ミラノ・スカラ座
2003年日本公演 2003年9月17日 Dramma
lirico in quattro atti
本文は参考としてミラノ・スカラ座2003年日本公演プログラム、発行・編集NBS、2003年 |
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去る9月17日、午後六時、渋谷からNHKホールへ行き、リッカルド・ムーティ指揮、ミラノ・スカラ座の来日公演「オテロ」を観てまいりました。以下、レクイエム考に比べて、実に軽い感じで書いた、見聞の記録です。 髪を軽く巻き、私は自分でギリシャ風と豪語する、おそろしく手触りがいいと某人に評判のグレーの気軽なドレスと編み上げサンダル、母から借りたパールでお洒落します。もう気分は《牧神の午後》のニンフ〜とかいっちゃって。お洒落といっても、オペラの公演では、相当なお洒落さん(イヴニングドレス)が続出します。そのくせに予習が不完全で、パヴァロッティとテ・カナワの《オテロ》CDを全て聴くこともままならず、粗筋だけ母から確認して行きました。(今回は字幕がつかないと言うことだったのです) NHKホールは駅から歩くのが困ります。ギリシャ風なんだか知らないが、サンダルは走りにくい。ってすでに時間がぎりぎり!でもお腹がすくからコンビニでお寿司を買った。(笑) 席は学生券の発売初日、発売時間1分前に電話をかけて、入手したもので、3階の4列目のど真ん中でした。(後日談:同じ専攻の美山先生のところでは、学生券の2階の前列付近が余っていたとのこと。マクベスは余らなくてもオテロは余っていたらしい。うぐぐ) 席についてみると、うーん、遠いながらも、舞台を丁度いい感じで俯瞰できる、良い席だなと思う。(思えば、オペラをあまり真中の席で見たことがないのだった。NHKホールで《トスカ》を見たときは、端っこの席で字幕も見えないし舞台が切れて辛かった。) 急いで買ったプログラム(2500円)に目を通す時間もないまま、照明が落ちていきます。ありゃ、「字幕がない」と聞いていたにもかかわらず、字幕がある。(後でプログラムを詳しく見ると、総合プロデューサーの佐々木忠次さんのスカラ座側との交渉の末、実現したものらしいです。今までの日本公演では、スカラ座側は字幕スーパーに頼らない形でオペラに深く関わって欲しいと言うことでしたが、主催者側は、オペラを見ることと同時に作品を勉強することにもつながるようにと、今回字幕が付いたと言う事です。正直この字幕には助けられました。初めてこの作品を見る場合は字幕は欲しいですが、私がもっと不勉強でなくして公演に行ったならば、字幕を見ずとも良かったと思う。しかし、日本人がイタリア語を字幕なしに見るのはよほどオペラに慣れ親しんでいる人は字幕など不要のものだろうが、設置しといてもそこまで邪魔にならないから良いと思う。設置しておくだけで邪魔になってしまうパターンもあって、字幕製作者のセンスが悪いと、気になってしまうし、舞台の雰囲気を壊しかねない) さあ、ムーティの登場です。相変わらず濃いめの顔です。指揮棒が動いたその瞬間、思ってもいないようなオケの音量と音色と、幕が開いた舞台の灰色の人々を目にして、私はいきなり目に涙が溜まっていきました。もともと涙もろいとはいえ、開演その場で潤むことは、珍しいことです。(そういや、プロコフィエフの《ロミオとジュリエット》の冒頭を聴くだけで潤むな〜。あれは特別だと思ってた)冒頭の音型がこれから起こる「悲劇」を包含しているとしか思えない。そして、オケの良さも素晴らしい。演出のグレアム・ヴィックは冒頭部分は「最後の審判」をイメージしているそうですが、自然の脅威というか、雷鳴が轟き、雷光が迸る劇的なシーンを上手く作り上げています。私にとって、この劇的で悲劇を苦しいほどに予感させる冒頭は一生忘れられないものです。ヴェルディっていいかも、とか思いながらオペラは進行していきます。 今のところ、CDを聞きなおしてみても《オテロ》は第1幕に圧倒されます。2幕3幕4幕と、重要なシーンはあるのですが、1幕のぎっしりとつまっていながら、作曲の煌めきが十二分に発揮されていて、私の好きな幕です。なんと言ってもレクイエムを思わせる冒頭が好きというのはあるのですが、他にもヤーゴがカッシオを酔わせていくところの「おっとっと」とかいいながら歌う酒飲みの歌「喉をうるおせ」は一度聴いたら忘れられません。ヤーゴ役のヌッチは家で聴いているパヴァロッティ主演のときもヤーゴ役をやっている人で、今回の《マクベス》の方では主演をもこなすといった大ベテランです。上から滑り落ちてゆく感じ(それこそ酒壺の誘惑へ、罠へと落ちるように)がおどけながらも巧妙です。 その後策略にはまったカッシオがモンターノに傷を負わせ、オテロが登場し「剣を捨てろ」というところでは、シェイクスピアの戯曲としてもともとあった1幕(いわゆる「ヴェネツィアの場」であり、「オセロ」と「デズデモーナ」が出会う経緯や、二人の結びつき、また「オセロ」の武勇伝やその権威などが表されている)をヴェルディとボーイトはばっさり切ってしまうのですが、歌劇としての《オテロ》では、冒頭からの流れによる「喜べ!敵は藻屑となった」の登場シーンよりも、騒ぎを収めるというこの「剣を捨てろ」のシーンでその英雄の偉大さ、厳格さが表現されています。ちょっと違うかもしれませんが、騒ぎを収めるという点で、印象的なのはプロコフィエフ作曲のバレエ《ロミオとジュリエット》の第1幕ですが、混沌を一人の人間が一瞬のうちに消し去るという「場の動き」は権威の表現としてかなり効果的です。オテロはここでは救世主的な力を持って人々を統治している感があります。ちなみに、《オテロ》での剣技指導に関しては、フェンシング界の大物グレコ氏(妙に色気あるおじさん、ハムレットをちょっと年取らせた感じ)がついているらしいのですが、あいにく剣技の印象がなかったです。(汗)剣のぶつかり合う音が音楽に関与しているという場合、あれは舞台上で現実に鳴らしているのだろうか、などと疑問もわく。ここでカッシオは解任される。 デズデモナが現れ、オテロと二人きりになる……… (ところで、この《オテロ》見聞考が長すぎてたるいという指摘ももらいましたが、まあこんな感じで体験をそのまま記そうと書き進めちゃってるのでご了承ください。私はレポートを書く以外は字数制限がないということでいくらでもたらたらとしてしまうだめなやつです(笑)) (工事中・つづく) |
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