どの程度の曖昧さのない意味を"物理的な現実"というような表現に付与しても、それは、ーその論文の著者達が自ら引き合いに出して強調するようにー、 もちろん先験的な、哲学的概念から導かれるものではなく、実験と測定への直接の主張の上に築かれ[ママ]なくてはいけない。この目的のために、 彼らは、"現実性の批判基準"を次のように定式化した。"もし、系に何ら擾乱がないとき、我々が確かに物理量の値を予測できるなら、そのとき、 この物理量に対応した物理的現実の要素が存在する"。 面白い例を使って、後に再びこれを述するが、彼らが次に進んで示すのは、量子力学では、 まるで古典力学のように、力学的記述に関するどの所与の変数の値も、以前にその問題の系に相互作用をもった、全く他方の系に行われた測定から、 これに適した条件のもとでは、予測できることである。 彼らの批判基準に従って著者達は、それゆえ、現実の要素を、そのような変数によって表現された量のそれぞれに帰することを欲している。 一方、さらに、量子力学の現在の形式化においてよく知られた特徴として、力学系の状態記述において、2つの正規共役変数の両方に確定値を付することは 決してできず、彼らは結論的に、この形式化を不完全とみなし、より満足する理論が開発できるという信念を表明している。
そのような議論は、しかしながら、量子力学の記述の健全性に影響するのに適するとは殆ど思えない。量子力学は、指摘された測定のどの過程も、自動的に カバーする、整合した数学的形式化に基づく(*)。表面的な矛盾は、事実、量子力学において我々が関係するある型の物理現象の合理的説明への、 自然哲学の習慣的視点からみた本質的な不適切さを露見するだけである。 じつに、量子作用の名残のまさに存在によって条件付けられた、対象と測定器の間の有限の相互作用は、ー物体の、もしこれらがその目的に役立つなら、 測定機器への反応の制御の不可能性のためにー、因果性の古典的概念の最終的な放棄と、物理的な現実性の問題へ向かう態度の根本的な変更、の必要性を必然的に伴う。 事実、我々が後にみるように、名を挙げた著者達によって提案された現実性の批判基準は、ーその定式化が注意深く現れたにも関わらずー 実際の問題に適用されたとき、本質的な曖昧さを含み、それに我々は関心をもつ。この目的のために、議論をできるだけ明確にするため、 測定の設定の単純な例のいくらかの詳細を最初に考慮しなければならない。
* その引用論文に含まれる演繹は、多分、数学的完全性を守り古典的力学の合理的な対応を保持するのに貢献する他の形式の特徴よりも、 この点で量子力学の変換理論の直接の帰結と考えられる。 事実、常に2つの部分系(1)と(2)とで構成される力学系の記述において、相互作用しているかしないかは、 系1と系2それぞれに属する正規共役変数(q1p1),(q2p2)のどの2つの対の入れ替えも通常の可換則、
[q1p1]= [q2p2]= ih/2π,
[q1q2]= [p1p2]= [q1p2]= [q2p1]= 0,
を満たすことである。新しい共役変数(Q1P1), (Q2P2)の2対が、最初の変数に関して、単純な直交変換であることによっている。 (q1q2),(p1p2)平面の中で角θの回転対応している。
q1= Q1 cosθ - Q2 sin θ p1= P1 cosθ - P2 sin θ
q2= Q1 sinθ + Q2 cos θ p2= P1 sinθ + P2 cos θ.
なぜなら、これらの変数は類似する可換則、特に、
[Q1P1]= ih/2π, [Q1P2]= 0,
を満足するだろう。これには、結合系の状態の記述の中で、Q1とP2のような確定した数値がQ1とP1の両方に付与されることはない。 その場合、(q1p1)と(q2p2)によるこれらの変数の式からのさらなる結果では、すなわち、
Q1= q1 cosθ+ q2 sinθ, P2= -p1 sinθ+ p2 cosθ,
q2またはp2の後続する測定が、我々にq1またはp1の値をそれぞれ予測することを許すだろう。
Δp Δq 〜 h,
それは、量子力学の形式化の中で、どの共役変数対にもある、交換関係の直接の結果である。明らかに、不確かさΔpは、粒子と隔壁の間で交換される 運動量の確率と不可分に結合している。そして今、我々の議論にとって主要な興味のある問いは、関係する実験配置によって研究される現象記述の中で、 初期段階として考慮してよいのは、そのスリットを通した粒子通過の、どの程度までの交換運動量がこう考え得るのかである。
最初の仮定として、電子回折の驚くべき現象の通常の実験に対して、隔壁は、他の装置の部分(第1隔壁に平行な幾つかのスリットをもつ第2隔壁、及び写真乾板) と同様、参照する空間座標系を決める支持に硬く固定する。そして、粒子と隔壁の間の運動量交換は、粒子の他の物体との反作用とともに、 この共通の支持を通すことで、我々は自発的に、実験の最終結果(写真乾板上に作られる粒子のスポット位置の確率)の予測に関して、 自身がこれら反応に別に計算に入る、どのような可能性からも切り離す。 粒子と測定器の間の反応のより詳細な解析の不可能性は、実に何も実験過程の記述は特異でなく、むしろ、関係する型の研究に適した、 どの配置の特質にも本質的な特性である。そこでは、我々は古典物理とは完全に異国的な個性的特徴をもって行わなくてはならない。 事実、粒子と分離した装置の部分の間の運動量の交換を考慮したどの確率も、ひとたび、そのような現象の"軌道" (第2隔壁の特定スリットを通過して 写真乾板まで粒子が通過する道)に関する結論を描くことを我々に許すなら、それは、所与の乾板の要素に到達する粒子確率が、どれか特定のスリット の存在によるのでなく、第1隔壁スリットから回折した随伴する波が到達できる第2隔壁の全スリットの位置による、という事実と全く両立しないだろう。
しかし、考察中の2つの実験配置の間の原理的差異は、第1隔壁の運動量制御に適した配置のなかでは、この物体がもはや以前の場合と同じ目的の 測定装置として使われていず、装置の静止に対してその位置として、扱われなければならず、スリットを旅する粒子と同様に、 量子力学の不確定性関係の意味で、その位置と運動量とを明示的に考察しなければならない、研究の対象物体である。 事実、我々が隔壁の位置を、第1測定の前の空間座標系に対して知るとしてさえ、最後の測定の後のその位置を正確に固定できるとしてさえも、 我々が失うのは、試験物体との各衝突の過程の期間にある、隔壁の制御できない偏位であり、そのスリットを粒子が通過したときの位置の知識である。 全体の配置は、それゆえ、明らかに以前の場合と同種類の現象の研究に適していない。特に、次のことは示されよう。もし、隔壁の運動量が、 第2隔壁のどれか選択したスリットを通過する経路に関する確定的な結論を許すような、十分な精度をもって測定されるなら、 そのとき、その知識と共存できる第1隔壁の位置の最小の不確定でさえも、全ての装置位置が互いに固定されるときの、第2隔壁の1つより多い スリット存在が引き起こしたであろう、(粒子の写真乾板への衝突が許される領域についての)いかなる干渉効果も、全体として消し去ることを意味するだろう。
私がこれら単純でかつ実質的によく知られた考察を繰り返す主要な目的は、関係する現象のなかに、我々が、物理的現実の異なる要素のなかから、 他のそのような要素の犠牲のコストのもとに、任意なピックアップによる不完全な記述を扱うのでなく、それらは空間的位置の概念の曖昧さのない 使用に適するか、又は運動量の保存定理の正当な応用に適する、本質的に異なった実験配置と過程の間の合理的な識別によることを強調することである。 残された曖昧さの表示は、単に我々の測定機器と実験の概念自体の特性の使用の自由に関するものである。 事実、各実験配置、物理現象の記述の2側面の1つ又は他の放棄、ーその結合は古典物理の方法を特徴付け、それはそれゆえ、この意味で互いに"相補性" と考えられ、ー本質的に不可能性に依存して、量子理論の領域で、物体の測定器への反応を正確に制御し、すなわち、位置測定の場合に運動量の伝達、 運動量測定の場合には変位である。まさに、この最後の点で、量子力学と通常の統計力学の間のどの比較も(理論の形式表現には便利だが)、本質的に的外れなのである。 実に、我々は固有の量子現象の研究に適した各実験配置をもつ。単にある物理量の値の無視でなく、これらの量の定義の不可能性を、曖昧さなく持って。
最後の注意は、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンによって扱われた特別な問題へ等しくよく適用される。それは上で参照され、上で議論した 単純な例よりもより大きい錯綜を実際には含まない。2つの自由粒子の特定の量子力学的状態に、彼らが与えた明示的数学式も、単純な実験配置によって 少なくとも原理的には再現できる。硬い隔壁に2つの間隔に比べて狭い幅の平行スリットを備えることで。それらのどれかを通して、初期運動量をもった ひとつの粒子は、他と独立に通過する。もし、この隔壁の運動量が正確に測定されたら、粒子の通過の前だけでなく後でも、我々は事実、2つの別れ行く 粒子のスリットに垂直な成分の合計を知ることになる。同方向のそれらの初期位置の差異だけでなく;一方勿論、共役物理量は、すなわち、それら運動量の 成分の差異と位置座標和は、全く未知である(*)。 この配置ではそれゆえ、次が明確である。後続の単純測定は、1つの粒子の位置でも運動量でも、それは自動的にそれぞれ、他方の粒子の位置又は運動量を 望みの精度で決定する;少なくとも、もし各粒子の自由運動に対応する波長がスリット幅に比べて十分小さいなら。名を挙げた著者達に指摘されたように、 我々はそれゆえ、その粒子に直接干渉のない過程によって、我々が1つ又は他の量の決定を望むかどうかの完全な自由選択をもつということに、この段階で 直面している。
我々の視点からは、我々は今次のことをみる。アインシュタイン、ポドルスキー、及びローゼンによる、上記の物理的現実の批判基準の言葉使いは、 "系に何も擾乱がないとき"という表現の意味に関して、曖昧さを含む。勿論、それを単純に考え、考察系の力学的擾乱の測定過程の最後の危険な段階の期間のような、 疑問のないような場合もあるだろう。しかし、この段階でさえ、系の未来の行動に関する可能な型の予測をする条件自身の影響という本質的な疑問がある。 これらの条件は、"物理的現実"という言葉が適切に付けられた、どの現象の記述の内在する要素をも構成するから、我々は上記著者の議論が量子力学記述は本質的に 不完全であるという彼らの結論を正当化しないことをみる。逆にこの記述は、先行する議論から現れたから、量子論の領域の物体と測定器の間の有限の制御できない 相互作用に共存できる、測定の解釈の曖昧さなき全ての可能性の合理的使用として、特徴づけられることもできる。事実、それは2つの実験の過程の互いの排他でしか なく、相補的な物理量の曖昧さのない定義を許し、それは新しい物理法則の余裕を用意し、それとの共存は一見、科学の基本原理と和解できないようにみえるだろう。 "相補性"記述の特徴付けにおける目標は、まさに、物理現象の記述として、この全く新しい状況である。
量子論のなかで時間測定として決定的な点は、上記した位置測定に関する議論と今完全に類似する。全く、装置の分離した部品への運動量の伝送のように ー現象記述に必要である相対的位置の知識ーは、全く制御できないとみられ、そのため、その相対運動は装置の意図した使用のために知られなくてはならない、 対象と種々の物体間のエネルギー交換の、より詳細な分析は無視する。じつに、 時計の時間表示器としての使用に本質的に干渉しない限り、それへのエネルギー の流入の制御は、原則的に排除する。 この使用は事実、全く各時計の機能性を、さらに、他の時計との最終的な比較において、古典物理の方法の基礎とする 仮定可能性を頼りにしている。この声明のなかで、我々は、それゆえ明らかに、共役時間とエネルギー変数の量子力学の不確定性関係に対応して、エネルギーバランスに 受容枠を許さなくてはならない。上で議論された質問のなかのように、位置と運動量の概念の量子論でのいかなる曖昧さもない使用の互いに排他的性格は、 それは、原子の現象のどの詳細な時間をも一方とし、原子の反応のなかのエネルギー伝達の研究によって明らかにされた、本質的な原子の安定性の非古典的特徴を 他方とする、相補的関係性を必然的に伴う、この環境の最後の場所である。
それぞれの実験配置のなかで、測定機器として考えられる物理系と、研究の対象を構成するものの部分の間を識別する、この必要性は、 実に、物理現象の、古典の記述と量子力学の記述との原理的な区別である、を形成するといわれることができる。それぞれの測定過程のなかの場所で、 この識別は両方の場所においても主に便宜のためになされたということは真実である。しかしながら、一方、古典物理において対象と測定代理との間の区別は、 関係する現象記述の特性に何も差異を伴わなず、量子理論のなかではその基本的重要性は、我々がみたように、その根拠を、全ての適切な測定の解釈において、 古典理論が我々の原子物理の関係する新しい型の規則性を考慮するために十分でないにも関わらず、その不可欠な使用のなかにもつ。
結論する前に私は一般相対論から導出した量子論の領域内の物理現実の問への偉大な教育への姿勢をまだ強調せざるを得ない。事実、全ての特性的差異はあっても、 我々がこれらの古典理論の一般化に関係する状況は、しばしば注目された衝撃的な類似を現出した。特に、量子現象の考えのなかの測定機器の特異位置は、 丁度、議論され、相対論のよく知られた必要性[特異点?]との非常な類似性を示している。空間と時間の鋭い区別を含む、その全測定過程の通常記述の支持は、 この理論のまさに本質が新しい物理法則の設立であるが、その理解は、我々が慣用の空間と時間の概念の分離の放棄をしなければならないことである(*)。
相対論のなかの、全ての物差しと時計の読みの、参照系への依存は、測定対象と参照の時空系を決める全機器との間の運動量又はエネルギーの本質的に制御できない 交換と比較さえできる。それは、相補性の記述によって特徴づけられた状況をもって、量子論のなかで我々に直面する。事実、自然哲学のこの新しい特徴が意味する ものは、物理現実に関する我々の態度の根本的な更新であり、それは、一般相対論によって招来された、物理現象の絶対的性格に関する全ての概念の根本的修正と、 並列的であるかもしれない。
これはEPR論文の直後の反論であり、内容に対する反論ではない。開始直後から相手の文章を引いての揚げ足取り。位置と運動量のような2つの物理量がいずれか ー方を測定すれば、他方の知識を捨てるという関係であると指摘されたままに、それが正しい量子論と繰り返すだけ。さらにこれが変換理論(例:フーリエ変換は 測定窓の大きさが周波数精度を決める)によって正当化しても、それは数学であり数学を応用しただけの量子論は、数学を根拠に正当化できず、物理で説明すべきである。 また、量子論の状況の説明をもって、量子論の不備の指摘に対処できるはずがない。
基本的に位置と運動量の両方を同時に詳しく知ることはできないということは認めたとしても、2粒子の片方の測定をしたら、他方の測定もすることになるという、 EPR論文で明確化されたパラドックス(不可解さ)の核心に答えていない。いや、どこかで答えているに違いない? このパラドックスは、正しいとされる物理の与える結果が、 何か不可解に見えるとき、その物理としての解決を求めている。相対論のパラドックスは、相対論が提供したが、量子論のパラドックスまで、相対論が提供するのは、 余計なお世話だったのか。正解が出せないから、丁重なお断りの文章。最後に相対論を不備の説明に利用するその理解も浅薄で意味がない。
以前に相互作用し分離した2粒子のー方(A)の例えばスピン上下を測定すると、角運動量保存から他方(B)のスピンが決まり、Aが上ならBは下を指す。Aの測定で上と知り、 Bを見にいくと既に下と確定している。Aの測定で下なら、Bは上である。Aの測定以前にBを調べるとスピンは未確定(上下が1/2の確率)だったと分かる。Bの変化は、 Aの測定と同時(この概念は相対論に反する)なのである。どれだけ速く移動しても変化の時点に追いつけない。光速を超えた影響伝播、相対論の否定を意味するか。
スピン上下の測定を信号として、かつAの未/既測定がBの場所で1粒子で分かるなら、いや、Bでの測定がAの測定の後なら、Bの結果は常にAの反転である。A測定から B測定までの間に情報が載らないのか。光速未満で移動してBを確認して初めて情報が分かるという制限はあるのか。Bに受信機を待機すれば、A測定の時系列とB測定の 時系列が相関を利用して通信できるのではないか。例えば1秒毎にAで測定し、Bではそれぞれ0.1秒後に測定すると、Aの時系列とBの時系列は必ず反転である。 AからBまでの粒子は光速以下の移動でよい。時系列の毎回の測定には新しい粒子を使用し、測定だけが即時である。これは、この世界の即時信号と理解できるか。 Aでの系列とBでの系列を比較して初めて、それらが常に反転と分かるので、信号伝送できないのだろうか?情報を送るには、Aの測定時に上下が確定した信号を 形成すればよい。これが不可能なら仕方がないが。(上下でなく、左右のスピン測定をすることを0/1信号としてもよいが、これは信号になり得ない?) これが情報伝送に使用できるなら、相対論が実証的に否定でき、情報伝送できないとしても、これは世界の中に、何かが即時伝搬するという無理な考えを表している。
そこで現れるのが、(22年後のヒュー・エヴェレットIII世による)世界が唯一でないとする多世界解釈である。Aの量子測定がBを分裂させる(重ね合わせにする)という 理解である。 Aで上と測定した世界は、(同時に) Bで下と決定する。Aで下と測定した世界は、(同時に)Bで上と決定する。両世界は並列的に存在する。量子力学は同時を いうのは、Aの結果に外延した世界とは、単にAにBの次元を追加したものだから当然同時である。しかし、各世界は相対論的で物質と情報の移動は光速以下でしかできない。 AからBへの結果確認は光速制限を受ける。そのため、世界の分裂も光速以下の局所性の可能性があるが、布を薄く剥ぐような分裂伝播を量子力学は認めない。全体の世界の 分裂は光速制限を受けない"同時"でしかないだろう。多世界は通信による存在の確認ができない仮想的な存在である。