和晴様作

Tombe la neige

 

 

 

ジジ、と遠慮がちな音を立てて、街灯が夜の到来を告げた。

すっかり陽は落ちていた。

灰色の雲が覆い隠す空はしかしぼんやりと明るく、静かにその時を待っていた。

―――雪が来る。

私は見上げていた首を戻し、辺りを眺めた。

行き交う人々のほとんどが、男女の二人連れだ。

一年で一番、恋人達が街に繰り出す日だと言っても過言ではないだろう。皆が楽しげに語らい、軽い足取りで過ぎていく。どこからか音楽さえ聴こえてくる。

いつもならば大勢で賑わう公園は、今や通路の役割としてしか機能していないようだった。

街灯の下に独り佇む私に目をやる者はいない。

自分の吐く白い息が視界を阻み、一度瞬きをして目を開けると、並木の向こうに色とりどりのライトが煌いた。

重い空と、霞む空気。

その中で、遠くの明かりだけが色づいていた。

いつか見た光景だったかもしれない。

そんなことを考えながら、私はふと、ポケットに入れていた手を出した。

手のひらに収まるほどの、紅いヴェルヴェットの小箱。

静かに開けると、小さなリングがサテンのクッションに守られていた。

 

 

 

 

 

時計塔の鐘が8時を知らせるのと同時に、私たちは人ごみの中で互いを見つけた。

彼女は私に駆け寄り、あいさつよりも先に、腕を絡めた。

私たちは人前でそのような行為をしたことがなかったから、気恥ずかしさと、ある種の高揚感を覚えた。

彼女も楽しげに笑みを浮かべ、辺りを見回した。

「ノエルっていいわね、なんだか浮かれてしまうわ。雪が降らないのは残念だけど」

私はそうですね、などと相槌を打ちながら、ポケットの中の手をどうしたものかと考えていた。

彼女は私のそんな様子に構わず、腕をとったままで私を見上げ、紅い唇を柔らかに結んでいた。

冷えた空気が肌に刺さり、空は澄んだ空気を誇るように星を煌かせていた。

左腕の温もりは、ノエルの雰囲気に呑まれていただけかもしれないが、決して悪いものではなかった。

 

食事の予約を入れた店への道すがら、ノエルの赤や緑がひしめく中で、一際ライトアップされた店先に思わず目をやると、純白のドレスが飾られていた。

彼女もそれに気づき、まるで私をそこから逸らすかのように少し強めに腕を引いた。

「・・・ねえ、お腹すいたわ。早く行きましょう」

ちょうど私は、勤務する王立研究院でひとつの大きなプロジェクトを担当していた。だから確かに、すぐに家庭を持ちたいと思っていたわけではない。だが、彼女が意図してその話題を避けた理由がわからず、ただ胸にあった漠然とした望みを打ち砕かれたような感覚を覚えた。

 

釈然としない思いを抱えたまま、その夜、彼女と共に過ごし、愛を交わした。

私の指、唇にひとつひとつ反応しながらも、彼女はもっと、とせがむように私の背に爪を立てた。

そのときに気がつくべきだったのだ。必要以上にこめられた力の理由に。

とうとう雪の降らなかったその夜が、彼女と過ごした最後の記憶になった。

年明けから他の惑星の新しい研究院に勤めることが決まっていた彼女は、何も言わずに私の前から消えた。

職場では私の上司にあたるひとだった。当然、人事をどうこうできるはずはなかった。そして、タイミングを逃した私も結局、何も伝えることができなかったのだ。

 

 

 

 

 

時計塔の鐘が響き、我に返った。

目を開ければ、やはり灰色の空と、水を打ったような静けさ。

手の中の箱をパチンと閉め、もう一度ポケットにしまう。

その音に呼ばれたかのように、白いものが視界をかすめた。

はらはらと雪が舞いはじめていた。

コートの袖で儚く溶けて消える、同じものは二つとない型の結晶。

皮肉なものだと思う。降ってほしいときに降らない、天からの恵み。

鐘が8つ鳴ってその役目を終え、これでちょうど3年の月日が流れたのだと私に告げた。

―――早く、早く来てはくれないだろうか。

不意に、寂しさというものが何かということを知った。30年余り生きていて、初めての感覚だった。

ふ、と漏れた苦笑いが、白く霞んで空気に溶けた。

その行く先を見やっていると、こちらへ向かって駆けてくる姿が目に入った。

彼女は私のもとまで一気に走り寄って、肩で息をした。

体温が空気を伝わり、同時に色彩が戻ってくる。

それはこれ以上ないほど輝きに満ちたものだ。

「―――雪になってしまいましたね。転びませんでしたか」

「う、うん、大丈夫・・・ごめん、ちょっと遅刻だよね。システム復旧に時間、かかっちゃって」

私の心を知ってか知らずか、頬を真っ赤に染め汗を拭う。

「レイチェル、あなたまだ仕事をしていたんですか?今日はノエルですよ」

ぽかんとした顔で見上げてから、彼女は笑った。

「めっずらしー。・・・自分だって午前は仕事してたクセに」

「あなたがノエルだノエルだって大騒ぎしていたから、仕事が身に入りませんでしたよ」

「はいはい、ごめんなさい。・・・でもさ、ノエルっていいじゃない?――みんな楽しそうで」

笑顔で辺りを見回す彼女の手を、思わず握る。

「わっ・・・すっごい冷たくなってる」

そう言いながらも照れたように笑って、彼女は私の指先を握りかえした。

 

 

激しくなる雪の中、人ごみを避けながら歩く。

どこからか音楽が流れ、赤と緑がごったがえす、ノエルの街並み。

その中の異質な白が、やはり私の目を引いた。

こちらを見上げていた彼女が、訝しげに私の視線の先を辿った。

その途端、デジャヴが襲い、恐怖に似た感情が湧き上がる。

彼女が私の手を引いて、先を急ぐのではないかと。

だから、私はわざと、ショーウィンドウの前で足を止めた。

彼女は振り向かない。

そして、しばらく黙った後で、ぽつりと言った。

「リエナ所長、どうしてるのかな」

―――そう来ましたか。

思わず苦笑が漏れた。

「来春、結婚するという噂を聞きましたよ」

「・・・ふうん、そっか」

こちらを向かない彼女がどんな表情をしているのか、それは知らない。

だから、私は優しげな声に甘えることにした。

「どうしました、何を気にしているんです?」

「別に、何も気にしてないよ。エルンストこそ、こんなところで立ち止まって――」

言い切らないうちに、私は彼女を背後から抱いた。

「レイチェル。私が、ほかの誰かを想いながらあなたと居るような不実な男に見えますか」

彼女は少し黙って、私の腕をほどき、向き直る。

挑戦的な笑みを浮かべて、彼女は言った。

「じゃあ、ワタシが今、エルンストと『同じように』誰かを思い出していたら、エルンストは嫉妬する?――その答えがYesなら、私も妬いちゃうな。Noなら、きっとそんなレベルなんでしょ?だから、気にしない」

私は思わず吹き出した。

「はは、それは面白い考え方ですね。―――答えはNo、ですよ」

それは少しだけ、嘘なのかもしれなかった。

私の心を読んだわけでもあるまいに、彼女は頬を膨らませた。

「妬いてもらえないのってなんだか悔しい」

私を小突く真似をする彼女の瞳に、もう純白のドレスは映っていない。

私はポケットから、ヴェルヴェットの小箱を取り出し蓋を跳ね上げて、それから迷わずに彼女の左手をとった。

細い指に、それはとてもよく似合った。

だが、彼女は何故か苦しげな表情をつくった。

「エルンスト、駄目だよ。・・・ワタシ、嫌な奴なんだ。自分でもすごく、そう思うの。――あのとき。3年前のあのとき、もし追いかけていたら間に合ったかもしれない。きっと、リエナ所長は待ってた。・・・・・・ワタシ、きっとそうだってわかってたのに、わざとエルンストに言わなかったんだ」

彼女の頬に雪が舞い降り、雫となって流れていく。

本当に、正直なひとだ。

私はひとつため息をついて、彼女の指先を握る。

「ああ、そんなことですか」

「そんなことって」

「あなたが気にすることはありません。――実際私には、間に合わないとわかっていたんです。事実は変えられない。そして、もし、という仮説に囚われるほど、私はセンチメンタルではありません」

溶けてしまった結晶は、もう二度と取り戻せない。

代わりに、その形を変えて何度も私と巡り合う。

彼女は睫毛の雪を溶かしながら、静かに私の話を聞いていた。

「――それより、レイチェル。喜んではくれないんですか?私は誰かに指輪を渡したことも、渡そうと思ったこともありませんよ。タンザ・ナイト――あなたの瞳の色です」

雫を指先で拭ってやると、彼女はようやっと笑顔を戻した。

「・・・なんか、今日のエルンスト、ロマンチストで変」

「心外ですね、リアリストなのはあなたも負けていないでしょう。・・・まあ、現実問題、あなたはまだ若いですから『予約』です。それではいけませんか」

「ううん――ありがとう」

にこりと笑って彼女は背を向け、顔を拭った。

感傷的な自分に浸って、間に合わないとわかっていながらもシャトルポートに向かったあの日。

だがそのときの私よりも。

今まさに気の早い約束を取り付けようとしている私のほうが、傍から見れば滑稽なのかも知れない。

だが、そんな自分が嫌いではない。

―――もう少し時間が過ぎて、何の痛みもなく過去を振り返ることができるようになったら。

胸の内で呟く。

「じゃあ、いこっか。おなかすいたね」

振り返って、やはり照れたように彼女は笑う。

雪が柔らかに辺りをぼかし、ノエルの夜が更けていく。

掌に閉じ込めた確かな存在が私に、決して遠くない未来を感じさせた。

**** 水鳴琴の庭 水の宝石箱 ****