物理と現実

physics and reality
Albert Einstein (1936)
in "Out of my Later Years"(Citadel Press)
(訳 片山泰男 Sep.27-Oct.30 2014)
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§1. 科学の方法に関しての一般的考察

しばしば、科学の人間は哲学的でないといわれる。そして確かに根拠なくというわけでもなく。それならなぜ、物理学者が哲学者に 哲学を任せることが正しくないのだろうか? それは本当に正しいかも知れない、科学者が自在に使える基本概念と基本法則がとても よく確立され、疑いの波がそれらに達し得ない、それらの堅固な系をもつと信じるときは;しかし、それは正しくあり得ない、その 物理の基礎自体が疑わしくなったとき、それらが今そうであるように。現在のように、経験が我々により新しくより強固な基礎を 探すことを強いるとき、物理学者は、理論的基礎の批判的黙想を、単純に哲学者に明け渡せない;なぜなら、彼自身が最善を知っていて、 より確かに靴のきつさ[問題の原因と不具合]がどこにあるかを感じるからである。新しい基礎を探すなかで彼は、 明確にしようとしなければならない。彼自身の心中に使う概念が正確にどこまで根拠があり必要であるかを。

科学の全ては、毎日の思考の洗練でしかない。この理由によって、物理学者の批判的思考は、彼自身の特定の領域の概念の検討に 制限されることは決してない。彼はずっと難しい問題を批判的に考察することなしに前進できない。毎日の思考の性質を分析する という問題である。

我々の無意識の心の舞台の上、色彩豊かな継続のなか、感覚経験、それらの記憶した絵、表象と感じが表われる。心理学とは 対照的に、物理学は直接的に感覚経験とそれらの結合の "理解"だけを扱う。しかし、毎日の思考の "現実の外部世界"という 概念さえも、排他的に感覚印象の上にある。


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今、我々が最初に気づかなければならないことは、感覚印象と表象とは識別できないことである;又は、少なくとも絶対的な 確かさをもっては可能でない。この問題の議論に、それは現実の観念にも影響するが、我々は深入りせず、感覚経験の存在を 所与とする、それはいわば特別な種類の心的経験のようである。

"現実の外部世界"の設定における最初の段階と信ずるのは、物質的物体と多様な種類の物体の概念形成である。膨大な我々の 感覚経験から我々は、精神的かつ任意に、繰り返し起きる何かの感覚印象の複合を(部分的には他の感覚経験の兆しと解釈される 感覚印象との連携として)採り、そして我々はそれらに意味ー物質的物体の意味を属性付けする。論理的に考察してこの概念は、 指される感覚印象の全体性と同一でない;そうでなく、それは人間(又は動物)の心の任意の創造である。一方、その概念は、 その意味又は正当性を、排他的にそれに連携する感覚印象の全体性にだけ負う。

第2段階として我々の(期待を決める)思考中に見出されるべき事実は、我々がこの物質物体の概念を重要とするものは、それに 元もと起きた感覚印象から、高度に独立なことである。これが、我々が物質的物体を"現実存在"とみなすとき、我々が意味する ものである。そのような設定の正当性は、排他的にそのような概念とそれらの間の精神的な関係を手段として、我々は感覚印象 の迷路のなかで、我々が自ら方向付けできるという事実の上にだけある。これらの観念と関係は、我々の思考の自由な言明であるが、 元の個々の感覚経験自体よりも強く不変なものとして、幻想や幻覚の結果ではないものとは決して完全には保証されない性質の ものとして、我々に表われる。一方、これらの概念や関係は、そしてじつに現実物体としての設定は、一般的にいって、 現実世界の存在がもつ根拠がそれらの間に精神的な結合を形成する感覚印象に繋がる限りにおいて存在する。


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まさにこの事実、我々の感覚経験の全体性は、思考(概念操作、概念間の確定した機能的な関係の創造と使用、これら概念と 感覚経験との同格性)を手段として、秩序付けできるという、この事実は、我々を畏怖の下におくが、我々がそれを決して 理解しないだろうこと。ひとはいってよい "外部世界の謎は、それの理解可能性である"と。それは、イマニュエル・カント の偉大な認識のひとつで、現実外部世界の設定はこの理解可能性なしに意味をなさないだろう。

ここで"理解可能性"に関していう、その表現はその最も控えめな意味で使われている。それが含意するのは:感覚印象の間の ある種の秩序の制作、この秩序は一般概念、これら概念間の関係、の創造によって、そして概念と感覚印象の間の関係によって 制作され、これらの関係はいかなる可能な方法によっても決定され得る。我々の感覚経験の世界が理解可能とはこの意味である。 それが理解可能であるという事実は、ひとつの奇跡である。

私の意見では、そのなかでどの概念が作られ結合されるべきか、そして我々がそれらを経験にどう調整させるべきかの方法に ついて何もいえない。感覚経験のそのような秩序の創成における我々を導くもののなかで結果の成功だけが決定要素である。 必要な全てのことは、規則のセットの声明である。そのような規則なしに欲する意味の知識の獲得は不可能であろう ような。ひとはこれらの規則をゲームのなかの規則と比較してもよい。その規則たち自身は任意である一方、ゲームを可能に するのはそれらの厳密さだけである。しかしながら、それらの修正は決して最終であり得ないだろう。それは特殊な適用領域 においてのみ有効性をもつだろう。(すなわち、カントの意味における最終の範疇はない。)


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毎日の思考の要素概念の感覚経験の複合との結合は、直観的にだけ理解でき、それは科学的に論理的修正に適応できない。 これら結合の全体性は、ーどれも観念の用語で表現できないー それだけが科学の偉大な建築を、論理的だが空虚な概念構想 から区別する。これらの結合を手段として、科学の純粋に観念的な定理たちは、感覚経験の複合についての声明となる。

我々が "1次概念" と呼ぶのは、直接にそして直観的に感覚経験の典型的な複合に繋がるような概念である。他の全ての観念は、 ー物理的観点からはー 1次観念と定理によって結合する限りにおいて意味をもつ。これらの定理は、1部は概念(と、それら から論理的に導出された声明)の定義であり、1部は定義から導出されないものである。それらは、1次概念の間と、この方法 で感覚経験の間にある、少なくとも間接的な関係を表明する。後者の種類にある定理は、"現実についての声明"又は自然法則であり、 すなわち、1次概念であると理解される感覚経験に応用されたとき、それらが役立つことを示さなければならない定理である。 どの定理を定義として、そして自然法則と考えるべきかの問は、選択した表象に大きく依存する。概念の全体系が物理的観点 から空虚でないと考える程度を検証するときにだけ、この区別が絶対的に必要となる。


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科学的系の成層

科学の目的は、一方では、それらの全体性のなかでの感覚経験の間の結合の、できる限り完全な理解である。そして 他方では、最小限の1次概念と関係を使っての、この目的の達成である。(世界の絵のなかで、可能な限りの、論理的な統合、 すなわち、論理要素少数の探索。)

科学は、1次概念、すなわち、感覚経験に直結した概念、そしてそれらに結合した定理、の全体性に関係する。発展の第1段階では、 科学は他の何者も含まない。我々の毎日の思考は、全体としてこのレベルで満足させられる。しかしながら、物事のそのような 状態は、現実に科学的に思考した精神を、満足させることができない; なぜなら、この方法で得られた概念と関係の全体性は、 論理的統一性を全く欠くからである。この欠乏を補うために、ひとが発明するのは、概念と関係のなかにより貧しい系、"1次階層" の1次概念と関係を保持する系、論理的に導出された概念と関係として。この新しい"2次系"は、そのより高い論理的統一性のために それ自身の要素概念(2次階層の概念)、もはや感覚経験の複合との直結のないものたちだけ、を持つことによって支払う。 さらに論理統一性を求めた努力は、我々に第3の系をもたらし、(1次からとても間接的な)2次階層の概念と関係とを還元するから、 まだもっと貧しい概念と関係とである。こうして物語は続き、終いに到着するのは、概念可能な最も偉大な統一性と最も偉大な 論理的基礎の概念の貧困で、それらはまだ我々の感覚によってなされる観測とまだ矛盾なく一致する。我々はこの野望が確実な 系を結果するかどうかを知らない。もし、彼の意見を聞けば、彼は否と答える方に傾くだろう。しかし、問題との格闘のなかで、 ひとは、この全ての最も偉大な目的をその真に高い程度に実に達成できるという希望を、決して諦めることはない。

抽象化又は帰納法の理論の支持者は、我々の階層を"抽象化度"という;しかし、概念の感覚経験からの論理的な独立を隠蔽を 正当化できるとは考えない。その関係が類似するのは、スープと牛肉ではなく、衣裳ダンス数とオーバーコートである。


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さらに、階層は明確には分離されない。どの概念が1次階層に属するかさえも絶対的には明らかでない。事実、我々は自由に形造 られた概念を扱ってそれは実際の使用に確かに十分であり、感覚経験の複合との直観的に結合していて、その仕方は、どのような 経験の場合を与えても、声明の適用性不適用性について不確かさがないような仕方である。不可欠なのは、広範な概念や定理の 表象の目的であり、経験から離れず、定理として、論理的に演繹されひとつの基礎に属する、できるだけ狭い、基礎的概念と 基礎的関係の、それら自身自由に選ばれたもの(公理)である。しかしながら、選択の自由は特別な種類のものである;それは フィクションの作家の自由と類似しているのでは決してなく、むしろ、よくデザインされたワードパズルを解くように約束した 人のそれである。彼は、どの言葉を解として提案してもよい;しかし、全ての並替えのなかで、そのパズルを本当に解くことが できるワードが一つだけ存在するのである。それは、自然が、ー彼女は我々の五感に知覚できるー よく造られたパズル のような性格をもつという信念からの成果である。これまで科学によってなされ収穫された成功は、それは真にこの信念に確かな 勇気を与える。

上述した多数の階層は、発展の過程のなかの統一への格闘から生み出された進歩の幾つかの段階に対応している。最終目的に 関していえば、途中の階層は、単に一時的な性格のものである。それらは、最終的には不適切な見当違いとして消え去らねばならない。 しかしながら、我々は、今日の科学をもって、これらの階層のなかで、問題のある部分的な成功を扱わなければならない。 それは互いを支持しながらも、互いが他を脅している、なぜなら、今日の概念系は、深く居座った不整合性を含んでいて、 それについては後述する。

続く行の目的は、論理的にできる限り統一的な、ある物理の基礎に到達するために、構築的な人間精神の入り込んだ道を示す。


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§2. 力学と、全ての物理がその上に立つ試み

我々の感覚経験、より一般に我々の経験全て、の重要な特性は、その時間的順序性である。この種の順序は、主観的時間の精神的 知覚に我々の経験の縦座標構成を導く。そして、主観的時間は、物質的物体と空間の概念を通して、我々が後にみる、客観的時間 の概念へと導く。

しかし、客観的時間の観念の前に、空間の概念がある;そして、後者の前に、我々は物体の概念を見出す。後者は感覚経験の複合 に直結している。指摘されてきたことは、"物体"観念を特徴付ける特性のひとつは、(主観的)時間とは独立に、また我々の感覚に よって知覚できるかとは独立に、それを存在と同格にすることを用意することである。そのなかに時間的変容を感じるにも関わらず、 我々はこれを行うのである。ポアンカレは正しく、我々が物体の変容の2種、"状態変化"と"位置変化" の区別を強調した。 彼が注目したのは、後者が我々の肉体の任意運動によって逆転できる変化であることである。

知覚のある側面において、状態変化でなく位置変化だけをそれに帰着させる物体があるということが、空間概念の形成において 基本的に重要な事実である(ある程度、物体観念自体の根拠のためさえにも)。我々はそのような物体を"実質的に剛体"と呼ぼう。


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もし我々の知覚の対象として、我々が同時に(すなわち単独の単位として)、ふたつの実質剛体を考慮するならそのとき、この実体に あるような変化として、全体の位置変化を考慮することはあり得ない、これがふたつの構成物のそれぞれにとって、そうである場合 にも関わらず。これがふたつの物体の"相対位置の変化"の観念を導く;そしてこの方法で、二物体の"相対位置"という観念も導く。 さらに、相対位置のなかで特別な種類の我々が"接触"(*1)というものを見出す。三又はそれ以上の"点"のなかの、二物体の永久的接触は、 それらが疑似剛体複合として結合していることを意味する。そのとき、第二物体は第一物体の(疑似剛体)連続をなしているといって よく、第一物体は今度は、(疑似剛性)に連続されるといってよい。物体の疑似剛体連続の可能性は制限されない。物体$B_0$の疑似剛体 連続の現実の本質は、それによって決定される無限の"空間"である。

私の意見では、全ての物体が任意の方法で位置され、所定の選択された$B_0$(関係する物体)の疑似剛体連続に接触できるということ この事実が、我々の空間の概念の経験的基礎である。前科学的思考のなかで、固体の地球の地殻が、$B_0$とその連続の役割を果たす。 ジオメトリ(幾何学)という名前自体、空間の概念が心理学的に地球をその配置物体にすることを示す。

全ての科学的な幾何学に先行した、大胆な"空間"という観念は、物体の位置関係の精神的概念を、"空間"のなかの物体の位置とい う考えに変換した。これは、それ自身の、偉大な形式上の単純化の表現である。空間の概念を通して、ひとは、さらに、どの位置 の記述においても、明白に接触の記述にする態度に達した;物体の点が空間の$P$に位置することは、その物体がその点において、 標準参照物体$B_0$(適切に連続されていると仮定される)の点$P$に接触することを意味する。

(*1) 我々の創作による概念だけを手段として、これらの物体について語ることができるということは、物事の自然のなかにある。 概念は、それ自体定義の対象ではない。しかし、我々の経験にその同等性が疑いもなく関係する概念だけを使用することは、不可欠である。


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ギリシャの幾何学において、空間は定性的役割だけを果たす。なぜなら空間に関係する物体の位置を所与と考えることは事実だが、 数を手段として記述されていない。デカルトが最初にこの方法を導入した。彼の言葉では、ユークリッド幾何学の全ての内容は、 公理論的に次の声明の上に打ち立てられている:(1)ふたつの剛体上の特定の点は距離を決定する。(2)我々は、空間の点に三組の数 $X_1、X_2、X_3$ を同格とさせるのに、次のような方法による。全ての距離$P'ーP''$をそれらの終点が$X_1', X_2', X_3', X_1'', X_2'', X_3''$ であるとき、表式、 \[     S^2= (X_1'' - X_1')^2 +(X_2'' - X_2')^2 +(X_3'' - X_3')^2 \] は、物体の位置によらず、どの全ての他の物体の位置にもよらない。

(正の)数 $S$ は、空間の$P'$と$P''$(それは、伸展の$P'$と$P''$に一致する) の伸展の長さ、又は距離を意味する。

表式は、それが論理的、公理論的だけでなく、またユークリッド幾何学の経験内容であることが明白であるような方法で、意図的に 選択されている。ユークリッド幾何学の純粋に論理的(公理論的)な表象は、確かに、より大きい単純性と明瞭さという利点をもつ。 しかし、それはこれに対して、物理学にとって重要な幾何学がその上にだけ安らぐ結合、観念構成と感覚経験の結合の表現を放棄する ことで支払うことである。致命的な誤りは、思考の必要、全経験に先行であり、ユークリッド幾何学の基礎とそれに属する空間の概念 にあった。この致命的誤りは、ユークリッド幾何学の公理論構成が上に休む経験的基礎が、忘却された事実から起きた。


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ひとが自然のなかに、剛体の存在をいうことができる限りにおいて、ユークリッド幾何学は物理科学であり、その有効性を感覚経験への 応用によって示されなければならない。それは、時間独立に剛体の相対位置において、成立しなければならない法則の全体性に関係する。 ひとがみるだろうように、空間の物理観念も、もともと物理学で使われたように、剛体の存在に結び付いている。

物理学の視点からは、ユークリッド幾何学の中心的重要性は、その法則が、相対位置が議論される物体の特定の性質にはよらない、 という事実のなかにある。その形式的な単純さは、一様性と等方性の特性(そして類似する実体の存在)によって特徴付けられる。

空間の概念は、確かに便利であるが、厳密な意味の幾何学には不可欠でない。すなわち、剛体の相対位置についての法則の形式化に おいては。これに反して、客観時間の概念は、それなしに古典力学の成式化は不可能であり、空間的連続体の概念に繋がる。

客観時間の導入は、互いに独立なふたつの声明を包含している。

(1)"時計"すなわち、閉鎖系の周期的生起、を伴う、経験の時間的シーケンスと結合することによる、客観的な局所時間の導入。

(2)空間全体における出来事への客観時間の観念の導入、その観念だけによって局所時間の考えが物理の時間の考えに拡大される。


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(1)に関する注意、私がみる限り、それは"Petitio Pricipii" [前提に結論を仮定する論理的誤り]を意味しない。もしひとが、 ひとが原因と時間概念の経験的内容の明確化に関わるうちに、時間の概念の前に、周期的発生の概念を置けば。そのような概念化は、 空間概念の解釈において剛体(又は疑似剛体)の概念の先行に正確に対応する。

(2)のさらなる議論。相対論の発表に先行して優勢であった幻想ーそれは、空間の遠方の出来事に関係する同時性の意味の経験の観点から、 結果的に、物理の時間の意味は先験的に明白であるというーこの幻想は、我々の毎日の経験のなかでは我々が光の伝播時間を無視できる という事実にその原因をもつ。我々は"同時にみた"ことと、"同時に起きた"ことの区別を失敗するようこの計算において習慣付けられ; そして結果として、時間と局所時間の違いが消えていく。

古典力学における時間の観念に粘着する、経験的重要性の観点から、確定性の欠如は、空間と時間とを我々の意味の独立に与えられた もののようにする公理論的な表象によって隠された。そのような観念の使用 ー 経験的基盤によらず、それらがその存在を負うー は、 必ずしも科学を損害するわけではない。しかしながら、ひとは、忘却が原因のこれらの観念が、我々の思考に必要で不変の随伴である という誤った信念に容易に導かれる。そしてこの誤りは、科学の進歩にとって深刻な危険を構成しえる。


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力学の進歩にとって、そしてそれゆえまた、一般の物理の進歩にとっても幸運であったことは、客観的時間の概念における確定性の欠如 が早期の哲学者がそれを経験的解釈とみなすことを妨げてきたということである。彼らが力学の基礎を開発した時空構成の本当の意味の 全信頼は、我々が構成的に特徴付けると次のようになる。

(a) 質点の概念:物体はその ー位置と運動に関してー点と座標値、$X_1, X_2, X_3$として、十分な正確さをもって記述できる。 (空間 $B_0$ に関して) $X_1, X_2, X_3$ を時間の関数として与えることによる運動の記述。

(b) 慣性の法則:全ての他の点から、十分に離れた質点にとっては、加速の成分は存在しないこと。

(c) 運動の法則(質点にとって):力$F$ =質量$m$ × 加速$a$。

(d) 力の法則(質点間の作用と反作用)。

このなかで(b)は(c)の特殊の場合として、この上なく重要である。現実の理論が存在するのは、力の法則が与えられたときだけである。 力は、まず最初の段階として、作用反作用が等しいという法則だけに従わなくてはいけない。 質点系ー互いに永久に結合したーがひとつの質点のように振る舞うことのできるために。

これらの基本的な法則は、重力に関するニュートンの法則とともに、天体の力学の基礎を形成する。 このニュートン力学のなかで、剛体から導かれた上記した空間の概念とは対照的に、空間$B_0$が新しいアイデアを含む式のなかにはいる; (b)と(c)によって(与えられた力の法則に)有効性が要求されるのは、全ての$B_0$ではない。運動の適切な状態にある(慣性系)$B_0$だけである。 この事実のために、座標空間は、純粋に空間の幾何学的観念に含まれない独立な物理的特性、環境を獲得した。それはニュートンに考察 のための少なからぬ材料(バケツの実験)(*2)を与えたのである。

(*2) この理論の欠陥は、全ての$B_0$に有効性を命じるような、力学の定式化だけが消去できるだろう。これが一般相対論に導く段階 のひとつであった。2番目の欠陥も、一般相対論の導入だけによって除かれるが、重力質量と質点の慣性質量の等価性が、力学自体によって 理由が与えられていないということである。


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古典力学は、単に一般的な構想であり;それは力の法則(d)を明示することだけで理論になった。ニュートンによって、天体力学に対して 非常に成功してなされたように。最も偉大な基礎付けの論理的簡潔性の目的の観点からは、この理論の方法は、力の法則が論理的かつ式 による考察によって得られず、それらの選択は大きな範囲の任意性への先験的であるという限り、不完全である。 また、ニュートンの重力の力の法則も、他の考えられる力の法則から、排他的にその成功だけによって識別される。

今日、古典力学が全ての物理を支配する基礎として失敗していることを肯定的に知る事実にも関わらず、それはまだ、物理の全ての思考の 中心を占有している。これに対する理由は、ニュートンの時代以来重要な進歩に到達したにも関わらず、研究されている現象が、成功した 種類の部分的な理論的な系が、全体的な複雑性、それから論理的に演繹できることを我々が確かであるものに関する、物理の新しい基礎付 けにはまだ到達していないという事実にある。以降の行では、私は物質がどう存在するかに対して短く記述することを試みる。

最初に、我々は心中に、古典力学の系が、物理学全体の基礎として奉仕するのに、どこまで適切かを自ら示しているか明確にしようと試みる。 我々がここで扱うのは、物理学の基礎付けとその発展であるから、我々は、力学の純粋に形式上の進歩(ラグランジュの方程式、正準方程式、など) にだけ関わる必要がある。しかし、ひとつ注目するのは不可欠なことである。力学にとって"質点"の観念は基本的である。 もしいま、我々がそれ自身質点として扱えない物体ーそして厳密にいえば、我々が知覚できる全ての物体はこの分類であるーの力学を探索する なら、そのとき次の問が起きる:どのように、我々は質点なしにその物体を組み上げると想像し、何の力をそれらの間に作用していると我々が 仮定しなければならないか?この問は、定式化には不可欠である、もし、力学が物体を完全に記述すると装うべきなら。


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これらの質点とそれらの間に働く力の法則を不変とみなし、つまり、時間変化は力学的説明の範囲の外側にあるだろうとする力学の傾向は 自然である。このことから、我々は、古典力学が我々に原子論的な物質構成を導かなければならないことをみることができる。我々はいま、 理論が経験から誘導的にくると信ずる人達のそれらの理論がどれだけの誤りのなかにあるかを、特別な明瞭さをもって、知るのである。 偉大なニュートンでさえ、この誤りから逃れることはできなかった("Hypotheses non fingo")(*)。

この考察のライン(原子論)のなかの希望をなくすほどの喪失から救うために、科学は最初に次の方法で前進した。系の力学は、その構成の 関数としてポテンシャルエネルギーが与えられるなら、決定される。いま、もし、力の作用が、系の構成のある秩序量の保存を保証する ような種類であるなら、そのとき、その構成は十分な精度をもって、相対的に少ない数の構成変数、$q_r$ によって記述できる;ポテンシャル エネルギーは、それがこれらの変数に依存するときそのときに限り、考慮することができる(例えば、実質的剛体の6変数の記述)。

物質を"現実"の質点への分解を避ける、力学の応用の第2番目の方法は、いわゆる連続媒体の力学である。この力学は、物質密度と物質速度 が座標値と時間に連続的な方法で依存するとし、明示的に与えられない相互作用が表面力(圧力)として考えられ、それもまた場所の連続関数 とする虚構によって特徴付けられる。ここに我々は、水[流体]力学理論と固体の弾性理論を見出す。これらの理論は、質点の明示的な導入を、 古典力学の基礎の光の中で、近似的な意味しかもたない虚構によって、避ける。

これらの偉大な"実際的"な重要性に加えて、これらの科学の分野は、ーアイデアの数学的世界の拡大によってー 結果的に、ニュートンのそれ と比べて新しい物理学の全体的構成を定式化する試みに、ずっと必要であったそれらの数式の付属的機器 (偏微分方程式)を創作した。

( * 私は仮説をたてない)


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力学のこれらのふたつの応用の形態は、いわゆる、"現象論的" 物理に属する。この種の物理の特徴は、それはできるだけ多数の概念を作り出し、 それらは経験に近いもので、しかしこれは、この理由のために、大幅に基礎と結合することを諦めないといけない。熱、電気、そして光は、 力学の状態以外に、特別な状態変数と物質の定数たちで記述される;そして、これら全ての、互いに依存する、変数を決定するのは、むしろ 経験的な仕事である。マックスウェルの多くの同時代人は、物理の究極の目的を、経験に使われる概念の相対的近接さのために純粋に経験から 誘導的に得られるかもしれないと彼らが考える、そのような発表の仕方のなかでみた。知識の理論の観点からは、St.ミルと、E.マッハは、 彼らの立場を近似的にこの基盤に置いている。

私の信念に従えば、ニュートンの最も偉大な業績は、その整合する応用が、特に熱現象の領域において、この現象論的な表象を超えて導いた という事実になかにある。これは、気体の運動理論と、一般的な方法、統計力学とにおいて起きた。前者は、理想気体の状態方程式、気体の 粘性、散乱、そして熱伝導、気体の放射測定現象に繋がり、直接的実験の観点からは、互いに何もすべきことのない現象に論理的結合を与えた。 後者は、熱の古典的理論の観念と法則の適用限界を発見するだけでなく、熱力学の概念に力学的解釈と法則を与えた。この運動理論は、現象論的 物理学をずっと上回って、その基礎的論理統一性とみなされ、幾つかの独立した方法からの結果による原子と分子の真の大きさへを作り出し、 さらに確定的な値にすることで、合理的な疑いの領域を超えて、それらの存在を打ち立てた。これらの決定的な進歩は、質点への原子論的実体 の同格化と、どの実体が明らかであるかという構成的思索的特性とによって支払われた。誰も、決して原子に"直接的知覚"を望まないだろう。 実験事実 (例:温度、圧力、速度) により直接に結び付いた変数に関する法則は、複雑な計算を手段として、基本的な概念から演繹される。 この方法で物理学(又は少なくともその一部)は、もともとは、より現象論的に構成されたものが、原子と分子のために、直接実験からより 基礎に移動し、性格はより統一された、ニュートン力学によって立てられたものによって、還元されたのである。


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§3. 場の概念

光学と電気的現象を説明することにおいて、ニュートン力学は、上に引合にだされた領域におけるより、ずっと成功していない。 確かにニュートンは、彼の光の粒子論のなかで、光を質点の運動に還元しようと試した。しかし、後に光の偏光、回折、干渉の現象は、 彼の理論にさらにもっと不自然な修正を強制することになったから、ホイヘンスの光の波動説が優勢となった。多分、この理論は、 その起原を本質的に、結晶学的光学の現象と、音の理論に借りている、それはそのときすでにある程度、精巧に作り上げられていた。 ホイヘンスの理論もまた、第1にまず、古典力学に基づいていたといってよいに違いない;しかし、すべてを貫通するエーテルが 波動の媒体として仮定されなければならなかった。そしてエーテルの構造が質点でできているとは、どの知られる現象によっても決して 説明することはできなかった。ひとは決してエーテルを制御する内部的力も、エーテルと"質量のある"物質との間に作用する力について 明瞭な描像を得ることはなかった。それゆえ、この理論は暗黒のなかに永遠に残された。真の基礎は偏微分方程式だった。 力学的要素が常に疑わしく残される還元であった。

電気的、磁気的現象の理論的概念に、ひとは再び、特別な種類の質量を導入し、そして、これらの質量の間に、ニュートンの重力に類似 する、遠隔に作用する力の存在をひとは仮定した。しかし、特別な種類の質量は、慣性という基本的な特性を欠いていると見られた; そして、これらの質量と重さのある質量との間に作用する力は、不明瞭なままに残された。これらの種類の質量に極性のある性質を 付け加えられなければならなかったということにある、これらの困難は、古典力学の構想のなかに適合しなかった。電磁力学の現象が 知られるようになったとき、理論の基礎は、さらに不満足なものとなった。これらの現象は、磁気現象の説明を、電磁力学の現象を 通して説明することに物理学者の力を持ち寄ったにも関わらず、そして、それは磁気質量の余計な仮定をする方法であった。 この進歩は、実に、運動する電気的質量の間に存在していると仮定されなくてはならなかった相互作用する力の複雑さが増大すること によって支払われた。


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この不満足な状態からファラディとマックスウェルによる電気的場の理論による退避は、多分、ニュートンの時代以来の物理の設立に よって経験した最も深い転換であった。再度、それは構成的思索の方向の一歩であって、それは理論の設立と我々の五感の手段による 経験との間の距離を増大させた。場の存在は、実に、電気的帯電させた物体がそこに導入されたときだけ、自らを証明した。 マックスウェルの微分方程式は、電場と磁場との空間と時間との微分係数を結合する。電気的質量は、電場の消えない発散の場所で しかなかった。光の波は、空間のなかの波動の電磁場として表われてきた。

確かに、マックスウェルはまだ、彼の場の理論を力学的に、力学的エーテル理論の手段によって、解釈を試みていた。しかし、これら の試みは、次第に背景に退き、ハインリッヒ・ヘルツによる次の表現、ーいかなる不必要な付加も粛正されたー 後に、場の理論のなか で基本的な立場を最終的に得たのは、ニュートン力学のなかで質点によって占められた場所であった。しかし、最初にこれは、空虚な 空間のなかの電磁場だけに適用する。

その初期の段階で、その理論は物質の内部ではまだ全く不満足であった。なぜならそこでは、ふたつの電気的ベクトルが導入されなくては ならず、それらは媒体の性質に依存する関係によって結合していて、これらの関係は、どの理論的解析も入手できないものだった。 同様の状態は、場と電流密度の関係だけでなく、磁場との関係にも起きた。


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ここで、H. A. ローレンツが脱出を見出し、それは同時に、運動する物体の電磁動力学、それは多少は任意仮定のない理論への道を示した。 彼の理論は次の基礎的仮説の上に建てられた:(重さのある物体の内部を含む)どこも、場の座は、空虚な空間である。電磁現象のなかで 物質の参入のもつ原因は、物質の要素粒子は不変の電荷を運ぶという事実のなかだけにあり、そしてこのために一方では、運動物体の力 の作用を受け、他方では、場を発生する特性から影響を受ける。要素粒子はニュートンの質点のための運動法則に従う。

これが H. A. ローレンツが、ニュートン力学とマックスウェルの場の理論の彼の合成をその上に得た基礎である。この理論の弱点は、 それが、偏微分方程式(マックスウェルの真空中の場の方程式)と、全微分方程式(点の運動方程式)との組み合わせによって現象を決定 しようとする事実のなかにあり、その過程は明らかに不自然である。外に示された理論の不満足な部分は、粒子の表面に存在する電磁場 が無限大になることを防止するために、粒子に有限の大きさを仮定する必要にあったためによる。理論はさらに、個々の粒子の上の電荷 がもつ莫大な力に関しての何らの説明を与えることにも失敗した。H. A. ローレンツは、現象を、少なくとも一般方針に関して、正しく 説明するための、彼の理論のこれらの弱点を、それは彼によく知られていると、受け入れた。

さらに、ローレンツ理論の枠を超えて到達したひとつの考察もあった。電気的に帯電された物体の環境のなかでその慣性への(明白な) 貢献を備える磁場があった。粒子の全体の慣性を電磁的に説明することは可能であるべきではないのではないか?この問題は、粒子が 電磁場の偏微分方程式の通常の解として解釈されるときにだけ、満足に解けるということは明らかである。しかし、マックスウェル 方程式の元の式では、そのような粒子の記述を許さない。なぜなら、それらの対応する解は、特異性を含むからである。それゆえ、 理論的物理学は、マックスウェル方程式の修正によって、目的に到達しようと長期に渡って試みて来た。しかしながら、これらの試みは、 成功の冠を得ることがなかった。このように、純粋な電磁場理論の持ち上げた目標の事項は、当面のところ達成されずに残された事態に なっている。原理的には、そのような目標に到達する可能性に対する反論が持ち上げられなかったにも関わらずである。 この方向のどのさらなる試みにも、ひとを思い止めさせることとしては、解に導く系統的な方法の欠如である。 しかし、私に確かと見えるのは、どの整合的な場の理論の構築においても、そこに、場の概念に付け加えた、粒子に関する概念はあるべき でないことである。理論全体は、偏微分方程式と、それらの特異性のない解とに基づかなければならない。


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§4. 相対性の理論

物理の基本的な概念に導くことができる帰納的な方法はない。この事実を理解することの失敗が、19世紀の非常に多くの研究の基本的哲学 の誤りを構成している。それは多分、なぜ分子の理論が、マックスウェルの理論が、それら自身を創設できたのが比較的に遅い時期であっ たかの理由である。論理的な思考は必然的に帰納的である;それは仮説的な概念や公理系に基づいている。どのように我々は、帰結として 成功が期待できることで、我々を正当化できるような手法によって、後者の選択を望めるだろうか?

最も満足な状況は、新しい基本的仮説が、経験世界自身によって示唆されている、場所の場合には、明かに見出されるべきものである。 熱力学の基礎として、永久運動の非存在の仮説が、経験から示唆された基本仮説の例を供給する;同じことが、ガリレオの慣性の原理に成り立つ。 同じカテゴリーに我々はさらに相対性の理論の基本的仮説を見出す。その理論は、場の理論の予期せぬ拡張と拡大と、古典力学の基礎の 代替り、置き換えを導いている。

マックスウェルーローレンツ理論の成功は、真空中の電磁方程式の有効性に、そして特に、光が"空間中"をある一定速度$c$で旅することへ の多大な信頼を与えた。この光速度不変性の法則は、どの欲する慣性系に関しても、有効であろうか? もしそうでなければ、ひとつの特定 の慣性系又はより正確に(参照物体の)運動の特定の状態が他の全てから識別できることになる。しかし、このアイデアに対して我々の経験 の全ての力学的、電磁的-光学的事実は反対の立場を示している。


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これらの理由から、全ての慣性系においての光速度一定の法則の、原理の程度を上げることが必要となった。これから続くのは、空間座標 $X_1, X_2, X_3$ と時間 $X_4$ が表式、(もし、時間の単位が光速度$c= 1$というように選ばれるなら。) \[ ds^2= dx_1^2 + dx_2^2 + dx_3^2 - dx_4^2 \] の不変性によって特徴付けられる "ローレンツ変換"に従って変換されることである。

この過程によって時間はその絶対的な特性を失い、"空間"座標に、その代数的に(ほとんど)類似の特性なので、含められた。 時間の絶対的な特性と同時性は壊され、4次元記述が唯一適切なものとして導入されるようになった。

また、自然の全ての現象に関してまで、全慣性系の等価性を計算に入れるためには、一般的法則を表す全ての物理方程式の系が ローレンツ変換に関して不変であることを仮定することが必要になる。この要求の詳細が特殊相対論の内容を成している。

この理論は、マックスウェル方程式とは互換性を有し、古典力学の基礎とは互換性がない。確かに質点の運動方程式は、そのような 理論を満足させる方法に、修正できる(そしてさらに、質点の運動量と運動エネルギーの表式も);しかし、相互作用する力の概念、 それとともに、系のポテンシャルエネルギーの概念は、それらの基礎を失う、なぜなら、これらの概念は絶対的な同時性の概念の 上にあるからである。微分方程式によって決定される場が力を起こすのである。

上述の理論は、場を通してのみ相互作用を許すので、それは重力の場の理論を必要とする。実に、これをニュートン理論のなかの ように、偏微分方程式の解であるスカラーに還元できる重力場のなかのような理論に、定式化するのは難しくない。しかしながら、 重力のニュートン理論のなかで表された実験事実は、もうひとつの方向、一般相対論の方向に導くのである。


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古典力学は、そのなかに、その基礎において、不満足な1点を持っていた。同じ一定質量に、運動の法則では"慣性質量"、そして重力の 法則においては"重力質量"という、ふたつの異なる役割をもつことを超えて、2度出逢うことである。この結果として、純粋な重力場の なかの物体の加速は、その素材に依らない;又は、均一な加速の("慣性系"に対して加速されている) 座標系のなかで、運動は、 それらが("静止"座標系に関して)一様な重力のなかにあるかのように行われる。もしひとが、ふたつの場合の等価性が完全であると仮定 するなら、そのときひとは、重力的な質量と慣性の質量が同一である事実への、我々の理論的思考の適応を成し遂げているのである。

このことから、もはや基本的原理として、"慣性系"への嗜好にいかなる合理性もないということが続く;そして、我々はそれら自身の 権利として、また座標$(X_1, X_2, X_3, X_4)$の非線形の変換も等しく許さなければならない。

もし、我々が特殊相対論のそのような座標系の変換をするとき、そのとき、計量、 \[ ds^2 = dx_1^2 + dx_2^2 + dx_3^2 - dx_4^2 \] は、一般の(リーマン)計量に到達する。 \[ ds^2 = g_{μν} dx_μ dx_ν (μとνをわたる総和) \] ここで、$g_{μν}$は、$μν$に対称な、$x_1,...x_4$ のある関数であり、新しい座標系に関して、計量特性と重力場との両方を記述する。


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しかしながら、上述の力学的基礎の解釈のなかでの進歩は、ーより立ち入った精査によって明らかになるようにー 新しい座標系はもはや、 それが元の座標系(重力場のない慣性系)で可能であった、剛体棒と時計による測定の結果とは解釈できないことによって 支払われなくてはならない。

一般相対論への通り道は、上述の空間の特性、関数g_μν(それはいわばリーマン計量)による表現が、また特殊相対論の単純な疑似 ユークリッド形式をとる計量に関してはどの座標系も存在しない 一般的な場合に正当化できることを仮定によって、はっきり 理解できる。

いまや、座標値は、それ自身によって、もはや計量関係の表示でなく、記述された物事の"近傍性"でしかない、それらの座標値は互いに ほとんど異ならない。これらの座標変換に特異性がない限り全ての座標変換が許されなければならない。任意の変換に共変的である そのような方程式だけが、この意味で、自然の一般的法則の表式として意味をもつ(一般共変性の仮定)。

一般相対論の最初の目的は、暫定的声明、近接的な物事自身の構成の要求を諦めることによって、 "直接に観測できる事実"に可能な限り 単純に結合することである。ニュートンの重力理論がその例を与えるように、それ自身を純粋に重力の力学に制限することによって。 暫定的声明は、次のように特徴付けられよう。


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(1) 質点の概念とその質量は維持される。その運動法則を与え、運動法則が慣性の法則の平行移動であることから、一般相対論の言語に移る。 この法則は、全微分方程式系であり、その系の特性は、測地線である。

(2) 重力による相互作用のニュートン法則に代わって、$g_{μν}$テンソルを設定できる一般共変性の最も単純な微分方程式系を見出さなくて はならない。一度縮約したリーマン曲率、$R_{μν}$を0に等しくすることによって形成される$(R_{μν}=0)$。

この定式化は、惑星の問題の扱いを許す。より正確にいえば、それ自身は不動と仮定する質点の作り出す重力場(中心対称)のなかの、実質的に 無視できる質量の質点の運動の問題の扱いをそれが許す。それは、"動かされた"質点の重力場への反作用を計算にいれず、この中心質量が 重力場をどう生成するかについても考慮しない。

古典力学に類似して、次の式が理論を完成させる道である。ひとは場の方程式として設定する、 \[ R_{ik} - {1\over 2} g_{ik} R = - T_{ik} \] ここで、$R$は、リーマン曲率のスカラーを表し、$T_{ik}$ は、物質のエネルギーテンソルの現象論的表現である。方程式の左辺は、その発散が 恒等的に消散するように選択されている。結果的に、右辺の発散の消散は、物質の運動方程式を作り出す。$T_{ik}$を導入する場合の偏微分方程式 の形式で。物質記述のために、さらに4つの関数だけが互いに独立である(例えば、密度、圧力、そして速度の成分、そこでの後者の間に は恒等性が、圧力と密度の間には状態方程式がある)。


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この定式化によって、重力の力学全体が単純な共変偏微分方程式の解に還元される。理論は、古典力学の基礎に対して非難された全ての 内部矛盾を回避する。それは、ー我々が知る限りのー 天体力学の観測事実を再現するのに十分であるが、片方の翼(方程式の左辺)が 上質の大理石製で、他方の翼(方程式の右辺)が低質の木製の建築に似ている。物質の現象論的再現性は、事実、物質の全ての知られた 特性に対応する再現性への、粗雑な代替物でしかない。

電磁場のマックスウェル方程式と重力場の理論とを結合することは、ひとが彼自身、空間を重さのある物質なし電荷密度なしに制限する 限り、困難さはない。必要なこと全ては、真空の電磁場のエネルギーテンソルを、上の方程式の右辺、$T_{ik}$に置くことで、そして、そう 修正された方程式系に一般共変に書かれた真空のマックスウェル場の方程式を関連付ける。これらの条件の下に、これら全ての方程式の間に、 十分な数の微分要素の1が存在して、それらの整合性を保証するだろう。我々はさらに方程式の全体系のこの必要な形式の特性が$T_{ik}$の要素の 符号の選択を任意に残すことを付け加える。それらは後に重要なことが示される。

理論の基礎付けのために、最大可能な統一性をもつという欲求は、重力場と電磁場をひとつの形式にしかも一様な絵として含めるという、 幾つかの試みとなって結実した。ここで我々は、カルツアとクラインの、5次元の理論に特に言及しなければならない。この可能性を非常 に注意深く考慮すれば、私がこれに感ずるのは、元の理論の内部的均一性のなさを受け入れることがより望ましいということで、なぜなら、 5次元理論の仮説的基礎の全体性は、元の理論より任意性が少なくもつとは考えないからである。同様な声明がなされ得るのは、投影的 多様性理論に対してで、それらは偉大なる注意深さをもって磨かれた、特に、v.ダンティフによるもの、パウリによるものがある。


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上述の考察が関係するのは、とり分け場の理論についてであり、物質についてではない。どのようにこの地点から進めばよいのか我々は、 物質を原子的に構成する、完全な理論を得るために? そのような理論では、特異性は排除されなくてはならない、なぜなら、排除なしには 微分方程式は、全体場を完全には決定しないからである。ここ、一般相対性の場の理論のなかに、我々は純粋なマックスウェル理論に関して 元もと出逢ったと同様な、理論的な物質の場-表現の同じ問題に会うのである。

ここで再び、場の理論の外側に粒子を構成する試みは、明らかに特異性に導く。ここに再び、この欠点に打ち勝つために努力がなされた。 新しい場の変数を導入して、洗練し、場の方程式系を拡張して行うのである。しかしながら、最近、ローゼン博士との共同研究のなかで 私が発見したのは、上に記した、重力場と電気性の場の方程式の最も単純な結合が、中心対称の解を作るが、特異性のない形に表現できる ことである(よく知られたシュワルツシルトの中心対称性の解は、純粋に重力的なもので、ライスナーのそれらは、その重力作用を考慮した 電気的な場である)。我々は、次の段ひとつでこれに短く触れる。この方法で物質と純粋な場との相互作用を得ることが、追加的な仮定なしに 可能に思え、さらにそれが経験の事実に従順なテストが、純粋な数学的な困難以外の困難とならない理論、しかしその困難は、非常に深刻である。


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§5. 量子論と物理の基礎

我々の世代の理論物理学者は、今までに考えられた場の理論のそれらから大きく異なった基本概念を使用する物理の新しい理論的基礎 の樹立を期待している。その理由は、新しい種類の考察の手段、ーいわゆる量子現象の数学的表現のためにー使用する必要が発見された ことである。

光の有限の速度(その∞であることの回避)に結合して、相対論によって明かされたように、古典的力学の失敗の間、我々の世紀の始まりに 力学からの演繹と実験事実との間には別の種類の不一致があったことが発見された、その不一致は、プランク定数の有限の大きさ(その0で あることの回避)に結合していた。特に、分子の力学には、固体の熱容量と(単色的な)放射密度との両方が絶対温度の低下に伴って、 比例的に 低下することが必要である一方、実験は絶対温度よりもずっと急速に低下することが示された。この振る舞いの理論的な 説明のために、力学系のエネルギーはどんな値をとることもできると仮定することはできず、ある離散的な値だけをとり、その数学的な 表式にはつねにプランク定数hに依存している、と仮定する必要があったのである。さらに、この概念は、原子の理論(ボーアの理論)に 不可欠であった。ひとつから他への状態遷移にとって、ーそれが放射の発射や吸収を伴う場合や、ない場合のー因果的な法則は与えられず、 確率的な法則だけが与えられ;そして、ほぼ同時期に注意深く研究された、放射性の原子の崩壊にも類似の結論が成立した。 20年以上の期間、物理学者はこの系と現象の"量子特性"の統一的な解釈を見出そうと無駄に試みてきた。そのような試みはふたつの全く異 なった理論的な攻撃の方法の代理[行列と偏微分方程式]を通して、約10年前に成功した。我々は、これらのひとつをハイゼンベルグとディラックに、 他方をドブロイとシュレディンガーに負っている。ふたつの方法の数学的等価性は、シュレディンガーによって認識された。私はここに、 ドブロイとシュレディンガーの思考の線のスケッチを試みる。それは物理学者の思考方法に近くあり、ある一般的な考察に伴う記述を同行させる。


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最初に質問:どのように、古典力学の意味で指定された系に離散的なエネルギー値の継続 $H_σ$ を割り当てられるだろうか (エネルギー 関数は、座標$q_r$と対応する運動量$p_r$の与えられた関数として)?プランク定数$h$は、エネルギー値$H_σ$への周波数$H_σ\over h$に関係する。 それゆえ、その系に離散的な周波数の値を与えることで十分である。これは、我々に音響のなかでは、離散的なひとつの周波数の系列が、 (境界条件を与えれば) 線形の偏微分方程式と同等であることを、つまり正弦波の周期的関数を思い出させる。それに対応した手法で シュレディンガーは、与えられたエネルギー関数$ε(q_r, p_r)$にスカラー関数$Ψ$に偏微分方程式を同定させる仕事を自ら課した。 ここで$q_r$と時間$t$は独立な変数である。このなかを彼は(ひとつの複素関数$Ψ$に) 進み、エネルギー$H_σ$の理論値が確率理論で 要求されるような方法で、実際、方程式の周期解から満足する方法で結果を得た。

確かに、シュレディンガー方程式の確定解$Ψ(q_r, t)を$、質点の力学の意味の、確定的な運動に、連携させることは一度もできなかった。 このことは、$Ψ$の関数が、どのような程度の正確さにおいても、時間$t$の関数としての$q_r$の物語を、決定しないことを意味する。 しかしながら、ボルンに従って、Ψ関数の物理的意味の解釈が、次のような方法で可能と示された:$ΨΨ$(複素関数$Ψ$の絶対値の2乗)は、 $q_r$と時刻$t$の構成空間のなかの、考慮中の点の確率密度であると。それゆえ、シュレディンガー方程式の内容を、特徴付けることが可能である。 容易に理解でき、しかし、全く正確でなく、次のように:それが決めるのは、時間に伴う構成空間のなかの系の統計的集合の確率密度が どう変化するかである。短くは;シュレディンガー方程式は、時間に伴う$q_r$の関数$Ψ$の変化を決定する。


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次のことは言及されねばならない。この理論の結果は、ー極限値としてー 粒子力学の結果を含んでいる。もしシュレディンガー問題の 解の間に遭遇する波長が、どこでも非常に小さく、構成空間のなかの1波長の変化に対して、ポテンシャルエネルギーが実質的に無限に 小さな量しか変化しないなら。これらの条件の下に、次のことを事実として示すことができる:我々が構成空間のなかに領域$G_0$を選択し、 それが波長に対して(どの次元においても)大きくても、構成空間の実際の大きさに対しては小さい。これらの条件の下に、初期時$t0$ における$Ψ$の関数を、領域$G_0$の外部では消滅するように選択し、そしてシュレディンガー方程式に従って振る舞い、それがこの特性を ー少なくとも近似的にはー 後の時刻にも保存し、時刻tには$G_0$領域を過ぎて、もうひとつの領域$G$に入っている、ということが可能である。 このような方法でひとは、ある程度の近似をもって、全体として領域Gの運動をいうことができ、そして、ひとはこの運動を構成空間の なかの点の運動によって近似することができる。そのときこの運動は、古典力学の方程式によって要求される運動に一致する。

粒子線によってなされる干渉実験は、輝かしい証明を与えられた。理論によって仮定されるように、運動の現象の波の特性は、実際に 事実に対応する。これに加えて、その理論は容易に、外部力の作用の下で、系の遷移の統計法則を誇示することに成功した。それは、 古典力学の立場からは、奇跡にみえる。ここでの外部力は、時間の関数としてのポテンシャルエネルギーの小さな追加として代表される。 今、古典力学では、そのような追加は、単にそれに対応した小さな系の変化を作ることができるが、量子力学ではそれらはどんな大きな 大きさでも、しかし、それに対応して、小さな確率の変化を伴う、完全に経験に調和した結果を作り出す。放射能の崩壊の理解において さえ、少なくともその太線は、その理論によって用意された。

多分、決して以前になかっただろう量子理論のように、そのような異質な経験の現象群の解釈と計算の鍵を与えられて発展させられた理論は。 しかし、これにも関わらず、我々が物理の均一な基礎を探索するなかで、その理論は、我々を欺いて誤りに陥れがちであるということを信ずる。 なぜなら、私の信条では、それは現実の物事の不完全な表現であるからで、たとえそれが、力と質点という基礎的概念の外に建設できた 唯一のものであっても(古典力学の量子訂正)。表現の不完全さは、その法則の統計的な性質の(不完全さ)から来たものである。 私は今この意見の根拠を示そう。


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私はまず尋ねる:Ψ関数は力学系の現実の状態をどこまで記述しているのか?$Ψ_r$ をシュレディンガー方程式の(エネルギー値の増加する秩序 のなかにおける)周期解であると仮定する。どこまで個々の$Ψ_r$が物理状態の完全な記述かという問いを私は、当分の間未解決に残す。 ひとつの系は、最初、最低のエネルギー$ε_1$の、状態$Ψ_1$にあった。そして、有限の時間の間、小さな擾乱の力が系に作用する。後の時刻に ひとがシュレディンガー方程式から得る、Ψ関数の式は、 \[ Ψ=Σ c_r Ψ_r \] ここで $c_r$ は、(複素の)定数である。もし、$Ψ_r$ が "正規化" されていれば、そのとき、$|c_1|$は1にほとんど近く、$|c_2|$等は 1に比べて小さい。 ひとはいま尋ねてよい:$Ψ$は系の現実状態を記述しているか? もし、答えがイエスなら、我々はこの状態を、確定したエネルギー$ε$以外に帰す ことはほとんどできない(*3)。そして、特に、$ε_1$を少しの量だけ超えた$ε (ε_1<ε<ε_2)$以外に。しかし、そのような仮定は、J. フランクと G. ヘルツの行った電子衝突の実験とは相反する、もしこれに加えて、ミリカンの電子の離散的性質の誇示をひとが受け入れるならば。 実際に、これらの実験は、状態のエネルギー値が、量子化値の間にあることはないという、結論を導く。これから、次のことが続く。我々の関数 $Ψ$は、物体の等質的な状態をどのようにも記述していない。単にむしろ統計的な記述であり、そのなかの$c_r$が個々のエネルギー値の確率を表す。 それゆえ、ボルンの量子理論の統計的解釈が唯一の可能なものであったのは、明らかに思える。$Ψ$関数は、単独の系の状態記述でありえる、 ひとつの状態をどのようにも記述していない;それはむしろ多数の系に、統計力学の意味の "系の集合"に関係する。 もし、確かなひとつの特殊な場合を除外すれば、$Ψ$関数は、測定できる大きさに関する統計的なデータだけを備える。その理由は、 測定の操作が統計的に把握することができるだけの、未知の要素を導入している事実にあるだけでなく、$Ψ$関数が、どの意味でも 単独の系の状態を記述しないということ自身の事実にもよる。シュレディンガー方程式が決定するのは、単独の系への外部作用ありなしが あってもよいが、系の集合によって経験された時間変化だけを決定する。

そのような解釈は、私とふたりの共同研究者によって、最近に誇示されたパラドックスをも除去する。それは、次の問題に関係する。

(*3) なぜなら、相対性理論のよく確立された帰結に従えば、完全な系の(静止)エネルギーは、その慣性と(全体として)等しい。 しかしながら、これは、よく定義された値を持たなければならない。


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限定された時間だけ互いに相互作用をもつ$A$と$B$とのふたつの部分系で構成される力学系を考えよ。それらの相互作用前のΨ関数は与えられる。 そこで、シュレディンガー方程式は、相互作用が実行された後のΨ関数を用意する。今、部分系$A$の物理状態を測定によって可能な限り 完全に決定しようとする。そのとき量子の力学は、なされた測定と全体系のΨ関数から、部分系$B$の$Ψ$関数を決定することを我々に許す。 しかしこの決定は、測定された状態$A$を規定する決定的大きさがどちらであるかに依存する結果を与える(例えば、座標、運動量)。 一方、相互作用の後、$B$の物理状態はひとつしかあり得ず、そしてそれが、$B$から分離した$A$に我々が行う特定の測定に依存するとは、 合理的には考えられないから、$Ψ$関数は、愛昧さなしに物理状態に同格とはいえ<$B$>ないと結論する。同じ系$B$の物理状態に同格である いくつかの$Ψ$関数は、再び、$Ψ$関数が、単位の系の物理状態の(完全な)記述とは解釈できないことを示す。ここにまた、$Ψ$関数の系の集合 に対する同格が、全ての困難を消しさるのである(*4)。

量子力学は、そのような簡単な方法で、実際に特定の過程の表現を与えることなしに、ひとつの全体状態から他への(外見上)不連続な 遷移をするという声明を与える事実、この事実はもうひとつの事実に繋がる。つまり、その理論は、本当に単独系を操作せず、系たち の全体性に対して操作するという事実に。我々の最初の例の係数 $c_r$ が外部力の作用の下で、実に非常に小さな変化しかしない。 量子力学のこの解釈によって、ひとは、なぜこの理論が弱い擾乱力がひとつの系の物理状態にどの大きさの変化をも作り出せるかを 容易に説明できるを理解できる。そのような擾乱力は、実際に、対応する小さな変化だけを系の集合の統計的密度に起こし、 そしてそれゆえ、$Ψ$関数の無限に小さな変化だけを引き起こし、単独系の場合に有限の変化を起こす数学記述に含まれる困難より ずっと小さい困難を提供する数学的記述をもたらす。この考察のモードによって、その単独の系に何が起きているかが、全く不明瞭に 残されることは事実だが;この謎めいた出来事は、考察の統計的手法によって表現から全く消去できる。

しかし今、私は尋ねる:我々がその単独の系のなかの、これらの構造と因果的結合のなか、そしてこの、ウイルソン霧箱とガイガー計数管 のおかげで、単独の出来事が我々に非常に身近にある事実にも関わらず、これら重要な変化のどの内部的視点をも決して得ることがないと 信ずる物理学者は、本当に誰かいるのだろうか。これを信ずることは、反論なく論理的に可能である;しかし、それは私の科学的な直観に とても反するので、私はより完全な概念を探索することを差し控えることはできない。

(*4) $A$の測定操作は、例えば、より狭い系の集合に遷移できる。後者は(それゆえ、そのΨ関数も)、この狭窄化がどれであるかに、 依存し、ある視点では、従っている。


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これらの考察に我々は付加しなければならないのは、量子力学によって導入された方法は、物理学全体の有用な基礎を与えるようにみえる という考えに対抗してそれらの抗弁を表明する、もうひとつの種類のものである。シュレディンガー方程式のなかで、絶対時間とそしてまた ポテンシャルエネルギーは、決定的な役割りを演じているが、これらふたつの概念は、相対論によって、原理的に許されないものとなった。 もしひとがこの困難から逃れようと望むなら、彼は相互作用の力の理論の代わりに、場と場の法則の理論を見出さなければならない。これは、 我々を量子力学の統計的方法から場へ、無限に多い自由度の系への転換を導く。これまでなされた試みは、線形方程式に制限されているが、 それは我々が一般相対論の結果から知るように十分でなく、非常な巧みな試みによる現在迄に出逢った紛糾はすでに恐るべきものである。 もしひとが、その根拠を原理的に誰も疑わない一般相対論の要求に従うことを望むなら、それらは確かに空高く昇るだろう。

確かに指摘されたように、時空連続体の導入は、全てのことが小さなスケールで起きる分子構造の視点から、反対の性質と考えられる。 多分、ハイゼンベルグの方法の成功は、自然の記述の純粋に代数的方法の点にある。それは物理から連続関数を除去することである。 しかしそれなら、我々は原理的に時空連続体を諦めなくてはならない。人間の優秀さはいつの日か、そのような道にそって進むことを、 可能にする方法を見出すだろうということは、想像できないことではない。しかし現在、そのようなプログラムは、真空のなかで息をする 試みのように見える。

疑いもなく、量子力学は美しい真実の要素を捕捉した。そしてそれは、どの未来の理論の基礎にとっても試金石となり、そのなかではその 基礎からは、それは制限された場合として演繹できねばならない。丁度、静電気学が、電磁場のマックスウェルの方程式から演繹されるように、 また、熱力学が古典力学から演繹されるように。しかし私は信じない、量子力学がこの基礎の探索の出発点となるとは。それは丁度、 逆に、ひとは熱力学(又は、統計力学、それぞれ)から力学の基礎には決して行くことがないようにである。

この状況の視点では、場の物理の理論が量子論の事実にどうやっても調和できないかどうかに関しての問いを真面目に考えることは、全く 根拠があるようにみえる。これは、一般相対論の要求に適合でき、今日の数学的な可能性に整合する、唯一の基礎ではないのだろうか。 今日の物理学者の間に広まっている、そのような試みに希望がないという信念は、その理論は第1近似として、粒子運動の古典力学の 方程式、又は少なくとも全微分方程式を、導かなくてはならないという、根拠のないアイデアのなかに根をもっているかもしれない。 実際、現在まで、我々は、特異性のない場による理論的な粒子の表現に一度も成功したことがない。そして我々は、先験的に、そのような 実体の振る舞いについて何もいうことができない。しかし、ひとつのことは、確かである:もし、場の理論が特異性のない粒子表現 をもたらすなら、そのときは、これらの粒子の時間に対する振る舞いは、場の微分方程式によって単独に決定されるのである。


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§6. 相対論と粒子

私は今、一般相対論に従って特異性のない場の方程式の解が存在して粒子の表現と解釈できることを示す。私はここで中性の粒子に制限 するのは、もうひとつの最近刊行されるローゼン博士との共同研究のなかで、私がより詳細にこの問題を扱い、この場合の問題の本質が 完全に示され得るからである。

重力場は、テンソル$g_{μν}$によって全く記述される。3つの添字のシンボル$Γ_{μν}^σ$のなかに$g_{μν}$の小行列を行列式$g(|g_{μν}|)$で 割ったものとして定義される反変変数$g^{μν}$も表われて、連続体の全ての部分の環境としては、そのなかで、$g_{μν}$とその1階微分が 連続で微分可能というなかの座標系があるというだけでは十分でなく、行列式gがどこにおいても消滅しないという必要もある。しかし、 この最後の制限は、$R_{ik}=0$という微分方程式を$g^2 R_{ik}= 0$と置き換えれば無くすことができる。その左辺は全体として$g_{ik}$と その行列式の有理関数である。

これらの方程式はシュワルツシルトによって示された中心対称解をもつ。 \[ ds^2 = - {1\over 1-{2m\over r}} dr^2 - r^2 (dθ^2 + sin^2θdφ^2) + (1 - {2m \over r}) dt^2 \] この解は、$r= 2m$ において特異性をもつ。なぜなら、$dr^2$ の係数(すなわち $g_{11}$) がこの超空間において、無限になる。しかしもし、 我々が変数$r$を$ρ$によって次式で置き換えるなら、 \[ ρ^2 = r - 2m \] 我々は、次式を得る、 \[ ds^2 = -4 (2m + ρ^2) dρ^2 - (2m + ρ^2)^2 (dθ^2 + sin^2θdφ^2) + {ρ^2 \over 2m + ρ^2} dt^2 \] この解は、全ての$ρ$の値において正規に振る舞う。確かに、$dt^2$ の係数($g_{44})$は $ρ= 0$ で消滅するが、この値への$g$の値の消滅の結果; しかし、場の方程式を実際に採用されたように書く方法によって、これは特異性を構成しない。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

もし、$ρ$が$-∞$から$+∞$に渡るとき$r$は、$+∞$から$r=2m$になり、$+∞$に帰る。一方、$r<2m$にあたる$r$の値に対応する$ρ$の実数がない。 このゆえに、シュワルツシルト解は、物理的な空間の表現がふたつの同一の "貝殻" の超空間$ρ=0$つまり$r=2m$の上での隣接を構成する ような物理空間の表現によって、正規な解となる。この超空間にとって行列式$g$が消滅するからである。ふたつの(同一の)貝殻の間の結合 を"ブリッジ"と呼ぼう。このゆえに、有限の領域のなかにふたつの貝殻の間のそのようなブリッジの存在は、特異性のない方法で記述された 物質の中性粒子の存在に対応する。

中性粒子の問題の解は、明らかに (分母がないように書かれた) 重力方程式のそのような幾つかのブリッジを含むような解の発見に到達する。

上にスケッチされた概念は、先験的に、物質の原子的構造に対応する。 "ブリッジ"がその性質から離散的要素である限りは。さらに、我々は 中性粒子の物質定数$m$は、必然的に正でなければならない。なぜなら、$m$の負値へのシュワルツシルト解に対応する特異性のない解は、存在しない からである。複数ーブリッジー問題 の試験だけが、この理論的方法が経験的に誇示される自然のなかの粒子の質量の等価性を説明することを 用意するかどうかを、そして量子力学がとても素晴らしく理解した事実を考慮に入れているかどうかを示すことができるだろう。

類似の方法で、重力と電気性の複合方程式は(重力方程式の電気的要素の符号の適正な選択を伴い)、電気的粒子のブリッジ表現を作る。 この種の最も単純な解は、重力質量なしの電気的粒子の解である。

複数ブリッジ解に関する重要な数学的困難が克服されていない限り、物理学者の視点から理論の有用性について何もいえない。しかし、 それは実際に、物質の特性の説明の可能性を示す場の理論の整合的な精密化に向けた最初の試みである。この試みに賛同して、ひとは それが今日、可能な最も単純な相対論的な場に基づいたものであることを、また付け加えなくてはならない。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

まとめ

物理学は、発展状態にある思考の論理的系を構成する。その基礎は、生活のなかの経験からどのような誘導的方法による、蒸留を通しても 得ることができず、自由な思い付きによってだけ得られるものである。系の正当性(真実の内容)は、感覚経験の基礎の上の結果する定理の 有用性の証明のなかにある。後者の前者への関係は、直観的にだけ理解される。発展は、論理的基礎の単純性の増大の方向に進んでいる。 この目的にさらに接近するためには、我々は論理的基礎が経験事実からさらに遠ざかること、そして、我々の思考の、基本的なものから 結果する定理への通り道は、感覚経験に相関するが、連続的に難しく長くなって来ていること、を受け入れる覚悟が必要である。

我々のここまでの目的は、できるだけ短く、それらが経験事実に依り、系の内部完成の目的に向かっての鬪爭にも依るなかで、基本概念の 発展をスケッチすることであった。今日の物事の状態は、これらの考察によって、それらが私に表われたように照明されなくてはならない。 (歴史的な構図の表現は個人的な色彩のものであることは避けられない。)

私が示すことを試みるのは、どのように物体、空間、主観的と客観的時間が互いにそして経験の性質に結合しているかである。古典力学の なかでは、空間と時間の概念は独立である。物体の概念は、その設立のさなかに、質点の概念によって置き換えられた。その手段によって 力学は基本的に原子論的になる。光と電気性は、力学を全ての物理の基礎にしようとするとき、乗り越えられない困難を作り出した。我々 はこうして、電気性の場の理論に導かれ、そして、 (古典力学との妥協の試みの)後に、物理を全て場の概念の上に置くという試みに導かれる。 この試みは相対性の理論に導いた(空間と時間の観念から計量の構造をもった連続体の観念に発展)。

私はさらに私の意見で、なぜ量子理論が物理の有益な基礎を作ることができるようにみえないかを示した:ひとはもし理論的な量子記述を 個々の物理系又は出来事の完全な記述と考えるなら、ひとは矛盾に巻き込まれる。

一方で、現在まで場の理論は、物質の分子の構造と量子の現象との説明を与えることができなかった。しかし、場の理論がこれらの問題の ひとつの解も、それ自身の方法で、与えられないという趣旨の断罪は、先入観に基づくことが示される。