今日は日差しがまぶしい。久しぶりにサングラスを着用する事にする。机の下のガラクタの山からサングラスを探し出してケースから出してみると、レンズに埃が張り付いていた。いかに高価なサングラスでもこれは防げない。かくして出発までの貴重な時間を無駄にする。
取り敢えず、家から出る。サングラスの色のついた視界。いつもの世界に比べて、かすかに彩度の低い世界に対する違和感。サングラスをはずしてみる。確かに世界は色鮮やかに成るが、しかし、目に痛い。やはり完全な晴天よりも、ちょっと曇りぐらいの方が気持ちが良い。
しかし何故だろう?うっとうしい筈の日の光が、こうも清々しく感じられるのは。しかし、目に悪いのでサングラスは掛け直す。結局下から見上げて楽しむ物なのだ、景色などと言う物は。
00/03/156
よく電車の中で友人などと社会情勢について議論する事がある。その日も電車の中で友人Kと、「この不景気から日本は立ち直れるか?」と言う事について議論していた。まあ、素人とはいえ、それなりのレベルとなっていたと思う。その時、ちょうど目の前におばあさんが来たのでKはおばあさんに席を譲った。
彼の反応が遅ければ、私が席をゆずっていただろう。そして、また話し出す。話はどんどん悪い方へと進んでいく。当然だ。Kの実家は不景気の煽りを受けて惨い事に成りつつあったし、私は私で絶望の権化と化していた。幾ら考えても、当時の金融施策が正しいと思えなかった事が理由である。
その時、Kに席を譲られた老嬢が突然言った。「そんな事はありませんよ。何時だって日本は不景気から抜け出せたのだから。」と。突然話に割り込まれた形となったKと私は非常に慌てた。それでも、私は反論しようとした。「しかし、今回の物は…。」性質が違う、そう言いたかった。
不景気の原因となったバブルの崩壊は、その時点でさえ日本から多くの物を奪い去ったように見えた。現在の日本はかつての様に良質の労働力に恵まれているわけではない、ちょうど私がそうである様に。現在の日本は優秀な官僚団を持ってはいない、五十年前の様には。今の日本人には自覚がない、アメリカに負けたという。
彼女はしかし、こう言った。「だって私は全てを見て来たのですもの。」
彼女はこうも語った。自分は布の卸問屋を戦後まもなくからずっとやってきた。焼け野原になった東京がここまで建て直され、大きくなっていく様を見てきたのだ、と。私には、なんとなく彼女が自分に言い聞かせているような気がして成らなかった。少なくとも、
日本の紡績業界が他国とやりあえるほど価格競争に強いとも思えなかったから。
だが、彼女の言葉は重みがあった。私はなんとなく彼女の台詞にも信頼できる物があると、その時点では思った。振り返って今。ゼロ金利政策で国内資産は大規模に流出。おめでたいマヌケ首相は二千円札や地域振興券などと言う、精神の所在を疑いたくなるような狂った素晴らしい政策を立ててくれる。
そして、ゼロ金利政策の撤回はおろか、何の抗議も行わずただただアメリカの言う事を聞くばかりで、アメリカの追従に終始し自己保身に抜け目ない。
なあ、あんた、俺達だけじゃない、あのおばあさんも裏切っているんだぜ?判ってるのか?全国民を裏切りつづけてるんだぜ?世界一の借金で喜んでるうちに、暴徒と化した一般人に殴り殺されたって知らないぜ?
00/03/15
慢心。私が最もそうなる事を恐れている状態の一つである。只でさえ無能な人間がいったい何に自信を持つのであろう、そう思うことは非常に多いが、こんな私でもまれに自信を持ってしまう事がある。それが良くない。もともと何の取り柄も無い(もしくはそう信じる)人間が何かに自信を持った場合、
いったい何をするであろうか?答えは簡単。他人にひけらかそうとするのだ。劣等感の単純な裏返し、どうという事は無い無意味で歪んだ薄っぺらなプライド。しかし、運命、いや、そんな大それたモノではない。この場合はただの運であろうか?ともかく、それは今までの貸し、
すなわちそのちっぽけな自信を持つにいたった経緯を、完膚なきまでに粉々に破壊しに来る。それも、最悪のタイミングで。
だから、私は出きる限り物事に関して自信を持たないようにしている。只でさえ注意散漫な人間が、そんなくだらない事で更にミスの発生率を上げているようでは存在する価値無し、そう言う事に成ってしまうからだ。それでも、慢心は避けられない。それも、決して。何故ならそれが逃避だからだ。
自分が無能であると言う現実から逃げうる、ただ一つの方法なのだから。その現実では無い現実に浸っているときだけ、自分が無能ではないかのような錯覚と安心感に身をゆだねる事が出きるのだから。
しかし、その代償はあまりにも大きい。現実と言う名の鏡の前に立たされたとき、いつでも私は自分自身に絶望している。そして、その鏡が映し出すのはいつでも、自惚れのあまり自分から間違いを犯した間抜けな人間なのだ。そのうえ、その借金の取りたてはいつだって最悪のタイミングで訪れる。
だから、周りに残す影響は大きい。迷惑をかけた相手(いたとして、だが)がその事をとうに忘れた後でも、心の底に残って消えない傷は、コンクリートに入ったひびの様に互い互いで交わりあい、次第に大きくなって行く。覆い隠す方法は全てを忘却する事、ただそれのみ。しかし、忘却と言う行為は、
壁のひびをコンクリートで塗り固めるのに似ている。ある日、ぼろりとコンクリートが剥がれ落ちると、元あったものと同じ大きさのひびかそれより大きなひびが其処にはあるのだ。幾つものひびは、交わったり重なったりしながらどんどん大きく成長していく。その様が心の中で自覚されるたび、
私は死にたくて死にたくてしょうがなくなる。
悪い事にそのコンクリートのかさぶたをはがす原因になった失敗というのは、大概が最初の心の罅割れの原因になった事と同一である事である。失敗の原因を思い出してそれを未来に反映しようという行為は、私の心には耐えられない事らしい。故に、逃避機構は自動的にその物事を忘れさせようと努力する。
無論、自分にとって良い事であっても、其処から手繰っていくうちに必ず失敗にたどり着く為、やはり「心」はその事実を隠蔽せんとする。結果、異様に物忘れの激しい人間が誕生する。もちろん、理性はその逃避に対して激しく抵抗するから、時には間欠泉のように嫌な感情が噴出してくる。
時々、無意識のうちに「痛い、痛い。」と叫んでいる事がある。そう、痛いのだ。生きている事そのものが。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ………。しかし、いくら幼子のように駄々をこねようとも私は生きている、それも現実の上で。なんと耐えがたい現実。これが物語の中ならばいかに気楽なことか!
そうであれば、不必要なものには触れられずに脇役はそのまま消えていける。
もしも、この世界全てから隔絶され、全てのものが私を忘れ去ってくれるのなら、誰もに迷惑をかけずにこの諸悪の根源が絶てるのなら、私は喜んで自殺しよう。そんな事はありえないが。結局私は、いつか耐えきれなくなって破滅するのだろう。それが何時になるのかは判らないが。
ああ、人生って何て素晴らしいんだろう!!
00/03/14
更新忘れの為、欠番。眠かったから寝ちゃったって言うのは君と僕だけの秘密だたまにはネタが尽きることだってある。
00/03/13
道を歩いていて、突然人をぶん殴りたくなるような事ってないだろうか?私は良くある。別に道を歩いていなくても、こいつの頭を椅子でぶん殴ってみたらどうなるであろう、もしもこいつの頭蓋に手斧を叩きこんだら何が起こるだろうか、と、かなり剣呑な好奇心を抱いている事が多々ある。
ただ、この「単純で不可解な殺意」とでも言う物は抱く相手が非常に限られている。まず、相手が正面に居て目を合わせて話している場合。相手がこちらに背を向けて無防備に歩いている場合。とてつもなく不快な事があった場合の逃避行動として、何かに対し非常に強い殺意を抱く。
大体このパターンに類別される。まあ、まれに複数の要素が重なる事があるが、今のところ人の頭に手斧を叩き込んだ事は一度も無い。………その上、(世の人には幸運な事なのかもしれないが)新聞の三面記事の見出しを自分の名前で飾るのは大いなる恥である、と言うのが私のいささか保守的に過ぎる価値観に基づく考え方なので、
今のところ好奇心を満たす予定も無い。まあ、在ったところで私の腕力の非力さは、それこそ世に響き渡るほどのレベルなのである。世の非常に多くの人がそうであるように実行不可能だ。
こういった現象と言うのは、本人が強いストレスなどを感じているときに良く生起するそうである。と言う事は、始終幕無しその状態にある人間は、その根本的部分に社会不適合者の素質を持ち合わせているのであろう。しかし、誰でも多かれ少なかれその手の反応を強いるストレスには事欠くまい。
いかにして世の一般人と呼ばれる方々はストレスを発散していらっしゃるのであろうか?
実は、自分の事を精神異常者だと思っている人間以上におかしな人間ばかりなのかもしれない、この世の中は。だからと言って、私に出来る事は新聞の三面記事に載らないように素行に気をつけることくらい、決して自分を社会から隔離する事ではない。なんともおかしな世の中である。
大学の無線部の部室で、先輩達が剣呑なゲームをやっている。「ああ、『恋慕』があがっちゃったよ。まずいなぁ。」「むむ、『従順』が下がっちゃったね……。」「あ、それはほっといてもあがるから大丈夫だよ。」
「うーん、顔が赤いな。」「あんまり無茶すると『壊れちゃう』からね。体調が悪いのか、喜んでいるのかわかんないんだよな、このゲーム。」「を?『苦痛』で『恋慕』があがり始めたぞ。」「一人で喜んじゃってますな。」
本来開発者が意図したのと違う方向でゲームをプレイすると、かくも喜劇的な状況が発生する事にいまさら気付かされる。
00/03/09
今や、花粉症の季節真っ盛りである。なんとも素晴らしい症状に幾多の人が悩まされ、凄まじい不快感に見をよじりながら一年の一定期間をすごさねばならない季節が到来したのだ。誰にとってもあまり快適ではない現実、特に、目の前で話している相手が鼻水をすいこんでいる、
そんな光景は、潔癖症の人間で無くとも背筋に寒気が走るものだ。こんな光景が好ましいものに写るのは医者くらいのものであろう。それも、彼が花粉症と全く関係ない位置にいる場合のみである。
ところでこの花粉症の原因なのだが、必ずしも花粉のみが原因ではないらしい。原因となる花粉が何故こういった症状を起こすかと言えば、本来花の雌蕊の上で行われる植物の生殖行為が人間の鼻の粘膜の上で行われる事が原因である。
注入された人間の体の中には無い筈の種類の蛋白質が体内の免疫機構を刺激し、呼吸器や目などにかような症状を巻き起こすとされている。
しかし、自動車排気などによって空気の汚れていない場所に行くと、とたんに症状は緩和されるそうである。なんとも皮肉な話である、花粉が少ない場所の方が被害が大きい花粉症とは。
もっとも、環境の変化によって痛めつけられた木々は力いっぱい花粉をばら撒く。何が何でも子孫を残そうと死に物狂いで努力するわけである。なので、都市近郊の木が一本辺りばら撒く花粉の量は非常に多いそうである。
ここらへんを考えると………やめだやめだ、門外漢が幾ら考えたところで、まともな対策が生まれてくる筈が無い!!目前の恐怖をどうするかだ。
私の花粉症は、大体5月くらいから始まる。そう、その不快の元凶は足を忍ばせて私に近づきつつあるのだ。かくして、他の人の花粉症が収まったとき、私の孤独な戦いが始まる………。
00/03/08
いついかなる時でも、死は突然訪れる。例え、それがその対象者になった人間が望んでいたのであろうと、無かろうと。突然地下鉄が脱線し、対抗車両に押しつぶされる。中々な悪夢だ。現実に巻き込まれずにすんで正直ほっとしている。
しかし、実際に巻き込まれてしまった人間、その鋼鉄のあぎとから逃れ得なかった人達にとって、それは全く関係無い事ではない。ブラウン管や紙をとおして覗いている我々にとっても、実のところそれは全く変わらない。諸々の原因が引き起こした、
社会そのものの腐食速度の増大が広めた社会のほころび目に落ち込んでしまった被害者が今回の死傷者の方々なのだ。
いかに営団地下鉄内で責任が追求され、いかに営団線内の電車の点検が重視されても、また別の場所で同様の事故が起こるであろう。それも、何度でも。
なんと馬鹿馬鹿しい!!徹底した合理主義が逆の非合理を呼びこむとは!!
00/03/07
新聞を開くと、今のこの国の宰相が美味そうに山芋飯(おろし金で山芋をおろした物を炊きたてご飯にかけて食べる。非常にうまい)をかっくらっている写真がデカデカと掲載されている。なんと幸せそうな顔!!まるで心配事など何も無いかのようだ。
実の所はドコモ株疑惑などでケツに火が付き掛けているのだろうが。
その幸せそうな顔を見ていると、不快感を通り越して殺意すら催してくる。もともと、政治家と言う職業は死ぬほど大変な職業の筈である。例えば、何か自分の部下がミスをやったら、
その責は全ての国家機関に対しての上長たる内閣総理大臣にも当然及ぶであろう。聞くところによると、現在警視庁やその他諸々の官僚組織では不祥事の揉み消し対策におおわらわだそうである。
だと言うのにこの能天気な顔!!余程の豪胆者であるか、自分の責任も理解できないほどの無能者であるかのどちらかで在ろう。そして私の思うところ、彼は後者である。十円かけても良い程である、誰相手だと言うわけでもないのだが……。
00/03/06
私は、産まれつきなのかそれとも後天的なものなのか、左右非対称なものと細長くて粘ついた生き物に強い恐怖心を抱いている。どちらもかなり強烈な拒絶反応を起こすのだが、前者の方はまあ我慢できないものではない。と、言うよりも世間に溢れている為に我慢しながら生きていくより他が無い。
ただ、私の精神がいささか安定を欠いた状態にあるのは、そういった物が世の中に満ち溢れているからかもしれない。あと、あまり大きいものになると大きすぎて全体像を気に出来ない事もあろう。それでも、建物でも何でも左右対照の方が落ち着くのだが。
しかし、細長くて粘ついた生き物はべつだ。私はこんな物がうねうね動いているのを見て、精神の平衡を保っていられる自信は全く無い。外見上は無関心を装っていても実は心は狂おしい絶叫をあげ続けているか、もしくは、衝撃による一時的な無感情状態に陥っているか、
そのどちらかである。ああ、試してみよう等と考えないように。まともに発狂した私が殺人を躊躇うとも思えないから、命が惜しければ絶対避けるべき行為の一つだろう。ちなみに、相手が確実に死んでいると判っていれば特に問題は無い。
そこらへんはかなり理不尽では在る。
しかし、悪夢と言うのは残酷なもので、ここらへんの物が山のように出てくる事が多い。時には「ぬらぬらして細長い上に左右非対称な巨大蛭が襲い掛かってくる」という、究極な物だったりする。とにもかくにも性質が悪い。自分の知りうる限りでもっとも苦手なものが出てくるのだから。
誰か私の変わりにあの夢を見てくれる人はいないだろうか?左右非対称なものと細長くて粘ついた生き物が大嫌いになること請け合いである。私?私は見せられすぎて、「衝撃を受ける事」そのものに慣れつつある。
でも、仕方ないので最終兵器(Wizでは最強呪文だった)を使用。なんとなく、核ボタンを押し込んだときのマ・クベの気持ちがわかったような気がした。あくまで気だけど。
今日はカラオケだった。何やら以前から良く行っていたカラオケチェーン店がとある汚職事件がらみのドサクサで閉店。(私は)はじめていく店に行く。汚さの目立たない白い壁、黴と煙草の煙の匂いのしない空気。悪くは無かった、が………。
一部屋あたり五十万程かけて作ったというラブホテルなどにお似合いであろう下卑た装飾余りに斬新過ぎる壁面のオブジェはいったい……?つーか、照明がブラックライトだけって何さ!?
00/03/02
私は、産まれつきアルコールを受け付けない体質である。ところが、私は文化会副会長。何かお祭り/宴会があると狩り出されるのだ。一切酒が飲めない(肝臓なんかがあまり強くない上にアルコール分解酵素欠乏)上に、あのアルコールの吐き気を催す匂いが大嫌いで、
ついでに言うと、アルコールに対してのアレルギー(どのように出るかは決まっていない……)まである。
でも、断れない。私の仕事には「その時その場所に居る事」まで含まれているからだ。そして、酒を勧めに来る人間には理由を話して勘弁してもらっているのだが、何故かこの事を聞くと皆さん私のことを憐れんで下さる。すばらしい!!
彼らの思考回路には、「例え飲めるとしても飲まない」私のような人間に対する配慮は、完全に、綺麗さっぱり、まったくと言って良いほど抜け落ちているのだ。おいおい、何が「人の気持ちも考えろ」だよ、ケケケケ………(ちょっと悔しい)
00/03/01
私にとっての「良い天気」とは、実は晴天を意味しない。何ゆえ、本人が主観的に不快に感じる天候を「不快」であると言う意味をこめて「嫌な天気だ」と言ってはいけないのだろうか?
たとえそれが、気象区分での完璧な「快晴」であったとしても、数日間乾いた日々が続いただけで都心部の空気は凶器に近いものになる。埃、光学的性質、乾燥。埃とは、言わずもがなの埃のことである。顔にはり付いたり首筋がベタベタになったりとろくな事に成らんので、
日溜りの中を駆け足で舞い降りる、あの妖精のような光の粒以外の埃は唾棄されるべきものであろう。そして、光学的性質。都心部では、数日間の晴天が続いた事だけで空気が濁る。事実濁って見えるのだ、それも雑巾のような灰色に。これを拭い去るのは降雨か強い風のみだ。
しかし、どちらの効果も長くは続かない。やがては、忌まわしい淀んだ空気が帰ってくる。そして、乾燥。これは言わずもがなであろう。空気の匂いは、水の香りがするぐらいがちょうど良いであろうと何時も思う。
ゆえに、土砂降りの雨の日でも私は「良い天気だ」と言う。しかし、何故私の周囲の人達は私のことを奇異の目で見つめるのであろうか?不快なものは不快であると表明するべきである。
私は、「戦略級シミュレーション」と分類される類のコンピューターゲームが大好きである。特に第二次世界大戦を扱ったゲームが私の好みだ。戦艦の圧倒的砲力で艦砲射撃を行い、米軍やその他諸々の国々の兵力がまるでおろし金でおろされるが如く削られる様を見ていると、
快感に近い物すら覚えてしまう。例えゲームの中とは言え、これだけの人間が肉片と化し土塊とともに練り上げられるのだ。それなりに優秀な筈の人間どもがばたばたと戦死していくのだ。
(少なくとも私自身の価値判断では)無能者である私にとって、これは素晴らしい快感である。と同時に、素晴らしく不愉快な気分にも成る。只の逆恨みほど、周囲の人間及び自分にとって不快に感じるものは在るまい。全く、馬鹿馬鹿しい事である。無論のこと、止める気などさらさら無いのだが。
00/02/29
平日と言う区分に分けられる日々は、何時でも時の流れが一定である。小さな触れ幅からはみ出さない程度に揺れ動く、ルーチンの中の日常。それでも、全ての事がルーチン化できない悪夢のような状態よりはましだ。
全てがルーチン化できない日常を、人は災難と呼んで恐れたり、幸運と呼んで喜んでいたりする。
であるならば、いつでも「何時か本格的に狂ってしまうのではないだろうか、私が私で無くなるのではないだろうか」と言う恐怖におびえている私の日常は、普通の人にとっては「非日常」に属してしまうのかもしれない。こういった事は、無意識に口から迸ってしまった独り言や、
意味の無い単語の羅列を人に聞きとがめられたとき、特に強く感じる事である。
ひょとしたら、私はもう狂っているのかもしれない。砂を噛んでしまった歯車のごとく、ゆっくりとゆっくりと。
00/02/28
普通にバイトに行き、自分が吸いもしないタバコの煙にまみれ排気ガスの町をとぼとぼと帰るその帰り道。いささか疲れた足取りで家路を目指す私の前に、その本はあった。
『鏖殺の凶鳥』(定価1800円、富士見より好評発売中!!)、佐藤大輔先生、一瞬でも疑ってしまって申し訳御座いません。こんなHP見てる訳無いだろうけど謝っておきます。ちなみに、本日の合言葉。「フッケバイン、フッケバイン、フッケバイン。」
ごく短く、そしてあまりにも短い、安らぎのひととき。こういう面白い本を読む為だけに僕は生きているのだ、わざわざ。
とまあ、いいかげんな理由着けの元、一日中自分の部屋に閉じこもって不健全なパソコンゲームにいそしむという、ひところのS価学会狂信者な良識溢れるPTAのお母様がた(番町学園のアレじゃないよ?)にフクロにされかねない一日を送る。
結局のところ外出するのが面倒であっただけなのに、いちいち理由付けを必要とするとは、私はよっぽど人間としての器が小さいらしい。喜ぶべき事であろう、少なくとも私よりまともな人間が社会の標準なのだから。
その割にはこの頃の社会の荒れ果て方、それとも今の世の中私より出来の悪い人間が氾濫しているのであろうか?やはり喜ぶべき事であろう。例え偽りでも存在意義が手に入るのなら、文明の一つや二つが滅びたところでなんと言う事は無い。少なくとも私にとっては。
夜に入ってから、今日発売予定の『鏖殺の凶鳥(おうさつのふっけばいん)』を買いに行く。贔屓にしている小説家の作品なので、出来る限り速く読みたかったのだが店頭に並んでいなかった。「ひょっとして原稿落としたんでは!?」と言う懸念がこの先生では良く当たってしまう為、
非常にダークな気分に成る。いや、配本が今日だから未だ並んでいないのだ、そう自分に言い聞かせる。数少ない生き甲斐の一つなのだから、たまには「ぽぜてぃぶ思考」の悪しき呪縛に囚われてみるのも悪くない、そう思い直し、家に帰ることにし、
大型デパートの一角にある超大型チェーンの本屋を後にする。
………違う。何かを忘れて居る!!頭の中で何かが叫んでいるのを無視して帰ったら、母に頼まれていた買い物を忘れていた。明日の弁当のおかずはいつもより一つ二つ品数にお劣る事であろう。恨むな、妹よ。これも運命だ。
ちなみに、私はそんな運命真っ平ごめんである。
だが、何より不愉快なのは、わざわざ出かけていった会議で、私が何の役にも立っていなかった事である。わざわざ身銭を切って出かけたのに。
私は、自分が無能である事、他人に重度の迷惑を掛ける事は、出来る事なら避けたいと願う程度の常識は持ち合わせているつもりである。不愉快と言うよりも、むしろ、空虚と言うのに近い気分であった。
話し合っていた議題は、「不正アクセス禁止法案施行に伴って、学生課からの援助依頼にどう答えるか?」と言う事で、議題は殆どそれのみ。会議は踊らず、その上進まず。当然である。世の殆どの人間が対処する術を見つけていない問題に対して、
いったい何をしろと言うのであろうか?学生から幾ら呼びかけたところで、道徳観念や常識の欠如した人間の起こす人災は防げない。入学試問とは、いったい何の為にあらんや?
帰る道すがら、世田谷区立中央図書館に寄って行く。ちょっと「土硝法(黒色火薬の主成分が一つ、硝石の旧い製法)」について書かれた本を探しにいったのだ。図書館の司書は非常に有能で、すぐに本を見つけてくれる。 ただ、当時の文章(及び文字)を読み解く能力は私には無かった(そして、現代に生きる人間の殆ども持ち合わせていない筈)ので、製鉄関連の(蹈鞴と言う奴ですな)資料を借りる。
近年他に類を見ないほど異常に寝覚めの悪い朝だった。原因は、只の悪夢。
そう、只の夢なのだ。同と言う事は無い只の夢。しかし、最も見たくないと本人が切に願うものばかりがそこには具現し続ける。生理的に受け付けないもの、思想信条の違う「既知外」ども(別に思想信条が違うから受け付けないのではない、「既知外」だから受け付けないのだ。)そして、自分自身。
何が性質が悪いって、自分自身を見せられる事ほどこたえる事は無い。自分がそうなる事を最も恐れる、最悪の自分がそこにいるのだ。心休まろう筈があるだろうか?いやあるまい。
老いさらばえ、階段さえまともに上れなくなった自分。まともな頭脳の働きを失い、周囲から今以上の憐憫のまなざしを向けられる自分。
おお、時の女神よ。何故貴方はかように残酷なのですか?私は未来永劫生きている限り貴方を呪うだろう、もしも貴方が存在するなら。しかし貴方は実在しない。
だから、私は毎夜毎夜とこにつくたび、おそれ慄き待ち焦がれる。生命の蝋燭が燃え尽きる、その瞬間を。