isolated human

人類の孤立

片山 泰男 (Yasuo Katayama)

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夜空を眺めて、その宇宙の壮大さに感銘を受けるとき、私に湧き上がる疑問は、つぎのようなものである。 人類は、他の種族の遺産を引き継いでいるように見えないことである。全く新しいもののように見えることである。

我々は、この惑星で単独に進化を始めなければならなかった。単細胞の時代を 30 億年も経験し、やっと 6 億年前に多細胞に なったばかりである。そして、野蛮の時代を長くすごし、やっと豊かな時代にたどり着き、月を眺め、星辰に感銘する余裕も できた。人生の究極の意味を自問することができるようになった。

それは、貧しい家であって、豊かな家と違って、豊かな過去の遺産をもっていないというだけの理由で貧しい、そのようなもの だろうか。それらは、一体何だったのだろう。それらは、或る種の人達が感ずるように、懲罰だったのかもしれない。それらは、 放浪の結果かもしれない。それらは、偶然の産物だったのかもしれない。すべてのことがらに意味があるという信念は、しばしば、 事実が否定するのではないだろうか。

中途半端な文明のなかで貧しく暮らすことの人生の意味は、何だろう。それは、非常な、とてつもない無駄かもしれない。それは、 数十年前のコンピュータの悲惨さではないだろうか。約10年で 1000倍にもなる計算処理の可能性は、数十年前の研究と生活を 無意味に感じさせるものである。いま、やればそれは、1000時間かかる不可能な計算ではなく、昼休みに試みにやってみる選択肢 のひとつである、そのような変化がもたらされるとき、過去の困難に満ちた作業の数々は、愚かさではないが、不運という不親切 な言葉が意味するものではないだろうか。


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しかし、そういう感慨も誤るものである。方針的誤りは、影響が大きい。今、すべてが天国であるという認識は、多分に誤りがある。 音声の波形を扱うにおいても、当時はそのまま波形をプログラムI/Oによって入力し、反転して出力することができた。いま、 それをやることの不便さは、言葉を絶するものである。複雑なOSがI/Oを完全に掌握し、ユーザープログラムは、それの管理下にいて 安全ではあるが、不便な決まりごとの山越しに外の世界を見るようになっているために簡単な実験が容易にできない。

働くことの意味は、この数十年不変であるのか。それも疑ってよいし、効率優先の思考方法は、昔なら見えるものさえ、見えなくさせる 可能性がある。恐らくは、不便な時代の方が扱いやすいものもあったのである。そして、現在の方法が、つねに過去より正しいと 思い込む必要はないという、至極当然、当り前の結論に近付く。

もしも、我々の遺伝子が、進化でできあがったのではなく、より以前の文明の遺産であって、それまで進化による形成は、それを 再現するためのステップでしかないということであるなら、人類は孤立しているわけではない。これは、数十億年以上過去の種族 の遺産である。そこで考えられるものは、その種族のメッセージが、我々が過去から受け持った唯一つのディジタルデータである DNA の中に用意されていて、しばしば SF にあるように "よく発見した。その成果を褒めたたえる。そこで教えたい次のことは..." という言葉を遺伝子のどこかに見付けることがないだろうかということである。

すでにヒトの DNA をすべて解読してそういうものはないということは、人類は、この地球で恐らく始めての生物進化によってでき あがったものなのである。なにか災厄によって、それ以前の生物との完全な断絶がなかったかというと、それはまだ不明であろうが、 全球凍結でも生物の種は残り、全球海の沸騰枯渇においても多少の生物種は、1000 メートル以上地下に生き延びたという。 それよりも大規模な災厄が、それ以前になかったという証拠もないので、それ以前との連続または断絶は不確定としてよいだろう。


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これも SF 的だが、もし、近代的金属、マグネシュウム合金とかステンレス製のナイフの一本が太古の地層、例えば、先カンブリア期 の中から見付かるなら、それが証明してくれる過去の文明の存在は、我々の驚きだろうが、それは、我々の嘆きを和らげてくれるもの ではない。それは、一種の恐怖でもある。我々の思考をさらに困惑させるものでしかないだろう。どうして文明が衰退したのか。 一度高度な水準に達した文明が、たやすく亡びるものではない。それには、何かの重大な原因があるものである。

もしも、前の種族が他の惑星なり他の太陽系に移動し、残された我々は、単細胞からやり直す必要があったのなら、それは、その過去の 種族の、とんでもない不親切を感じる以外ない。どうして、どのような怨みがあって、そこまで後ずさりさせたのか、子孫にどのような 危険を感じていたのかということである。仮に意図してそうしたのではないとしても、残された者にとって、そういう発見も、嬉しい ものとは決して言えないのではないだろうか。

もしも、そういう移動もなしに、人類が何十億年も連続して生きていて、それでこのような中途半端な野蛮状態にいまだに留まっているなら、 それこそ最大の悲劇である。そのような知性が、それほどの期間、精神的深化もなく、野蛮にとどまることは、最も恥ずべきことである。

そのようなこともなく地球において人類は、数十億年の生物進化の産物として存在しているということだろうか。約 46 億年前の地球形成 以前の生物がいても、上と同様な理由で、親と呼ぶに値しない種族であるから、もし本当に存在していても無視してよい。宇宙戦争の敵と して戦うことはあっても、交易と知識の交換の益を期待する必要はないと言ってよいのかもしれない。

こういう、人類の孤立を説明する言葉が、もしそうであっても親を親とも認めない不遜な結論に近付いていくのは、その孤独が余りにも 切実であるからかもしれない。10 年で 1000 倍の速度といった、技術進歩の時代的差は、その差の大きさを正しく把握することをさせない 程のものである。それは、過去の自分の行動を、それが正しい時代の正しい行動であっても一種、愚かな時代の産物のように見させるものである。


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彼は時代に要求される仕事をした。彼の時代は、大きな進歩を遂げたといっても、それがすでに達成された時代からみて、 愚かな作業を強いる暗黒の時代に思わせるのはどうしてだろう。それは、この時代の困難を見つめることをせずに、 過去の反論できない時代を批判しているだけなのである。 そのような、いい加減な歴史観が良い結果を生まないことは、過去も今も同じである。それを反省すべきは、私なのである。 過去の時代ではない。彼は時代に要求される仕事をした。彼の時代は、大きな進歩を遂げたというそのことをどうして、 評価の基準にできないのか。それが最も大事なことではないか。

井戸の水を飲むとき井戸を掘った人のことを忘れてはいけない、というように、今が楽であるとき、それがないときどうであったかを 忘れがちである。逆に言ってそれほどに、文明は偉大なのであるが、豊かな時代にそれを意識することはできなくて、それを失うとき、 それなしでやってきた時代の方法に逆戻りが必要になるとき、それを発明した人と時代に対して感謝するのだろうか。そのときになってさえ、 それの重要性を意識できないなら、それすら期待できないことになる。感謝するのではなく、なぜ不便な時代になったのかすら分からずに、 逆に豊かな時代を疎むかもしれない。

遺産を引き継がないことへの嘆きは、富への欲求でしかないことは、言うまでもない。人類が最初から偉大な宇宙の支配者なら、 それは結構なことだろうが、事実はそうでなく、とんでもない新参者で、火薬と言語をもって数千年も経つのに相対論を手にして 100 年しか経っていない。コンピュータをもって 5、60年でしかなく、まだ慣性と重力を制御する方法すら得ていない前文明期で、 お隣りの恒星へ行く方法さえ持っていない愚かさである。星空を見上げて、そのような不満をつぶやくのは、まったく愚かでばかげて いたのである。 (Feb.13 2005)