ケイ国王の映画感想文21 VOL.39

ムーラン・ルージュ

「ムーラン・ルージュ」(監督/バズ・ラーマン 出演/ユアン・マクレガー ニコール・キッドマン )

(以下大いにネタバレあり)
見終った人か気にならない人だけ読み進んで下さい。

 とりあえず順番に色んな事を書いて行こう。
 しょっぱな、画面上に「最高の愛とは……愛する人に愛される事」と言う文字がスッと現れては消えて行く。「最高の愛とは……愛する人に愛される事」……ふーん、と思う。じゃ、片思いや見返りを求めない愛はここでは否定される訳ね。ふ〜ん。ま、いいけど。でもそれって、冒頭で仰々しく出す文章か?
 この辺でもう、なんか悪い予感がしている。そして悪い予感と言うのは大体当たってしまったりするものである
 ……見終った後、とりあえずバズ・ラーマン監督はわての中では決定的にダメ監督となってしまった。以下その理由を書き記して行こうと思う。しばしおつき合いを……

 1900年パリ。伝説的なナイトクラブ、ムーラン・ルージュでの踊子と劇作家の悲恋の物語をミュージカル形式で描いた作品……である。テーマは「愛」だね。これは映画を見た人全員が分かる。映画を初めて見る小学生でもね
 なぜなら、冒頭、劇中、そして終了後、とりあえず愛、愛、愛のオンパレード。セリフや字幕でこれみよがしに愛とはなんぞや、愛している、愛があればなんたら、愛こそがなんとか……
 もう分かったよ!って感じ。しかも語ってる内容は大した事ないんだよね。なんちゅうか、ここぞと言う時にバシッと一言かますか、セリフではなく登場人物の行動や映像で語って欲しいんだよね。
 なんちゅうか、ちょっと昔で言うとKANの「愛は勝つ」とか大事マンブラザーズバンドの「それが大事」をヘビィローテーションで聞かされてるような……ま、好きな人は好きなんだろうけど……
 で、まあ、作家志望の若者クリスチャン(ユアン・マクレガー)が美しい踊子サティーン(ニコール・キッドマン)に恋する訳だけれども、ま、こういう高級ナイトクラブと言うのはショーでお客さんからお金を取ると同時に、踊り子がお客さんに身体を売ってお金を稼いでいる訳だ。で、ナンバーワンの踊り子であるサティーンは、金持ちと結婚して、ナイトクラブではなく、ちゃんとした舞台で女優として扱われたいと言う願望を持っていて、身体を売りながら、そう言う相手を物色している。だから貧乏人の青臭い若い青年作家なんかには最初は見向きもしない。でも、あきらめきれないクリスチャンはサティーンの部屋に忍び込み、"自分で作ったオリジナルのラブソング"をサティーンの前で歌い上げる。で、主人公の純粋な思いと素敵な詩と歌声にうっとりし、サティーンはクリスチャンに心奪われてしまう……てな感じなんだけれども、"自分で作ったオリジナルのラブソング"……この部分がポイントで、ここで監督は19世紀のパリの物語であるにも関わらず、このミュージカル仕立ての作品の歌のシーンの殆どで(この求愛のシーンに限らず)、ビートルズやフィル・コリンズやU2やマドンナと言った現代のアメリカンポップスのヒットナンバーを使うと言う仕掛けを打つ。古典的な愛の物語に現代のヒット曲をちりばめる……これはこの監督の発明であるし、現代の観客に受け入れて貰う手段として面白い方法であるとは思う。で、それはそれでいいんだけれども、全部が全部既成の曲ではなくてこの映画独自のオリジナル曲も混じってると言う状況で、フィル・コリンズやビートルズの曲を「才能のある作家である主人公の『オリジナルの歌』と言う設定で」、ヒロインの前でその歌を歌い上げるってー状況に、どうも違和感を感じてしまうんだよなあ。やっぱりそこは、この主人公、そしてこの映画の作者である監督や脚本家のオリジナルの言葉で愛を歌って欲しかったなあと思うのだ。
 いますよねえ、好きな女の子の前で「この歌を聞いて欲しい」とか言って、オリジナルのラブソングを歌い出しちゃう奴とか、自分で持っているCDの中からお気に入りの曲をテープに編集して、「これ、俺の気持ちだから」とか言ってそのテープを送っちゃう奴とか。既にこの時点でキモいと思うんですけど(笑)、そのうえ更にオリジナルソングだから……と言って聞かされた曲が既成のプロの曲だったら幻滅しません? ま、この作品の場合はちょっと違うんですけど、ま、そう言う風に感じてしまった訳ですよ。んむ。

 が、しかし、ここまでわてが書いて来た事は、実はこの作品に対する不満の中では些細な部分でしかなく、どちらかと言うと後半、わては非常に不愉快な思いでこの映画を見る事になる。じゃその事を書かせて貰いまひょか……

 サティーンをみそめたある公爵がサティーンの独占を条件に店への出資、次のショーのスポンサーになる事をオーナーに申し出る。サティーンは断り切れずその申し出を承諾してしまう。そのかわりそのショーの作家としてクリスチャンを起用させる事を条件とし、公爵はそれを承諾する。もちろん公爵はサティーンとクリスチャンの関係の事は知らない。二人は公爵の前では作家と女優の関係を装い続け、サティーンは口実を作って公爵の誘いを断り続ける。が、結局それはバレてしまうのだが……

 「公爵の前では作家と女優の関係を装い続け」と書いたが、二人とも隠す気ゼロなんだよねえ。いちゃいちゃし過ぎ! 職場恋愛なんてバレないようにするのが鉄則でしょ? 二人ともお互いにのぼせ上がっててまあ周りがやりにくい事やりにくい事。でも、まあ、ここ、百歩ゆずって許しますわ。で、この公爵って、実はこの辺まで、別に悪い人でもなんでもなく、一応、ちゃんとした手順を踏んでサティーンにアプローチしている可哀相な善意の第三者なんだよねえ。どっちかと言うとクリスチャンの方が知能犯と言うか(笑)。でも、まあ、恋愛なんてどっちが正当かとかそう言う事じゃないからね。俺のが深く愛してるとか言ったってフィーリングが合わなきゃしょうがないし……って事でこれもまあ別に良し
 問題は……この後の展開ですよ。ま、バレちまった訳ですよ。公爵、カンカンですよ(当たり前じゃ!)。で、もう出資はしない、手を引く!ってオーナーに言い渡すんですが、結局、クリスチャンと別れて、公爵とサティーンが寝ると言う事を条件に、なんとか、その場を食い止める訳ですよ。で、公爵はクリスチャンを殺そうと思ってます(この辺から公爵壊れ始める。ま、殺しはいかんですよ。ここから悪い人ですわな)。クリスチャンの身を案じたサティーンはもう愛していないと嘘をつき、クリスチャンをパリから脱出させようと仕向ける訳ですよ(ちなみにサティーンはまた公爵を騙し、まだ公爵とは寝てません)。
 で、その展開になる前に二人は舞台初日を前にして二人で逃げようか……と言う話をします。二人とも逃げる気満々です。お前ら、舞台やる気ゼロかよ!……いや、別にいいんですけど、少しでもね、「でもここまで頑張ってみんなで準備して来たショーだから」とか、「たとえここはナイトクラブでもお客さんは私のショーを楽しみに見に来てくれてるのよ」とか、「僕は死んでもこのショーだけは成功させたいとか」、「君は女優だろ?舞台から逃げたら駄目だ!」とかのセリフが出て来たら、むちゃくちゃいいと思う訳ですよ。悪いけどこの状況を招いたのはこの二人の所為なんですよ。公爵は全然悪くない(少なくとも序盤は)。そんな二人が自分達の都合でバックれんなって事ですよ。
 あるいは次の展開でも良いんですよ。二人が逃げようとした所にオーナーが現れる。オーナー「君たちはそれでいい。しかし、ここまで一緒に準備して来たスタッフはどうなる? そして舞台を楽しみにしている観客は?」ここでハッと目が覚める二人……とかね。

 なんちゅうか……主人公達、芸術とか演劇とかショービジネスとかに携わる人間としてのプライドとか、舞台への愛情とかそう言うのが希薄なんだよね。
 で、それって監督自身の姿勢の表れではないかい? ミュージカルに出て来る歌のシーンを既成のヒット曲で済ませる。やっぱそこには目先の面白さだけを追うような姿勢が見え隠れするような気がしてしまう。

 ただね、「舞台を捨てて恋愛を選ぶ事」自体が悪いって言ってる訳じゃあないんですよ。
 「周りを裏切り、迷惑をかけ、大事なもの(舞台)を捨ててまで選び取った恋愛」って事に自覚的じゃあないんですよこの主人公達。て言うか作り手側が、って事なんですけど。そっちにするんならそっちを極めて欲しいんですよ。

 結局……その「舞台を勤める事の意義」とは別の理由で、サティーンは舞台を務めます。で、クリスチャンの命を狙う殺し屋とかの展開があって、クリスチャンはオーナーの助けとかもあり、クリスチャンは助かります……
 
 結構いろんな人がすぐ二人の味方になっちゃうんですよ。 
 オーナーもそう。公爵よりも先に二人の関係を知り、烈火のごとく怒ります(まあ、怒るわなあ)。で、二人に別れるように言うのだが、その後、結構あっさりと二人の味方に回ります。最後迄反対しろよ! オーナーこの二人がくっつくと損するんだぜ。お金入って来ないし。ショーは潰れるしさ。この人もそんなにプロ意識がないんだなあって感じ。なんかね……
 しつこく言うけど、公爵はサティーンに対して、ルールに乗っ取った正当なアプローチをしていて、しかもちゃんとサティーンを愛していて、サティーンとクラブに対して経済的に多大な貢献をもたらしてくれるすげえ良い人なんですぜ。
 それを裏切って自分達の恋愛を選ぶ二人……そこを掘り下げて行くから純愛と言うテーマが浮かび上がって来るんじゃないの? 間違ってるんですよ。周りに祝福されてどうする? みんな味方してどうするよ?
 
 「主人公達&その恋愛をサポートする人=善」

みたく描いている所が頭来るんですよね。
 
 「主人公達=恋愛を貫く為に善の道を踏み外している人」でしょ?

 で、そっちの方が人間の深い業(カルマ)を描けると思うんですよ。浅いんですよ、作り手側が。だから(主人公達が)被害者じゃなくて加害者だと言う事に気付けない。そんな周りを傷つけてしまうくらいの純愛。周りを不幸にしてしまうような恋愛。そっちのがテーマとして深いし、魅力的でしょ? 違うかえ?

 うすっぺらいんですよ。何もかもがうすっぺらい。だから全然、感情移入が出来ない。

 純愛とか突き詰めて行くと、じゃあ、この愛を貫く為に周りを犠牲にしても良いのかって問題に付き当たって行くと思うんだよね。で、「周りを犠牲にしてもこの恋愛を貫きます」くらいの方が俺的にはしっくり来る。自分がそう言う恋愛をしたいと言う訳ではないよ。ただ、そっちの方が愛と言うものの本質に迫っているような気がするのだが……
 
 この作品に限らず、愛しあう事が当事者達にとっては「是」であっても、社会的な「是」であるとは思わない。愛しあう二人は周りから祝福されたいから愛しあうのか?いや、ただ愛しあいたいから愛しあうだけだ。そっちのが良い悪いではなく愛の純度が高いと思うのは俺だけだろうか。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」、これは恋愛ではなく親子愛だけど、明らかに主人公セルマは「イっちゃってる人」なんだよね。子供を思うがあまり周りが見えなくなっている人。だから拒否反応をしめす人も多かった訳だが、だからこそ僕はこの作品が好きだし、凄いなあって思うんだよね。きれいごと言ってないしね。「愛は時には人に迷惑をかけるものと言う認識の元にこの監督は作品を作っている」。
 それに引き換えバズ・ラーマン監督……なんか……もういいや。

 エンディング。すっと浮かび上がる文字。「最高の愛とは……愛する人に愛されると言う事」。ハイハイ……そうだね。その通りだね(脱力……)。

 他の不満点
・ニコール・キッドマンにイマイチ萌えない〜好みの問題って言われればそれまでだが。なんちゅうか、見た目が綺麗なだけのお人形さんタイプ? あんまり血が通ってないと言うか……しかもトム・クルーズの元嫁と言う事で、純愛に燃えるヒロインというよりも、したたかな才女って感じなんだよね。
 同じくユアン・マクレガーも(この映画では)たんなるカワイイ美青年ってな感じだし。まあいいけどね……。

てな感じです。はあ〜(落胆の溜め息)。ガックシ。

(☆☆)

('01・12月劇場公開)
('01/1/13 書き下ろし)

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