Eternality 定常論のもつ永遠性

定常論のもつ永遠性

片山 泰男(Yasuo Katayama)
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定常宇宙がもつ永遠性の概念について考える。それは、科学の対象ではなく哲学であろうし、私にとっては、空想の対象である。

人類の未来について、現在の多くの難題をすべて解決して、我々が次の難題に直面できるかどうかは、誰人も確かではない。 これほど繁栄した人類の命も、永遠とは考えられないから、我々の運命がどうなるかについては、我々が限りある命をもつことを 知った幼年期の驚きと同じく、そのことを考える事自体がない。文明は、重大さのため文明の滅亡をタブーとして思考から排除し、 考えさせない、話題にさせない、言葉を用意しないようにしているかのように、我々にはほとんど我々の死について考える材料がない。 人類の命に限りがあるかどうかは未来の運命であり、考えても何も役に立たないとされる。水面の上から水面の下が見えにくいように、 それは不確かな未来である。それだけでなく我々は、つねに破壊と退廃と最終的な死を無視しがちである。 それは、単によい夢を続けたいという、ひとの望みがさせているだけであろう。

これからも進化は起きるかもしれないし、知能を持つことで進化は停止したのかもしれない、両方の可能性が何の根拠もなくあるが、 私の見てきた 20 世紀後半からの動きは、これから数万年後にそのような進化による通常の種の終わりを迎えるより前に、単純な誤 りをして短い命に終わる可能性のほうがはるかに高いようにみえる。我々はいつかどこかで何かの失敗をたくさんして、絶滅する方 がずっとありそうである。

人類が進化する場合も、適者生存の旧人類と新人類の間の生存競争の戦いは、人類の過去の戦争の規模を超えるだろう。 我々は文明によってルールのある世界を作ってきたのであり、そのような種のわずかな違いで戦いをするようなことは避けるはず、 と期待してよいだろうか。人類の進化など止めて我々は精神の進化でこの人類社会の文化的なレベルを向上させて来たのである、 と想像してよいのだろうか。當の分配において我々は公平でいただろうか。我々は新人類を許せるだろうか。我々は進化をするだろうか。 終わりかたをどうするかは、つねに、恐れと隣り合うものである。

これまでは確かに種は変化してきて、ホモサピエンスの時代は 1〜数万年程度の長さだった。その程度の期間で進化は起き、その 100 倍は必要ではなかった。我々、哺乳類は数億年まえは恐竜の間に隠れて暮らしていた小動物のはずで、そのころの我々は脳の 体積から知能は少なかっただろうし、直立歩行と火の使用は、この数十万年以内に起きたことであろう。記録のある文字と比べて 証拠が全くないが、言葉を使ったのは 1 万年〜数万年前だろう。我々は、そのあと文字の記録を作りだし、それからの歴史時代は、 数千年しか経っていない。現代人が多くの道具を駆使した知的生活を夢見ても、構成する社会と文物という外界以外の内部は、 古代のひとと全く違わず、同程度にものを考え同程度に愚かに違いないから、多少は我々は、歴史のこと文化のことを、そして 生物の種としてのことを考えてもよいと思うのである。

この数千年において、記録されるに値するほどのことは、何だっただろうかと考えるとそれは、狩猟に対する農耕であり、 その次には農耕に対する工業であり、さらに続くものが計算機 (コンピュータ) であったかもしれないし、それは、まだ来ぬ人工知能かもしれない。 それ以外に考えられることとして、核エネルギーと宇宙開発、そして、まだ始まったばかりの遺伝子操作も競い合っている。 それらは最近から未来に属することなので、重要性が確定していないのである。 核エネルギーは火薬の発明に類するだろうか。計算機は、印刷と本の発明に匹敵するだろうか。

20 世紀後半の変化の大きさからみて、我々には数十年先の近未来さえ予見する能力がほとんどないことがはっきりしている。 数10年でなくその 100 倍先の未来予見は必ず外れるだろうし、予想しないことが起きるだろう。恐らくそれは、制御できない未来に属している。 例えば 2000 年前の人々は、現代社会の何を予見しただろう。クレオパトラに、現代の都会を見せて、どの問題が同じで、 何が基本的に違っていると、すぐに理解できるだろうか。古代人であるキリストや釈尊に、彼らは、2000 年後のどのような社会を予見しただろうか。 聖者たちのみた未来記は、現実に起きたことどもと明らかに違っていただろうし、我々にはそれの一致を期待する事ができない。 彼らは歴史に裏切られ、その存在さえ愛昧にされていくのに対し、我々は、彼らよりその後の歴史を知る点で有利な立場にいる。 そして、未来は放っておいてよい方向に行くというわけではない。多少の考慮を未来に対してするのもよいことであろうと思う。


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20 世紀半ばに核エネルギーが開放されて、これによって我々の種の命が数10年か数100年しかない可能性が多く議論された。 核は、我々の文明全体を簡単に滅ぼす脅威をもっていた。ウランとプルトニウムの原子核の分裂による放出エネルギーを最初に使った 原爆は、その使われかたは最悪であった。その動機が戦争であった。できあがるとすぐに人間に日本人に国際法違反である、 非戦闘員への都市爆撃として使われた。その数年後には原子炉ができ、原子力発電は実用化された。それまでの化学エネルギーの 100 万倍の エネルギーが出せる核エネルギーは、全てのエネルギー問題を一気に解決してもよかったのである。現実にはそうなっていないが。

1979 年 3 月 28 日に米国の北東部、ペンシルバニア州、ハリスバーグ市郊外のサスケハナ川の中州、スリーマイル島(TMI)の原子力 発電所のひとつ、2号炉は、冷却材喪失事故によって、炉心熔融(メルトダウン) を起こした。 10 万人を越す周辺住民が避難した。

2 号炉(TMI-2)は、加圧水型原子炉 96 万 kW であった。最初、復水器で脱塩フィルタ洗浄のため移送の際、配管内部につまりがあり 対策中、空気作動弁にコップ一杯ほどの水がはいり、空気弁が閉じる異常が発生。 2 次冷却水の主給水ポンプの停止でタービンも緊急停止。 補助給水ポンプが立ち上がる。主給水ポンプの停止から 8 秒後に 1 次系の圧力(150気圧300度熱水)の増大によって原子炉を緊急停止。 補助給水系の出口弁が閉じられていたので、ポンプは作動しても蒸気発生器に水は送られず、炉心圧力が上昇し、加圧器の圧力逃し弁 が開いた(3〜6 秒)が、固着し、圧力が下がって(13秒)も開いたままであった(開固着)。そのため冷却材である水が蒸気で失われた。 原子炉は自動的にスクラム(制御棒をすべて炉に入れて反応を停止)し、ECCS が動作(2分02秒)したが、蒸気の泡のため水位計が誤動作し、 冷却材過剰と判断し、ECCS を手動で停止(4分38秒)した。1 次系の給水ポンプも停止された。

2 h 20m も開かれた安全弁から500tの水が失われ、炉心上部 2/3 が蒸気中に露出し、熱によって燃料棒が炉心熔融した。 燃料 20t (62t?) が熔融して圧力容器の底に溜った。炭素鋼の容器は持ちこたえた。

原因:
(1) 補助給水系の出口弁が閉じていた。メンテナンス用の表示によってこれが覆われていた。(人為ミス)
(2) 1 次系の圧力低下しても加圧器逃し弁が閉じなかった。(機械の故障)
(3) 水量を誤認したオペレータがECCSを早期に停止した。(人為ミス)
(4) 格納容器は完全隔離されていずに、高放射性の水が外部に洩れた。(設計ミス)
(5) 水位計の誤表示のもとにECCSを断続的に作動させた。(人為ミス)
(6) 1 次冷却水ポンプを不用意に停止した。(人為ミス)

当直の 4 人のオペレータは専門知識に乏しく、安全教育を受けていなかった。原子炉は一度停止させると莫大な損害なので、停止させない 教育を受けていた。B&W 社製の原子炉にはパイプの途中に逆U字型の部分があり、ここに気体がたまって水の通過を防ぎ自然循環しない設計 であった。事故 10 年後に原子炉を解体したら、炉心部の破損は予想以上で、事故後2時間18分後に加圧器逃し弁を閉じ、3時間経ってから 冷却水ポンプや ECCS を断続的に作動させたため、加熱冷却の繰返しによる燃料棒の熱的破壊が進んでいた。その場ではオペレータは、 正しいと思う操作を行っていた。 (Wikipedia と http://shippai.jst.go.jp/ (*)による)

様々なミスが重なるだけの事態でこうしたことが起きる。しかし、最も知識を必要としたオペレータにその知識がないという、 逆説的なほど悲劇的な事態は、どうして起きるのか。特別にまれな偶然によって、事故が起きたものではないのである。 我々は、これを技術の正常な状態とみるのだろうか。


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さらに、1986年4月にウクライナのキエフ市北部 100 kmのチェルノブイリ原発 4号機は、大規模な炉心爆発、放射能拡散を起こした。 原子炉建屋が吹きとばされ、周辺の広大な地域に放射能汚染を引き起こし、死者 31人(1987年7月)、半径 30 km の住民 13 万 5000 人が避難し、 居住禁止がいまも続く。放射能汚染は北方 300 kmに及び被害の全容は未解明である。建屋は粘土、砂等による投下封鎖作業を行った作業員、 避難住民に放射能障害、死亡が多数発生した。この黒鉛減速・軽水冷却チャンネル型の原子炉は、定常時 600度の黒鉛の減速剤のなかに 1693 本の直径 80 mm 外形 88 mmのジルゴニウム合金の圧力管(チャンネル)が通り、そのなかに 7 m の燃料が下がり、下から 70 気圧 270 度の水が 1.2m/s で通過し、加熱され沸騰し気水混合体となり、それが気水分離器で分離されてタービンを回すしくみであった。

4月26日、タービンへの蒸気を停止してタービンの慣性による電力出力を調べる実験を行った。主循環ポンプをタービン発電につないだ。 低出力時の誤動作を避けるため緊急停止装置 ECCS を切り離し、実験を開始した(0秒)。操作ミスにより出力を下げ過ぎ、制御棒をすべて 引き抜いた。そのため反応を制御する余裕がなくなった。この状態でタービンへの蒸気を遮断し、慣性だけで回転を落していく。 低下する電力によって主循環ポンプから冷却水が減少し反応が上昇し、制御棒を降ろすが、制御棒は動作速度が遅く反応上昇を抑えられない(20秒)。 緊急停止用制御棒を挿入したが、それが冷却水を排除するので最初の 6 秒間は反応を促進する正のフィードバックを持っていた(36秒)。 暴走が起き、燃料が破砕、急激な蒸気が発生し、炉心内圧力が急上昇した(40秒)。圧力管が破裂し(43秒)、冷却材と黒鉛が接触し水蒸気爆発、 炉の上部が吹き飛んだ(44秒)。2 度目の爆発で建屋が破壊、火の玉、火花が建屋上部に発生した (60 秒)。

原因:
(1) 低出力時に燃料と冷却材の泡が起きるとさらに温度が上がる正のフィードバック特性。
(2) 緊急停止用制御棒は、水を排除し逆に反応が高まる。
(3) 設計・開発・製造を行った中規模機械製作省から運転管轄する電力電化省に、原子炉の特性について十分な知識が提供されず、 原子炉の低出力時の危険性について電力電化省の担当者は理解していなかった。
(4) 頼りにならない格納機能 4mmの厚さの圧力管は異常時の圧力に耐える強度をもたない。圧力管が破れると冷却水は高温の黒鉛と接触し 水蒸気爆発を起こす危険な構造であった。さらに炉心全体を包む圧力容器、格納容器がない。建屋も華奢な構造だった。

それにしても、長年使用する発電用の施設がこれほど短時間に容易に爆発をしたことが驚きである。当局の隠蔽、この事故に関係した死者は、 実は数十万人ともいわれる。消防作業者、清掃員の被曝、住むところと身の回り品の全てを失った人々、強制的に罪人として投獄された人々、 今後数百年も人の住めない土地、"怖気づくような"沈黙、"耳を聾す" 静寂の支配するゴーストタウン。 - ゴーストタウン - チェルノブイリの映像 - エレナのチェルノブイリへのバイク旅(**)。

(* 2011年11月26日追記) 原子力事故の詳細を記録した「失敗知識データベース」http://shippai.jst.go.jp/ は、驚くべきことに福島第1原発 事故の起きた2011年3月の月末に消滅した。 web.archive.org の記録:http://web.archive.org/web/20100111195728/http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search

(**) 旧URL は何か問題のようです。 ウエブアーカイブ http://web.archive.org/web/20160410095648/http://www.kiddofspeed.com/japanese/ に残っていたので、それに差し替えました。 (2017/5/15) ,(2017/9/7)


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事故を起こさなかった、ほとんどの原子炉も、それに使われた核燃料の廃棄物の 1 万年にわたる保存の方法が存在しないことは、 いまでは明確である。原子力発電所は、原子爆弾の数 100 個分の放射性物質を常時使うから、その事故は大きな放射能拡散事故になる。 原子炉が大規模な汚染を簡単に引き起こせることは、それが文明の危険な隘路となり得、国家などへの対抗勢力による戦争とテロ攻撃に 弱い火薬庫に容易になり得る。そのようなことから、核分裂の平和利用は、十分に成功し完成した技術とは、決していえないと思う。

核のエネルギーのなかで、核分裂よりも核融合が大きなエネルギーを出す。太陽や星々の中ですでに自然が使っている核融合を発電に使うのは、 もちろん原理的に可能であるが、核融合炉の基本的な原理である高温低圧プラズマの扱いに、我々はまだ十分成功していない。そのために、 核融合の実用には 50 年もかかると言われた。プラズマは、電磁場でコントロールするしかないが、それによって全体の安定性を得られないだけ でなく、局所安定性さえ得られない。この荒馬を乗りこなすことが我々にはできていない。たしか、私が小学生の頃 (46年前) 読んだバラ色の未来の 原子力の本にも高速増殖炉や、核融合の話が書かれて、50年後の 21 世紀の夢のエネルギー源と書かれていた。技術者が "50年" というとき一般人 には "不可能" の意味である。それは、誰も責任をとらない遠未来であった。そのような技術に我々は国家予算の一部を使い続けてきている理由は、 処理方法すらない汚い分裂生成物を生む核分裂には、いつまでも頼ることができないことは、誰が見ても明らかだからである。 核分裂は、昔から一時的な必要悪であり、核融合は、昔から次の世代の必要な技術だった。

核融合炉には、磁場によるプラズマの閉じ込めを行うドーナツの形をもったトカマク型とヘリカル型、そして慣性閉じ込めによるレーザー核融合 の 3 方式が競い合ってきた。トカマク型は、ヨーロッパでの JET、日本の JT-60 などの各国の研究機関による研究を経て、1 億度程度の達成温度 の低さから、重水素と3重水素の D+T の反応を用い、臨界状態や熱発生も達成できているが、実用的な大きさの電力産出がまだ出来ていない。 フランスのカダラッシュに建設を行うことが決り、国際核融合実験炉 ITER (イーター) の正式機関が 2007年に設立された。これは、実用的規模 のエネルギー産出を行う実験炉であり、原型炉を経て実用炉になるその 2 段階手前である。この状態のプラズマの挙動の物理を知ること、 熱の大半を運ぶ中性子に耐える炉壁研究がまだ必要であるとされている。

しかし、核融合は、エネルギーの開放の方法としては原始的な方法でしかない。核融合において物質の質量の 0.7% をエネルギーに変換できる。 原子核が水素からヘリウムに変わるとき、原子核は互いに強く結合して結合エネルギー分の質量欠損が起きる。欠損分の質量がエネルギーに変わって 大きな熱を発生するが、物質をエネルギーに変換するという目的から見れば、0.7% だけがエネルギーに変わり、残りの 99.3% は物質のままである。 質量がエネルギーと等価であるなら、燃料をエネルギーに 100% 変換する方法があるに違いないと普通考えるが、それは現実に存在し、反物質との 反応として知られる。物質と反物質は接触するだけで、質量の 100% を光、電磁波、γ線などの放射エネルギーに変化する。反物質は、もともと 物質と対等であるから、そこらにある石塊は、燃えカスではなく、我々がその方法さえ用意して反物質に変換できさえすれば、等しい量の物質と 反応させて、質量を 100%、でなく対消滅させる物質の質量も含め 200% のエネルギーを取り出すことができる。質量はすべてエネルギーに変化できる、 ということがアインシュタインの E= mc^2 の意味である。それをする対消滅反応も我々は知っている。

反物質は、物質と接触するだけで対消滅するので通常、物質の近くには存在しない。宇宙初期に両者は等量存在しそれが何かの非対称によって 反物質よりも物質のほうが少し過剰となり、対消滅によって反物質が消え、現在は物質だけが残っているという。仮に、この考え方が誤りとして、 多くの銀河の半数が反物質としても、我々はそれを持ってくることもできない。我々は、そこに行くエネルギーを持たないのであるから。

もしかして、隣りの星は反物質かもしれない。それなら、それだけでそこに行く価値がある。隣りの星に核融合だけで数百年かけて行っても、 我々が物質反物質変換を理解し実現する年月よりは短いかもしれない。天体の電磁波のスペクトルをみるだけでは、物質と反物質を区別する ことはできない。しかし、隣りの太陽が反物質なら、その太陽風は、我々の太陽の太陽風と反応するだろう。星間の対消滅による発熱、X線や γ線放射が恒星間に起きる。銀河間の真空は、10^5程度、星間の真空の真空度より高い。化学反応の反応速度と同様に、物質反物質の反応も それらの濃度積に比例した速度で行われると仮定すると、銀河間と恒星間は10^10程度も違うであろう。銀河間対消滅は、銀河間のそういう 恐るべき真空による比率の低さから可能性が残るのである。銀河間反応は発見できないだろうことに比べて、星間真空では対消滅による発熱は、 もしあれば発見できるだろう。だから、隣りの恒星が反物質であるという幸運は期待できない。その確率は1/2ではなく限りなく0に近い。

銀河の形成の理論は不明確であるから、それが反物質であることを期待することがまだ可能であるが、それらは無用な期待である。隣りの銀河系 であるアンドロメダ銀河は、300万光年である。百万光年のオーダーの距離の人類にとっての意味は明確である。相対論的浦島効果を利用して、 移動した乗員の時間は経過しなくても、帰還を待つ地球の時間は確実に数百万年を経過する。使者を送り出した地球は、その間全く結果を得られ ず、帰還した乗員は、その社会から完全に隔離されるだろう。しかも、相対論的な浦島効果が大きく出るような速度を得るには、我々はどのよう なエネルギー源を使えばよいのかが我々にはまだ不明である。


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物質を反物質に変えるような反応、これを行う方法を我々は、現在持たない。その意味で我々は無知である。物質を反物質に変換するのにエ ネルギーはいらない。反物質は物質と対等だから、途中にどれだけ高いエネルギーが必要でも、反物質に変化したとき同じエネルギーレベル に戻る際にエネルギーは取り返せる。反物質への変換は原理的に可能かもしれないが、不可能と考える人もいる。バリオン数保存、電荷保存が これを妨げる。我々は、ひとつの粒子に対してもこれを実現したことはない。反粒子は時間を遡る粒子としてさえ表される。原子核反応とは 困難さが全く違う。このような未知の素粒子反応をエネルギー問題の解決方法として考えること自体、短絡的であると批判されよう。まずは、 方法を発明してくれ、それから議論しよう、である。しかし、このことの原理的関係を理解する人は少なく、反物質はエネルギーから対生成 でしか作成できないと(誤って)考える傾向がある。それでは反物質はエネルギー源になりようがない。(**)

つまりは、"もんじゅのナトリウムさえ上手に扱えないのに、なにを楽天的な空想を" である。バケツの中で臨界事故を起こして、青い光をみて しまったような日本のずさんな原子力管理は、どのような原子炉の安全性の宣伝も、それによって国から恩恵を受けている電力会社による ものは信用されようがない。もんじゅは、どうして液体ナトリウムだったのか。 1 次と 2 次の冷却剤の熔融ナトリウムは 3 次系冷却の水と 熱交換される。水と厚さ何 mm かのステンレス(ジルコニウム合金?)で隔てて、高温の液体ナトリウムを置くのは、もともとひどい技術的冒険 だったのではないだろうか。最初にこの設計を知ったとき、私はそれだけで危険な事故を想像し、なぜナトリウムか、と思ったものである。 少なくとも 2 次系にはもっと別の液体金属、水銀などを使うことができる。恐らく日本人はそのような原子炉の基本設計には、誰も関わる力も 機会もなかったのだろう。そして、当然のように事故は起き、フランスのスーパーフェニックスは廃止され、日本のもんじゅは停止した。設計 者の責任は追求されない。まともに動くはずのないものを設計してはだめで、それを信用して追従した日本の設計者も基本的にだめだった。 我々がこの設計の恐ろしさを本当に知るのは、熔融ナトリウムと水との接触によって化学反応として普通に起きる爆発によって、プルトニウム 大量放出の事故を起こした後であろう。

高速増殖炉は、ウラン U235 を燃やすと同時に U238 を反応可能なブルトニウム Pu239 に変え、燃料を使ってその何倍もの燃料が得られる夢 の変換炉である。U235 はウラン全体の 0.7% であり、U238 が使用できるなら約100倍効率が上がる。しかし、高速中性子を減速せずに U238 に当てる必要があり、水では減速し過ぎるため、質量数の大きい熔融金属による冷却材を使う。それによって高温側の温度を高くし熱機関の 効率を高くする。それは、次世代の核分裂炉として実用的であるべき技術である。それが単純なナトリウム洩れで停止している。しかし、 これは、基本設計に問題がある。ナトリウム洩れ事故は、放射能のない 2 次系の熔融ナトリウムの大気中への放出でしかなかったが、私は、 ステンレスの隔膜の両側に熔融ナトリウムと水を置くべきでないとだけ思う。微小なミリ単位の最初のひび割れや腐蝕穴が装置全体の破壊に つながるからである。

子細な人為的ミスの積み重ねが事故を招くときは、より基本的な原因があるものである。 "それが少しでもうまくいかない可能性があれば、 必ずそれはうまくいかない"、という冗談のような "マーフィーの法則" は、コンピュータプログラムの作成における基本的精神である。それは、 100万分の1の確率でしか起きないことも、毎秒1000回動作する流れのなかでは短時間に現れるからである。プログラムは完成し動作しても信用さ れない。世に出される前に数ヶ月程度の "バグ出し" を経る。バグとは虫、意図しない間違いが入り込む意味であり、人命に関係しないプログラム でも、その程度の検査はされる。なぜなら、プログラムにはバグが付きもので、それは作成者側でない、見付ける側の人に比較的容易に発見できる からである。

プログラム作成者はプログラムの擁護者であり、プログラムが正常動作する条件を考えて作っている。しかし、バグは、プログラム作成者の意図 の甘さ、いい加減さを突いて来る。バグ出しの人は、プログラム製作者の考えなかった操作から始め、おかしな動作をさせることだけに興味がある。 それによって大半のバグは短期間に発見され、それを解決する "バグフィックス" は、容易なこともある。他から指摘されるだけで間違いに気付き 修正できることもある。しかし、一般に検出よりも長期間がかかる。報告されたバグは、プログラム作成者に戻され、修正が当り前に強制される。

バグの原因が基本的アルゴリズムにあって修正が不可能なとき、バグ発生を防ぐには本当の解決でない "バグ隠し" しか方法がない。それは病的な 状態であり、プログラム製作する事自体が間違いの状態であるが、現実に起きる。さらには "バグの仕様化" がある。間違いは間違いでなく、そう いう仕様で使い方の間違いという解釈を押しつけ、ユーザーは反省しておかしな使い方を避けなければならないことになる。

LSIの検証でもそうだが、プログラムは全ての動作の理解は諦め、入出力の動作の確認によって検証する。検証用のデータセット (RTLではテスト ベンチ LSIではテストベクターという) を作り、それだけで自動検証して動作確認する。全ての入力条件を検証できるセットは膨大なので、可能な 最大限の大きさが取られるが、そこにバグ発生条件を含まない可能性がある。というより、この方法の検証を通過するバグは、つねにデータセット を外れた条件で起きる。想定できなかったことが起きるということがここでは常態化、日常業務化されている。

この類比は、原子力産業にどう対応するのだろうか。彼らは余りにも容易に大規模な製品を作り、我々は作動させるとすぐに事故(1995年)を起こした 製品を手にして、修理して使い続けるべきだろうかと、14年も迷っている。高速増殖炉は世界中で実験されてきたが、事故だらけで全て廃止か停止 の歴史をもつなかで、日本は一度停止したこれを再度使い続けようとしている。この慣性の大きな政策によって我々は被害を受ける可能性がある。 多くの予想できなかった子細なこと、温度計の折曲がり、ナトリウムのミスト、動いてはいけなかった換気ダクト、ダクトと床の金属の腐蝕など、 これらの最初のひとつによって事故が起き、それ以外はそれに伴って発見される、これらは、ナトリウムの化学を軽視しすぎたと思える事項である。 危険を常に過小評価する推進側の電力会社と反対意見に耳を傾けない行政(または推進側にだまされた行政と知識人)があって、公表の遅れ、事故2時 ビデオの隠蔽、嘘の公表と担当者の自殺、という人的環境の悪さが原子力に付きもので、「こうして事故は起きる」という典型的状況ができる。

物質をいれると反物質が出てくる変換装置があると、反物質は等しい質量の物質と接触させるだけで放射に変化する。そのようなしくみを頑丈に 作ると、エネルギー問題は本当に完全に解決するだろう。必要なのは物質を投入するだけの作業になる。ロケットが光速に近い速度を出すためには、 運動エネルギーがそれ自身の質量近く必要である。そのため、燃料を搭載していく核融合ロケットでは光速の数 % を超える速度に達することが難しい。 それでは数光年先の鄰の恒星に行くのに数 100 年かかる。燃料に速度を与えるために燃料をさらに積む、非効率な現在の宇宙に出るだけのための 化学ロケットのようになる(*)。鄰の恒星に普通に数年で行けるロケットは、反物質変換以外にほとんど方法はないだろう。もちろんこれは、空想的な 未来の技術で、現存する原子炉よりは、はるかに危険な技術であろう。

(*) 地上から宇宙空間に100kgの人間を送り込むのには、1m あたり100kg重m の仕事を要し、980Nm=980J である。1km上昇に必要なエネルギーは、約1MJ。 大気圏10kmに登るのに10MJ、100kmで100MJ。これは J=1Wsecであるから100MJ= 100MWsec= kW*100h/3.6= 1kWのヒーターを27時間点ける電力である。 スペースシャトルでいく範囲のその数倍の高さの軌道まではその計算に従って、その数倍のエネルギーでよい。家庭の数日分の電気代、数百円の価格 である。それがスペースシャトルやロケットでは1kgあたり数100万円、小型のロケットでは1000万円/kgかかる。無限遠までのエネルギーは、この計算 法ではだめで、地球の半径R=6500kmの上昇は、1/R- 1/2R 無限遠価格の半分である、1/2 Rだけ上昇するのは、1/R-1/(3/2R) = 1/3R 価格1/Rの 1/3 である。1/10 Rの上昇は、1/R - 1/(R+R/10)= 1/11R、650km上昇の11倍。325km上昇の21倍、32.5km上昇の201倍。先の数百円の20倍程度で人間100kg が無限遠に到達できる。

(地上から無限遠に達する脱出速度とエネルギーは、人工衛星を飛ばす速度の√2倍、その運動エネルギーの丁度2倍である。我々は、自由になるには 地上の負の位置エネルギーをまず支払う必要のある重力井戸のなかにいる。これは化学反応の 1段ロケットでは決して達し得ない速度であり、燃焼 温度から燃焼生成分子の速度を求めると不足した。例えば酸水素炎(2800°C)の水分子の速度は、1/2 mv^2= 3/2 RT から、R= 8.314 [kg m^2 s^-2 K^-1 mol^-1], T= 3x10^3[K], m= 18[g/mol]を v= √(3RT/m)に代入して、v= √(3 x 8.314 x 3 x 10^3 /18) [kg m^2 s^-2/g)^1/2] = √4157000 [m/s]= 2039 [m/s]、明らかに地球脱出速度 11.2km/s に達しないが、ツィオルコフスキーのロケット噴射の最終速度Δvは、速度vで噴射する毎秒の燃焼生成物 の質量を m とし、ロケットの質量 M(t)、空容器を E とし、推進力 mv が本体に mv/M(t) の加速度を与える。 M(t)= M0 - mt とすると、v/(M0/m - t) をt= 0〜(M0-E)/m で積分し、Δv= v∫1/(M0/m - t)dt= v(log(M0/m)-log(E/m))= vlog(M0/E)、(満タン/空)比の対数が噴射速度vに掛かる。 比率の技術限界から最終速度に限界ができる。2段ロケットがこの比率を解決した。)

(**)物理学の基礎的な教養のあるひとのこのような理解を私は最も悲しむ。もともと、核分裂の連鎖反応も、U235というウラニュウムの0.7%しか含ま れない照射性同位元素においてだけ1930年代発見され、その後、軍事機密化された。このような特別な条件でしか発現できない核のエネルギー開放で あった。核融合は、核分裂の中性子放出を起爆剤とし、重水素、3重水素、リチウムに中性子が当たると核融合をすることは、理の当然であった。 核融合は、核実験の規模を拡大しただけである。もともと、核分裂でエネルギー規模が10^6倍にもなっていたので、核融合でそれが10^2倍に増えても、 大きな違いではない。TNT火薬のキロトンで表す爆発力が、核融合ではメガトンで表すようになったが、どちらも、都市の活動を消滅させる程度である。 絶対に起こり得ないような反応というものは物理にはない。物質が反物質に変化するような反応が、特別な粒子にだけ起き、それを見出すことが、 されないと、それはナチスドイツの手にはいるだろうというような、戦前米国で核分裂に使われたような論理が使われたら、米国人は開発に必死に なるだろう。そして、恐らく短期間でそれを発見してしまうだろう、そして、その理由は分からないが、悲しいことに人間が、黄色人種が、日本人が その生贄にされると、歴史から類推して当然、考えるべきである。(2015/7/13)


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それは事故を起こせば水爆の 300倍の効率で発熱するだろう。頑丈に作られた物質反物質変換装置のしくみが壊れるまで、それは地球をゆっくり と燃やし続けるだろう。もしそれが核分裂における連鎖反応のように、反応の規模を自動的に拡大するなら、反応は爆発的になり、地球は、新星 となって近隣の星々の夜空を照らすだろう。新星や超新星の仕組みが明確でないとき、このような他の文明の人為的事故という推定がされた。1918 年のわし座新星について生物学者ホールデンの文章が F.ダイソンの "Disturbing the Universe" の ("宇宙をかき乱すべきか" 鎮目恭夫訳、 ちくま学芸文庫) "19.地球外の生物と文明" に引用されている。

"三人のヨーロッパ人がインドで、天の河の中に生じた一つの大きな新しい星を見ていた。大舞踏会に招かれた客のうちで、こんなことに興味を もっているのは、この三人だけらしかった。この宇宙が裂けるほどの爆発の起源について説をたてる能力が多少ともある人たちの間では、それを 二つの星の衝突、あるいは星と星雲との衝突の結果だとする説が最も人気があった。しかし、この仮説に代わる可能な仮説が、少なくとも二つ あるように思われる。ひょっとすると、それはなんらかの住民の住む世界での最後の審判だった。ひょっとすると、それはそこの住民の一部が 誘導放射能(induced radioactivity)実験に成功し過ぎたためだった。しかもまた、ひょっとすると、この二つの仮説は同じことであり、 あの晩私たち三人が見ていたものは、ひとつの世界の爆発であったかもしれないーーーきっとその世界では、本来ダンスに興じているはずの人々が、 星を見るためにあまりにも多く外へ出てきていたことだろう。"

専門外の生物学者の意見は、当時の天文学者の慎重な意見と違ったと思うが、人為がどれだけのことをなしえるかについて我々は想像力を貧困に してはならない。天体現象のほとんどは自然現象であるだろう。しかし、そうでない可能性もあると考えることも止める必要はない。そして A.C.クラークの "幼年期の終わり" の言葉、"文明が惑星を壊す程度から、恒星を壊す規模に変わる" ことも予想できる。F.ダイソンは、進化した 文明が他の恒星に移動しないなら、進化した文明は、恒星のエネルギーをすべて使うための球体に包まれ、恒星規模のエネルギー総量をもつ赤外線 放射を放つから、地球外文明の探査には赤外線探査をすべきという意見を述べてきたのである。

半径1億5000万kmの球の表面積と半径6500kmの地球の断面積の比から、宇宙に放出される太陽エネルギーの21億分の1しか地球は受けていない。 我々は、安全確実に他の恒星系に移動する方法を発見しなければ、地球の20億倍程度のエネルギーまでを利用する太陽に頼る種族になって終わる だろう。さらに人類は現在まで地球に降り注ぐエネルギーのほんの一部しか利用して来なかった。人類がこれまで使った全てのエネルギーを累積 しても、太陽の 1秒間の放出エネルギーに達しないという。このことは、エネルギー問題に対する大きな解放感を与えるし、我々が何を考え何を 無視すべきかに、大きな影響があると思う。


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原子炉設計に対する経験から 1986年のシャトル事故の後、1988年にシャトルの問題を述べた F. ダイソンの本の17年後にシャトルの2台目の 破滅的な事故を経験した我々が考えるべきこととして、彼の本にも比重の大きかった生物学的なことがある。危険な技術は、核だけではなく、 遺伝子の配列の解明をした技術は、我々自身の生物学的特性の設計を可能にすることであろう。人類は、動物と比較して格段の問題解決能力を もっているが、DNA 配列を安易に改変することは人類の生存を危うくする危険を十分にもつ。人類の持つ生物的特性は、ここ数万年にできた 霊長類的特性だけではなく、長い全ての進化の過程を経た生物一般の、遺伝子配列の大半 80% は、バクテリアとも共通の特性である。もちろん それは誰かの設計ではなく、億年単位の進化が作ってきたのである。我々の単細胞の時代が多細胞になってからよりも長いのには恐らく理由 がある。細胞構造の基礎にはそれだけの試行錯誤の時間を要したのである。

DNA デザインが可能になれば、我々はまず、環境の生物を改変し、我々にとって都合のよい生物を作り上げるだろう。それは、自然の行う進化 より我々の目的に向けることができるから高速で誤りが少ない。しかし遺伝子改変でなくとも交配による品種改良において、特定の種を選択的 に大量に生産して生物の多様性を犠牲にする傾向をもつ。そのため、ほとんどがある特定の病気に弱い品種になる危険が伴うことが知られる。 しかし、それは単に危険な毒物生物を作らないことを気を付ければよいだけであって、本質的に危険なことではない。

その技術は、最終的には人類自身をデザインするのに使われるだろう。人類の体は決して神の究極のデザインではない。我々は生身の体のために、 多くを犠牲にしてきた。全ての知的種は自らが最終のデザインと主張するだろうが、それは多種多様な自称知識人が存在するのと同じで、恐らく、 それらは似ても似つかない多様性に富むものだろう。生物の複雑な仕組みを理解することは難しい。我々の致命的な欠点と思えるものが、実は どのように潜在的に我々の生存に必要不可欠な特性を支えているかもしれない。そのような不明な関係のままに実験的に直してみることが許さ れないと分かるのは、これだけは直すのが正しいと思える致命的な遺伝的病気をなくして、それが大きな失敗であったと分かるときであろう。

人類自身の遺伝子改造は、それを法律で規制すれば多少は防げるだろうが、不可能と不実行とは大きく違う。我々の歴史でつねに成立した経験 法則といえるものは、可能なことはそのうち必ず最悪の形で行われ、結果を我々は受けるということである。その方法を徹底的に知る以外に、 問題の本当の意味の解決はないのである。自己の理解が進まずにその改造ができるようになるとき、それがもたらす事故は悲惨な結果である。


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もちろん、人類の未来だけでなく、この宇宙の行く末が永遠であることも、保証されていない。我々が通常にいう膨張宇宙の終わり方には、 多くの可能性がある。熱力学第 2 法則のエントロピー増大による緩慢な熱的死かも知れない。緩慢な温度低下による冷却の死かもしれない。 最近は激しい膨張の加速によるすべての原子の分離までを予想するものもある。宇宙は、最近この 50 億年加速膨張に転じているからと、そ れを説明する膨張の物理がすぐに考案され、天文学的現象の発見、又はそう思われるものが宇宙の未来の予測をすぐに変えるという流行を我 々は知っている。

新しい新規な宇宙の未来像は、どのようなものであってもよい。しかし、ここで主題にした事項は、それらとは違うことである。もしも逆に、 我々が予想してきた全ての宇宙の進化なり変化なりが、幻想と分かったなら、そのときの考えかたの変化について考えることである。仮に、 完全な静止宇宙論が正しかったと観測が示すとき、それがもたらす思想は、現在のそれとどう違うのだろう。それは、未来ではなく "過去" が永遠であるときの思想である。これについて誰も考えたことがないわけではない。我々の先輩は、ほとんどが定常宇宙を考えていたことを 忘れてはならない。しかし今、これはほとんどの人が忘れ、それに違和感を覚える考えかたである。

20 世紀の宇宙論を経た我々は、定常思想をいま完全に忘却し、それを思い出す必要があるほどである。膨張宇宙の "始めのある" 宇宙は、西欧 社会の俗説では神の創造の天文学的、物理的証拠と受け取られている。それは確かに俗説であって、公けには誰もが否定するものであるが、 真実は意外とそれに近いのかもしれない。そして確かに、科学である宇宙論がどのように倫理宗教に関係するかは、ある思想にとって都合のよい 科学的事実は、その思想の助けになって、その思想を科学が証明したというデマゴギーさえ許すような誤解を生む。科学を導く思想は、考えかた の傾向でありドグマである。それに従わないことは社会からの離反を意味し、離反を公にすることも反社会的だから、多くの科学者がその時代を 反映する特定の流行の考えかたに従う傾向を見せることになる。

つまり、宇宙論は、科学と宗教との問題の側面をもつのである。宗教と科学の反目と断罪、宗教裁判、異端審問、魔女狩りが我々の歴史にはあった。 それにはある種の宗教者には異論があるだろうが、歴史が明確にある宗教の正当性を否定したと理解すべきものだったのではないか。しかし、 それならば、定常宇宙論にはそれに対応する宗教思想がないかというと、それは違う。その性質において、次のことが重要であると思う。 とても奇妙に思われるかもしれないが、定常宇宙では、人類の全歴史が幾度となく、無数、無限に繰り返されてきたことを意味するのである。

これに対して、ことはそれほど深刻ではない、という考えかたがある。100 億年が 1000 億年であろうと 10 億年であろうと、人類と生物の歴史 の長さを十分に超えているから、そこにはその有限性と無限性の差異は明確に表れない。10 億年の宇宙年齢ではあまりに短くて、地球の地質年代 も入らないが、100億年には30億年の生物進化と多細胞から人類までの数億年とを入れることができる。数億年の誤差をもって進化した別の種族の 入る余地もあり、先行種族の複数存在も可能である。これが1000億年でも質的に変わるものではない。人類が単独であることへの疑問に対して、 宇宙年齢をその理由にすることがいえないように、人類の発生の無限の繰り返しを定常宇宙の当然の帰結とは言えないのではないか。と考えること もできる。昔の定常論は、太陽と地球がいつまでも続くという素朴なもので、人類発生の無限の繰り返しとは考えないのではないか。

しかし、この考えは、多分に中途半端な折衷である。数値の何倍か違いで結論は質的に変わることはない。例えば膨張宇宙論のハッブル定数が 1/10 で宇宙年齢が 1000 億年なら、宇宙内の古い天体(球状星団)の年齢と矛盾しない。しかしそこでまた、1000 億年に入り切らないものが発 見されるかも知れない。例えば銀河型間の進化は十分可能だろうかと疑うことができる。無限と有限との間には大きな質的違いがあり、我々に 仮に無限の過去があるとすることは、じつは、想像を絶する事態を理解する必要があるのである。この文の最後までを費してそのことの端緒だ けを書くが、それにはもっと明確な説明が必要とされるであろう。


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定常無限の宇宙では、無限の過去から続いてきた宇宙であり、単純な進化がない宇宙である。そこでは少々の進化は単なる変化であり得る。 この地球上で 30 億年かかった生物の歴史は、その前の同様な 30 億年を必ずもつことができる。そうして、それが無限回繰り返されたという のである。それは、このことに我々の心は耐えられるだろうか、というほどの衝撃がある考えであるように思う。空間的無限による別の場所 での独立並行試行でなく、これは時間的な繰り返しであり、エンリコ・フェルミのパラドックス、 "なぜ我々は孤独なのか" よりももっと 衝撃的である。同じことを別のひとがやってきたのではなく、同じことを私がやってきた、既視感(デジャブ)と忘却への恐ろしさに類似する。 同じ場所に過去に人類が時を無限回通過してきている。それなのに、過去の人類の痕跡は、現在に全く姿をみせない。我々は完全に白紙から 宇宙を開始したように思っているが、大きな懸隔が原因でそれが見えないだけである。定常宇宙の思想では、我々は、自ら無限回の経験を行って、 再度ここにいるのである。

我々は、まだ地球外の知的生命を知らないが、仮に近隣の恒星世界にそれがあったとしても、逆にこの銀河系のこの辺鄙な地方にそのような 文明がないとしても、また、この宇宙で出会うべき地球外生物が現在全くないという極端な仮定をしたとしても、それらは無限回繰り返され て来たひとつでしかない。"この宇宙には新しいことがない。全ての行為は必ずひとが経験している。" それは諺や精神的な教訓でなく、事実 として人類のレベルでそれをいうことになる。"ひと" ではなくそこは生物学的な "ヒト" が正しい。ここでさらにもう一度それを追認し無限 の回数に一回を加えるのは、どのような意味があるのだろうか。ひと雫の水を大海に戻すように、その意味は、無限への回帰以外ないであろう。

我々の歴史が繰り返され、歴史が次の歴史に反映されず、白紙からの開始を無限回繰り返すその意味について、宇宙が無限で永遠の過去から 存在するなら我々の人類全体としての歴史の意味は、単純に、ない、というべきだろうか。それでなくても、人類の存在の意味は、宇宙的な スケールからみると意味を問うこと自体が難しい。生物としての人類の繁栄は、宇宙にとってでなくとも、他の知的種族にとっても喜ばれる 必要はない。そして単純な原理として、次のことが言えそうである、もし過去が永遠なら、過去のすべての人類の行為の現在への影響がゼロ に限りなく近いのではないか。もしも、人類の世代間になんらか影響が残るなら、その影響は次々と累積するだろう。それなら、それが無限 回数繰り返された累積は、いまの宇宙に多少でも反映されていなければならないと思うが、それを我々は見ていないように思うのである。

影響が単調に増加するなら、無限回の試行は、影響の存在の見えないことが無限の過去の存在の否定的証拠になり得る。しかし、影響の消散 過程も仮定すれば、例えば、過去の世界から累積影響の次の世界へ影響が 1/2 にされるなら、累積した影響も有限になり、見出せないことを 反証とはできない。人類の痕跡の影響が大宇宙からみて小さければ、有限の寿命をもった新たな人類がそれに出会うことがない可能性もある。


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これは、生命の輪廻への宇宙側の対応のように見える。そして一生を一回限りに解決させようという思想からみると、この思想は、その意味の不 可解さによって恐怖を呼び起こすようなものかもしれない。"一回限りの人生であるから、この人生を有意義に暮らしたい"、という素朴な生活倫 理は、この思想の下で完全に無効にされる。次の考えかたは、我々から離れてすでに 100 年以上が経過したものであろう。「我々の世界が繰り返し であるのは、この状況の存在とその解決がこの世界の目的と意味だからである。」主体の状態が世界を集合し、それを解決する役割をもつ。 それなら、問題の状況が再現するとき世界は再現する、その意味で我々の生命は永遠である。問題解決という目的が生命の価値を与えるが、解決 の結果をいま我々が見ないという矛盾を抱える。もちろん、問題が解決していれば、その問題は存在しないから見えるものでない。問題の解決は、 現在の人類にとっての価値であり、それ自身の意味をもつものではない。

仏教以前のバラモン哲学者による、あの世が死者によって一杯にならない理由として、この世からあの世への道だけでなく、あの世からこの世へ と戻る道が存在するという二道五火説、これによって輪廻の思想が完成したという。生は、まっさらな状態で開始するのでなく、生きている間と 同様に過去の行為が生死の境界を越えて影響を残している。生と死というふたつの道を通って命が同じ世界に戻って来る。そこは元と同じ場所で ある必要はない。行為は必ず結果をもたらすから、多少とも違ってよい。それは同じ世界の違う場所、違う世界かも知れない。ここでは世界は 主体の状態反映であり、本質的に主観的でしかなく、客観的な現実というものは、追求しても実際にはないからである。

繰り返しは白紙から始まって、何らの影響も次の世界に伝わっていないように見える。しかし、これは物質の継承や情報の遺伝をいうのではない。 見るものをみることはできない。継承するのは、じつは世界でなくこれを見ている意識である。行為の結果を受けるのは行為の対象者でなく実は 行為者である。行為は行為者にいつか結果を生むのでなく、即時に影のように纏いつき、行為の種は熟成して果実を結ぶ。我々の見ていると思っ ている再現されたこの世界に、過去の世界の形跡の証拠は全くない。しかし、私はなにか連続する原因結果である。なぜこうであるのかとこの世界 をみるとき、これに対する解答として存在するのは、原因なく結果は存在しないという因果律だけである。そのことは、本来は平等である生命に 差別がある現実を説明する。そこには本来、なにも差があるべきでないのに、我々の現実のありようは、行為の結果として大きな違いをもっている。 それによって再び我々全ては平等になる。しかしこれは、現状の差別肯定の論理ではない。私の窮乏は過去に泥棒をしたからである。私の醜悪さは と考えるのである。現実の泥棒は、決してこうは考えないだろう。 "獲得形質は遺伝しない" のが遺伝であり、"獲得形質だけが主体に残る" のが 因果である。その意味で "親の因果が子に報い" は誤りで、親子は別の個体である。また、過去世は歴史上の時代の前世とみるべきではない。意識 の継続にはどれほどの長い断絶も許され、定常宇宙なら時間的に世界はその中に無限にあり、始まりのある宇宙も、その始まりを含めて繰り返すな らそのなかにはいる、そのようにこれは、容易に実証または反証可能な仮説とはいえないから、科学ではなく宗教思想である。


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客体は、それの反対語である主体の投影であり、主観の反映のない客観の認識はありえない。ほとんどの世界を我々は見ることができない。視点の 場所と時間の制限がある。そして我々の思想は、ほとんど時代の産物である。しかも我々は、心理的には誰も見たい世界しか見ていない。合理化は 外的事実を合成さえする。客観することは "難しい" ではなくもともと不可能である。同じ世界に住む人を理解しがたいときその理由は、その人が じつは同じ世界を持たないからである。目前のひとが見る世界を我々は見ることはできない。そのとき我々は、同じ世界にいないのと違わない。 世間とは差別の意味であるが、それに世界の違いという意味の言葉が使われる。ひとの何かの違いを「人種の違い」という人を私は許さない。

そのため本当のことは、基本的に客観的確認の方法がないと考えるべきだろう。本当のことを見ることは困難である。一生の間に一時でも本当のこ とが見えるように感じる瞬間があるかもしれないが、それさえ一時の気の迷いであるだろう。それどころか、我々があると思うこの世界の存在さえ、 確認する方法がない。長い夢を現実でないと判断するする方法は夢の中にない。長いまどろみは、それから醒めてやっと自分が蝶であったとわかる ものである。

それゆえ、現実の重大さを知るひとは、現実と考え事実と思うものをつねに再考するべきで、それが思考と思想の力である。現実と考えるのは、誤 解の産物かもしれない。世界は多重であり、意識の数だけ世界があるのかも知れない。これを見ていると思うとき見られているこれも確かでないだ けでなく、見ている私の意識も確かでない。頼りないこの意識は主体という言葉が合わない程である。意識ほど不確かで、断続的な存在はない。瞬 時に状態を変え猿が窓から窓へ移るように次々と別の考えをする。しかし、この意識だけがこのことを自覚させる。意識は生まれてから短時間だけ 体に支えられ、そこに老いがくる。病は考える余裕をなくす。最終的に死が思考を遮る。

しかし、断続しても意識は必要があれば過去を継続するだろう。生きることは長くない、草の上の露である。かりに命を得ても人間の生は希である、 大地微塵に比べて爪の上の土である。この世で得た知識は、次の世にも役立つ知識だろうか。行為はその瞬間に結果を伴う。ともかく自らのために 生き、この世のためにする。獄卒が罪人を責めなければ地獄を出ることは難しいだろうから。現実の向上と改善を望み、現実的報いを求めるのがこ の思想の倫理的側面である。

そこにおいて、過去の永遠性は生命の永遠性に対応している。この現実の重さをみるなら過去が短いはずはない、過去は有限でさえない。人の生命 は単純な原因結果でない。始まりのある世界は生命の永遠性を否定するもので、世界の軽薄な捉え方である。この世界を素粒子に分解し、この世界 を過ぎて別の世界に到り、1つ粒子を置き、これを繰り返して全ての粒子を置く。そして、粒子を置いた世界と置かなかった世界を再度素粒子に分解 し、その粒子1個を100億年とする。生命という思想はこの時間の存在を前提にしている。

このような思想は、宇宙と生命を一体的に対象とし、望むものはその存在状態である。全てのものにもっとも大事なものが付与されている。しかし、 それを知ることが大変に難しい。そしてそれは誰にも容易に見えるものではない。もしそれが水面下に下がれば、我々はそれを明確に指摘できず、 さがすこともなくなる。その大事なものとは一体、何だったのだろう。そして、それは戻ってくるのだろうか、消えていってしまうのだろうか。 それをみるときそれは解決する。永遠を前提とした生命の思想は、決して見えない神をさがす思想とは、創造と連続、超越と内在、有限と無限に おいて、対極である。