メモリー・フレーバー

 何かにつけて厄介事が舞い込んでくるのは体質と言うべきか性質と言うべきか、とにかく俺の周囲には、何故か面倒なことが起きれば俺に任せればいい、と思っている連中ばかりが集まっているような気がする。
 そりゃあ、俺も俗世で生きる凡庸な人間だ。人に頼られれば悪い気がしないし、頼まれ事がよっぽど無茶でふざけた話でもなければ協力してやろうと思わなくもない。そういう性根を利用されている気がしないでもないが、人間なんてそんなもんだろう。
 だからさ、人を利用するのがいいとか悪いとか俺は言わない。利用する方も悪いと思うし、利用される方も迂闊すぎると思うんだよ。そう思うから、せめて利用する相手に気取られないように配慮するのが、優しさってもんじゃないか?
「キミはなかなか面白い持論を僕に聞かせてくれるし、時に僕では考えつかなかったような新しい物の見方であると気付かせてくれることもある。が、しかし今回の話に限って言えば論点がズレているんじゃないかな? そもそも僕はキミを利用しようとしているわけではない。僕が持ち得る情報を脳内で掛け合わせて検討した結果、キミが適任だと判断した上でお願いしているに過ぎない。故に、キミがノーと言えば大変残念だが申し出を取り下げる。だってそうだろう? 僕にはキミを自由に動かせるだけの権限など何もないし、キミの自由意思にすべてを委ねているわけだからね。強制力などどこにもない話なのだよ」
 などと一気に捲し立て、佐々木は湯気が漂うレモンティで満たされたカップを手に取り、冷ますように息を吹きかけて喉を潤した。
 そう言うのならあれだ、俺の答えは決まってる。
「などと言えば……」
 俺が明確に『ノー』という意思を言葉で表そうとする直前に、カップをソーサーの上に戻した佐々木が口を開く。
「キミは素直じゃないからね、仮に僕の願いを聞き入れてくれるつもりであったとしても、拒否の態度を示すんじゃないかな?」
 おまえはいつから読心術が使えるようになったんだ。
 そう思いたくなるほど人の心情を見透かしている佐々木は、忌々しいことに、挑むような態度で両肘をテーブルについて顔を乗せ、今にも喉の奥で転がる笑い声をこぼれさせようとしている。
 こちらが反論しようにも、その先手を打たれては返す言葉もない。出かかった言葉を飲み込み、俺は仕方なくもっと根本のところを問い質すことに切り替えた。
「前といい、今といい、俺にあれこれ頼みすぎだと思わないのか?」
「そう言われると心苦しく思うところだが、僕も少し素直になった方がいいと言ったのもキミだろう?」
 そんなことを言った覚えはまったくないのだが。
「それに、少しくらいはキミに甘えてもいいだろう?」
 甘えるだのなんだの、臆面もなく艶っぽい声で言わないでくれ。言われたこっちの方が、妙に恥ずかしくなるじゃないか。
「だいたい、どうして俺なんだ? 橘や藤原に頼めばいいだろう」
「今回、必要とされているのは世間の常識から激しく逸脱してない人材なのだよ。いや、橘さんたちに常識がないと言ってるわけではなく、彼女たちには彼女たちなりの特異性があるし、個々の思惑もあるだろう? その点、キミにはそれがない。それどころか、良くも悪くも一般的だ。おまけに適度に諸事情を把握している。これ以上の人材はいないと思わないかい?」
 思わない、と言えるものなら言いたい。言ってやりたい。言ってみたいが、そんなことを言っても相手は佐々木だ。どうせこいつの胡乱な言い回しで煙に巻かれて言いくるめられちまうような気がする。だったら反論するだけ時間の無駄ってもんだろう。
「どうせ断らせてくれないんだろ。いいさ、引き受けてやるよ」
「さすがキョン、キミならそう言ってくれると信じていたよ」
 この上なく爽やかな笑顔を見せる佐々木に、俺はどこかしらハルヒの強引さに通じるものを感じずにはいられない。
「そうと決まれば早速だ。キョン、これが彼女が住んでいる住所になる。連絡は僕の方から入れておくから、行ってみてくれ。頼むよ」
 なんとも用意周到なことで。
「まるで俺が断らないと思ってたみたいだな」
「頼まれたからね」
「頼まれた?」
「いや、こっちの話。僕はちょっと時間がないから、あとは頼むよ」
 そう言い残した佐々木は、話にケリがついたと見るや、さっさと帰ってしまった。
 体よく押しつけられた格好になったが、ともかく、佐々木から手渡された地図を頼りに道を進めば、そこにあったのはごく一般的かつ平均的な建て売りマンションだった。イメージとしては荒れ果てた草原にぽつねんと佇み、今にも崩れ落ちそうな洋館だったんだけどな。目の前にある現実とイメージとのギャップに肩すかしを食らった気分をほどよく感じているのだが、よくよく考えればうちの近所にそんな場所はどこにもなく、必然的にごく普通な一般的な住居になるのは当たり前と言えば当たり前の話だ。
 ここまで来て今さらの話だが、どうにも躊躇いが生じている。本当にこのまま進んでいいのかどうか迷うが、佐々木と約束した手前、もう後には引けない。エントランスで部屋ナンバーを押す際に長門の部屋番号を押しそうになったが、さすがにそこまで一緒ではないらしい。三桁の番号を押せば、インターフォンがすぐに反応した。
「あー……俺だ。佐々木から連絡が、」
 と言ったところでガチャリと切られた。あまりの愛想のなさに泣きそうになったが、この程度なら初期の長門と似たようなもん……似てないか。長門はなんだかんだ言っても、最後まで人の話を聞いてくれたしな。
 前途多難だな……なんて考えていると、カシャンとロックが外れる音がして自動ドアが開いた。どうやら受け入れてはくれるらしい。
 なんとなく、本当になんとなくだが、何かの映画で独房の中を進む囚人の姿と今の俺の姿が重なって見える。そんな閉鎖的な建物じゃないんだが、何でだろうね。
 エレベータに乗り込み、目的の階数で降りて目当ての部屋前まで進む。玄関前で何度深呼吸をしたのか覚えてないが、たっぷり時間をかけてから呼び鈴を鳴らせば、まるで反応がない。エントランスでインターフォンに反応があったことから居ることは確実だが……はて、どうしたもんか。
 物は試しにドアノブを回してみれば、意外……というか、案の定と思うべきか、呆気なく開いた。もしかして鍵を掛けてなかったんだろうか。不用心にも程がある。
「おーい、勝手に入るぞ……って」
 さすがに土足厳禁だろうと思って靴を脱ぎ、室内に足を踏み入れれば早速逃げ出したくなった。まるで変死体でも転がってるんじゃないかと思えるような有り様で、九曜がカーテンさえ掛かってない窓辺で壁に寄りかかり、ぴくりとも動かずに転がっている。おまけに格好はノースリーブのシャツにショーツだけという格好だった。
 見ているこっちが恥ずかしいとかそういうこと以前に、まずもってその姿が、どこぞの洋館に置き去りにされた制作途中のビスクドールのようであり、そんなもんが部屋の中に転がっているのを目撃しようなら、寿命が五年分くらい縮まろうってもんだ。
「……なに、やってんだ……おまえ?」
「──────日光……浴────」
 そうか。それはまた健康的で何よりだ。
「とりあえず、ここに俺が来ることを佐々木から聞いてるか?」
 問いかけに、九曜は目だけで俺の姿を捕らえると、器用に瞼の動きだけで肯定の意を表した。ことごとく動きたくないのか、おまえは。
「じゃあどうして俺がここに来たのか、その理由は?」
「──────」
 そのことについては知らないらしく、首を横に傾けた。まぁ、分度器を使わなけりゃわからん程度だけどな。
「早い話が」
 と、俺は溜息混じりに言葉を漏らす。
「佐々木が今日は来られないから、俺が代わりに来たってわけだ」
 そこにいったいどんな理由があるのか知らないが、つまり佐々木が俺に頼んだ事というのはそういうことだ。俺と会ったあの直後に、田舎の法事かなんかで町から離れるらしく、その間の九曜の面倒を俺に頼む、と。
「どうしてあいつがおまえの面倒を見てるんだ? まぁ……それはともかく」
 人の話を聞いているのかいないのか、とにかくピクリとも反応を示さない九曜を前に、俺は頭を抱えるしかない。
「まずはちゃんと服を着てくれ」


 たとえて言えば寝起きの頭が回ってない状態と言うのだろうが、こいつの場合はパソコンの省エネモードとでも言った方が近いのかもしれないが、緩慢なことこの上ない動きで立ち上がり、遅々とした動作で人前に出ても恥ずかしくない格好になった九曜を前に、俺はようやく落ち着ける気分になった。どうでもいいが着る服が光陽園女子の制服なのはどうしてなんだ?
 落ち着けると言っても、心の底からリラックスできる気分でもない。何しろ九曜は俺の目のまで座して佇み、一時も目を逸らさずに注視している。間にテーブルを挟んでいるとは言え、なんだか猟犬に睨まれた貧相な野ウサギの気分だ。
「──────」
「………………」
 ものの見事に九曜にロックオンされちまってると、居心地が悪くて仕方がない。遠慮とは無縁の位置にいる九曜は人の顔の毛穴さえも見逃すまいと直視し続け、見られている俺はその視線から逃れるように室内に目を向けた。
 まったくもって何もない。立地を考えるにかなり値の張るマンションだと思うのだが、こいつにとっては雨風をしのげればそれでいい、という考えしかないのかもしれず、室内にあるもので俺が気付いたのは、九曜と距離を取るに役立っているテーブルくらいしかない。このテーブルだって、どうしてここにあるのかさっぱりだ。
「えー……っと」
 沈黙に耐えきれず、仕方なくこちらから話題を振ってみる。
「佐々木はいつも、おまえに何をしてやってんだ?」
「────あ────」
「うおっ!?」
 問えば九曜は急に立ち上がり、酔っぱらいでももう少しまともに歩けるだろうと思える足取りでフラフラと動き出す。こいつは何に付けても本当に唐突だ。
「なっ、なんだよ?」
「────飲み物────を────」
 どうやら来客にはお茶を出す気遣いはできるようだ。言動がそこはかとなく出会ったころの長門に似ているからか、やはりお茶くらいは出してくれるらしい……のだが。
 九曜がキッチンらしき場所に姿を消し、ほどなく聞こえてきたのは自分の耳を疑いたくなるような怪音だった。
「な、なんだ!?」
 慌ててキッチンに駆け込めば、流し前に立つ九曜の手元から怪音が響いているのがすぐにわかった。何をしてるんだおまえは?
「────豆────……」
「豆?」
 その手元にあるのはコーヒーミルか? なんで生活に必要そうなものが何もないのに、あっても普段の生活で困らないようなコーヒーミルが置いてあるんだ。誰が持ち込んだ、こんなもん。
「どうして豆をひいてるだけでそんな音が出るんだ? ああもう、いいから貸せ」
 まるで怪しげな薬を調合している鍋をかき回しているような九曜から、コーヒーミルを奪い取って豆をひく。どうして客の俺がこんな真似をしなけりゃならんのかさっぱりだが、そんなことを考えるのはタブーなんだろうな。
「……なんでアルコールランプのサイフォン式なんだ……。おい、ライターとかマッチはあるのか?」
「────ない────」
 それでどうやってコーヒーを入れるつもりだったんだ、おまえは。
「ったく」
 わざわざミルを使って豆をひいても意味ないじゃないか。俺の苦労はいったい何だったんだと憤慨すべきところなんだろうが、九曜相手じゃ怒ったところでのれんに腕押しだ。
 幸いにして、こんな家でも冷蔵庫くらいはあるらしい。他に飲み物はないんだろうかと思って開けてみれば、中にはねりわさびのチューブが一個だけ転がっている。何という電力の無駄遣い。
「何かこう、せめて牛乳なりジュースなり買い置きしてないのか?」
「────水──が──……出る────」
 水道代をしっかり払っているようで何よりだ。それはともかくとして、客にただの水道水を飲めというのは乱暴な話だと思わないのか? 思わないんだな。
 まったく……蛇口を捻って出てくるのが、日本の名水百選で上位にランクインしてるもんなら喜んで飲んでやるが、そんなもんが出るわけもなく、カルキ臭い水をがぶ飲みしたいとも思わん。
「外で飲み物を買ってくる。何かいるか?」
「────行く────」
「あ?」
「────一緒に────……」
「……そうか」
 何もそんな遠出をしてまで飲み物を買ってくるわけでもなく、近所のコンビニに行くだけなのだから着いてこられても困るのだが、だからといって着いてくるなと突き放すだけの理由もない。
 結局、九曜を引き連れて近所のコンビニまで出向くことになったわけだが、そこで適当な飲み物を見繕っているときに、ふと目に入ったコンビニ弁当を見て気がついた。
「おまえ、食事とかどうしてんだ?」
 キッチンを見た限り、まぁそこそこ料理を作るのに必要な器具はそろっていたように思うが……こいつが料理を作る? まったく想像できん。
「─────作る───」
 にもかかわらず、九曜はそう言った。これには正直驚いた。九曜に食事を作れるだけの器用さがあるなどと、いったい誰が想像できただろうか。少なくとも、まったく予想していなかった返答であることは間違いない。
「────彼女、が────……」
 と感心していたが、どうやら作るのは九曜ではないらしい。ほんのちょっぴり感心した俺の気持ちを返してくれ。
「彼女って、佐々木のことか?」
「────そう────」
 佐々木がそんな真似をねぇ……。もしかしてあいつ、けっこうな頻度で九曜の食事の面倒を見てやってるんだろうか。
「────今日……は────?」
「今日? 佐々木がいないんじゃ、それこそコンビニの弁当でも喰えばいいんじゃないか?」
 などと言ったら摂氏マイナス二〇度くらいの視線で睨まれた。何故にそんな目で睨まれなければならないんだ。コンビニの弁当がお気に召さないなら、自分で作ればいいだろう。
「──────」
 いや、だから睨むなって。そもそも俺に、料理が作れると思ってるのか? よーく考えろ。食材だってな、まったく料理ができない俺よりも、まっとうな食事が作れるヤツに調理された方がいいに決まってる。
「──────」
 いや、だからそんな直視し続けても不可能なことは不可能であり、世の中の人間には不可能を可能にする画期的な方法が、そう都合良く天啓のように降り注いでくることもない。
「あら、何やってるのこんなところで?」
「え?」
 睨み続ける九曜の視線で、そろそろ石になりかけている俺へかけられる声。振り向けば、まったく予想していなかったヤツがそこにいた。
「朝倉、おまえまだこの時間にいたのか」
「あら、いたらダメ?」
 目の前の朝倉は、よくよく顔を見なければわからないような格好をしていた。髪をまとめて眼鏡を掛け、ハンチングのような帽子を目深にかぶっている。もしやそれは変装のつもりなんだろうか。
「他の人にバレないようにしなくちゃだから、仕方ないの」
「なんでまだいるんだ?」
「朝比奈さんがまだ迎えに来てくれないのよ。早く来てくれないと困るのよねぇ。このままじゃわたし、喜緑さんの家政婦になっちゃうわ。あなたからも伝えておいてくれない?」
 いつも一緒にいる朝比奈さんに言ったところで仕方がないと思うんだが……かといって、朝比奈さん(大)にこっちから連絡を取る方法なんて、俺にあると思うのか?
「それより……」
 眼鏡をくいっと指でずり降ろし、朝倉は俺の傍らに直立不動で瞬き一つしない九曜を裸眼で睨んだ。
「珍しい組み合わせだね」
 朝倉から見てもそう思うか。事実、俺もなんで九曜とセットでいるのか頭を悩ませる状況なのは間違いない。
「佐々木から頼まれたんだ、仕方ないだろ」
「あなたも懲りない人ね。また何かあっても、今度は知らないよ」
 懲りるって何の話だ。またも何も、おまえがしゃしゃり出てくることなんて今後一切あるはずも……いや、待てよ?
「朝倉、料理できたよな?」
「ずいぶん唐突なんだ、そうね、できるけど」
「だよな。できるよな」
 やっぱりそうか。改変された世界とはいえ、こいつが作ったおでんの味は、そう簡単に忘れられる味じゃなかった。
「それなら好都合だ。折り入っておまえに頼みがあるんだが」
「ぜっっったいに、イ・ヤ♪」
 まだ何も言ってないだろう。なのに満面の笑みで、あまつさえ語尾に音符まで付けて拒否されるとは心外だ。
「言いたいことなんてすぐわかるよ。その子といて、わたしにご飯作れるか聞いて来て、それであなたがわたしに『頼みがある』だなんて、考えるまでもないじゃない? その子のご飯をわたしに作らせようってつもりでしょ? 嫌よそんなの。あなたが作ればいいじゃない」
「おまえは俺が料理できると思うのか」
「思わない」
「怒っていいか?」
「泣くならいいけど。だいたい、あなたも悪いのよ? 自分に出来ないことを安請け合いしすぎなんだから。ちょっとは痛い目に遭った方がいいわ」
「俺だってこんなことになるとは思わなかったんだ。仕方ないだろ」
「じゃあ、わたしが断るのも仕方がないことだよね?」
 なんという理屈だ。しかもその理屈が屁理屈ではなくちゃんと理路整然とした反論になっているのがよけいに頭に来る。
 そこまで言うんだったら、じゃあいいさ。俺だって別に朝倉に飯を作ってもらいたいわけじゃない。そもそも作ってもらわなくたって、俺が困る話じゃないんだ。むしろ困るのは九曜であり、こうなったら夕飯はマジでコンビニ弁当かカップ麺、あるいは出前でも取ってくれと言うしかない。
「────────」
 俺がその旨伝えると、九曜は買ったばかりの靴で出かけているときにガムを踏んづけたような落胆っぷりを表して見せた。
「まぁ、ほら仕方ないだろ。料理ができるヤツが断固とした拒否の態度を示したんだ。こればっかりは俺にもどうしようもない。せっかくいい腕を持ってるのにな、まったくもって残念だしもったいないが……いや、そんなことを俺が言ったって詮無いことだ。ともかく九曜、ここは諦めてくれ」
「────────」
 俺はすっかり諦めムードを漂わせているのだが、九曜はさて、どうなんだろう。わずかに下げた頭はそのままに、視線だけをちらりと上に上げて見つめている。
 俺じゃなくて朝倉を。
「な、なによ……。そうやっておねだりすれば何でも叶うと思ったら大間違いよ。ダメなものはダメ、嫌なものは嫌なんだから」
 その眼光は上目遣いという可愛らしいものではなく、どちらかというと呪いの人形が目を剥いて睨み付けている……と俺は感じるのだが、朝倉的にはおねだりポーズに見えるらしい。やはり宇宙人、俺とは感じ方が違うようで、ちょっとしたカルチャーショックを感じてしまう。
「──────」
「………………」
 睨み合う両雄の間、俺は何も言わずに見守ることにした。下手な横やりを入れたって、火に油を注ぐだけさ。
「────」
「……ううぅ……もうっ! わかったわよっ!」
 どうやらこの睨み合い、朝倉の根負けで勝敗が決したようだ。時間としては一分もかかってないが、俺だったら九曜に睨まれた段階で首を縦に振ってると思えば、朝倉はよく耐えたと言うべきか。
 ともかく、九曜は一言も喋らずに夕飯を作ってくれる相手を獲得したってことになる。が、そこはさすがに朝倉だ、素直に受諾するつもりはないらしい。
「ただし! わたしが作るんじゃないわよ。あなたが作るの。作り方を教えてあげるから、自分でなんとかしなさい。いい、わかった?」
 事もあろうに、こいつは九曜に料理をさせるつもりらしい。何というチャレンジスピリッツ。現代人が忘れてしまったフロンティア精神を朝倉から感じようとは世も末だ。
「──────わかった──……」
 おまえが作れというその言葉に何を思ったのか、九曜はしばし朝倉の顔を睨め付けていたが、せめてもの譲歩と察したのか、素直に頷く。
 九曜が料理……ねぇ。まともなものが出来ることを祈っておこう。


 俺の記憶が確かなら、これは九曜が食べる食事を作る話だったはずだ。
 実際に作るのは九曜らしいがそれは些末なことであり、指導という立場に朝倉が立つことを了承した以上、もはや俺が介入すべきことは何もなく、極端な話で言えば帰ったって文句は言われないだろう。まぁ、本当に帰るような真似をすればそれはそれで無責任と罵られそうだから帰らないが、ともかく、そんな立場の俺ができることと言えば、せいぜい微笑ましくも暖かい眼差しで見守る程度に違いない。
 にもかかわらず、どうして俺が自腹を切ってまで食材その他を買わなくちゃならないんだ?
「あなたも食べるんでしょ?」
 ご相伴にあずかれるというのなら否応もないが。
「作らないんでしょ?」
 それは九曜の役目だろう。俺は関係ない。
「じゃあお金くらいは出してよ。何もしないでご飯が食べられると思ってる? 働かざる者食うべからず、ってよく言うよね?」
 何もしない傍観者は必要ないと言いたいのか。くっそう……仕方がない、金を出した分だけはちゃんとしたものにしてくれよ。
「それはあの子次第ね」
 金をドブに捨てた方がましだった、なんて結果にならないことを祈るばかりだが……どうにもそうなりそうな予感がする。
 何しろ買ってるのが大根だのちくわだの餅入り巾着だの、そんなんばっかりだ。この材料を見て、作る料理で真っ先に思いつくのは鍋物……もっとポイントを絞って言えば、おでんじゃないだろうな?
「だって、ラクなんだもの」
「今は夏だぞ」
「人間てさ、寒い時期にアイスも食べるでしょ? その逆もアリじゃない」
 苦情や反論はいくらでも出てきそうな言い分だが、どぉ〜せ聞き入れちゃくれないんだろ。だったら何も言わないさ。
 買う物を買って、九曜が住んでるマンションに戻るや否や、息つく暇もなく調理開始と相成った。少しは落ち着けと言いたいが、何をそんなに慌ててるんだろうね。
「味を染み込ませなくちゃだから、早めに作っても問題ないの。それよりほら、何もしないなら邪魔にしかならないし、あっち行ってて」
 場を仕切る優等生モードの朝倉は手に負えない。あっちに行ってろと言われても、何もない九曜の自宅内で何をしていろと言うんだ。
 かといって、ゴネてキッチンに居座っても仕方なく、そんな真似をすれば包丁の一本くらいはすぐに飛んできそうなものだから、すごすごと撤退しておこう。
 テレビも本もありゃしない。床を見れば塵ひとつ落ちてない。これは九曜が綺麗好きとかそういう話ではなく、まるっきり生活感の無さ故の小綺麗さなんだろう。
 仕方なく横になってゴロゴロしていれば、耳に届くのはキッチンで九曜に料理の手ほどきをしている朝倉の声。鍋に昆布を敷いておけだの、ダシの量は適当でいいだの、大根は面取りしておけだの、聞いてるだけで俺でもおでんが作れそうだ。
 かといって、怒鳴り声が響いてこないことから、九曜も素直に朝倉の指示に従って動いているらしい。ま、九曜はあんなのだが、佐々木たちと一緒にいるところを見れば、言われたことは素直かつ実直に行動するんだし、大丈夫だろう。
 そうこうしているうちに、どうやら俺は寝ちまったらしい。横になっていたせいか、気付かないうちに睡魔に負けてしまったようだ。チカチカと瞬く照明で目が覚めた。
「────────」
 眠る前の喧噪が嘘のように静かだ。部屋の灯りを点けたのは九曜のようだが……朝倉はどこ行ったんだ?
「──────帰った────」
「え? ああ……日も暮れてるしな」
 朝倉自身も、喜緑さんにこき使われているとか言っていた。俺が起きるまで居ても仕方ないし、さっさと帰ったんだろう。
「で、ちゃんと作り方は覚えたのか?」
 問えば九曜は首を縦に振った。それは何よりだ。
「今度、朝倉にちゃんとお礼でも言っとけよ」
「────できない────……」
「なんで?」
「────帰った────から────」
「だからそれは……あ」
 帰ったって、それはつまり……そういうことか。
「過去に戻ったのか」
「──────そう────」
 それなら確かに、礼も言えないな。そうか、帰ったのか……唐突だな。
 いや、あいつにしてみれば唐突じゃなかったのかもしれない。妙にあくせくおでんを作って行ったのは、帰る時がわかっていたからなのかもしれない。
「────食べる────?」
「そうだな。時間も時間だし、喰ってくか」
 朝倉が何を思って九曜におでんの作り方なんて教えたのかわからんが、せっかくの機会だ。毒味役くらいにはなってやるさ。
 真夏のこの時期、九曜と二人で鍋を突くというシュールなひとときを過ごすことになったが、たまにはこんなのもアリだろう 
 味? それはもう、言うまでもなく美味かったさ。