白雪

 その日は今年一番の寒波が到来しているとかで、学校創立以来の古さを誇る旧館、つまりSOS団が間借りしている文芸部の部室は、電気ストーブの弱々しい熱風では太刀打ちできないほどの寒さに覆われていた。
 朝比奈みくるが淹れてくれたお茶も、すぐに冷めてしうほどの寒さ。窓の外を見れば、雪こそ降っていないものの、分厚い雲に覆われている。そんな日に限って、今日は特にやることがない。平和と言えば平和な、暇を持て余して行くところもない学生が、部室でぼんやりしている風景が広がっていた。
「どうかしましたか?」
 窓の外に目を向けていたキョンに、チェスの対戦相手をしていた古泉一樹が声をかけた。
「いんや、そろそろ降ってきそうだなと思ってな」
 チェス盤に視線を戻し、ルークをE-5に移動。今度は古泉が長考に入り、それを見計らってお茶に手を伸ばす。部室に入ってきたときに朝比奈みくるに煎れてもらったが、すっかり冷たくなっていた。
「あ、新しいの淹れますね」
 SOS団専属のメイド兼書記は目ざとくキョンの動作に気づいて席を立った。ちょっと前までは電気ポットで沸かしたお湯を使っていたが、ここ最近はお茶淹れに目覚めたのかガスコンロを使って温度計で湯温を計りながらお茶を淹れてくれる。
「んもう! あったまくるわね、この天気予報!」
 コンピュータ研究部から奪ったPCで、ネットの海を彷徨っていた涼宮ハルヒが怒声を上げた。またか、という顔つきで睨むキョンの視線も気づかないほど、モニターとにらめっこを繰り広げている。
「今日は朝から雪だと思っていたのに、ぜんっぜん降らないじゃない!」
「いいじゃないか。これ以上寒くなられちゃたまらんだろ」
 ハルヒが吠えればキョンがかみつくのも、ある意味あたりまえの光景だ。そして、その返しが百倍になってくることもまた、東から昇る太陽が西へ沈むのと同じように必然のことでもある。
「何言ってるのよ。雪が降ったら雪合戦ができるでしょ。コタツで丸まってるのはネコの仕事なの。ネコがいいとか言い出したら、猫耳つけて市中引きずり回すわよ。あ〜も〜、今から降っても何もできやしないわ」
 コイツのことだ、明日は交通機関が麻痺しまくりの大雪になってるかもしれん……。そう言いたそうに眉根を寄せるキョンを余所に、ハルヒはマウスを投げ捨ててふんぞり返りながら、アヒル口をパクパク動かして嘆息した。
「今日は解散ね」
 団長の号令で、各々のメンツはそろって帰り支度を始めた。


 せっかく淹れてくれたみくるのお茶を捨てるわけにもいかない、とばかりに1人残ってお茶をすするキョンは、最後の戸締まりをして部室を出た。なんだかんだと時間はもう遅い。部室棟から下駄箱までの移動ですれ違う人影は皆無だ。
「うん?」
 誰もいないと思っていたが、上靴から履き替えたときに、粛々と外を見つめている人影が1人。ダッフルコートを羽織り、フードまで被っている小柄な少女は、キョンの見知った後ろ姿だった。
「長門、まだ残ってたのか」
 声を掛けてきたキョンに、長門有希その姿を確認するようにチラリと目を向けて、すぐに外へ視線を戻した。琥珀色の瞳はただ、外を眺めている。
「何してるんだ?」
「雪」
 ただ一言、風に流されればすぐに消えそうな吐息に混ぜて呟いた。
「ああ、降ってきたのか」
 雪が降るのはわかっていたが、こんなタイミングで降ってくるとはツイてない。地面を見ればうっすらと積もっている。ハイキングコースのような坂道で転ぶのはゴメンだな、などと考えている間、有希は微動だにせず降り続ける雪を見ていた。
 本以外で有希が注視し続ける姿を見るのは初めてだった。普段の彼女を知っている者ならば、雪なんていう毎年起こる自然現象を、ただ呆然と眺めている姿が不思議に見えても仕方がない。
「そんなに珍しいのか?」
 だから、キョンがそんなことを口にするのも、当然と言えば当然だった。そして何より、何か思うところがあるような、他人が見てもわからないような微妙な表情の陰り。有希がただ、降り続ける雪を漠然と眺めていたわけではないことをキョン見抜いている。
「ユキ……ねぇ」
 それが、空から降るソレを指しているのか、自分のことを指しているのかわからなかったのか、有希はキョンに顔を向けた。
「ユキは嫌い?」
 唐突な問いかけに、言葉が詰まる。その真意を測りかねて顔をよく見ようとするが、フードに隠れた顔は口元しか見えない。
「あ〜……そうだな」
 今度はキョンが、窓の外に目を向ける。音もなく降り続く雪は、うっすらと世界を白一色に染め上げようとしている最中だった。
「小学生のころは雪が降ると楽しかったな。今は、積もったあとが大変って気分だ」
「そう……」
 どこか、沈んだ声。有希はうつむいて、傘を広げる。話は終わり、とでも言いたげに歩き出したその後ろ姿に向かって、キョンは降り続ける雪を見つめながら言葉を続けた。
「それでも、今も昔も思うのは……綺麗だな、ってことかな」
 ぴたり、と足が止まる。
「……そう」
 長いような短いような沈黙のあと、有希は鈴の音のような声で返事をした。
「ああ、長門」
 呼び止めたキョンの言葉に、有希は問いたげに振り向く。
「その……なんだ、傘忘れちまったんだ。途中まででいいから、一緒に帰らないか?」
 言ってから、今日は朝から天気予報で雪が降る予報が出ていたことを思い出す。
 ──そんな日に傘を忘れるヤツはいないよな……。
 キョンがそんなことを考えるわずかな間。3秒も経過していないだろう、そのわずかな沈黙のあと、有希は傘立てにちらりと視線を向ける。そこにある一本の傘を視界に収めてから、開いた傘で顔を隠しながら、静かに自分の傘を差しだした。
「途中までなら」