お茶の温度

 梅雨明けまでまだまだ遠いようなことを天気予報で言っていた7月、降り続く雨で平均気温を大きく下回っていたある日の放課後、文芸部部室改めSOS団アジトのドアを一番に開けたのは朝比奈みくるだった。
 いつもは部屋の片隅で本を読んでいる長門有希の方が早いが、今日はまだ姿が見えない。珍しいこともあるものだと思いつつも、鞄を置いていつものメイド服に着替えようと手を伸ばした。
 最初は抵抗のあったこのメイド服だが、人間の慣れとは恐ろしいもので、今ではメイドコスチュームのまま、お茶の水を汲んでくるくらいは抵抗なくできるようになっている。
 お茶用の水を汲んで部室に戻ってくると、そこには有希がいつもの定位置に座って本を読んでいた。
「あ、長門さん。お茶淹れますね」
 聞いたところで返事はないのが、出せばしっかり飲んでくれることも分かっている。返事を待たずにお茶の準備をして……ふと、背後から突き刺さる視線を感じて振り返った。
「ぅえ!? なっ、長門さん……な、なな、なんですかぁ?」
 音もなく背後まで忍び寄り、何も言わずに立っていられれば、みくるでなくとも驚くというもの。もっとも、彼女の場合は驚き半分、怯え半分の表情を浮かべていた。
 そんなみくるに何を思うのか、おそらく何も思っていないだろう有希は、電気コンロでこぽこぽ沸いているお湯を指さした。
「お茶」
「え……え? お茶? あぁ〜……はいはい、今淹れますー」
 お茶の催促をしてくるとは珍しいが、有希が言いたいことはそうではないらしい。
「あたしが淹れる」
「はぇ? あ、そ、そうですか。それじゃお願いします……」
 とても断る雰囲気ではなく、みくるは言われるままに電気コンロ前を譲って椅子に腰掛けた。そわそわと落ち着かない気分で有希の後ろ姿を見つめているが、脳内では、どうしても怪しげな実験を行っているマッドサイエンティスト的なイメージが重なる。
 何故かわからないが、逃げたほうがよさそうな気分になったのは、みくるの苦手意識のせい……だけではないかもしれない。
 ──キョンくぅ〜ん、涼宮さぁ〜ん、古泉くぅ〜ん、早く来てえぇ〜……
 という、内心の嘆きを余所に、ほどなくして振り返った有希は、湯飲みを手にみくるの前まで近寄って来た。
「飲んで」
「え、えっと……じゃあ、その……いただきます……」
 有希の意図がまったく掴めないまま、湯飲みを手にするみくる。
「えーっと……あのぉ、これはいったい……どういうこと」
 上目遣いでチラリと有希を見たが、何も言わず黙ってこちらを見ていた。
「ひぇっ! ふぇ……な、にゃんでもありまふぇん……」
 噛んだ舌の痛みに耐えつつ、お茶を飲むまで逃げられそうにないと悟ったみくるは、無言の圧力に耐えかねてお茶を口に含んだ。
「美味しい?」
「は、はい、美味しいです……けど」
 なんでまた、こうも突然お茶を淹れたのか、その真意がわからない。湯飲みを握りしめたまま、相も変わらず無表情な有希の表情を盗み見て……なんとなく察しが付いた。
 みくるもまた、キョンほどではないが、有希の無表情の裏にある本心を悟る眼力は備わっているようだ。
「あのぉ〜……長門さん、もしかしてお茶をもっと上手に淹れたいんですか?」
 おそるおそる聞いてみると、有希はこくんと頷いた。
「あたしはあなたほどお茶を上手く淹れられない」
「は、はぁ……。でも長門さんなら、あたしより上手そうですけど……」
 事実、このお茶も不味くはない。ただ、あえて注文を付けるなら、茶葉を気持ち多く淹れて、もう少しお湯の温度を下げたほうがいいかも? と思う程度だ。
「彼はあたしのお茶より、あなたのお茶を美味しそうに飲む」
 彼、と言われても直後には分からなかったが、すぐにピンと来た。
「あ〜……あっ! なるほどぉー」
 ぽん、っと手を打って納得した。
 それならそれで、早く言ってもらいたいものだが、それが有希なのだから仕方がない。
「あたしがいつも淹れてる方法でよければ、いくらだって教えちゃいます。ええっとですね、まず……」


 その日、部室に遅れてやってきたキョンにお茶を差しだしたのは、みくるではなく有希だったことは言うまでもない。