和晴様作
「ある雪の一日」
夕闇の迫る街に、彼女の後姿だけがやけにくっきりと浮かび上がっていた。
華やかに飾りつけられた店先。すれ違う人々は寒そうに、けれど楽しげに歩いていた。
吸い込むと胸に痛みが走るほど、空気が冷えていた。
雪が降っていないのだけが幸いかもしれない。
自分が吐く息に彼女の姿を見失わないよう注意しながら、そんなことを考えていた。
金の髪が、夕日を受けて染まっている。
桃色のコートは、この寒さから身体を守るには少々頼りない気がした。
彼女とすれ違う人々が、たまに振り返る。
そのたびに私は、皆が彼女のまとう空気に気づいているのではないだろうか、と気が気でなかった。
けれど彼女はといえば、全く気にする風でもなく軽い足取りで街を行く。
「ルヴァ、陛下の護衛をお願いできないかしら」
女王補佐官のロザリアにそう言われたのは昨日のことだ。
「はあ、護衛ですか」
私が訊き返したのも無理はない。
月に一度、女王にも休暇があり、外出の際は守護聖や補佐官が交代で側につくことになっていた。
だが大抵、女王は外出することをせず、皆の語らいの場に現れたり私邸で休んだりと静かに過ごしていたため、ほとんど機能していない決まりでもあったのだ。
それが「護衛」とは穏やかでない。
「どちらへお出かけの予定なんですか――護衛が必要な場所へ?」
私が訊くと、ロザリアは苦笑して答えた。
「護衛、というとちょっと大げさですけれど・・・ただ、どうしても、街へ出たいのですって。本当はわたくしと一緒に行きたいと仰ったの。けれどわたくしには、出張の予定が入っていて」
ああそうでしたか、と頷いて、了解の旨を告げると、ロザリアはにっこりと笑って言った。
「それから、申し訳ないのだけど、このことは秘密、でお願いできるかしら?『女の子の買い物だもん、ロザリアが行けないなら一人で行きたいの』ですって」
かくして私は、彼女の後をつかず離れず、まるで物語に登場する探偵のように尾けているのだ。
私には全く気づいておらず、独り楽しげな彼女を見ながら、なんとも複雑な気分だった。
駆け寄れば手の届く場所に彼女がいる。
それでも見守るだけで、決して近寄ることができない。
まさかロザリアが意地悪をしたわけではないと思うが、街の浮き足立った空気が、私の心にだけは少し冷たすぎた。
ある一軒の店の前で、彼女は急に立ち止まった。
私も足を止め、離れたままで彼女を見つめる。
ショーウインドウに吸い寄せられた瞳が、きらきらと輝いていた。
ウインドウに張り付き、食い入るようにさんざん見たあとで、不意に店の中に姿を消す。
街路樹の陰でしばらく待っていると、彼女は何か包みを抱えて出てきた。
その頬がほころんでいて、私は一瞬、それに見とれた。
いつのまにか日は暮れて、澄んだ空には星が瞬いていた。
彼女の両手には大きな袋が下がっている。さすがに少し疲れたのか、足取りは随分ゆっくりになった。
だが、今の私には、その荷物を持ってやることすらできない。
それにしても、彼女は一体何を探しているのだろう。先刻から、店に入っては何も買わずに出てくる、という行動を繰り返していて、私は不思議に思っていた。
ふと、彼女が足を止め、空を見上げた。
つられて私も振り仰ぐと、白いものが落ちてくる。
とうとう雪が降り始めたのだ。
そろそろタイムリミットかもしれない。
天使の羽根のような純白の雪に彩られ、なお一層可愛らしく見える彼女に視線を戻す。
あのひとに、一度は恋焦がれたこともある。
唐突にそれを思い出して、ほっとするような、残念なような気分でこの奇妙な外出の終わりを思った。
彼女が空を仰いだ顔を元に戻し、歩きかけた瞬間、通行人と軽く衝突した。
緊張が走る。
彼女が詫び、少し酔っている雰囲気の若い男は頷いたものの、彼女の顔を見て表情を変える。
胃の辺りに痛みを覚えながら、二人に気づかれないように私は歩み寄る。
男が何事か彼女に囁き、首を振った彼女が歩きかける。
男が肩に触れようとした。
私はその手を、思い切り掴んだ。
頭で理解してはいた。彼女はこの宇宙の女王だ。滅多なことがない限り、自分の身は自分で守れる。
けれど。
――すみませんねえ、ロザリア。見ているだけの男にはなりたくないんですよ
心のうちで呟いて、私は若い男をできるだけ静かに、だが冷ややかに見下ろした。
「失礼しますよ―――私の妻がなにか?」
視界の隅に、彼女の驚いた顔が映った。
そちらを見ないまま、男の手を掴んだ力をさらに強くする。喧嘩になれば必ず負けるだろう。だから先手を打ち、握力だけを誇示する。
男は口ごもりながら、腕の力を抜き降伏のサインを出した。
「ああ、手荒な真似をして申し訳ありません。――ほら、アンジェ、行きましょう」
肩を抱いて促すと、彼女はもう一度男に詫びて、大人しく歩き始めた。
角を曲がると、そこは広場になっていた。
中央に大きなツリーが置かれ、その枝には色とりどりの明かりが灯り、さらに雪が柔らかに彩っていた。
私は彼女の肩から手を離す。
「・・・失礼いたしました、陛下。ああ――無事で、よかった」
言いながら覗き込むと、彼女が我に返ったように顔を上げた。
「あ、ありがとう。あの――」
「せっかくのお休みを邪魔して、申し訳ありません。お迎えにあがったんですよ――さあ、そろそろ帰りましょう」
「・・・だめ、だめなの、まだ」
泣きそうな表情で私を見上げ、彼女は何度も首を振った。
「ですが、雪が激しくなっていますし、もう時間も遅いですよ・・・失礼を承知でお訊きしますが、一体何をそんなに買われているんです?」
問うと、ばつの悪そうな顔で彼女は言った。
「・・・クリスマスプレゼント。――聖地のみんなへの」
その顔がまるで子どもみたいだったのと、あまりに微笑ましい答えだったことに、私は一瞬、立場を忘れかけた。
言葉を見つけられない私に、彼女は続ける。
「だからだめ、帰れないの。だって、まだ――いちばん大切なもの、買ってない」
すがるように私を見つめる彼女の瞳に、ツリーの電飾が映り、ちらちらと色を変えた。
金色の睫毛に雪が降り、彼女が瞬きをするごとにふわりと散った。
思わず、指を伸ばして、その儚いものに触れる。
彼女の染まった頬はひどく冷たかった。
「こんなに冷えて――いちばん大切なもの?・・・あなたより大切なものなんて、ないでしょう」
天から降り注ぐ雪のようにとめどなく溢れる感情は、もう隠せないかもしれない。
私は静かに、彼女の瞼に口づけた。
雪の雫は不思議と暖かかった。
唇を離すと、彼女は瞳を潤ませたまま笑った。
「ううん、あるのよ―――ねえ、ルヴァ。クリスマスプレゼント、欲しいものはなあに?」
胸いっぱいに温かい何かが満ち、私もにっこりと笑う。
「ありがとう。・・・では、お言葉に甘えて、もう少しだけ街を歩きたいんですがいかがですか?今度はあなたと二人で肩を並べて、できれば手をつないで」
私の手が、彼女のよりずっと大きくて良かった。
そんなことを思いながら、私は彼女の冷えた指先を手のひらに包みこんだ。
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水鳴琴の庭 水の宝石箱 ****