邂逅

                          RUAN様作

 

細い眉にも似た月が、ぽっかりと浮かぶ初夏の宵。

開け放たれた蔀戸からも青白い光が入り、板敷きの間を優しく照らしている。

外から入ってきた心地のよい風が、灯明の火を揺らし、几帳に影を落す。

碁盤に向かって一人石を置いていた佐為は、人の気配に顔を上げた。

内の仕事をしている女房は、当に寝ている。

外回りの雑用をする仕丁も、下がって久しい。

庇の間の御簾は巻き上げられているので、月明かりに照らされた庭が良く見える。

今を盛りに咲き誇る石楠花と、花を終え青葉を茂らせる桜の元に、花の精のような男が立っていた。

その姿に、佐為の顔がほころぶ。

「今宵も、参られましたか」

「はい」

立ち上がりながら声をかけると、薄闇の中の男が、透き通るような声で返事を返した。

佐為は、横笛を手にすると、部屋の外に巡らせた庇に出た。

夜気が、ひんやりと頬をなでる。

叢では気の早い虫が、涼やかに鳴いている。

近づいてきた男の姿を、月が捉えた。

この日の本では見たことの無い青い髪と、陽に輝く水のような、淡い色の瞳が佐為に向けられている。

緩やかな異国の衣を纏い、手には不思議な形の琴を携えていた。

「あなたとの一曲が、忘れられなくて」

「私の笛など、あなたの琴に比べたら、御恥ずかしいものです」

佐為は、頬を赤らめながら、瞳を伏せる。

男と会ったのは、ほんの偶然だった。

物忌みで宮中に出仕するのも叶わず方違えをした時に、宿にした寺の境内で、花に埋もれるようにして、

異国(とつくに)の琴を抱きかかえながら奏でる男の姿を見付けた。

男が緩やかに奏でる音色が余りにも美しく、つい持参していた笛を合わせてしまったのだ。

「囲碁ならば、誰にも恥じることはありませんが、音曲は、手遊び(てすさび)でしたので」

「そのような事はありません」

男は、佐為をまっすぐに見つめながら、静かに返した。

「あなたの笛の音には、深い真実がこめられています」

男の言葉に、佐為の瞳に驚きの色が浮かぶ。

「そして、限りない優しさも」

「そのように聞こえますか」

「はい」

たおやかに微笑む男に、佐為は溜息を付いた。

「あなたは、不思議な方だ」

「私は、ただ、楽が好きなだけの男です」

「いいえ、そうではありますまい」

佐為は、男の優しげな外見の向こうに、しなやかな芯の強さを感じ取り、目を細める。

「どんな身分の方なのか、どこから来るのかも知らぬが・・・そう、仙境のお方なのかも知れませんね」

男は、静かに微笑したまま、答えない。

それが答えだと、佐為は悟った。

目の前にいる男は、この世の者ではないのだ。

天人が、自分と楽を奏でるために、地上に降臨したに違いない。

「よろしいでしょうか」

男が、佐為に笛を促す。

佐為は、もう何も言わず、艶やかな笑みを浮かべて横笛に唇を当てた。

 

 

「このような形で、再びお会いする事になるとは思いませんでした」

遠くで車のクラクションが鳴り、足早に通り過ぎる靴音だけが響く夜半。

佐為は、ヒカルの家で、もう一度あの天人と会った。

家の電気は全て消え、ヒカルもベッドの上で寝息をたてている。

暗い家の中で、いつものように意識を閉じようとしていると、呼ばれたような気がした。

窓の外を見ると、通りに、あの男が立っていた。

佐為は、そっとヒカルの元を離れ、外へ出る。

男は、いつかの衣ではなく、緒方や塔矢アキラ達が着ている「すーつ」という服を身に着けていた。

手に、琴は無い。

楽を嗜みに来たのではないのだろう。

最も、今の佐為には、笛を吹くことは叶わぬのだが。

男は、1000年前と変わらぬ佐為の姿に、哀しげな表情を浮かべた。

「私の姿が、見えるのですね」

「ええ。あなたがここにいることは、解っていました」

「あなたは、やはり天人であられたか」

男は、黙って首を立てにふった。

「囲碁で生き、囲碁に執着したというのに、囲碁の神ではなく、楽の天人が舞い降りてくるとは思いませんでした」

「もう、天人ではありません」

男は、小さく笑いながら、自分の服に目をやる。

「と、申されると」

「今は、ただの男です」

「天人が天人でなくなるというのですか」

「はい。私の勤めは終わりましたので」

男の言葉に、佐為の目が見開かれた。

「勤めが終わる?」

「はい。力を新しい者に引き継ぎましたので、天を去ってきたのです」

「あなたは、それでいいのですか?」

佐為は、今まさに、消える恐怖と戦っていた。

未練と嫉妬、情と愛に引き裂かれて。

それなのに、目の前の男は、同じように自分の世界を去るというのに、なぜ笑っていられるのか。

「あなたは、それで納得できるのですか」

「ええ」

「なぜ」

畳みかけるような佐為の言葉に、男は昔と同じように静かに微笑む。

「時が流れるのと同じです」

まっすぐに見つめてくる瞳も変わらずに、佐為に言葉が向けられる。

「私がするべきことは、全て致しました」

「どうして、そんな風に笑っていられるのです」

「渡すべき思いは、渡してきましたから」

「!」

佐為の瞳が歪み、潤んで揺れた。

やはり、敵わないと思う。

自分は、まだそんな風に、割りきれない。

「私も、苦しみましたよ」

目を閉じ、俯く佐為に、男が続けた。

「あなたも?」

佐為の瞼が再び開き、男の瞳を覗き込む。

慈愛に満ちた水色の瞳が、優しく佐為の姿を受止めた。

「私にも、愛する人もいれば、別れたくない同胞もおりました。けれど」

男は、小さく息を付くと、首を横に振った。

さらさらと、長い髪が頬をかすめて音をたてる。

「苦しんだ果てに、これでいいのだと思えるようになりました」

「そうだったのですか」

男は、佐為の姿について、何も聞かなかった。

何も。

「これから、どちらへ」

暫く佇んでいた後、そう問うた佐為に、男は腕を空へ伸ばし天空を指差した。

「あの星々のどこかへ参ります」

「やはり、私やヒカルとは、違う世界の方だったのですね」

「でも、同じ人ですよ」

「私は、もはや」

「同じ、人です」

優しさの中にも力強さを秘めた声に、佐為の言葉が詰まった。

胸に、甘酸っぱい痛みが広がり、堪えていた咽が、震える。

「どうぞ・・・ご自愛・・・下さい」

「あなたも」

佐為は、触れられるはずも無い男の手に己の手を重ね、頭を垂れた。

 

「では、名残は惜しいのですが」

「お元気で」

男は、踵を返して歩き出した。

佐為は、去っていく男の背をじっと見つめる。

男は、2度とふり返らなかった。

男の背を見送る佐為の瞳から、いつしか涙が零れ落ちた。

涙は、やがて筋となって、佐為の白い頬を流れつづけた。

**** 水鳴琴の庭 水の宝石箱 ****