ワンダフル・デイズ

 善と悪に光と影。天と地に上と下。どっちがどっちとは言わないが、片方を『善し』とすれば、もう一方は『悪し』になる。
 世の中ってのはそこまで単純じゃないことは理解してるつもりだが、それでも人間、物事はわかりやすく解釈したいし、わかりやすい方が自分自身も素直にすぐ納得できる。
 何の話かと言えば、つまり二面性の話だ。
 例えばハルヒ。
 こいつの場合、いい意味でも悪い意味でも裏表のないヤツだ。自分に素直というか怖いもの知らずと言うべきか、とにかく素直に生きてるな、と見ていて思う。
 逆にひどい二面性を持ってるヤツもいるわけで、それが誰だと問われれば、俺はひとまず朝倉涼子の名前を挙げておきたい。面倒見のいいクラス委員を表の顔とするならば、俺のトラウマになっている襲撃事件なんかは「中身が別なんじゃないか?」と疑問を抱かずにはいられないほどの豹変振りと言えるだろう……ん? もしかすると、あれは素で二面性云々って話じゃないのかもしれないが……とにかく。
 そういう二面性というのは、もしかすると誰にでもあるのかもしれない。ハルヒにだって、ただ俺が知らないだけで、普段とは違う顔を見せるときがあるのかもしれない。
 ただ、どちらにしろ言えることは、表と裏で顔を持ってるヤツは、どちらか一方をさらけ出しているのなら、もう片方の面は常に隠し続けている、ってことだろうか。だからこそ、裏の顔が何かの拍子に表に出てしまうと、周囲は何事かと不審に思うんだろう。
「どうしたのかしらね、あれ」
 不審に思ったのは、事もあろうにハルヒも含まれていた。
 これはまた珍しい。青天の霹靂というよりも珍しい。ハルヒが、人の態度を見て他所に話題を振るほどに興味を示している。
 それも無理はない。あの姿は、他のヤツにしてみれば近寄りがたく思うほど空気が悪く見えそうだ。その二面性を知っている俺でさえ、できることなら近付きたくない。
「さぁな」
 実際そうなのかどうなのか、俺にはさっぱりだけどな。ひとつだけ言えることは、関わり合いになりたくないってこと、ただそれだけだ。
「でも、朝倉があそこまでイラついてるのって珍しくない?」
 確かにハルヒが言うように、いつも笑顔を振りまいて、悪く言えば愛想の塊みたいな朝倉が、渋い表情を作って頬杖を突き、せわしなく机を叩いている。それもかなりの速度で。
「まさかとは思うけど……あんた、何かしたんじゃないでしょうね?」
「おいおい」
 慌てるよりも呆れてしまう。濡れ衣もいいとこだぞ、それは。
「機嫌の良し悪しなんて、その日のテンションや体調によって変わるもんだろ。何でも俺のせいにするなよ」
「ホントかしら」
 そんな疑いの眼差しで人を見るな。端から人を有罪にしようとしてないか?
「嘘吐いてどうすんだよ。だいたい、どうして朝倉の不機嫌イコール俺のせいって方程式が成り立つんだ?」
「……あんたのそういう態度は別方面から見れば安心なのかもだけど、もし自分に向けられたらイラつくわね」
「だから何が?」
 リングに上がったプロの格闘家よりも迫力ある眼光で人の顔を睨み、鼻息だけで巨木を倒しそうな一瞥をくれてハルヒはそっぽを向く。朝倉の機嫌の悪さが伝播して、こいつまで不機嫌になられちゃたまったもんじゃない。
「どーでもいいけど、あれ、ホントどうにかしてくんない? カツカツカツカツうるさいんだけど」
 ハルヒが言うように、朝倉は朝からずっとむくれ面で頬杖を突き、二拍子のリズムでコツコツと机を叩いている。確かにあの音だけでもやめて欲しいところだが、他のクラスメイト同様に、俺だって近寄りたくない。何度も言うけど。
「気にしないようにすればいいんだよ」
 少なくとも、俺は気にしない。あの音が気にならないのかと問われれば否と答えるが、だからといってこちらから関わってまで止めようとは思わない。
 嵐の日は過ぎ去るのを待つだけさ。
 そう思っていたんだが……。
 がたんっ!
 と、椅子がひっくり返らんばかりの勢いで、当の朝倉が勢いよく立ち上がった。俺を含めて周囲がビクッと身を縮めたのは言うまでもなく、かと思えば、よどみない足取りで整然と並ぶ机の合間を早足で通り抜け、どこへ向かうのかと言えば、何故か俺の前に立ちはだかった。
「ちょっといい?」
 それはもしや、俺に向けて口にした台詞なんだろうか。あまりにも平坦な声音には感情らしきものがまるで込められおらず、朝倉にそんな言葉遣いで話しかけられなければならない失態はしていない……はずだ。
 何が何だかよくわからないものの、我が身に何かしらの脅威が迫っていることは紛れもない事実だろう。
「えー……俺?」
「ちょっといい?」
 オウムじゃあるまいし、同じ台詞を二度も繰り返さないでくれ。そして何より、人に確認を取ってるフリをしながら、その実、こっちの自由意思をまるっきり無視してネクタイを引っ掴むな。
「ちょっと朝倉、確認がてらに聞くけど、キョンが何かしたの?」
 ここはさすがに団長さまだ。何も言えずにいる俺に代わって、ハルヒが朝倉にそう聞いてくれる。本心としては、もっと強く言ってくれ、と言わずにはいられない。いつも俺にしているみたいにさ。
「ん、別に。ちょっと借りていいかな?」
「あぁ……好きにしていいわ。今回ばっかりは」
「ありがと」
 おいこら、ちょっと待て。何を納得したんだハルヒ。どうして朝倉にもっとキツく言ってやらないんだ? 団員の危機じゃないか。
「おい、何なんだいったい!?」
「いいから来て」
 凄味のある朝倉の言葉に、俺は明確な言葉を返せない。団員が訳もわからない窮地に陥っているにもかかわらず、団長は身内を助けるどころか喜んで譲渡しちまうなんて、不条理極まりない世の中だ。
 華奢な見た目は何かしらのインチキを使ってると断言できるような力を込めて、人を持ち上げられない粗大ゴミのように引っ張る朝倉に連れられるままに、俺は教室から引っ張り出された。
 ハルヒの侮蔑にまみれた視線が、何か知らんが無性に腹が立つ。


 人のネクタイを犬の首輪に繋がってるリードのように引っ張る朝倉に連行された場所は、人気の失せた旧館──部室棟──の裏側。まるで『これからカツアゲします』と宣言しているようなシチュエーションは、果たしてどんな運命のイタズラだと言うんだ。
「いったい何なんだ、こんなところまで人を連れ出しやがって! 俺が何かしたか!? いったいどういうつもりだ!」
 ようやくネクタイから手を放されて息苦しさから解放された俺はm開口一番に言うべきことを言っておいた。
 もちろんこんな言葉ひとつで満足したわけじゃない。ただ、人をこんなところまで無理やり連行した朝倉は、人に背を向けたままで仁王立ちしている。
「問題です」
「……はぁ?」
「クラスをまとめるクラス委員であるこのわたし、その正体は……さて、何でしょうか」
 唐突に何を言い出してるんだ? そんなもの、今さら改めて口にすることもであるまい。それとも、何かしらの引っかけ問題なんだろうか。
 もしやその問題の正否によって俺の行く末が決まるってわけじゃないよな? もしそうなら……朝倉のことだ、わかりきってるような問題を出してくるとは思えない。
 やはり何か引っかけがありそうだ。
 ──ふむ……。
 俺はしばし考える。真面目に答えれば、朝倉の正体とやらは情報生命体が作り出したアンドロイドということになるんだろう。けれど素直にそれが正解とは思えない。より深く、正確性を求めるとすればそれは──。
「長門のお世話係?」
「ちっがーう! ぜんっぜん違うわよ! あなたまで何言い出してるの!?」
 何やら知らんが全力で否定された。思わず謝りたくなる剣幕だ。
 それはともかくとして、だとすれば朝倉自身が言うところの『自分の正体』とやらは、いったい何だってんだ? さっぱりわからん。そもそもヒントなしで答えろと言うには難易度が高すぎる。
「……わかった。ええ、わかったわ。こうなれば仕方ないものね。ちょっと……その、あなたに話すのも躊躇われるけど、そうも言ってられないから」
「はぁ……」
「昨日のことなんだけど……」
 そう前置きして、朝倉はとつとつと語り出した。それは夜のこと、風呂場での話らしい。当然ながらそこに俺は居合わせていないので、これはすべて朝倉が語った話をイメージしてのことだ。そこに話の正確性がどれほど含まれているのかわからない。もしかすると朝倉にとって都合のいい解釈で語ったのかも、ということも頭の片隅にとどめておいてもらいたい。
 つまり、こういうことだったらしい。
 ……
 …………
 ………………
「んー……」
 と、たっぷりのお湯に入浴剤を混ぜた湯船の中に全身を預け、朝倉涼子は大きく伸びをした。一日の疲れを癒す最高のひとときが今であることは言うまでもない、まさに至福の時間。ともすれば眠気を誘うリラックス空間で、彼女はふと横を見る。
 同じ浴室には、体を洗っている長門有希の姿。ボディソープを含ませたタオルでぞんざいに体の汚れを洗っている彼女は、朝倉涼子にとってサポートするべき相手でもある。それは『涼宮ハルヒの観測』という役割においての話だが、ここ最近は一般生活のフォローもしているような状況だった。
「背中くらい流すよ?」
「いい」
 せっかく申し出てみたものの、長門有希は簡素な一言で断ってきた。長門有希の性格を考慮すればそういう風に断ってくることも予測できたし、となれば続く会話も途切れることもわかっている。
 湯船に浸かってのんびりしていた朝倉は、ただぼんやりと湯船に浸かっているだけになった。それはそれでかまわない。弛みきった気分のまま、話す話題もない、やることもない、となれば、人の体を模したインターフェースの特徴とでも言うべきか、視覚情報を優先させてしまう。
 つまり、自然とその眼差しは長門有希に注がれた。
 二人は、この惑星表面上の知的生命体の女性型のインターフェースで象られている。その体の作りに興味はない。互いに見られたところでどうということもなく。だからこそこうやって一緒に浴槽にいる。それでも個性を作る過程でできた差異というものがある。
「長門さん、体の線が細いわよね」
 弛んだ気分でいたせいか、視覚から飛び込んできた情報をそのまま言葉として口にする。そこに深い意味はまるでない……が、体を洗っていた長門有希の手が、ぴたりと止まったのだが朝倉涼子はそれに気付かない。
「もしかして、何か情報制御でもしてるの? あれだけ食べてれば、もう少し成長してもいいと思うんだけどな」
「……何の話?」
「へ?」
 温かな浴室の中で冷ややかに響く長門有希の声音に、朝倉は若干驚いた。何も考えずに出た言葉で、そういう反応をされるとは夢にも思っていなかったからだ。
 そんな朝倉涼子を後目に、長門有希は言葉を続ける。
「わたしは摂取した栄養が身体に及ぼすエネルギー変換率の調整は何も行っていない。故に身体の成長に変化がないのは、天然自然の摂理」
「あ……あ、そう……」
「わたしのことより」
 と、長門有希はちらりと朝倉涼子を見る。
「あなたは自分自身の体を心配するべき」
「え……って、どういう意味よ」
「そのままの意味。上腕および下半身全般における脂肪率は、肥満と称される一歩手前の危険水準にある。特に胸部に蓄えた脂肪は目に余る。緊急活動時の行動に支障を来す可能性が高い」
「ちょっ」
 並大抵のことなら素直に聞き入れるか受け流す朝倉だが、今の発言だけは聞き捨てならない。
「それ何? どういうこと? わたしがメタボとか言いたいの?」
「メタボリックシンドロームとは内臓肥満に高血糖、高血圧、高脂血症のいずれふたつの症状が合併した際に指す呼称。あなたのそれは単なる肥満」
「それって結局、わたしのことを肥満だーって言いたいんじゃない!」
「体型について言及したのはあなたの方。あなたがわたしの体型について述べたように、わたしもあなたの体型に対しての意見を口にしただけ」
 しれっと答える長門を前に、朝倉の胸中にはふつふつと黒いものがわき出てくる。だからなのか、ついつい口を割いて出てくるのは余計な台詞。
「ふーん、あっそう。でもあれでしょ? わたしの体型なんて平均的なものじゃない。別に太りすぎなわけでもないし。むしろ長門さんの方がガリガリじゃない。胸だってぺったんこだし」
 そんな言葉を口にした瞬間、桶が高速で顔面側を横切って壁に炸裂し粉砕した。
「ちょっと、危ないじゃない!」
「手が滑った」
「どこでどうすればあんな勢いで桶投げるほど手が滑るのよ!」
「石けんで」
「……もしかして長門さん、胸がぺったんこでそんな怒ってるの?」
 ものは試しに聞いてみたら、案の定、物凄い剣幕で睨まれた。
「何よ、結局ひがみじゃない」
「別にひがんでいるわけではない。わたしにはそこまで余分な脂肪は必要ない」
「身も蓋もない言い方するわね。だいたい、不要な脂肪じゃないわよ。ないよりはあった方がいいものでしょ」
「必要ない。わたしはいらない」
「そんなこと言って、めちゃくちゃ気にしてるじゃない」
「してない。あなたのようにたぷたぷあっても肩が凝るだけ。いらない」
「た、たぷたぷって何よ!」
「なに?」
 和やかだった風呂場での一幕は、一転、殺伐とした空気が漂い始めた。
 ………………
 …………
 ……
 と、まぁそういう話があったようだ。長門と朝倉は二人でいるときはそういうことをしているらしく、そこはかとなく羨ましく思うのは、健全な男子高校生なら当然のことだと思う……のだが。
「ええっと、話をまとめていいか?」
「何よ」
「つまり、おまえと長門はケンカしてるのか?」
「そうよ」
 朝倉は素直に頷いた。
「もう長門さん、許せない。いくらわたしがバックアップだからって、別に長門さんが上でわたしが下ってわけじゃないのよ? あくまでサポート的な役割なんだから。それなのに何よ、人のことメタボ呼ばわりして。言っていいことと悪い事ってあるじゃない!」
「ああ、わかったわかった」
 かなりご立腹らしい。どうやら俺の理解力は正常に働いていると見て間違いない。ってことは……。
「で、そのケンカの原因ってのが……つまりバストサイズのことで?」
「そ、そうよ」
 そこで照れられると、聞いたこっちも恥ずかしくなるからやめてくれ。
 とにかく、つまり長門と朝倉はケンカをしている。その理由は……えー、ぶっちゃけた言い方をすれば、巨乳か貧乳かってことで。
 ………………。
 頭が痛くなってきた。あまりのくだらなさに、正直泣きたくなってきた。そして何より、それでもまだ解明されてないことがある。
「おまえと長門がケンカしてるのはわかった。その理由がバストサイズってのも理解した。で? どうして俺をこんなところまで連れてきたんだ。さっぱり関係ないじゃないか」
「いくら長門さんでも、あんな横暴な真似は許せないでしょ! わたしが怒ったところで効果ないもの。でもあなたがちゃんと叱ってくれれば、長門さんだって改めるはずだわ」
 だから何で俺が。あれか? 俺は長門お父さんか? どうして俺が叱らなくちゃならないんだ。そもそも、俺にとっちゃどっちでもいい話じゃないか。
「とにかく俺を巻き込むな」
「……あなた、貧乳好き?」
 おい長門、このバックアップ壊れてるぞ。
「俺の趣味嗜好がどう関係するってんだ!」
「じゃあ長門さんの暴挙を見過ごせる? 友だちでしょ? ダメなことしたらダメって言ってあげるのが友情であり優しさってものじゃない!」
 何やら朝倉はかなりエキサイトしている。よほど腹に据えかねる出来事だったらしい。
「そういうわけで協力して。してくれるでしょ?」
 ニッコリ微笑んで、朝倉は人に無茶振りをしてくれやがった。その後ろに組んでいる手には、何かが握られていそうな憶測を抱かせるに充分な笑みを浮かべてな。
 だからこそ、俺が言うべき台詞はひとつしかない。
「お断りだ!」
「えぇ〜っ!」
 俺がそう言えば、朝倉は信じられないとばかりに黄色い悲鳴を上げやがった。そんな声を上げられた俺の方こそが信じられない。
「どうしてよっ!」
「どうしても何もないだろ! なんだって俺がおまえと長門のくっだらないケンカに巻き込まれなくちゃならないんだ!? 今でさえ、おまえに妙な態度のままに教室から引っ張り出されて、クラスの奴らから妙な目で見られてんだぞ? これ以上の厄介事に好きこのんで首を突っ込むバカがどこにいるってんだ!」
「厄介事じゃないでしょ? 長門さんのためになることだもの」
 朝倉はそんなことを言って人を懐柔しようとしてるみたいだが、そもそもの話の根本は……なんだっけ? 乳の大きさがどうのこうのってことじゃなかったか? どこに長門のためになる要素があるのかさっぱりわからん。
「だいたい長門の暴挙って、話を聞いた限りじゃおまえの余計な一言が原因じゃないか。むしろ叱られるのはおまえの方だろ。ああもう叱りたい。叱りつけてやりたい。いいからまずそこに正座しろ」
「く……っ」
 矢継ぎ早に圧倒してやれば、朝倉は悔しそうに歯噛みした。
「何よ、あなたまで。わたしが悪いの? ちゃんと胸があるのに、そんなにひんにゅ……こほん、長門さんの味方をしたいっていうの!?」
 何故そこを言い直す。そもそも長門だから味方するとか朝倉だから協力しないとか、そういう次元の話でもない気がするんだけどな。
 まったく、この場に長門がいなくてよかったと思う。本当にそう思う。心の奥底から神様に感謝したい。
「いいわ……もういい。そんなぺったん好きは、一歩間違えば犯罪に走っちゃうのよ! そうなってからだと遅いのよ、このロリコン!」
「おいこら」
 どうして貧乳好きがロリコンになって犯罪に走るんだ。そもそもどうして俺が貧乳好きのロリコンになっちまってるんだ? 誤解を招くようなことを口走らないでもらいたい。
「こうなったら、わたし一人で長門さんを改心させるわ。ええ、今日であなたと会えるのも最後になるかもしれないけれど、無事に戻って来れたときはわたしの味方になってね。さよなら!」
 そんな大袈裟な。何を狙って死亡フラグを立ててるんだ、こいつは。
「ちょいっと待った!」
 ああもう、今度は何だよ? 何処から飛んできた声が、朝倉を引き留めやがった。
「話は聞かせてもらったよっ! そういうことならあたしに任せときなっ!」
 無駄に気っ風のいいこの声は、まさかと思うがひょっとするんだろうか。そもそもどうしてここにいるのか、その理由を考えることから始めるべきか。
「……何をやってるんですか、鶴屋さん」
「キョンくん、そんなことを聞くのは野暮ってもんさっ!」
 野暮……なのか? どの辺りが野暮ったい質問だったのか理解できない俺は、もしかして世間との認識に致命的なズレがあるのかもしれない。いや、それはないな。
「とにかくっ! キョンくんがぺったん好きのロリコンで犯罪者一歩手前ってのはよぉ〜っくわかったけど、そこで諦めるのはまだ早いよっ!」
「…………」
 いったいこの人は何をどう聞いていたんだ? 俺自身の尊厳のために訂正するべきだろうか。聞く耳の持ち合わせはなさそうだが。
「とまぁ、冗談はそのくらいにして」
 冗談だったのか。そりゃ冗談でなくちゃ困るが、本当に冗談で言ってたんですよね、鶴屋さん。どこまでが本気でどこからが冗談なのか、さっぱりなのがこの人の困るところだ。
「あなたが朝倉涼子さん? みくるからよっく聞いてるよ」
「こんにちは、初めまして」
 鶴屋さんにそんな風に話しかけられて、朝倉は愛想良く挨拶を返している。朝比奈さんから聞いてるとは言うが、いったい鶴屋さんに何を吹き込んだんだろう。朝比奈さんのことだから、当たり障りのないことだと思うが。
「そいで、キョンくんが貧乳好きで困ってるわけだねっ!」
「そうなの」
「おい待て」
 鶴屋さん、それも冗談なんですよね? 冗談だと言ってください。そして朝倉、おまえは何を調子に乗って真顔で頷いてるんだ。
「いいかい、キョンくん。女性にとっての胸ってのは、単なる飾りじゃないのさっ! わずか一センチ、いやさ一ミリの差に喜怒哀楽のすべてが込められている神秘の箇所、それがおっぱいなんだよっ!」
「いや、だから……」
「偉い人は言いました、『貧乳はステータスだ』と。でもっ! ならばこそっ! あたしは言いたい! 巨乳は至宝、人類の宝なんだっ! だからキョンくん、貧乳は感度がいいとか言うけど、それって結局、個人差だから関係ないよっ!」
 ……もう、何て言うべきなんだ? そんな男の夢や希望を打ち砕くような、聞きたくもない情報を俺に伝えて、何がしたいんだこの人は。
 だいたい、そういう話は同性同士でやってくれ。そこに男の俺を巻き込むことに躊躇いとか恥じらいはないんだろうか。
「何言ってんだいっ! キョンくんが貧乳好きって言うから、こっちも恥を忍んでこんな話してるんじゃないかっ!」
「そうよそうよ!」
 気がつけば、鶴屋さんと朝倉はすっかり意気投合している。意気投合というよりも、一緒になって人をからかってるのかもしれない。この組み合わせは、もしかして最悪なコンビなんじゃないか?
「とか言っといてなんだけど、あたしたちもそこまでおっきいわけじゃないんだけどさっ。んー……平均よりちょっとあるかな? ないかな? ってくらいかもっ!」
「ん〜……それはそうかも。わたしも言うほど大きくないかもしれないわね」
 などと言いながら、二人揃って制服の上から両手で自分の胸を寄せ上げる、刺激の強いポーズを見せつけるのはやめてくれ。俺のことを路傍の石ころか何かと思ってるなら心外だ。そもそも男として見てないんじゃないか?
「おやぁ〜? なんだいキョンくん、そんなに人の胸元を凝視しちゃってさっ!」
 などと思っていたら、鶴屋さんが底意地が悪そうな笑みを浮かべてそんなことを言って来た。そんな強調されたら、いくらなんでも目が向くってもんじゃないか。
「んっふっふっ」
 この鶴屋さん、ヤケに蠱惑的な笑みを浮かべてくださる。
「キョンくん相手だったら、ちょこっとくらい触らせちゃってもいいかなぁ〜……」
「……えっ?」
 扇情的な台詞に、あり得ないと思いつつもつい反応したのが間違いだった。その瞬間、鶴屋さんは耐えきれないとばかりに表情を崩した。
「ぶわっはっはっはっ! やだなぁっ、キョンくん! いっくらサービス精神旺盛な鶴屋さんでも、さすがにそこまでしないって! マジになっちゃって、もーっ、カワイイなぁっ! うっはっはっ!」
 冷静に考えれば、そりゃその通りだ。いくら何でも鶴屋さんがそんな真似をするはずがない。ただそれでも、一瞬とは言え真に受けた自分が恥ずかしい。
 おまけに──
「男の人って単純ね」
 ──冷ややかな朝倉からの一言が、より一層、迂闊な自分の反応を恥ずかしくさせてくれやがる。
 さすがにそれで限界だ。遅いと言われるかもしれないが、もう付き合ってられない。
「ああもう、勝手にやってろ!」
 恥ずかしさ半分、怒り半分で、とにかく俺はその場から逃げ出した。これ以上、オモチャにされちゃたまらない。


「よく生きて戻って来れたわね」
 と、教室に逃げ戻った俺を待ちかまえていたハルヒは、剣呑な眼差しで人を睨みながら逃げ場なんぞどこにもないと悟らせる。俺の人生、行く先は常に前途多難か。どこで道を間違えたんだろうなぁ。
「そうじゃないって」
 せめてこれ以上の修羅道を突き進むことがないように、俺はハルヒにだけは誤解を与えないようにと弁明を試みることにした。
「どうやら朝倉と長門がケンカしてるみたいでな。朝倉のヤツ、俺に長門を改心させる手伝いをしろと言いたかったらしい」
「有希と朝倉がケンカ?」
 それはハルヒにとっても意外に思うことだったらしい。だら〜っと腑抜けた態度で机に頬杖を突いて支えていた上半身を、やおら持ち上げて食い付いてきた。
「あの二人、ケンカするほど仲良かったのね」
「同じマンションに住んでるからな」
「そういえばそうだったわね。ふーん、ケンカねぇ。あの有希が人と衝突するなんて珍しいわ。朝倉のヤツ、何をしたのよ」
「どうでもいいような話だぞ?」
「ケンカしてるってことは、あの有希が怒ってるってことでしょ? それだけで朝倉が何をやらかしたのか気になるじゃない」
 確かに常日頃の長門を知ってるヤツからすれば、あの長門を怒らせるようなこととはいったい何かと気になるのは当然かもしれない。だからここは、素直に白状することにした。
「胸のサイズが大きいだの小さいだの、そんな理由らしい」
「……は?」
 俺が素直に答えてやったというのに、ハルヒは冬場に外でアイスを食べているヤツを見るような目で俺をマジマジと睨み付けてくる。そんなにおかしなことを言ったつもりはないし、事実を端的に告げただけなんだが。
「何それ? バカじゃないの?」
「俺もそう思う」
 だから最初に言ったじゃないか、どうでもいいような話だと。
「なんか聞いて損したわ。それにしても有希がそんなことで怒るなんてね、ちょっと意外」
「まぁ、でもあれなんじゃないのか? 男にはよくわからんが、バストサイズってのは女性にとって気になるもんなんだろ?」
 と言ったら、思いっきり睨まれた。なんだその殺し屋みたいな目つきは。
「何あんた、巨乳好きなの?」
「アホか」
 どいつもこいつも、人の趣味趣向を勝手に捏造するな。どうだっていいだろ、そんなことは。
「胸が大きくたってね、喜ぶのは下心丸出しの男だけ。女にしてみたら、大きくたって百害あっても一利すらありゃしないわ」
「へぇ」
 そういうもんなんだろうか。男の俺にはわからん話なので気のない返事をしたのだが、ハルヒはより呆れ果てた表情を浮かべて見せた
「あんたね、ちょっとは考えてみなさいよ、女の立場になって。胸が大きくたって邪魔だし肩は凝るし、電車に乗れば痴漢に目を付けられる、そうでなくたってあんたみたいな下心丸出しのヤツが喜ぶだけだわ。なんでそんなサービスしなくちゃならないのよ」
 えらく辛辣なコメントだが、何故だろう、言い返す言葉が見つからない。女性にしてみれば、確かにそういうもんかもしれないな。
「そもそも胸の大きさなんて、セックスアピールくらいでしか使い道ないわ。そんな媚びるような真似してどーすんのよ。むしろ女にとって大事なのはウエストとふくらはぎね」
 などということを、ハルヒは自信満々の得意満面で断言した。
「お腹まわりの肉ってあっという間に付くし、落とすに落ちないし。おまけに足はすぐむくんじゃうしさ。去年まで履けてたパンツやブーツが、今年になって履けなくなったときの恐怖、あんたにわかる?」
 まるでわからん。というよりも、ハルヒがここまで力説するってことはあれか、何かしら身につまされる思いでもあるんだろうか。
「うっ、うっさいわね! 女の魅力を胸の大きさでしか計れないヤツにそんなこと言われたくないわよ! あたしが知らないとでも思ってんの? いーっつも部室でみくるちゃんの胸元を鼻の下伸ばしてチラ見してんじゃない!」
 おいこら、人聞きの悪いことをデカイ声で喚くんじゃない。クラスの奴らこそ、こっちをチラ見してんじゃないか。
「そりゃ、目立つところに視線が集まるのは当然だろ。おまけに朝比奈さんは何も胸だけじゃない、均整の取れたプロポーションを前に、おまえは見るなと言うつもりか。だいたいウエストが重要とか言っときながら、いっつも朝比奈さんの胸を揉みほぐしてるのはどこのどいつだ」
「はっは〜ん、ボロを出したわねキョン。やっぱりあんた、機会があればみくるちゃんの胸を触りたいとか揉みたいとか挟んでもらいたいとか思ってんでしょっ!」
 挟むって、何をだ? 何を喚いてるんだ、こいつは。
「いやだから、俺は別に胸の大きさで女性の良し悪しを決めてるわけじゃないって。ただそれでも、大は小を兼ねるというか、ないよりはあった方がいいに決まってるじゃないか」
「……そう」
 地を這う澱んだ空気のような声音で俺の言葉に頷いたのは、けれどハルヒの声ではなかった。真横から聞こえた不穏な声音におそるおそる顔を向ければ、そこにいたのは──。
「な、長門っ!?」
 ここは二年五組の教室であり、長門の教室はここではない。何より長門がやってくることはほぼ皆無であり、ここに居ることそのものがイレギュラーな出来事だ。
「なんでおまえがここにいるんだ!?」
「これ」
 長門が手に持っていたのは、どこかで見たことがあるような、ないような、飾り気のないペンケースだった。
「あ、それあたしの」
 ああ、そうだ。それはハルヒのペンケースだ。って、どうしてそれを長門が持ってるんだよ。
「部室に置いてあった。忘れ物」
「持ってきてくれたの? ありがと」
 おいちょっと待て。ハルヒが部室に忘れ物して、それを長門が届けるのがこのタイミング? どんな悪意あっての偶然だ、これは。
「…………」
 ハルヒの忘れ物を届けに来た長門は、それですぐに帰ればいいものを、これまた痛みを感じるくらいに冷ややかな眼差しをジーッと俺に向けてくる。ペンケースを渡して所在なく中途半端に浮かせていた手を、何を考えているのか自分の胸元に当ててさえいる。
「そう」
 多くを語らず、故に万の言葉よりも重い一言を残して、長門は幽霊よりも覇気のない足取りで教室を出て行った。
「…………なぁ、ハルヒ」
「なに? あ、今日あんた、放課後はちゃんと部室に来なさいよ。無断でサボったら、ただじゃ済まさないからね」
 ハルヒが容赦のないヤツだということを、身につまされて思い知らされた。


 放課後なんて来なければいいと、翌日に運動会を控えた足の遅い小学生のような気分で午後の授業を過ごす羽目になった。ストレスで胃に穴が空いてもおかしくない。文字通り穴が空いて、胃酸が体全体を蝕むような……あー、イメージしたら気分が悪くなったのでやめておくが、とにかく、そのくらいのプレッシャーを俺は感じていた。
 放課後になって部室に行って、果たして俺は無事に帰宅することはできるんだろうか。どうにも俺は、余計な軽口のせいで長門の機嫌を損ねさせてしまったような気がする。
 ……いや。
 いやいや、冷静になって考えてみよう。俺は『誰』と名指しで胸の大小について語ったわけではない。単に「小さいよりも大きい方がいいよねー」的なことを一般論的に述べただけであって、長門の胸がどうのこうのと言ったわけではないのだ。
 そうさ。それで長門が気にする必要はないじゃないか。むしろ、そんな戯れ言で気にするということは、それは暗に、自分でナイチチだと認めていることになるんだ。だから長門が俺の言葉で何かを思うはずもない。ああ、そうさ。
 ……ダメだ、自分自身に対する慰めにもなってない……!
 そんな出口の見えない迷路を彷徨っているような絶望的な気分で自問自答を繰り返していると、いつの間にか放課後になっており、俺は重い足取りのまま部室へ向かわねばならない状況になっていた。
 朝倉のことは知らん。ハルヒも何か言ってた気がするが気にしてない。
 とにかく、放課後に部室で長門と顔を付き合わせたときにどうするか、ってことだけを考えて今に至っている。
「はぁ〜……」
 これといった打開策も見つからないまま、俺は部室棟の階段をとぼとぼと上っていた。まさにこれは十三階段みたいなものか……と、思っていたのだが。
「ひゃわわわ〜っ!」
 階段を上っている最中に響き渡る黄色い悲鳴。この声は朝比奈さんじゃないか? もしやハルヒにまた何かやられているのか……と考え、「いつものことか」と思う自分も場慣れしすぎて感覚が麻痺しているようだ。
 ……いや、もしかすると本当に切羽詰まった緊急事態なのかもしれない。
 そうとも、悲鳴が聞こえて驚いたり慌てたりするのが正常であって、呆れたり流したりするのは間違っているじゃないか。何より朝比奈さんの悲鳴なんだ、放っておけるものか。
「どうしました、あさひ」
「きゃああああっ!」
 勢いよく部室のドアを開けた瞬間、更なる悲鳴とともに俺の視界を覆ったのはヤカンだった──と認識する間もなく。
「ふごっ!?」
 避ける間もなく顔面にクリティカルヒットした。中身が空だっただけまだ被害も少ないが、不意の一撃に目から火花が散ったのは言うまでもない。
「入って来ちゃだめですーっ!」
 朝比奈さんのそんな台詞が耳に届いた。バタン、と勢いよき閉ざされるドアは、天の岩戸よりも堅牢そうだ。その刹那に辛うじて見えたのは、メイド服をはだけさせた半裸状態で半泣き状態の朝比奈さんだった。
 いったい中で何が繰り広げられていたんだ? またハルヒが朝比奈さんに無茶なコスプレでもさせようとしていたのか?
 ヤカンの直撃を受けて物理的に痛む額と、中で繰り広げられている痴態の惨状を思って呆れ果てて痛む頭を押さえつつ、一瞬見えた朝比奈さんの姿を脳内のメモリーに保存しながら待つことしばし。
「ど……どうぞ」
 朝比奈さんが、若干俯き気味で頬を朱色に染めながらドアを開いた。
「ご、ごめんなさいキョンくん。急なことでつい……大丈夫だった?」
「またハルヒに無理難題でも吹っ掛けられたんですか?」
「いえ、それが……」
 躊躇いがちに言葉を濁らせ、ちらちらと室内を気にする朝比奈さん。やはり密室で何かされかかったんだろうと安易に予想させてくれるが、しかし室内にハルヒの姿はない。
 そこにいたのは、長門だけだった。その長門が、何かを授かろうとしているように両手を中途半端に掲げて佇んでいる。呆然として……いるのかもしれないが、いつもがいつもなだけに、どうにも判断できない。
「あー……何事ですか、いったい」
「それがその……な、長門さんが……」
 朝比奈さんはやけにモジモジしている。口にするのも阻まれるというほどに躊躇いがちで戸惑っている。
「長門が……どうしたんです? ってか、何ですかあれは」
「長門さんが……その、涼宮さんみたいになっちゃったんですっ!」
 朝比奈さん的には『意を決して』という勢いなのだが、言われた俺は「はぁ」と答えるしかない。長門がハルヒみたいって、何がどういう意味ですか。
「で、ですからその……えっとだから……」
「んん?」
 モジモジしている朝比奈さんは、けれど決心が付いたのか、キッと表情を引き締めて顔を上げて俺を見る。
「わかりました、すべてお話します」
「そ、そうですか」
 これはそこまで深刻な話なんだろうか。俺も居住まいを正し、固唾を呑んで朝比奈さんの言葉を待ってみれば──。
「長門さん、あたしがいつものお洋服に着替えるときからずっと見てて」
「ふんふん」
「制服を脱いで着替えのお洋服を取ろうと手を伸ばしたときに……」
「ほうほう」
「と、突然あたしの……む、胸を……その、ぎゅっと鷲づかみにしてきたんですっ」
「……は?」
「それもその、後ろから強引に抱きついてきて、羽交い締めにされちゃってその、つい悲鳴が出ちゃったところにキョンくんが入ってきて、だからつい、手元に転がってたヤカンを投げつけちゃって……ご、ごめんね、大丈夫だった?」
 そんなことはどうでもいい。それもよりも……えー……長門が朝比奈さんの胸を鷲づかみ? そりゃ確かにオブラートに包んだ言い方をすれば『ハルヒになった』と言う表現が一番だろうが……長門が朝比奈さんの胸を鷲づかみ!?
 同じ台詞を反すうしてみるが、それでもやっぱり意味がわからない。わからない、というよりも、なんだってそんな真似を長門がしたのか、理由がまるで思い至らない。
「何やってんだ、長門」
「ここ連日、わたしの身の回りで体型、特に乳房に関する話題をよく耳にする」
 乳房っておい……。
「わたしの体型は、同年代の女性体に比べて発達が比較的遅れていると認めざるを得ない。それはあなたも認めていること」
「え? ……いや、いやいや、ははは、そんなことは別に……」
 俺の脳裏では、教室での一幕が蘇っていた。ハルヒとそれとなく話していた胸の話題を長門に聞かれて、少なからず気にしているんじゃないかと思っていたのは事実だ。それがこういう形で発露されているとは思わなかったが。
「今の間が暗黙の内に同意していると判断する」
 ぎくっ、と身が縮む思いがした。即座にこの場から逃げ出すべきかもしれない。
「いい。そのことは事実として認める。何より、あなたが巨乳好きなのは誰もが認めるところ」
「おい」
 そんなことを真面目な顔つきと声音で淡々と言わないでくれ。俺の人間性が疑われる。
「……貧乳好き?」
 だから、真顔でそんな恥ずかしい質問をするんじゃない。
「キョンくん……」
 冷ややかな朝比奈さんの声音が耳に届いた。
「や、違います。違いますよ、朝比奈さん。朝比奈さん?」
「で、ですよねー……キョンくんがまさかそんな……まさか、ですよね?」
 とか言いながら、それとなく俺から離れていく朝比奈さんの態度は正直だと思う。正直すぎて涙も出やしない。
「で、何で朝比奈さんの胸を鷲づかみにしてんだ?」
「わたしの胸が小振りなのは認めざるを得ない事実。そのことで憤ることは容易いが、けれどわたしは、受け入れて自らを成長させようと思う」
 前向きだな。
「そのためには、存在する希少品を直に触れることが重要だと考えた」
 まぁ……朝比奈さんの体型は、そこいらに転がっているような体型ではないってことは認めるが……希少品っておまえ、ものじゃないんだから。
「結果、わたしは初めて知った。生み出されてから四年間、有機情報を伴ったままで宇宙の真理に触れたと言える」
 どこかしら夢うつつを彷徨うような面持ちで、長門はしきりに感動している……ように見えた。この宇宙人は何を言ってるんだろう。客観的にはいつも通りに淡々と語っているように見えるから、どうにも判断できないが……いったい何があったんだ?
「結論を述べれば」
 長門は何かを思い返すように両手をわきわきとさせながら──。
「朝比奈みくるの胸のように、わたしはなりたい」
 ──夢見る乙女がトップスターのアイドルに憧れるように、長門はそう言った。
 まるでヒトザルがモノリスに触れて何かしらの悟りを得たときのように、長門はよほど朝比奈さんの胸の感触に開眼する何かを感じたようだ。
 けれど忘れてならないのは、モノリスってのは善悪関係なしの道具であり、進化を促すモノリスがあれば、人類を滅亡させるモノリスもあるってことだ。ハードカバーのSFを手当たり次第に熟読している長門なら、そのことも理解してるはず。それをどう思ってるんだろうな。
「それに比べて、確かにわたしの胸は小振りで慎ましい。自らの胸に触れても、驚きと感動を味わうことができなかった」
 どうも思ってないようだ。感動しきりで、こっちの話さえ聞いているのかどうかも疑わしい。
 はぅ、とため息……ため息? よくわからんが、一息吐いて、長門は伏し目がちに俺を見る。
「これでは、あなたが触れても喜べない」
「触ったことないだろ!」
「キョンくん……長門さんとそんな関係に……?」
「触ったことも見たこともありません」
 だから、さらに俺から距離を取ろうとしないでください朝比奈さん。俺のピュアでナイーブなハートは、それだけでズタボロになりますから。
「とにかく。長門、そこまで言うなら……何というか、おまえなら体型くらいどうにでもできるんじゃないのか?」
 朝倉とのバトルで体中に槍っぽいもので串刺しにされても、すぐ元に戻ったんだ。元に戻すことができるなら、変形変化させることも容易いんじゃないだろうか。
 そんな疑問をぶつけてみれば、長門は冷ややかな眼差しを俺に向けてきた……ような気がする。
「同じサイズのダイヤでも、人工物と天然物では価値が違う」
 わかるようなわからないような喩えだま。どうやら長門的に、情報操作云々で胸のサイズを操ることで巨乳になっても意味はない、と言いたいらしい。
「仮に朝比奈みくるの胸に人工的な詰め物で意図的に増量されていたと判明すれば、あなたは壊滅的な絶望を味わうはず」
「そうなんですか朝比奈さん!?」
「ちっ、違います! あたしは天然で……て、てん……はぅううぅぅうう〜……と、とにかく、勝手にこんなサイズに……その、なったんですっ!」
 思わず言い返したはいいが、途中で照れるのがいかにも朝比奈さんらしい。どうやら天然自然にその素晴らしいプロポーションを得ていることだけは、紛れもない事実のようだ。
 だがしかし、長門の言葉を一瞬とはいえ真に受けて、実際に朝比奈さんのプロポーションが全身整形によるものだとすれば……ふむ、なるほど。整形について全否定するつもりはないが、かと言ってそこはかとない寂しさを感じてしまうのも事実。長門が情報操作云々で体型を変えないことにも頷ける。
「じゃあ、だったらおまえはどうしたいんだ? 朝比奈さんにバストアップの秘訣でも聞きたいのか?」
「きょ、キョンくんあの……さり気なく無茶な話を振られたって、あたし、そんなこと知らないですよ……?」
「問題ない」
 戦々恐々としている朝比奈さんだが、けれど長門は「手助け無用」とばかりに首を横に振った。
「わたしは効率的かつ確実な豊胸技術を把握している」
 さすが長門だ。そんなことまで把握しているとは、万能宇宙人の二つ名は伊達じゃない。まぁ「そんな無駄知識をどこで仕入れた」と呆れたことはこの際だ、黙っておこう。
「で、その方法って?」
「揉んで」
「はわわわ〜っ!」
 さり気なく制服の上着を脱ごうとした長門を、朝比奈さんが必死になって食い止めた。これはそろそろ朝倉か、最悪喜緑さんに引き取りに来てもらった方がいいかもしれん。そう思えてしまうほど、頭の痛くなる発言をさらりと言い放ちやがった。
「キョンくん、やっぱり長門さんとそんな関係になっちゃってるんですかぁっ!?」
 いや、ですから朝比奈さん、長門を押さえながら愕然とした面持ちで俺を見ないでください。そんなこと、やりませんしやったこともありません。
「あのな、長門。そんな俗説を信じてどうすんだ? それで胸が大きくなるわけないだろ。だったらこの世にバストサイズで悩む女性はいなくなるじゃないか」
「俗説ではない」
 ほう、やけに自信満々だな。
「そこに、歴史に裏付けられた確固たる実績がある」
 と言って無貌のままに長門が指さしたのは朝比奈さんだった。正確性を問うのであれば、ピシッと指さす手の先は、朝比奈さんの胸元を射抜いていた。
「なっ、なななっ、何言ってるんですか長門さん! 変なこと言わないでくださぁ〜いっ!」
 朝比奈さんは胸元を両手で隠しながら真っ赤になって反論しているが……ん? それはつまり、朝比奈さんの胸は揉まれて大きくなったと長門は言いたいのか? ってことは……?
「朝比奈さん、いったいどこのどいつに揉ませてるんですか!?」
「もっ、揉まれてないですってば!」
「涼宮ハルヒに揉まれてる」
 必死に否定する朝比奈さんを前に、一瞬にして沸点を突破しそうになった俺の頭の血を、けれど長門の一言が冷ましてくれた。
「あー……それだと否定できないです……」
 確かにハルヒが朝比奈さんの胸を揉みし抱いている現場は、これまで幾度となく目にした日常風景だ。朝比奈さん自身もそれがわかっているのか、素直に認めた。
「昨年の出会いから今日に至る間、朝比奈みくるのバストサイズはわずかながらも確実にアップしている。目視のみならず、直に触れることで確信した」
 どうやら長門の手はメジャーにでもなってるらしい。
「それに伴い、揉まれることでバストサイズが大きくなることも実証されたと言える。だから揉んで」
「だめーっ! ダメです、だめだめっ! 長門さん、ダメですってばーっ!」
 懲りずに制服の上着をはだけさせようとする長門を、朝比奈さんはなおも必死に、かつ、いつになく俊敏な動きで抑えつけた。助かったのは言うまでもなく、ナイスフォローだと賞賛したい。
 もしあのまま長門が服を脱いで迫ってきたら、さすがの俺でも理性的にも物理的にも道徳的にも倫理的にも拒否できそうになかっただろう。男とはそういう生き物なのだよ。
「何やらお困りのようですね」
 困窮極まったこの状況、これ以上の混乱は避けたいと願うのは俺でなくとも思うところだろうが、それでもここはSOS団の拠点となっている部室であり、俺と朝比奈さんと長門の三人しかいないのなら、残る一人も遅ればせながらやってくるのは自明の理というヤツである。
「話はおおよそ聞かせていただきました。なるほど、胸、ですか」
 ふふふ、と笑い声を転がしながら現れた古泉だが、これまでの話をこっそり聞いていて何のリアクションも起こさなかったってのは趣味が悪い。そもそも、あんな話を聞いていて、よく笑っていられるな。あらゆる意味で危ない人みたいだからやめた方がいいと、老婆心ながら忠告してやろう。
「肝に銘じておきましょう。しかしながら長門さん」
 肝に銘じるわりには軽く受け流しやがったな、おまえ。
「事ここに至り、胸で宇宙の真理を垣間見るとは、いささか落胆の色を隠せません」
 これ見よがしにため息を吐いて、古泉はガックリと肩を落とした。確かに朝比奈さんの胸を直に触って感動しきりの長門なんて見れば、誰だって落胆する……というか、呆れ果てて二の句が継げなくなるってもんだ。
「よろしいですか、長門さん。真に着目すべきはバストではありません、ヒップなのです」
 おまえは何を言ってるんだ?
「女性の胸は喩え衣服を身につけていてもふくらみがわかるものですが、ヒップはそうではありません。特に女性なら、スカートを身につけられてしまうと判別しにくくなってしまいます。それだけに胸よりも秘匿性の高い神秘の箇所と言えるでしょう」
 言いたいことは……まぁ、理解してやるか。確かに北高の制服だって、女子のセーラー服は、裾が若干広がり気味のボックススカートと言えなくもない。
「ご存じですか? 米国では背中のことを『Back』と言います。また、ヒップのことも『Back』と称するのです。英語の捨て台詞で『背後に気をつけろ』と言われれば、そこには暗に二通りの意味があるかもしれませんね」
 そんなスラングに絡めた豆知識なんぞいらん。
「いえいえ、これが重要なのです。つまり、ヒップというはお尻だけを見るものではありません。背中のラインからヒップ、そして足に至るまでを見るものなのですよ。その曲線美はまさに神が作りたもうた芸術と称して申し分ない。そうは思いませんか」
 俺に同意を求めるな。だいたい、おまえが尻だのなんだのと騒ぐのは、妙な勘繰りをされそうだからやめた方がいいぞ。
「なんと……あなたにもご理解いただけないとは、悲しい限りです」
「今のおまえの熱弁で激しく同意するヤツがいるのなら、申し訳ないがそいつと俺は友だちになれそうにない」
「なるほど。つまりあなたは、女性の魅力を胸に求めているということですね?」
「そりゃまあ、どっちかって言えば胸の方に目が行くだろ。やっぱりこう、胸のふくらみっていうのは男にはないものだし、母性の象徴でもあるわけで、そこに浪漫と感動を感じるのは男として正常な反応だと、」
「ほぉう」
 つい古泉の論弁に熱を込めて反論してしまったが、それが間違いだったらしい。ドスの利いた冷ややかな声が、声量とは裏腹に万里の果てまで響くように耳に届いた。
「は、ハルヒ!? いつの間に……」
「まぁ、男同士、猥談するのはよしとしましょう。高校生の男子だもの、そういうものだとあたしも理解してあげる。でもね、キョン。あんたは……有希やみくるちゃんの前でおっぱいのことを熱く語るなんて何考えてンのよ、このヘンタイがーっ!」
 その瞬間、豪速で振り下ろされたカバンが、ハルヒの怒りも含んで俺の腹に突き刺さった。


 ひでぇ目に遭った。どんな目に遭ったのかと言うと、筆舌に尽くしがたいほどに凄惨な出来事に見舞われた。それでも生きて帰宅の途に着くことができたのは僥倖としか言いようがない。
 それにしても、どうして糾弾されるのは俺だけなんだ? 朝比奈さんはわかるとしても、同じようなバカ話をしていたのは長門も古泉も同じじゃないか。なのにハルヒめ、親の仇を追いつめるように俺だけを槍玉に挙げやがって。理不尽なことこの上ない。
 とぼとぼと自宅へ向かう帰り道。明日になれば今日の出来事すべてがリセットされて平穏無事な一日になっていて欲しいと願わずにはいられない。
「……でー」
 とぼとぼと、気分さえも落ち込み気味で明日こそ文字通りの明るい日になってくれと願いながら帰り道を急ぐ俺の横には、何故か長門がいた。
「なんでここまで着いて来てるんだ?」
 いつもなら、長門が思惑不明な行動に出ていても信頼してさほど気にしないのだが、今日ばかりはわずかに警戒してしまう。部室に引き続き、往来のど真ん中でさえ「揉んで」と迫ってこられても対応に困るだけだ。
「しない。部室でのことは、わたしも大人気なかった」
 と、実年齢四歳になるかならないかという長門は反省しきりである。逆を言えば、長門が反省してしまうほど、俺の身に降りかかってきた惨状は容赦なかったとご理解いただきたい。
「じゃあ何で着いて来てるんだ? マンションはこっちじゃないぞ?」
「今日はうちでご飯の日」
「ん? ああ……」
 前回の一件以来、朝倉から夕飯を食べてくれと懇願されてからというのも、俺は決められた日に長門の家を会場に夕飯をご馳走になっている。さすがに毎日夕飯をご馳走になるのは気が引けるし、何よりこっちの家族の目もある。なので週に一度か二度、決められた日にご馳走になってるわけだ。
 もちろんただで喰ってるわけじゃない。それなりにこっちの意見も伝えている。もっとも、俺は著名な料理評論家でもないので的を射たコメントなんてできやしない。せいぜい、自分の好みで適当な感想を述べているにすぎないのだが、朝倉もそれでかまわないようだ……が。
「今日は勘弁してくれ」
 さすがに散々な目に遭った日くらいは家でゆっくり心の傷を癒したい。そもそも、今日の騒動の発端は朝倉じゃないか。とてもじゃないが、あいつを前に心穏やかに料理を味わうことはできそうにないぞ。
「それに、長門は朝倉とケンカしてたんじゃないのか?」
 だからバストサイズの話題が出てきて、結果、俺がこっぴどい目に遭ったわけだ。なのに長門は、俺が言ってることを理解できてないかのように小首を傾げてみせた。
「そのような事実はない」
「あれ?」
 ちょっと待て。だったら朝倉が言ってたことはどうなるんだ?
「昨晩、朝倉涼子と入浴を共にしたのは事実。その際、交わされた会話は……」
 こんな感じだったらしい。
 ……
 …………
 ………………
「んー……っ!」
 体の汚れを洗い落としている長門有希の耳に届いたのは、先に湯船に浸かっている朝倉涼子の弛みきった声だった。髪をタオルでまとめ上げ、体を大きく伸ばして『この世の至福』とばかりに幸せそうな表情を浮かべている。
「背中くらい流すよ?」
 そんな朝倉涼子から投げかけられる声。
「いい」
 端からその気があるとは思えない声音に、長門有希は間髪入れずに断った。にもかかわらず、背後からは何やら視線が注がれているような気がしてならない。
「長門さん、体の線が細いわよね」
 あえて気にしないようにしていたのだが、朝倉涼子の方から弛みきった声のままでそんな言葉を投げかけてきた。
「もしかして、何か情報制御でもしてるの? あれだけ食べてれば、もう少し成長してもいいと思うんだけどな」
「……何の話?」
 彼女が何を思ってそんなことを言い出したのか、どうにも理解できない。不思議に思って問い返してみれば、何故か朝倉涼子の方こそも驚いたような表情を浮かべている。
 いったいどうしたのだろうかと考え、長門有希は投げかけられた言葉を改めて反すうしてみる。どうも自分の体型を指して、何かを聞きたいのかもしれない。
「わたしは摂取した栄養が身体に及ぼすエネルギー変換率の調整は何も行っていない。故に身体の成長に変化がないのは、天然自然の摂理」
「あ……あ、そう……」
 懇切丁寧に説明したつもりなのだが、朝倉涼子はどうにも引き気味だ。自分の説明の仕方が悪いのかとも思ったが、それ以上の言葉は見つからない。
「わたしのことより」
 長門有希は別の可能性を考える。もしかすると、朝倉涼子は彼女自身の体型についての意見を求めているのかもしれない。
「あなたは自分自身の体を心配するべき」
「え……って、どういう意味よ」
「そのままの意味。上腕および下半身全般における脂肪率は、肥満と称される一歩手前の危険水準にある。特に胸部に蓄えた脂肪は目に余る。緊急活動時の行動に支障を来す可能性が高い」
「ちょっ」
 やはり朝倉涼子は自分の体型について何かしらの意見を求めていたようだ。必要な情報を言語で可能な限り正確に伝えれば、息を呑むように言葉を詰まらせた。
「それ何? どういうこと? わたしがメタボとか言いたいの?」
「メタボリックシンドロームとは内臓肥満に高血糖、高血圧、高脂血症のいずれふたつの症状が合併した際に指す呼称。あなたのそれは単なる肥満」
「それって結局、わたしのことを肥満だーって言いたいんじゃない!」
 事実を客観的に述べられ、彼女の思考に何かしらの葛藤が芽生えたようだ。言葉の端々に、こちらの意見を認めないような言葉を含ませている。これはやはり、しっかりと現実と向き合わせるしかないと長門有希は考えた。
「体型について言及したのはあなたの方。あなたがわたしの体型について述べたように、わたしもあなたの体型に対しての意見を口にしただけ」
「ふーん、あっそう。でもあれでしょ? わたしの体型なんて平均的なものじゃない」
 長門有希が幾度に渡り言葉を重ねても、朝倉涼子は現実を事実として受け入れられないらしい。何かいいわけめいたものを口にし始めた。だとすればこちらもこれ以上、あれこれ言うこともあるまい。話を聞かない相手には、何を言っても労力ばかりを消費する。
 長門は朝倉涼子の言葉を耳に入れつつも認識しないように──有り体に言えば聞き流しながら風呂桶で体を包む泡を流そうとして。
「あ」
 指先から、つるっと風呂桶がすべった。落とす前に掴み直そうとするが、けれどそれが災いしたのか、何の偶然か勢いよく弾く結果となってしまった。
 ばごんっ! と音を立てて、桶が高速で壁に炸裂し粉砕してしまった。
「ちょっと、危ないじゃない!」
「手が滑った」
「どこでどうすればあんな勢いで桶投げるほど手が滑るのよ!」
「石けんで」
「……もしかして長門さん、胸がぺったんこでそんな怒ってるの?」
 事実をありのままに告げただけなのに、朝倉涼子はそんなことを言い出した。風呂桶を飛ばしてしまったことは悪いと思うが、けれどどうしてそれがバストサイズの話になるのかわからない。
「何よ、結局ひがみじゃない」
 長門有希が首を捻っていると、朝倉涼子はさらに言葉を重ねてくる。どうしてもバストサイズの話題を続けたいようだ。
「別にひがんでいるわけではない。わたしにはそこまで余分な脂肪は必要ない」
「身も蓋もない言い方するわね。だいたい、不要な脂肪じゃないわよ。ないよりはあった方がいいものでしょ」
「必要ない。わたしはいらない」
「そんなこと言って、めちゃくちゃ気にしてるじゃない」
 長門にしてみれば、むしろ朝倉涼子の方こそ気にしているとしか思えない。
「してない。あなたのようにたぷたぷあっても肩が凝るだけ。いらない」
「た、たぷたぷって何よ!」
「なに?」
 何をそんなに憤っているのか、長門有希はさらに首を捻ることになった。
 ………………
 …………
 ……
 と、長門の視点で語るとそういうことになっているようだ。確かに二人が口にしている台詞はまるで変わってないのだが、又聞きで話を聞いてるこっちとしては、話が含んでいるニュアンスはがらりと変わっている。この違いはどうなってんだ? 俺はとにかく、朝倉から聞いていた話を長門に伝えることにした。
「なんと」
 どうやら朝倉の話は長門にとってもビックリだったらしい。
「彼女の方こそが余分なぜい肉に悩んでいると思っていた」
「そうか」
 いろいろ思うところはあるのだが、ここはあえて何も言わない方がよさそうだ。さすがの俺でも学習はするんだよ。
「どうもお互いに誤解があるようだな。仕方ないな、そこのところをはっきりさせておくか」
 このまま放置する方がいいのかもしれないが、そうすると明日もまた今日みたいなことになる可能性が残る。それだけは何としてでも回避したいし、不安の種は芽吹く前に土ごとえぐり取っておくのが賢い選択ってもんだ。
 本当ならこのまま家に帰るつもりだったのだが、俺は仕方なく長門のマンションへ向かうことにした。長門はそれで満足したのかわからんが、その後は一言も喋らずに自分の部屋へと向かって、てくてく歩く。
 このとき、いつもの晩餐会場は長門の部屋なのだ。飯を作るのは朝倉なんだから、朝倉の部屋でもいいんじゃないか? それとも、それができない理由でもあるんだろうか。
「長門さん帰ってきた〜?」
 ここは長門が住まいとしているマンションの一室だから、当然俺より先に長門が中に入る。が、何故に家主の長門が今まさに帰ってきたというのに、部屋の中から朝倉の声が聞こえるんだ? 不法侵入で訴えてもいいんじゃないだろうか。
 そんなことを素直に疑問に思う俺だが、長門はあまり気にしてないらしい。掛けられた朝倉からの呼びかけに応えず、そのままリビングに向かって歩いていく。俺もその後に続くことにした。
「長門さん、三年の鶴屋さんて知ってるでしょう? その人からこれ聞いて、」
 と、長門ががちゃりと開けたリビングの先にいた朝倉が言葉途中で固まった。かくいう俺も固まった。平然としていたのは、長門くらいだろう。
 今の現状をありのままで言うのなら、朝倉が長門の部屋のリビングで上半身裸になって、どこぞのショップで買ってきたばかりなのだろう、袋から取り出したばかりのブラを試着してみようとしているところだった。
「…………」
「…………」
 ここは気の利いたコメントか、それとも慌てて逃げ出すべきか、どっちとも着かずに唖然としていたのが間違いだったのか。
「ぅおっ!?」
 いったいどこから取り出したのか、確実に致命傷になるであろう箇所を狙ってナイフが飛んできた。幸いにして長門が超反応を見せて自分のカバンを盾にしてくれたから大惨事にはならなかったのだが、一歩間違えれば俺はこの世にいなかったかもしれない。
「何しやが」
「きゃあああああああっ!」
 最初にナイフを投げつけてから悲鳴というのが、いかにも朝倉らしい。が、それならそれで悲鳴だけで終わってくれと思うのだが、立て続けにナイフが雨のように降ってきた。これはさすがに長門でも防ぐのは難しそうだ。
 俺が脱兎の如くリビングから逃げ出したのは言うまでもない。命があって、本当によかったと思う。


「まったく、来てるなら来てるって言ってよね」
 ようやく冷静さを取り戻した朝倉だが、それでもまだご機嫌ナナメ状態を維持し続けていた。ナイフこそ飛んでこないものの、怒りが収まってないのは見ていてわかる。
「そっちこそ、長門の部屋で何やってたんだ。なんで人の家で上半身裸になってんだよ」
「違うわよ。今日、鶴屋さんから矯正ブラをオススメされて買ってみたの。それを試着してみようと思ってたっだけ。まさかあなたまで長門さんと一緒に来るなんて思ってなかったんだもの」
 どうやら朝倉も、今日が俺に夕飯をご馳走する日だということを忘れていたらしい。だから俺が長門と一緒に現れたのは想定外だったようだ。
「なんでまた、そんなもんを」
「だって、長門さん胸のサイズを気にしてるようだし」
 ああ……つまり朝倉は、まだ勘違いを継続中のようだ。この辺りの誤解を解くために、俺はわざわざ長門のマンションまでやってきたのだ。何も朝倉の着替えを覗くためではない。
 俺が懇切丁寧に説明してやれば、朝倉は鳩が豆鉄砲を食ったように目をぱちくりとさせた。
「そうなの?」
 再三の確認を込めて朝倉が長門に確認を取れば、長門はこくんと頷いた。
「そっか。じゃあこれはいらないかしら」
 朝倉は、落胆混じりに矯正ブラなるものをつまみ上げた……のだが、長門はそれを俊敏な動きで奪い取った。やっぱ気になってるんじゃないのか?
「地球人類の人体改造技術に興味はある」
 それはどういう言い訳だと聞きたいが、長門は長年探し求めていた秘宝をついに手に入れたどこぞの冒険考古学者のような手で矯正ブラを抱えているものだから、野暮なことを言うのはやめておこう。
 それよりも、俺の前で下着を掲げるのは如何なもんか、考えないんだろうか。あれか、身につけている時はNGで、身につけていなければ見られてもOKだとでも言うつもりか?
「効果あるのか、それ?」
 男の俺にはよくわからんが、そういうものにバストアップの効果なんてもんが本当にあるのかと疑問を抱くのは当然だ。
「あるらしいわよ? 知らないけど。なんだっけ、脇とか背中のぜい肉を寄せて、その辺りのぜい肉をバストの位置まで引っ張るらしいのよね。長く使っていれば、余分なぜい肉がバストの位置を覚えるとかなんとか」
 つまり、脇や背中に余分な肉があることが前提ってわけか。
「それでは意味がない」
 どうやら長門も気付いたらしい。いや、俺はそこはかとなく思っていたことなんだが、長門はさすがに自分の体のことだから、誰よりもよりもはっきりと理解しているようだ。
「わたしには、余分な肉はない」
 だと思ったよ。長門はただでさえ体の線が細い。胸だけに限らず、パッと見た限りでは体のどこにも余分な肉が付いているようには見えなかった。
「ええ〜っ、じゃあ長門さんのバストアップは夢のまた夢ってことじゃない」
 なんで朝倉が長門の胸のことを気にするんだ。ほっとけ、と思うのは俺だけか?
「ああ、そっか。あなたってあるよりない方がいいんだもんね」
「だから、どこでどうなってそういう設定になったんだ、俺は?」
「彼は巨乳好きだと聞いた」
「あれ、そうなの?」
 長門まで何を言い出してんだ。朝倉も食い付くな。てか、誰がそんなことを言ってたのか、はっきりきっぱり今ここで白状してくれ。
「ねぇ、結局どっちがいいの?」
 俺の切実な問いかけには答えず、朝倉はそんな恥ずかしい質問を臆面もなく聞いてきやがった。野郎同士が修学旅行の夜に交わす会話じゃあるまいし、なんで俺が宇宙人とは言え女性二人を前にそんなことを白状しなけりゃならんのだ。
「だって、ねぇ? 気になるじゃない」
「気になる」
 長門まで何を言ってんだ。
「やっぱり大きい方がいい?」
「それとも小さい方?」
 ステレオサウンドで聞いてくる宇宙人二人は、少し茶化した感じに聞いてるものの、俺を射抜く眼差しがえらく本気だった。本気と書いてマジと読ませるくらいに凄味のある輝きを、瞳の奥に宿らせている。
 これは片方を立てれば片方に恨まれる茨の選択肢じゃないだろうか。大きい方と言えば長門に恨まれ、小さい方と言えば朝倉からナイフが飛んでくる。まず間違いない。
 かといって、言葉を濁して切り抜けられる状況でもなさそうだ。もしそんな真似をすれば、俺の身に降りかかってくる恐怖が二倍になるだけに違いない。
「……はっ、ははは、何言ってんだ、二人とも」
 俺は必死になって、どちらにも角が立たない言葉を探しながら口を開いた。
「大きいとか小さいとか、気にする必要なんてないんだ。そんなことは些細な問題でしかないんだよ。あれだほら、絵に描いた餅はなんとやらって言うけどさ、それと同じなんだよ。大きかろうが小さかろうが、見てるだけじゃつまらんというか触れることができてこそというか、つまりまぁ、そういうことで……」
「………………」
「………………」
 俺が必死になってひねり出した台詞を前に、二人の宇宙人は冷ややかな眼差しをぶつけてきた。
「何て言うか……サイテー」
「絶望した」
 侮蔑にまみれた眼差しで、二人揃って人を罵倒してきやがる。これはもはや、物理的な攻撃よりもキツい精神攻撃に他ならない。
「あ〜あ、聞いて損した。とりあえず夕飯作ってくるわ」
 朝倉はそう言って席を立ち、長門は文庫を開いて活字の世界に旅立った。手ひどい仕打ちを受けなかったことだけは幸いだが、それとは逆に、俺の尊厳は地の底まで落ちたのは間違いない。
 明日はどこかの神社でお祓いでもしてこよう。
 心の奥底から強くそう考えちまうほど、今日は素晴らしいまでに最悪で最低な一日だ。
 まったく……本当にそう思う。