『レクイエム』考 |
5.おわりに |
「二年来、死は人間達の最上の真実な友だという考えにすっかり慣れております。―――僕は未だ若いが、恐らく明日はこの世にはいまいと考えずに床に入った事はありませぬ。而も、僕を知っているものは、誰も僕が付き合いの上で、陰気だとか悲しげだとか言えるものはない筈です。僕はこの幸福を神に感謝しております。」(『モオツアルト』 小林秀雄 新潮社 1961 63頁) この手紙の抜粋は、モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を仕上げる前に、父親に送ったものとされている。彼は、死に怯えていたのではない(註12)。この手紙の中にあるモーツァルトという人間は、人間ではなく、もはや音楽そのものとして、自然に生きていた感がある。モーツァルトを形容する言葉に「デモーニッシュ」というものがある。この言葉は、「悪魔」というより、ソクラテスがよく声を聴いたと言う、ダイモーンに近い。神と人間の間に位置する精霊のようなもの、その霊感が、モーツァルトの音楽にはあふれている。モーツァルトの音楽は昔言われていたような単にアポロン的なものにとどまらない。整った、完全な、綺麗な、いつでも楽しいモーツァルト像は必ずしもそれが全てではない。『レクイエム』を聴いて、特にその短調から長調、長調から短調への転調において、私はモーツァルトの霊感を感じる。その深さ(装飾から表現へ、外から内へ、〈祝祭〉から〈告白〉へ)、冥さ(固有の暗さ)、力強さは「死」というテーマを扱った最晩年のこの作品に遺憾なく現れていると思う。冥さと光、烈しさと優しさ、全てのものがこの作品の中に生きている。「死」の冥さのなかにも、それを友とし、生き生きと(官能的に)明るく歓びを求めるモーツァルト。彼は肉体を失い、いまや音楽そのものに純化した。モーツァルトは、透明であり、多様であった。彼はあたかも水のように、何処へでも遊びがてら流れて行っては、自らも変容していった。モーツァルトにおける借用、模倣は精神的音楽の誕生のための、必要な受胎であり、彼は独創性を躍起になって探している当時や現在の才能に乏しい芸術家とは明らかに違った。彼は今ごろ天上で鳥さしの歌でも歌っているのだろうか。 (註12)「死は(正しく考えますれば)、ぼくたちの生の真の最終目的でありますから、ぼくは、この人間の真実で最良の友と、数年来非常に親しくなっています。そのため、その姿は、ぼくにとって、ただ単に恐ろしいものばかりか、まったく心を安らかにし、慰めてくれるものなのです!」(1978年4月の日付『モーツァルトの美学』国安洋著、春秋社 91頁より抜粋)この手紙からもモーツァルトの死生観が窺える。この精神があって、『レクイエム』は未完という完成をみた。 |