地球は、宇宙のモデルである。古代の人にとって謎であったであろう世界の果ては、解明され 現代人にとって常識である地球として理解されている。地上は、有限無境界面の代表である 球面であった。どうして、それが宇宙の構造についての議論において暗示となり得るのかについて。
この世界の果てがどうなっているか。無限なのか有限なのか。時間的にもそれは無限の過去から無限 の未来まで続くのか、それともあるとき生まれ、そして終末が用意されているのかという時間的境界 のような哲学的命題は、それを完全に肯定することも否定することもできないので科学の対象ではない。 哲学は科学の母であったが、その現代的な実証主義に基づいている科学は、早急に実証できないことを 記述することは、許されない。
宇宙の果てとか、時間の始まり時間の終わりの有無を実証するには、その果てに行くことが必要である。 それが実際に行かなくてもそれに近いところまで具体的な多くの証拠が積み重ねられる必要がある。 宇宙の果て、時間の始終については、それはいつまでも不可能であろう。
地球の発見がその主題の解決の終わりでなかったように、そして星々の世界の予想、星々が太陽と 同等であることの発見、星々の纒まりと銀河系の認識、星雲の他の銀河系であることの発見、それらは、 人類の宇宙とみなす視野の拡大の歴史である。
しかしながら、宇宙として認識する範囲の拡大は、いまだに他の惑星なり、他の知的種を見出すことが ないだけでなく生物の一種さえもまだ、他の惑星上に発見することができていない。科学の範囲に入れ られた他の知的種の信号受信もいまだに成功していない。アミノ酸は、彗星の上にも見付かっているが、 地球外の DNA もタンパク質の発見もない。アミノ酸は、無機的なメタンの試験管中で電気火花によって 容易に作成できるものである。
おそらく、この宇宙の構造の確定も、それが他の宇宙の発見とともに前後して起こり、それらに依って 宇宙の定義の拡大が続くのである。量子力学の多世界の発見もそのひとつかもしれないと思うけれども、 まだひとつそれは実証の方法のない理論の範囲のようである。他の世界の影響をその分野の用語では、 エベレットフォンというらしいが、それが全くないことが線形であること、重ね合わせの本質と一致 するなら、永くそれは美しい幻想であることを続けるだろう。しかし決してそれは美しいという表現が 向いているのではないかもしれない。そのような夢とその喪失を我々の思想史は数多く経験してきたからである。
科学が実証的で、確実に進行していることが確認できた時代に我々は生きて来たのだろうか。2 度の大戦を 経験したのちの 20 世紀の後半、1969年に我々の一部は 38 万 km 先の月の表面に到達した。しかし、 それさえも幻想であったかのように、それから我々は、40年間の科学の衰退の歴史を経験したのかも知れない。 世界の貧困は解決せず、富の分配は偏り、紛争から戦争に続く毎日が始まり、それは、永遠の中世の始まりの序曲かもしれない。
そのような不可解かつ不安な時代に、休息の時間を音楽や詩作に費すだけでなく、宇宙の思考に割いても決して それは不思議な現象ではない。当り前の症状といってもよいものであろう。それは、つまり地上の地平線のように、 宇宙に地平面があるとどうなるかを考えることなどである。
地球の地平線とは、なにかといえば、球面をある高さから眺めた地球面から網膜への写像である。 その場合にそこには地平線がある。その性質は、ある所から先が全く見えないということである。 地平線までの距離は、視点の高さと地球の半径の積の平方根に関係していて、高さが上がれば、 すこしは遠くまで見えてくる。地球の半径を R 視点の高さ h とすると、地平線までの距離 x は、 (R+h)^2= R^2 + x^2 から、x^2 = (R+h)^2 -R^2、x= √(2 Rh) である。
もうひとつの重要な性質として明らかなことは、遠方で(上下)左右が短縮している以上に、奥行きは 無限に短縮しているということである。奇妙に感ずるかもしれないが、(上下)左右は、その距離から くる遠近法によって縮小している。しかし、その奥行きは、全く違う。奥行きは、その 2 次元の面に とっては全く不可解な、面の角度というものによって、徹底的に潰されている。そして見える物体が 地平線に近付くにつれて奥行きが短縮していき、ある場所を越えると全くその先がなく消えるのである。 しかし、そのとき、高さをもった物体は一部残る。山の頂上、船のマストだけが見えるという現象がある。
宇宙の果ての地平面とそれらがどう関係するかについて、まず、考えないといけないこととして、 本当に地平面はあるのだろうかということから始める必要がある。それは、ないかも知れない。 ないものを議論するほど無駄なことはない。現代の膨張宇宙論のもつ背景輻射は、宇宙の始まりの 名残とされる時間的果てから来ている。これは、いわゆる地平面ではないと言ったほうが正しい。 地平線は、地球の曲率の存在に依存している。膨張宇宙の晴れ上がりの時期の光と物質との分離は、 この場所への光の反映である。遠方の空間的地平とは少し違う。
また、この宇宙は、球面状の正の曲率をもった空間であるというには、物質が明らかに不足している。 その不足分を何かが埋めても、平坦までのことしか多くの人々の考えには存在していない。それが、 有限無境界の球面に類似するものになることはない。膨張宇宙のゴム風船の比喩は、それが比喩の 働きをする限りにおいてしか正しくないかも知れないのである。
しかし、空間を 4 次元の中の 3 次元超球と置き、半径方向を時間と置くことは、ひとつの方法と してよく行われる。空間の曲率とは別に置くのである。もし、空間が正の曲率であるなら、それは 最初から超球であり、時間とともにそれは膨張するものであるなら、膨張とともに曲率を徐々に 失って平坦に近付くものであろう。もし最初から負の曲率なら、うまくそれを正に変換して超球上 におくことができるかもしれない。フリードマン・アインシュタインがやったように仮りにその 手法が正しいとする(*1)。
そこで、その様な超球上の 3 次元空間での地平面が存在したとしたら、そこにある地平面は、 どのようなことが、地球上における地平線に類似する写像となりえるかである。 地球面に相当する空間の写像において、中心からの半径が時間でそれが高さであるなら、 それは単純に光の超円錐と過去の超球空間との交差する超円であろう。過去の超球が透明でない 時点にまでそれは、遡ることができるということである。そこまでの途中の過去は、半透明で 少々は遮られ、少々は発光している。
しかし、光が時空間を伝播するときにその時空間の経路を計算することが必要であるが、過去の 光速というものを明確にする必要がある。空間が小さかったときの光速と今の時空間での速度が 同じであるという必然性はない。この球対称時空での光速を一定として光が直進するという理由 はない。フリードマン宇宙の計量の式からくる、過去の光速が大きかったとすると、それは、 ここから見た光超円錐は、末拡がりのラッパ状であり、過去の空間とはあまり交差しないのでは ないかとも思う。以前、平坦空間での宇宙の始まりからと現在時点からのとのふたつの円錐の交差 で説明した図と比較してこれは随分と変わった複雑な図である。
そこで、まず光速は一定として考える。そう単純化して光円錐を球面に接するのである。それは、 その球面の半径が現時点の球面の半径の 1/√2 であることは、図を描くまでもなく分かる。 過去の光円錐は、現在の球の1/√2 倍の時の球面に接する。宇宙の地平として見る時点は、 さほど昔でない。この場所の年齢(中心までの距離)は、接円半径の√2 倍である。これは、 "宇宙年齢を簡単に√2 倍する方法" かもしれない。
直線的に膨張する宇宙の物質の円錐と、過去からの光円錐の交線を考える、"宇宙年齢を簡単に 2 倍する方法" とこれは、何が違うか。それは、時間軸が、軸を持たず宇宙の4次元的中心からの距離 になっていることである。それによって、宇宙の地平線が、現在の時刻の 1/2 ではなく、1/√2 になる。
以前に言及したゴム風船の上の虫のような光エーテルに頼らずに4次元時空のなかの光をもと来た方向に 曲げる方法がないとすると、我々はどこでもあるとするここの原初の光を見ることがない。我々は、 過去の空間の光を見ていて、今の時刻を r= 1 として、 r= 1/√2 の時刻の地平を見るだけになる。 そこより、先は、見えない。 その場所は、奥行きは無限に短縮しているが、上下左右は、無限に短縮しているわけではない。 時間の経過とともに、見える範囲は拡大していく。宇宙の果ての時刻がもし、宇宙の晴れ上がり時刻 であるなら、現在の宇宙年齢は、その√2 倍でしかない。そのため、それは、宇宙の晴れ上がりとは 関係がないと考えるべきだろう。晴れ上がりは、現在の 1/1000 程度の時刻の話であるから。 宇宙の果ては、単に膨張する宇宙の曲率によって作られた地平面であるということになる。宇宙が ミンコフスキー時空であって光速一定であり、かつ宇宙の曲率が正であれば、それは成立する。
この話の落ちとして、半透明の球面の影響として、地平面より向うに、地平面ほど過去でない時空点 が見えることである。それだけではない。現在時点より未来、無限の未来もその奥に見えるのである(*2)。 (2005 年 10月 14日)
我々のいる 3 次元空間が 4 次元ユークリッド空間の中の超球とし、光の経路をそのなかの直線とする。 それらは、空間を 2 次元に制限すれば、球と円錐とでイメージできる。これについての再考である。
空間は、時間とともにその半径が増大する球の表面であるが、まず気がつくことは、同時刻空間である球が、 特殊相対論的の同時刻とは、全く違うことである。特殊相対論の同時刻(=空間)は、座標系の速度に依存した。 A 点から B 点に光を往復するとき、A 点にとって B 点での光の反射と同時刻であるのは、A 点で光を発し戻る、 ちょうど中間の時刻とした。この同時刻の定義から座標系間の時空の変換法則、ローレンツ変換を導くことができた。
我々が A 点にいて、時刻は、1 とする。宇宙の果て近くの B 点は、後退速度が光速近くにある。 我々が見る B 点からの光の出発した時刻と同時刻なのは、我々の現在の 1/2 であって、B 点の空間球の半径の時刻 1/√2 ではない。ここ、A 点から見る同時刻は、この時空図の水平線であり、球の表面ではない。これは特殊相対論の 同時刻の定義からこの宇宙モデルが離反することを意味する。
しかしそれは、深刻な矛盾ではなく、系の速度によって同時刻が違うことはすでに常識に近く、膨張宇宙では場所xと時刻t から速度v(線形な膨張では v= x/t) が対応するから、ここから見る遠方の時刻は、その場所の空間と違って当然である。 場所によって座標系が違うようにいうのは、膨張による速度場の考えである。ここからみる同時刻の空間と球状の空間とは違ってよいのである。
さらに、それらは、宇宙の始めからの等時刻を結んだ空間とも違っている。v= x/t であるような速度場があるとき、 その場所の時間経過の速さは、速度の関数としての 1/γ = √(1-v^2) に比例する。その空間の一点は、宇宙の始め から慣性をもつかのように速度を変えずに飛んでいるから、宇宙が始まってからの時刻は、この 1/γに比例し、 t/γ = √(t^2 - x^2) である。つまり、遠方は時間経過が少なく、時刻が経っていない。そこで等時刻を結ぶと、 この図では、双曲線 s^2 = t^2 - x^2 になり、円 s^2= t^2 + x^2 とは違うものになる。2次元空間では、球面とは 逆の弯曲をもった双曲面になるのである。
この時空図での水平面、球面、双曲面、これらの 3 種類の空間は、どう折り合いをつけるかというと、特殊相対論 の同時刻の空間である水平面は、ここからみた空間でしかなく、少なくとも地平面その場所の空間ではない。局所の空間は、 球状の空間か、逆の双曲面であろう。しかし、両者のどちらなのだろうか。
球状空間が、直進する光との折り合いが難しいことは、次のことで分かる。45°の過去の光円錐と、過去の空間球と が接するとき、その球状空間から見てその光は無限大の速度をもって交差するのである。これは、グローバルな光速 一定という考え方が、局所の物理法則と両立しない問題のようである。
そこは、もともと時空的な地平線であり、ここからそれがそう見えるだけであって、その場所ではなにも問題でない、 と考えるかもしれない。その場所は、ここからは、光速に近い速度で後退し、ローレンツ短縮で、奥行きが無限に短縮 しているからよいのだろうか。そうではなく、全く逆である。その場所は、視線方向に無限に短縮しているなら余計に、 グローバルな一定の光速とその場所の局所の光速とが違ってくるのである(*3)。
球状の膨張宇宙は、光速一定のミンコフスキー時空とは、折り合えない。局所光速とここでの光速とは、等しくできない。 それに対して双曲面の局所空間は、問題がない。要するに、私は、何を間違ったのか。特殊相対論が成立し、光の直進する ミンコフスキー時空は、4 次元ユークリッド時空でない。4 次元ユークリッド時空における超球と光の直進の組み合わせが 間違いだったのである。ミンコフスキー時空では局所の空間は、超球ではなく双曲面がそれに対応するのである。
そこで、時間が宇宙中心からの距離であるという考え方は残して、グローバルな光速一定だけをなくしてみよう。 空間が 4 次元ユークリッド空間のなかのその半径が時間である超球として存在する。特殊相対論のように光が見る側から 一定の光速をもつのでなく、光速がその局所に対して一定速度をもつとする。ここからみて、時空点(x,t) の局所時間軸は、 x/t の傾きをもつが、その場所の速度との直接加算(光エーテル論)でなく、光が最終的にそれを見る側(特殊相対論)でなく、 その通過場所の時間軸に対して、45 °の傾きをもつとするのである。
この局所優先の考え方では特殊相対論と膨張宇宙を組合せたときの光速の問題がない。光は過去の超球と交差してくるが、 光は空間を直進するが時空を直進しない。速度の加算は、速度の直接加算だった速度場による光エーテルの速度加算と違って 角度の加算である。
c(x,t)= dx/dt= tan(t1+t2), tan(t1)= x/t, tan(t2)= 1, tan(a+b)= (tan(a)+tab(b))/(1-tan(a)tan(b)) だから、
これは、特殊相対論の速度加算の式 (u+v)/(1+uv) と似ているが異なる (u+v)/(1-uv) である。光の経路は、微分方程式、
c(x,t)= dx/dt= (x-t)/(x+t)
になり螺旋形の光の経路である。光は宇宙を無限回数巡ってくる。光の通過する経路の時刻は、単調に増加するが、 ここからみると光は何度も繰り返し過去に戻って巡ってくる。しかし、これが現実性をもつ可能性はないだろう。 この宇宙で、この場所の過去の歴史が何度も重なって見える現象があるだろうか。昔、QSO が銀河の初期の形態と思われたとき、 銀河の側に随伴する QSO が見えることが、同じ場所の時刻の違う姿を見るように思えたように、である。
宇宙の空間曲率は、赤方偏移の説明になり得るか。地球と同じように空間曲率が正であれば、赤方偏移があるということは、 ないだろうか。これは、直接、つながる話ではない。曲率は、普通は、場所の関数であるが、宇宙解では曲率一定をその前提にする。 空間曲率が正なら、空間が有限になり、空間が有限であれば、事象の地平線がなくても、我々は無限を見ることがないだろう。
しかし、遠方の空間係数 g_ii (i= 1 〜 3) が大きくても、それは、遠方で物体が平坦化している空間的な変形であり、 g_ii の大きいところで発する光は波長は短いが、時間的周期は同じである。この光は、近付くにつれて波長を伸ばして、 正常な長さになるだけであろう。時間的係数 g_44 が大きく (ポテンシャルが低く) なければ赤方偏移はないとされる。 g_44 の大きいところでの発する光は、その場所の時間経過に比例して時間が延びていて、その光はここに届くとき 周波数を変えず、下がったままである。それが赤方偏移である。
アインシュタインの定常宇宙は、定常で、有限無境界であったが、空間曲率はどうだったか。平坦だったのだろうか、 円筒宇宙と言われるように時間方向以外は曲がっていたが、円筒に曲率がないように曲率はないのだろうか。 しかし、もともとこの考え方は、定曲率な宇宙を実現するために 4 次元空間のなかの 3 次元の超球を空間と考え、 これを 4 次元= 0 という赤道平面に射影した空間を我々のみる宇宙とするから、正の曲率だろうか。
その計量の式は、空間方向の g_ik(i,k=1〜3) は、g_ik = x^i x^k /(a^2 - (x^1)^2 -(x^2)^2 -(x^3)^2) である。 g_11, g_22, g_33 という空間計量の係数は、距離の 2 乗に比例し、宇宙の果てでは分母の減少によってさらに大きくなる。 ただし、アインシュタインの定常宇宙には赤方偏移はない。赤方偏移は、g_44 だけに関係し、g_44= -1 である。
同様な n+1 元空間中の超球を使うド・ジッター宇宙では、時間軸が虚軸であり、5 次元での 4 次元超球は実軸では双曲面で 時空の曲率は負だろうが、空間曲率は正だろうか。そこでは時間的空間的遠方からの光が赤方偏移するが、ハッブルのように 距離に比例する速度を示すような赤方偏移ではない。 距離の2乗に比例する赤方偏移になる。
剛体さえも含めて全ての物体が遠方からここに来るとき形を変えること、逆説的だが、光もやはり剛体の一種で形を変えるだろう ことは、どうして波長だけが途中で変わり、周波数は変わらないとするのか、という両方の説明に辻褄の合わない部分がある。 しかし、アインシュタイン宇宙のように g_ii (i=1〜3) が大きい宇宙の果てをもつ宇宙からの光が波長を変えずに届くとすると、 短縮した波長の光が届くことになり、これは、赤方偏移ではなく、逆に、青方偏移の説明になる。光が物体と同じく計量に合わせて 形を変形するなら、波長も変え周波数も変えると考えると、どういう不都合が生じるのだろうか。
A 点からの光が B 点に光が赤方偏移と青方偏移をするとき、光が飛んでいる途中で周波数を変えるのでなく、光の発生源と受容側の時間 経過が違うと考える。AからBに周波数を変えるとき両者の間の波の数が変化する。A 点と B 点の距離が一定であるときは、両者の時間の 経過が違わないといけない。これが定常的にいつまでも起き、波が連続的であるには、時間経過が同じで周波数が違ってくると、光の波数 がAB間のどこかで発生消滅する必要がある。遠方物体が後退/前進するとき、間の波数は増加/減少して、赤方偏移/青方偏移するドップラー 効果になる。
光の疲労説(tired light)では、光が飛んでいる間に途中の粒子にコンプトン散乱されて (通常のコンプトン散乱では角度0ではエネルギー 低下しない) エネルギーを低下するとする。物体は必ず光速より低速だから、光が方向を変えない散乱のときもエネルギー低下すると考える。 問題は、スペクトル線の拡大があるのではないかということである。
時間経過が遠方で遅いことはあり得る。アインシュタインの初期理論によって、時間経過がポテンシャルに直接比例することを我々は知る。 そして、計量の本来の意味から、時間経過が過去に遅い、時間経過の加速ということもあり得ると知る。
宇宙原理の一様性から、宇宙はどこも等ポテンシャルとは言えない。宇宙の一様性は密度などであり、ここからみるg_ik の値は違っている。 例えば、ド・ジッター宇宙は、遠方過去のポテンシャル g_44 の低い宇宙である。その宇宙の赤方偏移に関係して考慮されるのは、時間の係数 g_44であり、空間係数 g_ii(i= 1〜3) は、関係ないわけではない。フリードマン宇宙では、空間計量 g_ii (i= 1〜3) が大きくなったのであり、 g_44 変化はなかったが、赤方偏移がドップラー効果で説明された。g_iiの違いでも光は周波数を変える。ド・ジッター宇宙は、つねに収縮して 膨張に転じる宇宙だから、収縮してきた遠方過去からの光は、過去の時間計量の変化で赤方偏移し、遠方の空間計量の変化のドップラー効果で 青方偏移する。
特殊相対論と膨張宇宙の両立の問題がある。これは、膨張宇宙が共動座標ではミンコフスキー時空であり光速一定の宇宙とする解釈 であり、それが間違っているなら、そもそも必要がない。所詮、計量が違うのに同じはずがない。漂う塵を静止とみなす共動座標では、 天体間隔が不変で光速一定であるが、そこでは宇宙は静止している。通常の座標では光速が宇宙サイズに比例する。しかしこれが、 特殊相対論と膨張宇宙の組み合わせであることが興味深い。
双曲面をなす局所空間とここからみる同時刻が違うことは問題でない。宇宙の果ての B 点から我々のいる A 点に光が到達する。 我々が光でみる、B 点の時刻は、文字どうり A 点がそうみるのである。離れていった遠方の B 点から光が帰還するとき双子の パラドックスの再会と同様に局所現象である。A から B が離れて行って 1/2 の時刻に光を返す。我々のみる B の時刻は、1/2 である。 ところが、宇宙の果てに実際に見えるのは、B の初期宇宙 t= 0 である。このことは、問題がないのか。 以前、"簡単に宇宙年齢を 2 倍にする方法" といった話である。
現実に見えるのが B 点の初期宇宙であっても、そこからの光の到達時間が宇宙年齢ではない。その 2 倍が宇宙年齢である。見えている B 点の時刻は、1/2 であり、それまでの B 点の時間経過は、ほぼ停止している、その時刻までの A 点の時間は存在したのであり、 宇宙年齢は、長いほうの A 点の年齢である。
B 点からの光の代わりに、B 点からの光速に近いロケットを帰還するなら、再会したとき A が B より年齢を多く取る、移動した B 点が 年を取らない。しかし、これは宇宙論であり、A、B は対等ではないかと疑問がでるだろうが、B 点に帰還という動きをさせるので対等 でないのである。つまり、膨張宇宙でも、慣性系が慣性系のままで再会しないから A, B の 2 点が年齢を比較する事態はない。 始めのある宇宙では、時刻の多義性が許されないが、慣性系の再会がないなら、特殊相対論に矛盾する設定ではないのである。 (2007 年 8 月 7 日)
注釈追加(2013/09/07) (*1) 注意すべきは、これは制限であって、時間軸が半直線になることである。ある時刻より以前のない宇宙を表現するようになる。 これによって半分の無限の過去を失う。さらに、その時刻0の宇宙の全ての空間的広さを0にすることは、それによって、その時刻の空間的 な多様性を全て失う。それは全歴史が最初から決定されている宇宙であり、完全にパラメタなしの1種類の唯一性のある宇宙の登場を招く ことである。現代人の薄々感じている、この言及されない宇宙論の秘密の思想である。全てのことに、むしろ原理的な安直さをもって受け入れ、 そして自らの過ちも反省する必要もないし、改めることもシナリオ通りにしか起きないから、改める自らの精神や意志は本質的には意味がない。 世界の出来事は決して変更できない映画の1シーンであり、その苦痛は実質をもたない。このような調整できない狂った無思想の支柱になる。 これが招く害悪は、主体性への根本的な懐疑であり、世界と自分の苦悩に向き合わない症状、前頭葉の切除のような独創性と自立心の衰弱、 人生を決定する行動と責任からの回避であろう。
(*2) この膨張宇宙のモデルの地平面は、光速で後退している。その地平面より先は、超光速で後退し、地平面より先から来る光が我々のいる 点に到達できない。ここに見えるためには、45°の光円錐に交差するだけでなく、光速以内に存在する必要もある。地平面より先は、超光速で 後退をするから、光の経路上にあっても、そこからの光がこちらに向かわずに後退する。それが地平線より先が見えない理由である。
一時空点からの空間的膨張が時間に比例するこのモデルの優れた点は、ある一定の範囲以外がつねに地平面として存在することであり、 空間である超球面が時間に応じて膨張することが明示的であることである。ゴム風船のゴム膜の空間は、時間に応じて増大することを表し、 時間と関係して、遠方ほど高速に膨張することを極めて初等的に示すことができる点である。空間のある限界的距離には地平面が存在し、 そこより先をみることができない。それはその点が光速を超えるからである速度と角度の関係が単純である。角度をもつことは、速度を もつことに対応していて、45°が光速に対応する。これらのことをモデルは全く初等的に比喩しているが、その正しい説明ではないと思う。 正の曲率と球体形成は、無関係ではないと思うし、時間軸がそのまま時空原点からの放射状の距離であるということに説明はない。 通常のゴム風船のモデルとの違いは、空間中を光が飛ぶのではなく、空間である球体の束の中を光が飛び、光の直進する光円錐と球体の交差 を観測できる時空点として扱う点である。
(*3) 超球状の空間がその地平面での同時刻とすると、ここに来る光の速度が局所の光速と一致しない。ここからみる空間と局所の空間が 合わないのは特殊相対論的な同時刻の不一致でしかない。ミンコフスキー空間で膨張する地平面では奥行き方向にローレンツ短縮し層状に なったそれは、説明可能であった。局所の同時刻を双曲面とすれば、つぶされた地平面をやって来る光は、時刻の違う薄い双曲面間を来るから、 グローバルな光速は局所光速と一致できる。しかし、それは球状の空間とは矛盾する。地平面の局所の同年齢の空間が球状か双曲状かが 矛盾するのである。