物理現実の量子力学記述は、完全と考え得るか?

Nils Bohr、理論物理研究所、大学、コペンハーゲン
(1935年 7月 13日受付)
訳 片山泰男(Yasuo Katayama) Mar. 5 2017
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上記題のA.アインシュタイン、B.ポドルスキー、N.ローゼンによる最近論文の中で定式化された、ある"物理現実の批判基準"は、量子現象に適用されたとき、 本質的な不確実性を含むことが示された。これに関連して、物理現象の量子力学記述から"相補性"と命名する視点が適用範囲の中で、全ての合理的な完全性 の要求を満たすと思われることが説明される。



上記題のもとの最近の論文[1]の中で、A.アインシュタイン、B.ポドルスキー、N.ローゼンは、その事柄の問に否定的な答えに導く議論を提示した。 しかしながら、それらの議論の傾向は、我々が原子の物理において直面する実際の状況に適切に合致しているとは私には思えない。それゆえ、私は、 この機会を喜んで使用して、私が以前から多くの機会[2]に示してきた、"相補性"と便宜上名付けた、一般的な視点を何かもっと詳細に説明すべきである。 そこから、量子力学が、その適用範囲の中で、我々が原子の過程で出会うような物理現象の完全に合理的な記述であると、明らかになるだろう、

どの程度の曖昧さのない意味を"物理的な現実"というような表現に付与しても、それは、ーその論文の著者達が自ら引き合いに出して強調するようにー、 もちろん先験的な、哲学的概念から導かれるものではなく、実験と測定への直接の主張の上に築かれ[ママ]なくてはいけない。この目的のために、 彼らは、"現実性の批判基準"を次のように定式化した。"もし、系に何ら擾乱がないとき、我々が確かに物理量の値を予測できるなら、そのとき、 この物理量に対応した物理的現実の要素が存在する"。 面白い例を使って、後に再びこれを述するが、彼らが次に進んで示すのは、量子力学では、 まるで古典力学のように、力学的記述に関するどの所与の変数の値も、以前にその問題の系に相互作用をもった、全く他方の系に行われた測定から、 これに適した条件のもとでは、予測できることである。 彼らの批判基準に従って著者達は、それゆえ、現実の要素を、そのような変数によって表現された量のそれぞれに帰することを欲している。 一方、さらに、量子力学の現在の形式化においてよく知られた特徴として、力学系の状態記述において、2つの正規共役変数の両方に確定値を付することは 決してできず、彼らは結論的に、この形式化を不完全とみなし、より満足する理論が開発できるという信念を表明している。

そのような議論は、しかしながら、量子力学の記述の健全性に影響するのに適するとは殆ど思えない。量子力学は、指摘された測定のどの過程も、自動的に カバーする、整合した数学的形式化に基づく(*)。表面的な矛盾は、事実、量子力学において我々が関係するある型の物理現象の合理的説明への、 自然哲学の習慣的視点からみた本質的な不適切さを露見するだけである。 じつに、量子作用の名残のまさに存在によって条件付けられた、対象と測定器の間の有限の相互作用は、ー物体の、もしこれらがその目的に役立つなら、 測定機器への反応の制御の不可能性のためにー、因果性の古典的概念の最終的な放棄と、物理的な現実性の問題へ向かう態度の根本的な変更、の必要性を必然的に伴う。 事実、我々が後にみるように、名を挙げた著者達によって提案された現実性の批判基準は、ーその定式化が注意深く現れたにも関わらずー 実際の問題に適用されたとき、本質的な曖昧さを含み、それに我々は関心をもつ。この目的のために、議論をできるだけ明確にするため、 測定の設定の単純な例のいくらかの詳細を最初に考慮しなければならない。

[1] A. Einstein, B. Podolsky, N. Rosen, Phys. Rev. 47, 777(1935)
[2] Cf. N. Bohr, Atomic Theory and Description of Nature, I(Cambridge, 1934)

* その引用論文に含まれる演繹は、多分、数学的完全性を守り古典的力学の合理的な対応を保持するのに貢献する他の形式の特徴よりも、 この点で量子力学の変換理論の直接の帰結と考えられる。 事実、常に2つの部分系(1)と(2)とで構成される力学系の記述において、相互作用しているかしないかは、 系1と系2それぞれに属する正規共役変数(q1p1),(q2p2)のどの2つの対の入れ替えも通常の可換則、

[q1p1]= [q2p2]= ih/2π,
[q1q2]= [p1p2]= [q1p2]= [q2p1]= 0,

を満たすことである。新しい共役変数(Q1P1), (Q2P2)の2対が、最初の変数に関して、単純な直交変換であることによっている。 (q1q2),(p1p2)平面の中で角θの回転対応している。

q1= Q1 cosθ - Q2 sin θ p1= P1 cosθ - P2 sin θ
q2= Q1 sinθ + Q2 cos θ p2= P1 sinθ + P2 cos θ.

なぜなら、これらの変数は類似する可換則、特に、

[Q1P1]= ih/2π, [Q1P2]= 0,

を満足するだろう。これには、結合系の状態の記述の中で、Q1とP2のような確定した数値がQ1とP1の両方に付与されることはない。 その場合、(q1p1)と(q2p2)によるこれらの変数の式からのさらなる結果では、すなわち、

Q1= q1 cosθ+ q2 sinθ, P2= -p1 sinθ+ p2 cosθ,

q2またはp2の後続する測定が、我々にq1またはp1の値をそれぞれ予測することを許すだろう。



ひとつの粒子がスリットをもつ隔壁を通過する単純な場合から始めよう。それは、いくらか複雑な実験設定の部分であり得る。 隔壁に当たる前の、この粒子の運動量が完全に知られている場合でさえ、その状態の抽象的な表現を与える平面波のスリットによる回折が 粒子の隔壁通過後の粒子の運動量の不確かさを意味し、それはスリットが狭ければ狭いだけ大きい。今、スリット幅が、どの比率でも、 波長より大きければ、スリットに垂直な方向の隔壁に対する粒子の位置の不確かさΔqとして与えることができる。 さらに、運動量と波長の関係を、ド・ブロイの関係から単純にみることができ、この方向の粒子の運動量の不確かさΔp とΔqとは、 ハイゼンベルグの一般原理、

Δp Δq 〜 h,

それは、量子力学の形式化の中で、どの共役変数対にもある、交換関係の直接の結果である。明らかに、不確かさΔpは、粒子と隔壁の間で交換される 運動量の確率と不可分に結合している。そして今、我々の議論にとって主要な興味のある問いは、関係する実験配置によって研究される現象記述の中で、 初期段階として考慮してよいのは、そのスリットを通した粒子通過の、どの程度までの交換運動量がこう考え得るのかである。

最初の仮定として、電子回折の驚くべき現象の通常の実験に対して、隔壁は、他の装置の部分(第1隔壁に平行な幾つかのスリットをもつ第2隔壁、及び写真乾板) と同様、参照する空間座標系を決める支持に硬く固定する。そして、粒子と隔壁の間の運動量交換は、粒子の他の物体との反作用とともに、 この共通の支持を通すことで、我々は自発的に、実験の最終結果(写真乾板上に作られる粒子のスポット位置の確率)の予測に関して、 自身がこれら反応に別に計算に入る、どのような可能性からも切り離す。 粒子と測定器の間の反応のより詳細な解析の不可能性は、実に何も実験過程の記述は特異でなく、むしろ、関係する型の研究に適した、 どの配置の特質にも本質的な特性である。そこでは、我々は古典物理とは完全に異国的な個性的特徴をもって行わなくてはならない。 事実、粒子と分離した装置の部分の間の運動量の交換を考慮したどの確率も、ひとたび、そのような現象の"軌道" (第2隔壁の特定スリットを通過して 写真乾板まで粒子が通過する道)に関する結論を描くことを我々に許すなら、それは、所与の乾板の要素に到達する粒子確率が、どれか特定のスリット の存在によるのでなく、第1隔壁スリットから回折した随伴する波が到達できる第2隔壁の全スリットの位置による、という事実と全く両立しないだろう。



もうひとつの実験配置では、第1隔壁が装置の他の部分と硬く結合されず、それは、少なくとも原理的には(*)、粒子が通過する前後の 運動量を、どの望みの精度でも測定でき、そして、こうして粒子のスリット通過後の運動量の予測を可能にする。 事実、そのような運動量測定は、古典力学の運動量保存の法則の曖昧さのない適用を要するだけであり、隔壁と何か試験物体との衝突過程の 瞬間に適用されて、その運動量は、衝突の前後に適切に制御できるのである。 そのような制御は、本質的にそこに古典力学の概念が適用できる何かの過程の時空の軌道の検証に依存するだろうことは真実である。しかしながら、 もし、全ての空間次元と時間間隔に十分な大きさを取る限り、これは、明らかに試験物体の運動量制御の精度に関して制限を持たず、 それらの時空座標値の制御の精度に関する単なる放棄を意味する。この最後の状況は、事実、上述の議論された実験配置での固定隔壁の運動量の 制御の放棄に全く類似し、測定装置の純粋に古典的な説明の要求の上にある前の場所に依存し、それが意味するのは、それらの行動記述における、 量子力学の不確定性関係に対応した許容範囲を許すことの必要である。

しかし、考察中の2つの実験配置の間の原理的差異は、第1隔壁の運動量制御に適した配置のなかでは、この物体がもはや以前の場合と同じ目的の 測定装置として使われていず、装置の静止に対してその位置として、扱われなければならず、スリットを旅する粒子と同様に、 量子力学の不確定性関係の意味で、その位置と運動量とを明示的に考察しなければならない、研究の対象物体である。 事実、我々が隔壁の位置を、第1測定の前の空間座標系に対して知るとしてさえ、最後の測定の後のその位置を正確に固定できるとしてさえも、 我々が失うのは、試験物体との各衝突の過程の期間にある、隔壁の制御できない偏位であり、そのスリットを粒子が通過したときの位置の知識である。 全体の配置は、それゆえ、明らかに以前の場合と同種類の現象の研究に適していない。特に、次のことは示されよう。もし、隔壁の運動量が、 第2隔壁のどれか選択したスリットを通過する経路に関する確定的な結論を許すような、十分な精度をもって測定されるなら、 そのとき、その知識と共存できる第1隔壁の位置の最小の不確定でさえも、全ての装置位置が互いに固定されるときの、第2隔壁の1つより多い スリット存在が引き起こしたであろう、(粒子の写真乾板への衝突が許される領域についての)いかなる干渉効果も、全体として消し去ることを意味するだろう。



第1隔壁の運動量測定に適した配置では、次がさらに明確である。もし、我々がスリットを通過する通路の前に測定したなら、我々はこの通路の後にも 粒子の運動量を知りたいか、装置の残りに対してその初期位置を知りたいか、という自由選択をまだ持っている。第1の場合、最終的に隔壁の 運動量の第2の決定をすることを必要とするだけで、粒子が通過した時のその正確な位置については永遠に知られないで残す。第2の場合、最終的に我々は、 空間座標系に対してその位置を決定することだけを必要とし、隔壁と粒子の間に交換される運動量の知識を不可避に失うことを伴う。 もし、隔壁が粒子に比べて十分に質量があるなら、最初のその運動量の決定の後、我々は測定の過程の配置換えさえでき、隔壁を装置の他の部分に対して どこか未知の位置に静止させ、後続のこの位置の確定は、それゆえ単純に、隔壁と共通支持との間の硬い結合の確立の中にあってよい。

私がこれら単純でかつ実質的によく知られた考察を繰り返す主要な目的は、関係する現象のなかに、我々が、物理的現実の異なる要素のなかから、 他のそのような要素の犠牲のコストのもとに、任意なピックアップによる不完全な記述を扱うのでなく、それらは空間的位置の概念の曖昧さのない 使用に適するか、又は運動量の保存定理の正当な応用に適する、本質的に異なった実験配置と過程の間の合理的な識別によることを強調することである。 残された曖昧さの表示は、単に我々の測定機器と実験の概念自体の特性の使用の自由に関するものである。 事実、各実験配置、物理現象の記述の2側面の1つ又は他の放棄、ーその結合は古典物理の方法を特徴付け、それはそれゆえ、この意味で互いに"相補性" と考えられ、ー本質的に不可能性に依存して、量子理論の領域で、物体の測定器への反応を正確に制御し、すなわち、位置測定の場合に運動量の伝達、 運動量測定の場合には変位である。まさに、この最後の点で、量子力学と通常の統計力学の間のどの比較も(理論の形式表現には便利だが)、本質的に的外れなのである。 実に、我々は固有の量子現象の研究に適した各実験配置をもつ。単にある物理量の値の無視でなく、これらの量の定義の不可能性を、曖昧さなく持って。

最後の注意は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンによって扱われた特別な問題へ等しくよく適用される。それは上で参照され、上で議論した 単純な例よりもより大きい錯綜を実際には含まない。2つの自由粒子の特定の量子力学的状態に、彼らが与えた明示的数学式も、単純な実験配置によって 少なくとも原理的には再現できる。硬い隔壁に2つの間隔に比べて狭い幅の平行スリットを備えることで。それらのどれかを通して、初期運動量をもった ひとつの粒子は、他と独立に通過する。もし、この隔壁の運動量が正確に測定されたら、粒子の通過の前だけでなく後でも、我々は事実、2つの別れ行く 粒子のスリットに垂直な成分の合計を知ることになる。同方向のそれらの初期位置の差異だけでなく;一方勿論、共役物理量は、すなわち、それら運動量の 成分の差異と位置座標和は、全く未知である(*)。 この配置ではそれゆえ、次が明確である。後続の単純測定は、1つの粒子の位置でも運動量でも、それは自動的にそれぞれ、他方の粒子の位置又は運動量を 望みの精度で決定する;少なくとも、もし各粒子の自由運動に対応する波長がスリット幅に比べて十分小さいなら。名を挙げた著者達に指摘されたように、 我々はそれゆえ、その粒子に直接干渉のない過程によって、我々が1つ又は他の量の決定を望むかどうかの完全な自由選択をもつということに、この段階で 直面している。

* すぐ見られるように、この記述は、つまらない正規化係数でなく、以前の脚注に記述された(q1p1),(q2p2)が2粒子の位置の座標値と運動量の成分とを表し、 そしてもし、θ= - π/4 なら正確に変数の変換に対応している。



上のように単純な場合と同じく、我々は、隔壁のスリットに通された単独粒子の位置又は運動量の予測に適した実験過程の選択において、最後の配置で提案された "選択の自由"をもち、古典概念の相補性の曖昧さのない使用を許す異なった実験過程の識別にだけ関わる。実際、1つの粒子の位置を測定することが意味する ことができるのは、その振る舞いと、空間参照系を定義する硬く固定された他の器具と、の間の相関を確立すること以外ない。 実験条件の元に記述されたそのような測定は、それゆえまた、粒子が通過したときの隔壁のこの空間座標系に関する、位置の知識を用意するか、そうでなければ 完全に未知である。実に、この方法だけによって、我々は他の粒子の静止した装置に対する初期位置についての結論の基盤を得る。 しかしながら、最初の粒子から言及した支持に渡す、本質的に制御できない運動量を許すことによって、我々はこの過程によって自身を全ての未来の運動量保存則を 隔壁と2つの粒子からなる系に適用する可能性から切り離したのであるから、第2の粒子の行動に関する予測における運動量概念の曖昧さのない適用という我々の 唯一の基盤を失ったのである。逆に、もし我々が1つの粒子の運動量を測定することを選択するならば、我々はそのような測定に、制御できない避けられない変位を 通して、この粒子の行動から推論する、静止した装置に対する隔壁の位置のどの可能性も失い、こうして他の粒子の位置に関する予測のために何も基盤をもたなくなる。

我々の視点からは、我々は今次のことをみる。アインシュタイン、ポドルスキー、及びローゼンによる、上記の物理的現実の批判基準の言葉使いは、 "系に何も擾乱がないとき"という表現の意味に関して、曖昧さを含む。勿論、それを単純に考え、考察系の力学的擾乱の測定過程の最後の危険な段階の期間のような、 疑問のないような場合もあるだろう。しかし、この段階でさえ、系の未来の行動に関する可能な型の予測をする条件自身の影響という本質的な疑問がある。 これらの条件は、"物理的現実"という言葉が適切に付けられた、どの現象の記述の内在する要素をも構成するから、我々は上記著者の議論が量子力学記述は本質的に 不完全であるという彼らの結論を正当化しないことをみる。逆にこの記述は、先行する議論から現れたから、量子論の領域の物体と測定器の間の有限の制御できない 相互作用に共存できる、測定の解釈の曖昧さなき全ての可能性の合理的使用として、特徴づけられることもできる。事実、それは2つの実験の過程の互いの排他でしか なく、相補的な物理量の曖昧さのない定義を許し、それは新しい物理法則の余裕を用意し、それとの共存は一見、科学の基本原理と和解できないようにみえるだろう。 "相補性"記述の特徴付けにおける目標は、まさに、物理現象の記述として、この全く新しい状況である。



これまで議論された実験的配置は、問題になった現象記述のなかで時間の概念が果たす2次的役割として、特別な単純さを提供する。我々が時間関係を意味する"前"とか "後"とかいう言葉を自由に使用する。しかし、どの場合も、何らかの不正確さへの余裕が持たれなくてはならない。しかしながらそれは、関係する時間間隔が、研究対象 の現象の詳細分析に入るのに適切な期間に比較して十分に長い限りにおいてである。物体と測定機器との間の相互作用のさらなる特徴を解明するために、我々が量子現象 のより正確な時間記述を試みるや否や、我々は、よく知られた新しいパラドックスに出会う。 事実、そのような現象のなかでは我々は装置によって構成された実験配置において、互いに静止以外に何もなしえず、動く部分を含む配置を使う以外にはない。ー隔壁の スリットの前のシャッターのように。ー時計じかけによる制御に助けられて。上記議論の対象と座標系を定義する物体間の運動量の伝達以外に、我々はそれゆえ、 物体と3つの時計じかけの間の、そのような配置のなかで最終的にエネルギー交換を考察しなければならない。

量子論のなかで時間測定として決定的な点は、上記した位置測定に関する議論と今完全に類似する。全く、装置の分離した部品への運動量の伝送のように ー現象記述に必要である相対的位置の知識ーは、全く制御できないとみられ、そのため、その相対運動は装置の意図した使用のために知られなくてはならない、 対象と種々の物体間のエネルギー交換の、より詳細な分析は無視する。じつに、 時計の時間表示器としての使用に本質的に干渉しない限り、それへのエネルギー の流入の制御は、原則的に排除する。 この使用は事実、全く各時計の機能性を、さらに、他の時計との最終的な比較において、古典物理の方法の基礎とする 仮定可能性を頼りにしている。この声明のなかで、我々は、それゆえ明らかに、共役時間とエネルギー変数の量子力学の不確定性関係に対応して、エネルギーバランスに 受容枠を許さなくてはならない。上で議論された質問のなかのように、位置と運動量の概念の量子論でのいかなる曖昧さもない使用の互いに排他的性格は、 それは、原子の現象のどの詳細な時間をも一方とし、原子の反応のなかのエネルギー伝達の研究によって明らかにされた、本質的な原子の安定性の非古典的特徴を 他方とする、相補的関係性を必然的に伴う、この環境の最後の場所である。

それぞれの実験配置のなかで、測定機器として考えられる物理系と、研究の対象を構成するものの部分の間を識別する、この必要性は、 実に、物理現象の、古典の記述と量子力学の記述との原理的な区別である、を形成するといわれることができる。それぞれの測定過程のなかの場所で、 この識別は両方の場所においても主に便宜のためになされたということは真実である。しかしながら、一方、古典物理において対象と測定代理との間の区別は、 関係する現象記述の特性に何も差異を伴わなず、量子理論のなかではその基本的重要性は、我々がみたように、その根拠を、全ての適切な測定の解釈において、 古典理論が我々の原子物理の関係する新しい型の規則性を考慮するために十分でないにも関わらず、その不可欠な使用のなかにもつ。



この状況に従って、全体として古典的な方法で記述された実験配置によって得られる結果の予測を許すよく知られた規則のなかの具現化以外、 どの曖昧でない量子力学の表象の解釈にも疑問はあり得ない。そして、それらが一般的な表式をもつことが、すでにみた変換原理を通して見出された。 それの古典理論との適切な対応の確保によって、これら原理は量子力学記述の特に想像できる矛盾を排除し、対象と測定代理の間の区切り場所を変えることに繋がる。 事実、これは上の議論からの明らかな帰結だが、各実験配置と測定過程には、 その領域のなかで関係する過程の量子力学記述が古典的記述と実質的に等価な場所の自由選択を1つだけもつ。

結論する前に私は一般相対論から導出した量子論の領域内の物理現実の問への偉大な教育への姿勢をまだ強調せざるを得ない。事実、全ての特性的差異はあっても、 我々がこれらの古典理論の一般化に関係する状況は、しばしば注目された衝撃的な類似を現出した。特に、量子現象の考えのなかの測定機器の特異位置は、 丁度、議論され、相対論のよく知られた必要性[特異点?]との非常な類似性を示している。空間と時間の鋭い区別を含む、その全測定過程の通常記述の支持は、 この理論のまさに本質が新しい物理法則の設立であるが、その理解は、我々が慣用の空間と時間の概念の分離の放棄をしなければならないことである(*)。

相対論のなかの、全ての物差しと時計の読みの、参照系への依存は、測定対象と参照の時空系を決める全機器との間の運動量又はエネルギーの本質的に制御できない 交換と比較さえできる。それは、相補性の記述によって特徴づけられた状況をもって、量子論のなかで我々に直面する。事実、自然哲学のこの新しい特徴が意味する ものは、物理現実に関する我々の態度の根本的な更新であり、それは、一般相対論によって招来された、物理現象の絶対的性格に関する全ての概念の根本的修正と、 並列的であるかもしれない。

* この状況は、量子力学の不確定性関係の相対論的不変量とともに、この論文と全ての相対論の緊急事態のなかにおおまか描写された議論の間の互換性を確かにする。 この質問は、もっと詳しく、準備中の論文で扱われる。そこでは、著者が特に議論するのは、特別にアインシュタインに示唆された重力理論の応用に関するエネルギー 測定の非常に面白いパラドックスであり、その解が相補性の議論の一般性の特別に有益な図を提供する。同じ機会に、量子論の時空測定のより徹底した議論が与えられる だろう。全ての必要な数学的な開発と実験配置のダイアグラムとを伴って。それらはこの論文では残されて、ここでは主要なストレスが論争中の質問の対話的な側面に 敷かれた。



訳者あとがき:
EPR論文に対するNils Bohrの反論である。全体に高級そうな、最高度に読みづらい長文、複雑に絡んだ意味不明な全体構成で、その構造が見えない。40数年前、 科学論文翻訳の授業でこの論文の部分(701頁右上?)を試験に出され参った経験がある。少々の英文読解力では対処できない。現在もこの論文の翻訳には全く困惑する。

これはEPR論文の直後の反論であり、内容に対する反論ではない。開始直後から相手の文章を引いての揚げ足取り。位置と運動量のような2つの物理量がいずれか ー方を測定すれば、他方の知識を捨てるという関係であると指摘されたままに、それが正しい量子論と繰り返すだけ。さらにこれが変換理論(例:フーリエ変換は 測定窓の大きさが周波数精度を決める)によって正当化しても、それは数学であり数学を応用しただけの量子論は、数学を根拠に正当化できず、物理で説明すべきである。 また、量子論の状況の説明をもって、量子論の不備の指摘に対処できるはずがない。

基本的に位置と運動量の両方を同時に詳しく知ることはできないということは認めたとしても、2粒子の片方の測定をしたら、他方の測定もすることになるという、 EPR論文で明確化されたパラドックス(不可解さ)の核心に答えていない。いや、どこかで答えているに違いない? このパラドックスは、正しいとされる物理の与える結果が、 何か不可解に見えるとき、その物理としての解決を求めている。相対論のパラドックスは、相対論が提供したが、量子論のパラドックスまで、相対論が提供するのは、 余計なお世話だったのか。正解が出せないから、丁重なお断りの文章。最後に相対論を不備の説明に利用するその理解も浅薄で意味がない。

以前に相互作用し分離した2粒子のー方(A)の例えばスピン上下を測定すると、角運動量保存から他方(B)のスピンが決まり、Aが上ならBは下を指す。Aの測定で上と知り、 Bを見にいくと既に下と確定している。Aの測定で下なら、Bは上である。Aの測定以前にBを調べるとスピンは未確定(上下が1/2の確率)だったと分かる。Bの変化は、 Aの測定と同時(この概念は相対論に反する)なのである。どれだけ速く移動しても変化の時点に追いつけない。光速を超えた影響伝播、相対論の否定を意味するか。

スピン上下の測定を信号として、かつAの未/既測定がBの場所で1粒子で分かるなら、いや、Bでの測定がAの測定の後なら、Bの結果は常にAの反転である。A測定から B測定までの間に情報が載らないのか。光速未満で移動してBを確認して初めて情報が分かるという制限はあるのか。Bに受信機を待機すれば、A測定の時系列とB測定の 時系列が相関を利用して通信できるのではないか。例えば1秒毎にAで測定し、Bではそれぞれ0.1秒後に測定すると、Aの時系列とBの時系列は必ず反転である。 AからBまでの粒子は光速以下の移動でよい。時系列の毎回の測定には新しい粒子を使用し、測定だけが即時である。これは、この世界の即時信号と理解できるか。 Aでの系列とBでの系列を比較して初めて、それらが常に反転と分かるので、信号伝送できないのだろうか?情報を送るには、Aの測定時に上下が確定した信号を 形成すればよい。これが不可能なら仕方がないが。(上下でなく、左右のスピン測定をすることを0/1信号としてもよいが、これは信号になり得ない?) これが情報伝送に使用できるなら、相対論が実証的に否定でき、情報伝送できないとしても、これは世界の中に、何かが即時伝搬するという無理な考えを表している。

そこで現れるのが、(22年後のヒュー・エヴェレットIII世による)世界が唯一でないとする多世界解釈である。Aの量子測定がBを分裂させる(重ね合わせにする)という 理解である。 Aで上と測定した世界は、(同時に) Bで下と決定する。Aで下と測定した世界は、(同時に)Bで上と決定する。両世界は並列的に存在する。量子力学は同時を いうのは、Aの結果に外延した世界とは、単にAにBの次元を追加したものだから当然同時である。しかし、各世界は相対論的で物質と情報の移動は光速以下でしかできない。 AからBへの結果確認は光速制限を受ける。そのため、世界の分裂も光速以下の局所性の可能性があるが、布を薄く剥ぐような分裂伝播を量子力学は認めない。全体の世界の 分裂は光速制限を受けない"同時"でしかないだろう。多世界は通信による存在の確認ができない仮想的な存在である。