ヴァレンタインのおまじない
水色真珠緑の守護聖にとって、お気に入りの花を皆が喜ぶ顔見たさに
配り歩くのは毎日の日課だった。
そんな彼にとって誰かの笑顔がくもることは自分のことと同じに悲しい
だからこそ、見てしまった涙をほおっておけなかった。
木の下で膝を抱えている彼女は天使と呼ばれている。
その天使の小さい肩がいつもよりよけいに薄く見える。
覗き込むと自分の長い金色の髪が彼女の肩を叩いた。
はっとして上げた顔は頬に幾つも涙の筋が残り
いつもは綺麗に澄んだ目が真っ赤だった。
俯く前にマルセルは両手で抱えていた
大量の花を彼女の腕の中に抱かせた。
目をパチクリさせた後で花の洪水が泣き顔を笑顔に変えた。
「たくさんの花に囲まれると微笑みたくなるよね。」
彼女の笑顔にホッとしたマルセルの微笑みに頷きが返される。
普通の少女なのに重大な使命を突然負わされた。
それでも萎縮する様子もなく自然体で微笑むのに
マルセルは驚き尊敬し、母や姉達のような
しなやかな強さに好意を抱いていたので意外な脆さに
なんとかしなくては、なんとかできるだろうかと
ドギマギしていた、その肩の荷が下りたようだった。
でも、どうしたの?と気軽に聞くことも鈍感ではないから難しい。
だが花の中で彼女の小さな声がした。
「今日も、私あの方の前でみっともなく転んでしまったの。」
マルセルは脳裏に彼女の「あの方」を思い浮かべる。
「すっごく心配なさったでしょ。」
コクコクとうなづく。
「えぇ、いつも抜けるように白い肌をなさっているのに
お倒れになられるのではないかと思うくらい…蒼白で、
私もうしわけなくて…。」
あの繊細で優美な身のこなしと姿に見惚れて出す足を間違えて転ぶ者など
数限りないくらいいる。彼女だけではないし、
それくらい心配するのは彼女だからではないかと思うのだが
当人は気づいてないようで届かぬ想いに悲しそうに瞳をゆらす。
たくさんたくさん「おまじない」をしていたのをマルセルは知っている。
それなのに会うとドジを踏んでしまい恥ずかしくて会えなくて親しくなれなくて、
泣く泣く避けて寂しい思いを抱えながら宇宙のために尽くしていたのに、
偶然行き合わせたところでも失体をさらして、それで泣いていたのだ。
あれだけ「おまじない」をしたのだから、あとは会う機会があれば
想いは通じやすくなっているだろうにと心の中で溜め息をつくマルセルの頭に、
こういう事に関してはルヴァでも思いつくまいと思う妙案が浮かんだ。
「ねぇ、緑の守護聖のおまじないをしてみない?」
ニコリと無邪気に笑ってみせる。
女の子は占いとかおまじないが大好きなのよ、そう姉達が言っていた言葉が蘇る。
案の定、彼女は目を輝かせて頷いた。
マルセルに手をひかれて藪をかきわけ小さな山に上ると
甘い香りがして大輪の薄桜色の花が咲き乱れているところについた。
「この花はバレンタインローズ。毎日、一枚花びらを落として
また新しい花びらが出来る決して枯れない愛の花って言われているんだよ。」
花びらはマルセルの手の平ほどもある大きなものだった。
それを拾うとマルセルは指先で字を書いた。
「爪を立てなくてもキレイに文字が書けるんだよね。
これに相手の名前と自分の名前、自分の気持ちを書いて…」
マルセルはキョロキョロ辺りを見回す素振りをすると
やっと見つけたように足元の小川を指差した。
「小さな水の流れに流すと想いが通じるっていう、おまじないなんだけど。」
幼い頃にやった枕の下のハーブの小枝や月の光で文字を書くような、
たわいもないけれど郷愁を感じる温かさに頷くとマルセルは
小鹿のように飛び跳ねて嬉しそうに笑った。
「やればやるほど効果があるけど、
この花ここにしかないから来るのが大変なんだ。頑張ってね。」
ヒラヒラと振られたマルセルの手が見えなくなると
花びらを拾って考え込みながら想いを書き綴った。
そして小川に流した花びらが見えなくなるまで見送った。
日の光が踊るような廊下で偶然出会った少女は
回りの明るさ以上に輝いて足取りも軽く弾むようだった。
また転ぶんじゃないかという思いも浮かばないくらい
軽い身のこなしは天使の翼が見えるよう。
「リュミエール様と会っているの?」
問うマルセルの予想通り首は横に振られる。
「でも不思議なの。いっぱい親密度上がっているのよ。」
眩しいくらい幸福そうに微笑む顔にマルセルはニッコリ頷く。
「よかった!頑張ってね。
今日はバレンタインだから、おまじないも特別よく効くと思うよ。」
マルセルの言葉が嬉しいのだろう。
彼が風の守護聖の執務室に入っていくのを彼女は頭を下げて見送っていた。
明日は日の曜日。
なにもすることはないしと、夜更けまでゆっくり丁寧に
自分の想いや今日どんな出来事があったか等を綴っていると
少し風が出てきた。
それでも優しく柔らかな風なので花びらはロクに押さえていなかった。
だが、それが後悔の元となった。
まだ書いている途中だった花びらが突然の風にすくわれて小川に落ちてしまった。
慌てて追いかけても足元は暗く歩みは覚束ない木にも遮られて追いつかない。
それでも藪を飛び越え枝をかき分け流れを追いかけるうち
月の光を受けて淡く輝く白鳥貝のような小さな池が見えてきた。
花びらは、そこを終着点に決めたようにクルリと回ってゆっくりとまった。
安心して息をつき花びらに手を伸ばすと反対側からも手が伸びた。
雪を纏う山河さえ闇に浮かぶ朧銀の月さえ及ばない
純粋な美の雫を抽出して作り上げても及ばないほど美しい
月の光とは違う輝きをまとう手が自分の手と重なった。
目線を上げると地上に月よりも優しく清廉で美しい輝きがあった。
「リュミエール様…なぜ、ここへ…!」
驚きに思わず声を上げると彼はゆるく首を傾げた、すると
その神秘と奇跡の色をした髪が水のように首筋を流れる。
「ここは私の私邸です。」
自分の頭が、真っ白になるのを感じた。
いつも想いを綴って花びらを流していた小川はリュミエール様の私邸へ続いていた。
「あの…いつも拾ってらしたんですか?この花びら。」
海色の瞳が優しく微笑んだ。
「えぇ。もともとマルセルに、これをポプリにして枕に詰めると
よく眠れると薦められたので中庭の池に流れ着くのを拾っていたのです。」
ということは…、頭の中が混乱してグルグルまわる。
「読んでしまわれたのですね、私の書いた…あの…」
リュミエールの頬がうっすらと桜色に染まった。
「最初は驚きました。あのようなお手紙を頂いたことがなかったので。
でもとても風雅で嬉しく、心待ちするようになっていたのです。」
手紙じゃないと言おうにも相手の名前と自分の名前に文面に…
しかもリュミエールの私邸に続く小川に流していたのだから言えるわけがない。
クラリと眩暈を起こして気が付くとリュミエールの腕の中にいた。
バタバタと騒がしい足音と甲高い声がかすかに聞こえた。
「へ〜本当だ!うまくいったな、マルセル!」
「じゃましちゃダメだよ〜!ランディ!」
だけど、それも魔法の国より遠い意識の向こう。
心の中を占めるのは花よりも優しい香りの中で
見上げた瞳に宿っている限りなく深い愛の色。
fin