できること。できないこと。

 人間には知的探求心というものがある。テレビでも、知らなくてもいいような話をネタにした番組がそこそこ視聴率を稼いでいるように、知的探求心というものは本能に近い代物のように、誰にでもあるものだ。特にヒマに退屈をデコレーションしてしたような日々を重ねていると、本当にどうでもいいことにさえ、興味がわいてくる。
 ここ最近、ハルヒは大人しい。何かを企んでいるのかもしれないが、それを決行するのはまだまだ先のことだろう。一言だけ付け加えておくが、ヒマだからと傍若無人な団長さまが巻き起こす悪巧みを切望しているほど、俺はダメ人間になっちゃいないぞ。
 それはともかくとして。
 世間一般の人種が「ヒマ」と感じる状況であることは間違いない。そんな暇人たる俺が、この安穏とした日常と決別するに適した非日常とはなんだろう、と考えていた矢先のこと。
 目の前に、SOS団の万能選手にして寡黙な読書大好きっ子、長門有希の姿が目に留まった。
 今更、ここで長門がどんなヤツなのかを長々と説明するつもりはない。ただ、それでも一言付け加えるならば、こいつに出来ないことはない、ということだ。
 そりゃ、空を飛んだり死んだ人間を生き返らせたりはできない……できないよな? 言ったらやりそうで怖いから言わないが、できないものと思っておこう。
 ともかく、そんな非常識なことも含めて、こいつにできないことは何もない、と俺は思っている。
 ──本当だろうか?
 ふと、自分のはじき出した結論を否定するもうひとつの声が脳裏に響いた。
 もしかすると、何でもできる長門にも苦手なことがあるかもしれない。弱点、とまでは言わないが、敬遠するようなことがあるんじゃなかろうか?
 いやいや、それはあり得ない。宇宙的トンデモパワーを使えば、俺が考えつくようなことはすべてこなしてしまうはずだ。何しろハルヒの力を拝借して時空改変さえしてしまうようなヤツだからな。
 いやいやいや、それでも……。
 などと頭の中で一人会議をしていても仕方がない。
「なぁ、長門」
 声を掛けると、長門はページをめくろうとしていた手を止めて、表情のない顔をこちら向けてきた。くりくりとした両目が、俺の姿をトレースするかのように捉えている。返事くらいしてくれたっていいじゃないか。それとも俺がこれから言うだろう、くだらないことを先読みでもしたのかね?
「ものの試しに聞きたいんだが、おまえにできないことってあるのか?」
「ある」
 これは驚きだ。てっきりなんでもできると思っていたのだが、はっきりイエスと答えたぞ。
「……それは宇宙的なインチキ込みで、あるってことか?」
「そう」
 マジか。こいつにも苦手なことがあるってことなのか? いやいや待て落ち着け。それは先に出した死者蘇生とか空中浮遊とか、そういう類なものかもしれんじゃないか。
「あらゆる事象の操作は理論的に可能。ただし、時間平面に差異を生じさせるため推奨はしない。情報統合思念体からも許可されていない」
 それはつまり、かみ砕いた表現をすれば「何でもできるけど、実際にやっちゃうと困ったことになっちゃうゾ♪」って解釈でいいのか? うーむ、そういう意味では確かに「できないことがある」ということになるが、俺が知りたいのはそういうことじゃない。
「そういう、世の中の平穏をぶち壊すかも、って枷を抜きにしてだな、ただ純粋にできないことがあるかないか、って質問なんだが」
「ある」
 な、なんだって? つまり、あらゆるしがらみを抜きに宇宙的トンデモパワーを使っても、長門有希の辞書に不可能がある、ということなのか?
「そう」。
「何ができないんだ?」
「ヒミツ」
 ゆるゆると人差し指を唇に当ててそう言うと、長門は本に視線を戻した。
 まさかそんな可愛らしい仕草で拒否られるとは思いもしなかったが、まぁ冷静に考えてみれば、自分の不得手なことを人に話すのもどうかと思う。
 だが、ヒマにヒマを重ねている今の俺が、そう簡単に引き下がると思わないでもらいたい。長門にできないことがある、と分かった以上、それを暴いてみたいと思うのが心情ってもんじゃないか。
とは言え、闇雲にあれしてくれ、これしてくれと言っても、すべてこなしてしまう確信がある。これまで長門が行ってきたことを鑑みればすぐにわかることだ。何かさせるにしても、もう少し的を絞ってやらせたほうがいい。
 そうだな……これはどうだろう。
「なぁ、長門」
 ひとつだけ「できないこと」に思い至って声を掛けると、長門は再び俺に視線を向けた。
「ちょっと笑ってみたりしないか?」
 俺がそういうと、長門の視線は氷点下20度から、一気に絶対零度まで下がったような目つきになった……ような気がする。
 おいおい、笑ってみろと言っただけで怒るなよ。ただ単に、いつもどんなときでも表情を崩さないから、それが「できないこと」なんじゃないかと思っただけじゃないか。
 そんな言い訳じみたことを口にすると、長門はパタンと本を閉じて──本当に些細ながらも目尻をゆるめ──微笑んだ。
 それほ本当に一瞬のことだ。もしかすると、俺の願望が見せた幻かもしれない。次の瞬間には長門はいつもの読書スタイルに戻っていたから、マジで見間違いかもしれないし、催眠術でもかけられていたのかもしれない。
 それでもだ。俺はここにいないアホ面にテレパシーを送るように心内で呟く。
 谷口、おまえの評価はAマイナーらしいがな、あの笑顔が加われば、AAランクに格上げしてもいいぞ。ちなみに俺的AAプラスランクの美人と言えば……ま、それはどうでもいい。
 さて。
 となると、長門の「できないこと」とは微笑む……もっと広い定義で言えば、表情を変えることではないらしい。ならば別のことかと再び思いめぐらせて……もうひとつ、閃いた。
「度々すまんが長門、ちょっと一緒に来てくれないか?」
 そんな微細な呆れ顔をするなよ。すぐに済む話だからさ。
 長門を部室から連れ出し、向かった先は調理実習室。放課後のここは、料理研究愛好会が占拠していて、毎日お菓子や料理を作って喰っている。研究とは名ばかりの、食い意地の張った奴らの根城になってるわけだ。
 そう、ここに長門を連れてきたのは、こいつに料理をやらせてみよう、と思い至ったわけだ。
 朝倉が表向きには転校したことになった翌日くらいにマンションに向かったとき、長門はコンビニの弁当らしきものを手にしていた。雪山遭難のときは、ハルヒと朝比奈さんがサンドイッチを作って、こいつは喰うだけだった。おまけに二月のバレンタイン直前のときに朝比奈さんと一緒に長門のマンションに行ったときなんて、ごちそうになったのはレトルトカレーだ。
 もしかすると、長門は料理が苦手……あるいはできないのかもしれない。そう結論づけてもおかしくないだろう。
 俺と長門が調理実習室に足を踏み入れると、妙なざわつきが室内に広がる。やれやれ、ハルヒがいなくても俺と長門の二人で変な空気になるのか。勘弁してくれよ。
 だが、ここでめげてたまるか。俺の知的探求心を止められるものなど何もない。
 見知った顔の一人を捕まえて、事情を手短に説明すると、想像以上にあたりまえのことで安心したのか、快諾してくれた。ハルヒじゃあるまいし、俺と長門が無理難題をふっかけるわけないだろう、と言っておきたい。
「さぁ、長門。ここにある材料で料理を作ってくれ」
 俺がそう言うと、長門は何か言いたそうな目つきを俺に向けてきた。無論、俺はその視線に気づかないことにした。ハルヒに学んだことだが、こういうのは有無を言わせぬ勢いが重要なんだ。ほかのヤツなら気づかないだろうから、特に問題ないだろう。
 普段よりは長めに俺を睨むそのプレッシャーに押し潰されそうになったが、俺の知的探求心はその重圧に耐えてくれた。長門はトコトコとまな板の前まで進むと、包丁を片手に食材を切り刻み始めた。
 怖い。怖いよ長門さん。無表情だからなおのこと怖い。
 いつしか調理実習室には長門が料理する音だけが響き、誰一人として声を発することなく、その姿に見入っていた。目を逸らすと自分が調理されるのかもしれない、という危機感が全員の胸の内にあったのかもしれない。
 ほどなくして、俺の目の前に色彩豊かなとろみのある謎の料理……と言っていいんだよな? そういう代物が差しだされた。
「どうぞ」
 そう言ったきり、長門は俺の目の前に突っ立ったまま、微塵も動かずに睨んでいる。
 しまった……もう少し、考えを巡らせてから口を開けばよかった。
 長門の「できないこと」が料理だとすれば、当然できあがるものは世間一般の味覚とは相性の悪い代物になるはず。そして「できないこと」をやれと言った以上、俺は相性最悪の代物をくっつける仲人を務めなくちゃならないわけだ。
 迂闊だった。そこまで考えが至らなかった自分の浅はかさを呪うばかりである。
 だが仕方がない。ここまで来たら、後には引けない。辞世の句を脳裏に描き、意を決して長門作の料理を一口……。
「おっ」
 俺は美食家でも料理研究家でもないから、まろやかなコクが〜、とか、ジューシーな味わいが〜、なんてコメントはできない。だから、そんな遠回りのコメントではなく、率直な感想を言わせてもらおう。
「美味いな、これ」
 見た目はややアレだが、これは美味い。クリパで喰ったハルヒの鍋も美味かったが、この名称不明の料理もなかなかのもの。鍋料理と比べるのは如何な物かと思うが、ついつい箸が進むという意味では間違いない。今まで料理しなかったのが残念に思うほどの味わいだ。
 どうやら、長門の「できないこと」とは料理でもないらしい。
 場を提供してくれた料理研究愛好会の連中にも長門の手料理をお裾分けして、俺たちは文芸部部室に戻ってきた。
 しかし、こうなるとお手上げだ。本人は「できないことがある」と言っていたが、一介の一般人である俺には、長門の言う「できないこと」が何なのか、見当も付かない。
「長門、本当にできないことがあるのか?」
 その発言そのものがウソなんじゃないかと俺は思い始めた。俺が暇そうにしてるから、ただ単に付き合ってくれただけかもしれない。
 ところが長門は、再度「ある」と言った。本当かよ……。
「アイリス・マードリック」
 俺が疑いのまなざしを向けていると、長門は本を鞄にしまい込んで帰り支度を整え、部室を出る間際にそんなことを言った。少々ため息混じりのように感じたのは、俺の妙なしつこさに呆れたから、かもしれない。
「人の名前か? それが『できないこと』と関係あることなのか?」
 問うてみたが、長門は何も言わずに帰宅してしまった。結局、謎は謎のままってことなのかね? それとも、その人名みたいなのがヒントだとでも?
 そんな外国人に知り合いはいないんだがな……メジャーな人なんだろうか。だったらネットで調べればすぐに出てくるかもしれない。
 ものは試しにパソコンを立ち上げ、検索してみると……なるほど、かなりの数がヒットした。アイルランド出身の作家ってことは、長門は本を読んで知ったのかもしれない。そして、もっとも多くヒットしたのは、その作家が残した格言らしき言葉だった。
 それを見て、俺はますます頭を抱えることになる。その格言とは、こんな言葉だ。

 ──愛する事を教えてくれたあなた。今度は忘れる事を教えて下さい

 さて、これが本当に正解なのか、それとも長門流のジョークなのか……ま、深く考えずに文面通りの言葉と受け取ろう。少なくとも、俺の些細な知的探求心は、長門が「できないこと」とは「忘れること」と結論づけたようだ。
 前半の言葉は、見なかったことにしよう。