければ、何回だろうと一緒に帰りますとも。

 ミヨキチが入院している病室は、最上階の個室病棟。それだけでかなりの金がかかりそうだが、病院が病院だしな。古泉のおかげか、格安の料金で済んでるようだ。
 目覚めて一日経っているが、以前の記憶が曖昧……特にこの一年の記憶はところどころ朧気ということもあって、目が覚めても入院することとなっている。
 倒れたことでの、軽度の記憶喪失。
 医者の診断をかみ砕いて言えば、そういうことらしい。もちろん、実際は違う。実際は心の半分──朝倉のことだ──を失ったわけだから、記憶が曖昧なのも仕方がないこと……なのかもしれないな。

 教室の引き戸の前で、自分の席に目を向ける。なんか久しぶりに朝から学校に来た気分だ。健全な一高校生のはずなのにな、約二日も無断欠席しちまった。
 そんな懐かしさを覚える自分の席の後ろ、そこを指定席にしているヤツが、眉間にしわを寄せ、口の端をやや釣り上げて俺を手招きしている。
 やれやれだ。様々な意味合いを込めて、敢えて、何度でも、しつこいくらいに繰り返してやる。ああ、やれやれ。
「よう」
「ちょっとはマシな顔になったわね」
 おまえはいつから人相占いができるようになったんだ。
 ふふん、と鼻で笑って、ハルヒはノートの束を俺に差しだした。なんだコレは?
「あんたがいなかった間の授業のノート。あんたの成績考えるとね、こういうこともしたくなるのよ」
「へぇ〜」
 ハルヒのノートだ。下手な塾の問題集よりも役に立ちそうだな。こればっかりは素直に感謝しておこう。ありがとさん。
「なんか軽いわね……。ま、いいわ。ノート一冊につき、学食一食分にまけといてあげる」
「……やっぱ返すわ」
「冗談よ」
 今の目は九割九分、本気だったな。おまえの冗談は笑えないからやめてくれ。
「で、悩み事は解決した?」
「さぁ……どうかな」
「ふーん。やっぱ、何か悩んでたってわけね」
 あれ? もしかして俺、自爆したか?
「さて、自白したところでそろそろ話してもらいましょうかねぇ?」
 まるで悪の秘密結社のボスみたいなニヤリ笑いをするハルヒに、俺は何と言うべきだろうね。頑なに口を閉ざして、また殴られるハメになるのは勘弁してほしい。かといって、ありのままを話せるわけもなく……ああ、別の悩みがあったな。
「いや、おまえには関係ない話なんだけどな」
「へぇ〜、また殴られたいってわけ?」
「話は最後まで聞けって。月曜日に部室に来たミヨキチ、覚えてるよな?」
「あんたとちがって健忘症じゃないから、もちろん覚えてるわよ」
 おまえはいつも一言多いな……。
「ともかく、そのミヨキチが入院したんだ。まだ目を覚ましていなくて、心配でさ」
「えっ? ちょっ、ちょっと、入院して目を覚まさないなんて一大事じゃない!? あんたね、なんであたしにさっさと話さなかったのよ!」
「は? いや、おまえに話したって仕方ないだろ。もう入院してるし、原因も心身疲労だって話だ。そのうち目は覚ますはずだから、」
「あんた、正真正銘天然記念物もののレッドリスト登録間違いなしで絶滅危惧種ばりのアンポンタンね! 医者がなんだっていうのよ!? そういうときは付きっきりで看病してあげるもんでしょ!」
 いや、うん。まぁ、なんと言うか……。それはあれか? 俺が入院したときの自分の姿を投影した発言か? つまり俺に付きっきりで看病して来い、って言うわけだな? じゃあ、今から行ってくるがそれでホントにいいんだな?
「ああ……そうね、あんたの成績じゃこれ以上、授業をサボるのはマズイわね。しょーがないわね、このあたしが特別に付きっきりで看病してきてあげるわ」
 おい、今最後にぼそっと「聞きたいこともあるしね」とかなんとか言わなかったか? 眠り続けている相手に、おまえはどんな暗示をかけるつもりだ。
「まてマテ待て、待ってくれ」
 おまえが行ってどうする。とても微笑ましく見守れる展開になるとは思えないのは俺だけか? 頼むからもうちょっとこう……地に足の着いた物の考えをしてくれ。
「おまえの気持ちは有り難い。そりゃ感涙ものだ。世間が許せば、おまえがナイチンゲールの名を継承してもいいだろう。だがちょっと待て」
「何? あたしの献身的な介護を邪魔しようってわけ?」
「だからな、相手は眠り続けてるわけだ。俺のときはそりゃあ感謝したが、相手はミヨキチだ。目が覚めておまえがいたとなりゃ、そりゃあなんつーか、また気絶しかねん」
「……それ、どういう意味?」
「深い意味はない。いやな、だから今の俺たちにできることは、だ。一日でも早く目覚めてくれと祈ることなんだよ。医者の話ではそんな深刻なものではないらしい。それにここで俺たちが押しかけても、相手の親にいらない気苦労をかけちまうだろ? 娘が倒れたってことでも一大事だ。そこにあまり縁の薄いおまえが駆けつけたところで、余計に気苦労をかけちまう。そこまで心配してくれるなら、おまえも一刻でも早く目覚めるように祈ってやってくれ」
「そりゃそうかもだけどさ。なんていうか、知り合いがそういうことになってるって聞けば、居ても立ってもいられないじゃない」
 たった一度、しかもちょこっと部室に顔を出しただけの相手でも、ハルヒにとってはそこまで心配する相手、ということらしい。まぁ……そういうとこだけは俺も見習うべきかね。
「目が覚めて元気になったらお見舞いに行ってくれ。だからさ、もうちょっと落ち着けって」
「……はぁ、やだやだ。あんた、インドの山奥で修行して悟りでも開いたの? そこまで冷静だと、なんかつめた〜い男って感じね」
「バカ言え。俺ほど無駄に気苦労を背負う苦労人は滅多にいないぞ」
「あら、そこまで言うならね、もうちょっとあたしに相談してくれてもいいのよ? あんたの悩みなら、パパッと解決してあげるわ」
「……昼飯一食分で、か?」
 そう言うと、ハルヒは一瞬虚を突かれたような顔を見せたが、すぐに春爛漫桜満開と形容するに相応しい笑みを浮かべた。
「それはあんたの態度次第よ」
 こいつは……俺にどんな態度を取れって言うのかね?

 そんなハルヒが願ってくれたおかげか、それともただの偶然か、翌日になってミヨキチは目を覚ました、ということらしい。記憶が曖昧ということだけは、ハルヒでもどうにもならなかったようだ。まぁ……どうにもならないよな。
 閉じられた病室のドア。中からは物音一つなく、誰もいないかのように静まりかえっている。ノックをしても、反応がない。かと言って退院したという話は聞いてない。
 そっとドアを開けて中を覗くと、ベッドがわずかに膨らんでいた。どうやら寝ているらしい。起こさないようにそっと近づき、椅子に腰掛けた。
 こうやって寝顔を見るのは失礼な気もするが、かといって起こすのもどうかと思う。二日ほど寝続けて心配したが、顔色もそんなに悪くない。どちらかというと、穏やかな寝顔だ。
「ん……んぅ〜……」
 起きるか、と思ったが、ただ寝息混じりに寝返りを打っただけだった。暑いのか、布団を盛大にはねのける。ああ、一応断っておくが、ちゃんとパジャマは着ているぞ。上着の裾がめくれてお腹は出ているが、それだけだ。
 そのまま見ていたい気もするが、起きたときに何を言われるかわかったもんじゃない。仕方ないんで布団を直してやる。と──布団に手を掛けた瞬間、その手をミヨキチに掴まれた。
「……え〜と」
「すぅ……す……」
 まだ寝てる。どうやら無意識の反応だったらしい。ぎゅっと掴まれた手をどうしたものかしばし逡巡したが、起こすことに決めた。
「おい、ミヨキチ。お〜い、美代子さん。起きろー」
「ん〜……ん、うん? え、あれ? へっ!?」
 感心するほどの寝起きの良さで、ミヨキチはバッと俺の手を離すと物凄い勢いで後ずさり、これまた痛そうな音を立ててベッドの縁に頭をぶつけて悶絶した。
 何をやってるんだ……おまえは……。
「った……いったた……」
「病院でケガするのは、なんていうか本末転倒な気がするぞ」
「え……と、あ、お兄さん……」
 蚊の鳴くような声で呟き、ミヨキチは目元まで布団を引き寄せた。驚きと恥じらいと、その他もろもろが混じり合った反応だった。それを見て、ああミヨキチなんだな、と思う。そこにいるのは、俺の知ってるミヨキチだった。
「よう」
「あの……なんで、ここに」
「妹から目を覚ましたって聞いてね。お見舞い」
「あ、そうなんですか。すみません、わざわざ」
「いいよ、ヒマだったからさ」
 ここでリンゴのひとつでも剥いてやるべきかと思ったが、あいにく俺は古泉みたいに手先が器用じゃなくてね、そんな真似はできない。そもそも、皮を剥くリンゴがないんじゃ話にならない。来たのはいいが、そういや見舞い品を忘れていたことに、今更ながら気づいた。
「すまん、これと言って何も持ってきてないんだ」
「え? あ、いいですいいです。来てくださっただけで。あの、」
「ん?」
「倒れたわたしを病院まで連れてきてくださったの……お兄さんだって聞きました。それにこの病院も、お兄さんの知り合いの方の病院だって。母から」
「ああ、そのことか。記憶が……曖昧なんだって?」
 白々しくも、そう聞くしかない。
「ええ。まったく記憶がないわけじゃなくて……その、覚えてることもあるんですけど、でも、ここ一週間の記憶が特に曖昧で」
「そうか」
「わたし、お兄さんと会っていて倒れた……んですか?」
「ん? ああ」
 そりゃ、気になるよな。自分が倒れたときの状況を何も知らずにいるのは、不安で仕方ないだろう。話を聞きたいとも思うはずさ。
「会っていて倒れた、っていうよりも、倒れているところを俺が見つけた、って感じかな。道ばたでね、偶然さ。ミヨキチだって最初気づかなかったから、わかったときには別の意味でも驚いたよ」
「そうだったんですか」
 ふと、落胆したような表情の陰りを見せるミヨキチだが、すぐに陰を消して顔を上げた。
「わたし、今までそんなことなかったんです。両親に聞いても、この一年でそんなことはなかったみたいですし。何で急に、って思って」
「疲れてたんじゃないのか? 医者の話でもそうだったろ。自分でも知らず知らずのうちに疲れがたまっていたんだよ、きっとね」
「そうなんでしょうか……でも」
 ミヨキチは、わずかに小首を傾げる。
「でも、わたし……」
 そこで、口を閉ざす。言うべきか、それとも黙っているべきか、迷っているような雰囲気をそれとなく感じ取る。聞くべきじゃないな、と俺は思った。
「ま、そんな長居しちゃ悪いからな。そろそろ帰るよ。退院したら、また映画でも行こうか。今度は俺の方から誘うわけだから、ちゃんとエスコートするさ」
「え? いえいえ、そんな。それに、映画は……あ、いえ、なんでも」
 口ごもるミヨキチを見て、俺はふと思い出す。ハルヒが俺に言ってくれた、あの言葉。
 あいつは俺を信じてくれると言った。俺が決めたことなら上手く行くと断言してくれた。
 それを信じようと思う。それを信じずに、ほかの何を信じろと言うんだ?
「ああ、そうだ。お見舞いと言えるかどうかわからんが、土産はあるんだ」
 朝倉は消えた。そうなのかもしれない。朝倉自身も、もし今後、仮に朝倉涼子が現れたとしても、それは俺の知る朝倉じゃないと言っていた。
 そうかもしれない。
 けれど、そうじゃないかもしれない。答えが示されることはないかもしれないし、詮索しても無意味かもしれない。
「包みも何もなくて悪いけどな、これ」
 俺が取り出したのはバレッタ。かつてミヨキチに……いや、朝倉にプレゼントした、あの髪留め。もう一度、これを贈ろうかと思う。
「あ……りがとう、ございます……」
 震える手で、ミヨキチはそれを受け取ってくれた。
 全部俺の仮定の話だ。根拠もなく、断言も何もできない。ただ、そうであればいいという願いであって、それを無垢に信じられるほど、俺は純粋でもない。
 でも。
 それでも。
「付けてみたら?」
「あ、はい」
 手櫛で髪を梳き、綺麗にまとめてバレッタで止める。
「あたしに……似合いますか?」
「俺のセンスもまだまだ捨てたもんじゃない、って自信が持てたよ」
 その言葉で微笑む少女を見て、俺は思う。
 消えたのか、それともそこにいるのか……それはわからない。わからないがでも、これだけは信じよう。その奇跡は起きたのだと信じたい。

 朝倉涼子の面影を残す少女を見て──

 俺はそれを切に願った。