正直に言おう。俺にはこの状況がまったく理解できていなかった。ただ、異常事態なのは間違いない。天変地異が起こる前触れと言っても過言ではないだろう。下手をすれば、次の瞬間には世界が消滅してしまうかもしれない。
そのくらい、切迫した状況だ。
いつもSOS団が集まる喫茶店の小さなテーブル席。
本来は2人掛けのテーブルに3人で座り、世界滅亡のカギを握る二人を前に、俺はどうするべきかと悩んでいた。
右手側に鶴屋さん、左手側に朝比奈さん。
そして、離れた位置にはこのセッティングを施したハルヒと、見物にきた古泉。そして何故かいる長門。
沈黙が重圧となって俺の胃をキリキリさせる。
事の起こりはそう、今日の放課後の部室だった。
…………
………
……
まるでパブロフの犬的無意識で部室に向かった俺は、ドアをノックしてから頭のなかで3秒数え、それでも返事がなければドアを開けるようになっている。
まぁ、大概はノックしてすぐに朝比奈さんのエンジェルボイスが返ってきて、アンニュイな午後のひとときを慰めてくれるのだが、その日は3秒待っても返事がなかった。
アンニュイな気分が絶望的なものに変わったのは言うまでもない。
ドアを開けて中に入れば、部室の影の支配者、長門がいつもの位置で当然のごとく持っている分厚い本を、見慣れた格好で規則正しくページをめくっていた。朝比奈さんはおろか、ハルヒも古泉もまだ来ていない。
「あれ、まだ誰も来てないのか?」
カバンを置いて問いかけると、長門はゆるゆると顔を上げてアハ体験ができそうな微妙な変化の頷きを見せて、視線を本に戻した。と思いきや、俺が部室に来るのを見計らっていたかのようにすぐ古泉が現れた。
「おや、涼宮さんと朝比奈さんはまだでしたか」
古泉も俺と似たような感想を抱いたらしい。
「今日はちょっと遅くなってしまったものですから、僕が一番最後かと思っただけですよ」
ちらりと時計を見れば、なるほど、確かに全員集合していてもおかしくない時間になっていた。ハルヒがこのまま現れないのは素晴らしいことだが、朝比奈さんがいないのはおかしい。この魔窟と化した部室には、天使と悪魔のどちらか一方だけの出現ができない細工でもあるのか。
──まてよ……?
脳裏にイヤな予感が閃いた。ハルヒのヤツ、部室じゃ何もできないからと朝比奈さんを拉致って、変な場所でオモチャにしてるんじゃないだろうな!? あいつのことだ、マジでやりかねん……。
「探しに行かれますか?」
詐欺師スマイルの古泉が、俺の表情を読んでそんなことを言う。すでに腰を浮かせていた俺は返事を返さずそのまま部室を出ようとしたんだが……携帯がブルブル震えていることに気づいて座り直した。マナーモードのままだったからまったく気づかなかったよ。
着信はハルヒからだった。
嫌な予感がした。予感と言うより、予言か。今の俺ならノストラダムスよりも的確に未来を言い当てることができるね。
「思うに、着信を無視した未来よりも可及的速やかに電話に出た未来の方が、幾分か生存率が高まると思いますよ」
携帯の液晶画面を苦渋の表情で眺めていた俺に、古泉が嬉しくもないアドバイスを口にする。なんでコイツは電話の相手がわかるんだろうか。言ってることは正論だがね。確かにそうだろうともさ。
分かっているんだそんなこと。だが、本能がそれを拒否しているだけなんだ。
この年齢でご先祖様に会いに三途の川を渡るのは勘弁したいので、意を決して通話ボタンを押す。
『遅い!』
「おかけになった番号は……」
『死にたいの?』
電話に出ても出なくても俺は死ぬのか。たまにはボケらせてくれ。
「今、どこにいる? 朝比奈さんは無事なんだろうな」
愛娘を連れ去った誘拐犯とのファーストコンタクトに成功した父親気分で問いつめると、珍しく電話口でハルヒが言いよどむ気配が伝わってきた。電話だと必要最小限の会話しかしないこいつが、こんな態度を取るとは珍しい。
「どうした?」
『今すぐいつもの公園に来なさい。大至急!』
バカでかい声でそれだけを言うと、さっさと切りやがった。
行くしかありませんねぇ、とでも言いたげに肩をすくめている古泉と、パタン、と本を閉じる長門の姿。
俺に拒否権はないらしい。
公園にたどり着くと、そこには制服姿のハルヒが腕を組んで仁王立ちしている姿しかなかった。コノヤロウ、朝比奈さんをどこに拉致りやがった……。
ハルヒは俺を睨むや否や、むくれたようなアヒル口を見せて、いつもの喫茶店方向を指さした。なにやら知らんが、怒っているような笑い顔に見えるのは俺だけだろうか。
「行きなさい」
「は?」
「駆け足!」
従わなければ拳が飛んできそうな勢いに、俺は訳も分からず走り出していた。なんなんだ、いったい?
ハルヒの殺人光線的な視線を背後にビシバシと浴びながら喫茶店に駆け込むと、後ろ姿だけでもすぐにわかるマイエンジェル、朝比奈さんの姿を見つけた。
ご無事でしたか、朝比奈さん。
ちゃんと制服を着ているし、ハルヒに悪戯もされていなようで一安心……と思ったら、その向かいには鶴屋さんも座っている。
この二人の組み合わせは別に珍しくもない。俺と国木田、あるいは谷口が一緒にゲーセンで暇つぶしをしているくらい、自然な組み合わせだ。
だがな、この雰囲気はなんだ? いつものハイテンションな鶴屋さんは頬杖をついてだまりこくり、朝比奈さんはいつもとは正反対のオーラを放っている。
つまり、ご立腹のようなのだ。
愕然としたのは言うまでもない。個人的な話で申し訳ないが、俺は「朝比奈さんが怒る」などという姿がどうしてもイメージできない。ハルヒがしおらしく泣き、古泉が寡黙になり、長門が表情豊かに微笑むくらい、朝比奈さんが怒っている姿など思い描くことができないのだ。
もし仮にそんなイメージを思い描ける人がいれば、是非ともご連絡いただきたい。そしてその対処方法も考えてくれ。
見なかったことにして立ち去ろうと、朝比奈さんたちに背を向けたらそこにはハルヒ他2名が、しっかり腰を落ち着けてこちらを睨んでいた。ハルヒなんぞ、全盛期の大山倍達さえ怯ませそうな視線を送り続けている。
やめくれ、ハルヒ。おまえの視線はメデューサよりタチが悪いんだ。石にするだけでは飽きたらず、ピロリ菌までまき散らしそうじゃないか。
……ああ、そう考えたら胃が痛くなってきた。
「キョンくん、そこに座ってください」
ええ、朝比奈さん。あなたのお言葉なら、その椅子が死刑執行用の電気椅子だろうと拘束具が仕込まれたものであろうと、喜び勇んで座りますとも。座ることでその表情にいつもの笑顔が戻るのであれば、ですが。
「座って」
お母さん、ボクは今日、無事に帰れないかもしれません。
……
………
…………
そんなわけで、冒頭に戻るわけだ。
まさにクライシス。俺の一日のささやかな幸せ、部室を舞う仙女……もとい朝比奈さんがご立腹な状況など、世界滅亡に等しい事柄だ。俺にハルヒのような能力があるのなら、ためらいなく世界を作り替えるであろう、由々しき事態だ。
この雰囲気、その原因はそれとなく察しが付いている。
朝比奈さんと鶴屋さんはケンカでもしたのだろう。どんな理由のケンカかはわからないが、仲の良い親友同士ならそんなことがあってもいいはずさ。歓迎すべきことではないが、健全じゃないか。
しかしな、何故そこにハルヒが加わり、どうして俺が派遣されなければならないんだ? 古泉あたりなら流暢に解説してくれそうだが、あの野郎、傍観者を決め込んでハルヒと一緒に爽やかスマイルを送り続けていやがる。長門も本ではなくこちらを見ているが、何を考えているのかさっぱりだ。
「あー……いえ、なんでもないです」
ちょこっと口を開いただけで二人に睨まれた。
もうダメだ。胃がキリキリどころがギチギチ音を立ててねじ切れそうだ。
しかしハルヒに着せ替え人形にされて、マシュマロバディを弄ばれ、耳かぷされても怒らない朝比奈さんがここまで怒るとは、いったいどうしたことか。
ケンカ相手が鶴屋さんなのも、まぁ間違いない。しかし、俺のイメージにある偉大な先輩が朝比奈さんを怒らせるというのも納得できない。
「ねっ、キョンくん!」
「はぃ?」
なかば現実逃避で考えていたところ、鶴屋さんに不意に呼ばれれば、声が裏返るのも仕方がない。
「ちょっと聞きたいことがあるっさ!」
「ちょ、ちょっと鶴屋さん、やめて……」
鶴屋さんの言葉にかぶせるような朝比奈さんの発言は、出だしこそ大きな声だったが、尻すぼみな結果に。ああ、可憐です朝比奈さん。あなたはやはり地上に舞い降りた天使。ときどき翼が黒く見えるのは気のせいでしょう。
「なんでさっ、みくるっ! この場所だってハルにゃんがセッティングしてくれたんだよっ!」
「そ、そうだけど……ダメ! ダメなの! ダメなんです!」
何がダメなのかわからないが、朝比奈さんが言うのだからダメなんでしょう。ええ、ボクもそう思いますとも。
そして再び訪れる沈黙。
ど、どうすればいいんだ……コレ? と思ったそのとき。
「うあっ!? あ、いや、すいません。ちょっと携帯が」
いきなり携帯が震えて、さすがに驚いた。メールが着信している。差出人は……長門? ただ一言簡潔に「トイレへ」と書いてある。
ああ、長門よ。こんな状況でも俺を助けてくれるのか。おまけに胃腸の健康状態まで気にしてくれるとは。キャベジン長門の称号か、図書カード3,000円分のいずれかを進呈したい気持ちでいっぱいだ。
沈黙を保ち続ける朝比奈さんと鶴屋さんに、さも緊急の用事が入ったとばかりに携帯を持っていることを意識させ、急いでトイレに駆け込んだ。ちらりとハルヒたちの席も目に入ったが、冬眠前のツキノワグマが鮭を狙うような目つきで飛びかかろうとしていたのは気のせいだろう。
「ふぅ……」
トイレは男女兼用のトイレだ。このまま逃げるべきかと算段しつつ一息を吐いたそのとき、控えめな温もりを持つ手の平が俺の両目を覆った。
「だ〜れだ」
この天使のラッパのように清らかなお声。忘れるはずもありません。ええ、忘れるものですか。可憐さそのまま、グラマー度はボンド・ガールも真っ青な朝比奈さん(大)だ。
「ふふ、お久しぶり」
この笑顔、このお姿。まさにあなたが俺にとっての聖女です。特にこの状況ならば、あなたにしか泣きつける相手はおりません……というか、なんでここに朝比奈さん(大)がいるんだ? 長門からの指示だから、あいつが現れると思ったんだが。
「え? じゃあ、長門さんには分かっちゃってたのかしら」
「なんのことです? というか、鶴屋さんとのケンカの原因はなんですか」
「それは、禁則事項です」
ピッ、と人差し指を唇に当てて、聖人君子さえも魅了してしまうようなウインクをされれば、俺如き凡人が問いつめることなどできるわけもない。
「でもキョンくん、そのままだと倒れちゃいそうだから答えをあげるね」
「は? えっ……答え?」
ちょいちょい、と手招きされれば、世の中の95%の男は近寄りますとも。残り5%はハルヒ曰くゲイらしいですが、俺はノンケですので断る理由がございません。が、エンジェルヴォイスで囁かれたその言葉は、ゲイのほうがよかったかと思えるセリフだった。
「マジですか……」
「マジマジ、大マジ。あ、でも出来れば周囲に聞こえるような大きな声で言ってもらいたいなぁ。もちろん、ウソはダメよ」
なんだってそんなことを……。どんな罰ゲームですかそれは。
「それは、この時間に駐留している私に聞けばいいと思うわ」
「まぁ、朝比奈さんのお願いを断る理由はありませんが」
「あ、そろそろ時間だわ。それじゃ、頑張ってね」
ウィンクひとつ、個室トイレに姿を消した朝比奈さん(大)は、そこから出てくることはなかった。そのまま別の時間軸へ移動したのだろう。前触れもなく現れて風のように去っていくのは相変わらずだ。
さて、答えをもらったはいいが困った答えだ。しかも、なんでこの状況でそんなことを言わなければならないのか、さっぱりわからん。
今回は朝比奈さん(大)にとって切迫した状況ではなさそうだし、もしや引っかけでもあるのだろうか?
だが……う〜ん、どうするべきか。
無言で席に戻り、それでも考え続けていたためか、目の前にいる二人の天使(この場合は悪魔かもしれん)が方や上目遣いの冷ややかな目で、方や細めた鋭い目で俺を睨み続けている。
「え〜っとですね……なんと申しますか、お二人の気持ちはわかりました」
朝比奈さん(大)からもらった答えを脳内でリピート再生しつつ、一言一句間違わずに言ってみる。目の前の可憐な上級生二人は、けれど「何言ってんの?」とでも言いたげに、顔にクエスチョンマークを浮かせていた。
……本当に合ってるんですよね、朝比奈さん(大)?
「しかしですね」
ちらりとハルヒ組の席に目を向ける。
古泉は面白そうなニヤケ面を、長門は焦点があってないような目を、そしてハルヒは噛み千切らんばかりにストローをくわえて経過を見守っている。
ああ、朝比奈さん(大)。こんな状況であんなセリフを大声で言うことなんて俺にはできないですよ。でも、小声で囁くのはきっと、未来では規定事項なんでしょう?
俺は目の前の朝比奈さんと鶴屋さんに顔を近づけ、周囲にバレないように小声で答えを囁いた。
結果として、朝比奈さん(大)からもらった答えで正解だったようだ。
俺の言葉を聞いて、朝比奈さん(小)はホッとしたように、鶴屋さんは待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべて、その日はお開きとなった。どうやってケンカを収めたのかハルヒに問いつめられたが、その辺は割愛しよう。
翌日、無事にその日の授業を終えた俺はまっすぐに部室へ向かった。ノックをすると、すぐに戻ってくる返事にホッとする。天女が舞い戻ってきてくれて一安心だが、昨日の話をすることが優先だ。
「キョンくん、昨日はごめんなさい」
部室に入るや否や、俺が口を開く前に朝比奈さんの方からちょこんと頭を下げてきた。
いえいえ、いいんです。そんな愛くるしい謝罪をされたら、怒るんじゃなくて抱きしめたくなるじゃないですか。
「説明してくれますよね?」
朝比奈さんはエプロンドレスの裾をつかんで、もじもじしている。これは襲わない方が失礼かもしれん、という愛くるしさだが、自粛しよう。
「ええっと、鶴屋さんが言い出したことで……。卒業前にカワイイ後輩の背中を後押ししてあげよう、とか言われて。それで、その……」
そりゃ確かにあなたと鶴屋さんがケンカでもすれば驚きますよ。言わなくてもいいようなことさえ口走るってもんです。シチュエーション的には、昔から使う古された王道パターンだ。「私と相手、どっちを取るの!?」ってね。
王道こそ真理とはよく言ったもので、まんまと俺はハメられた。朝比奈さんも芸達者になったもんだ。
結局俺は、朝比奈さん(大)にもそそのかされる形で本音を口走ったわけだが……。
「あ、でも、私も鶴屋さんも、昨日の話は聞かなかったことにしますから。鶴屋さんも『自分の気持ちは口にすれば覚悟できるもんさっ!』とか言ってましたし。それに涼宮さんには、私と鶴屋さんのケンカの原因がキョンくんってことにして呼び出しただけで、ええっとその……正しい顛末は……その、伝えてないと、思います」
ええ、ええ、是非そうしてください。そこらへんは信用してますよ。
本当に申し訳なさそうに暗い顔をしないでください。そんな表情をされると、俺がいじめてるみたいじゃないですか。
なんとかこの空気を変えなければ……。
「でも本当は、あの場を切り抜けるために適当なこと言ったんですよ」
「へっ?」
「本当は……」
つい、っと一歩踏み出せば、朝比奈さんは2歩くらい後ろに下がる。
「はぇ? あの、えぇ!? きょ、きょきょ、キョンくん、でっ、でもそんな……」
……だめだ、俺にシリアス路線は維持できないらしい。焦る朝比奈さんを見ていると、自然と頬が弛んでしまう。
それに気づいたのか、朝比奈さんも焦り顔から笑い顔に戻ってくれた。その笑顔でこの魔窟の邪気をつねに祓い続けていただきたいものである。
「もう、冗談なら冗談っぽく言ってくださいよー。びっくりしちゃいました」
「すいません」
俺は素直に謝罪した。余計な一言を付け加えて。
「でももし、本気だったらどうしました?」
「もうっ! そんなこと……」
SOS団専属のメイド兼書記係は、大人になっても変わらないクセなのか、人差し指を唇に当て、ウィンクをしてこう言った。
「禁則事項ですっ!」
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