宇宙の果てについて(の論理学)

2006/12/25--2011/11/19--2015/7/29--8/9 片山泰男(Yasuo Katayama)

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科学の方法論として、それが実証、または反証できないことを何もいうべきでないという一種の不文律があった。しかし、 誰もが守るなら必要のない標語のように、それは、確認できない前堤や原理をもとにして、科学が論理を組み立ててきた歴史を 逆に示している。論理が正しくても、前堤に誤りがある場合、その結論はチェックしにくい。我々は、論理を辿ることで議論の 正否をチェックしようとするからである。もし、前堤、仮定が間違っていれば、結論には何を言っても正しくなる。だから、 それを言うこと自体が間違いである、というのが論理学の教えるところである。このことを理解するために若干の文を費そう。

現在、我々は、隣の恒星に到達する技術さえ持たない。銀河系の中に恒星は 2000 億から 1 兆個も存在し、それらに行くのは 困難だろうが、隣りの銀河系であるアンドロメダ銀河系は、隣りの恒星までの距離の 100 万倍もある。そこに到達することは、 人類に可能かどうかではなく、我々が肉体を捨て形態をどう変えても無理のような気がする。決して行くことができない場所、 それは、隣りの銀河である。しかし、これはまだ、お隣りの銀河でしかない。隣りの銀河の 1 万倍を超える距離をもつ宇宙 の果てがある。そこは、決して踏破できない場所の代名詞である。だからそれを議論する事自体が間違い、という訳ではない。 決して行けない場所の議論は、それが正しくても間違っていても、それは原理的に確認できない実証性を放棄した議論の中に あることを言いたいのである。

絶対に行けない場所も、それについての知識が深まると、実際に行かなくてもそれに近いところまで、具体的な多くの事実、 証拠が積み重ねられれば、それは、ほとんど確かな現実と言ってよいものになる。しかし、その知識が正しいかどうかは、どの ように確認するのだろうか。例えば顕微鏡の下の世界のように、直接手が付けられないものであっても、よく見える現象は、 現実的な事実として誰も疑わないことのように思う。昔から我々は、藁什を食糧にするゾウリムシの繊毛一本になにか操作 することはできなくても、プレパラートのカバーグラスの端からなにかをして、その走電性や走光性、走化性、走地性などの 反応を実験的に調べることができた。それが顕微鏡の倍率が上がれば、現実性が遠ざかるように思えた。昔から単純な原理に よる先端の尖ったタングステン電極の原子の配列による電場の凸凹を示す電界効果顕微鏡によって原子の1個、1個が見えていても、 最近になって原子1個1個を移動して文字を描いたり操作できるようになって、初めて現実的な実在感をもつことができるよう になったことに気がつくのである。我々の確認は、操作に対する反応によっているのである。

そして、望遠鏡の先と顕微鏡下との違いは、望遠鏡の先が因果の先であって、決して反応を求めることができないことである。 宇宙像として見える先は、我々の現在と将来の事象の原因となり得ても、逆にそこに何か影響を与えることのできない先である。 宇宙の像は、遠方ほど過去であり、見えているものが現在はすでに違うものに変わっている。ここからそこに、その場所の今は 違う何かに、仮になにか影響を与えることは、原理的に可能であっても実際は余りにも遠いため、ほとんど不可能であることは 明らかであるが、仮に可能だとしても、相手が我々の影響を受ける時刻は未来であり、さらにその遠方が影響を受けたことを この場所にいて確認できるのは、それと同程度の時間待つ必要がある。影響が戻るまでの時間を待てないほどの遠方は無反応な 映像なのである。因果関係の確認ができないものは、それが何なのか、から始まってすべてが推定である。反応こそ実験である からである。


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例えば、月面にレーザー光線で光を送れば、アポロの置いてきた直角3面鏡は、来た方向に光を返し、2.5秒の遅延で光る点を観測できる。 当時、反射してくる時間の経過から数10cmの距離の精度まで測定するために、その3面鏡は置かれたのである。それが、月面でなく木星に 置いてあれば、返ってくるのに数時間、隣の恒星では数年間、アンドロメダ銀河で数百万年、宇宙の果ての銀河では200億年程度待つ必要がある。 距離はそのように反応を妨げるのである。

それでは、時間はどうだろうか。時間的な近未来、近い将来についての予測は、その時がきて予測の成否を判別できるという実証性の保証 があるが、遠未来の予測は、それと違って実証可能性がない。少なくとも、それをいう学者の生きている間、数十年以内に確認可能な事項 の予言以外、どれほど蓋然的であっても実証性はないことになる。実証性のないことをいうことは、通常は科学論文では忌避される。

それと逆に過去のできごとは、現在から確認できる証拠が多くある。我々は、時間を引き戻せず、過去の時刻に同居できない。つまり、 過去の事象も反応を期待した実験ができないことは、宇宙の遠方と同じである。しかし、過去は、現在に大きなさまざまな影響を残す。 いまある宇宙、物質、放射の証拠をもとにそれを考古学的に永遠に議論する。遠方も過去とみると、反応をさせることができないから 受動的に調べるだけである。

例えば、宇宙背景輻射を宇宙の初期の晴れ上がりと解釈するかどうか。新しい証拠は、それを説明する解釈を複数発生し、主要な意見が 変遷し、明確と思われる学説の正否も、後にそれを否定する証拠が出てくれば評価が変わる経験を通して明確化されていくものである。 過去の事象については、より詳細なデータが常に増加して得られていくものであるが、一回限りの事象は、その時にしか測定できない ものである。いつまでも観測できるためには、宇宙は空間的には十分広いという前提がある。

宇宙の果て、時間の始終には、それへの到達には、我々にはいつまでも不可能である。それは原理的に無反応な遠方であり過去である。 宇宙を作る実験というものが可能なら別であるが、宇宙の過去については、それを再度実現して詳しく調べ直すこと、つまり 実験ができないことは、遠未来の予測と同じである。追試実験は、誤りを排除するため再現性を利用して、無限列挙の保証をする ものである。その実証的な科学に必要な再現性 (何時でも、何処でも、誰でも、再現可能) の幾つかの特性を失っている可能性がある。

何時でもではない。何処でもでもない。誰がやってもでもなく、再現などあり得ないでは、これはすでに科学でも何でもない。 これに対して来るであろう反論に対して、それは例えば、今までハッブル定数は、誰が測定しても同じ値になっただろうか、と問いたい。 我々はハッブル自身の測定値を 1/10 にして、それは最近まで永らく 2 倍の誤差を埋められなかったものである。


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P であれば、Q である。これを述語論理は、 p ⇒ q というように述語を小文字で書く。(ある人が)ソクラテスであるなら、 (その人は)痩せている。述語論理では、"ある"∃、"全ての"∀という修飾が付いた主語について考えるがここでは省略する。 そこで重要なことは、 "p ならば q である" という言明は、"p でないか、q である"と同義なことである。(p ⇒ q) ⇔ (~p | q) ("|" は論理和 OR、"&"は論理積 AND を表し、文字に先行する "~" は論理否定。"⇔" は同等(同値)で⇒←の両方向成立。)

p ならば q を大文字で A, B と書いて集合と関係させることができる。p という属性をもった集合 A が q という属性をもった集合 B に完全に含まれるとき、その言明は正しい。集合 A が集合 B に完全包含されること (A ⊆ B) を意味する。 しかし、仮に集合 A が空集合であれば、その言明は無条件に正しい。また、集合 B が全体集合であれば、やはり無条件に正しい。

言明は正しいことが必要であるが、無条件に正しい言明というものは、実際は、意味を持たない言明であるということである。 すでに A でないなら、"A ならば...." という前半をもつすべての言明が正しい。つまり無意味になる。同様に、何かの原因ですでに B であるなら、"Bである" という後半をもつ全ての言明も正しいので意味をもたない。意味をもつとは何かをいうことであり、 形式論理上常に正しいことが明白である言明は、言うこと自体無意味であり、何も言わないのと同じ冗長、無駄になるのである。

これは例えば、同義反復(トートロジー)(p⇒ p)の原因かもしれない。正しい言明は大事だが、無意味に正しいとき意味をなさない。 これは、必要な論理形式を踏み外しているのである。言明は、自明のとき、正しいのに無意味となる。 言明条件の否定と、言明結論の肯定は、言明を自明として、その意味を取り去るのである。

話を戻し、実証できないことを論じることは、これに近い事態であることを言いたい。A ならば B という言明を現在 Bであるから ということを使って、少しでも実証することはできない。すでに B であれば、 A ならば B は、どのような A についても正しい。 それは、論理の枠組も失なうし、結果 B があるから、その原因はこれ A ということはできない。 それは、言明の正しさの証明ではないだけでなく、言明に味方しているわけでもない。 無意味に正しいことは、決して正しいことでないという通常の常識が反論をする。

またもう一方、もしすでに A でなかっても、その言明は無意味に正しいわけだから、A でなかったということも、その反対証明にならない。 それは、その言明を正しいとする味方のようだが、その言明を無意味に正しいとするのは、その論述の主旨を最大限に否定することである(*)。

同義反復 p ⇒ p は、pを主張する無意味な言明であるが、矛盾 p ⇒ ~p 言明は、p否定する正しい言明である。その理由が理解されることが 条件で、それなしには自己矛盾言明である。(2018/4/22)


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A ならば、B であるということをいうとき、A である例をみつけてそれが B であるという事例をいくら列挙しても証明にはならない。 A であるのに、B でない反例が 1 つでも見付かれば、その言明は、正しくないからである。A でなく B でない事例を列挙しても、 それは、同じく証明にもならない。もとの言明の対偶の "B でないなら、A でない"

(p ⇒ q)⇔(~q ⇒ ~p)

ことを証明できればよいが、これを列挙によって証明できないことは、もとの言明がそうであるのと同じである。 つまり、列挙は確かさを少しも保証しない。 列挙が確実に有効なのは有限集合の全列挙か、自然数に数学的帰納法が使えるときである。さらにこれが、確率的事象であるとき Bayes 推定では、事象Bから言明Aの確かさをいう事後(逆方向)条件確率、Pr(A|B) = Pr(B|A)Pr(A)/Pr(B) が重要な働きをする。 ある HIV 検査の エイズ感染者が検出される確率が1、非感染者が誤検出される確率が 0.2 % であるとき、その検査で陽性の 人のエイズ感染の可能性は、99.8% ではなく、エイズ感染率が 0.1 % なら、33 % である。証明できないことを議論するのは、 このようなことであり、そういうことは、最初から止めるべきではないだろうか(**)。(とこれも列挙法である。)

実験は、もともと列挙でしかない。しかし、いつでもどこでも同じ結果がでる実験は、無限列挙を意味している。 (1)ある命題が最初に 1 で成立し、(2) n で真なら n+1 でも真になることが証明できるなら、その命題はすべての自然数で真である。 始めの1は別の整数Nでもよい。数学的帰納法は無限列挙といえるが、通常の列挙はそうでない。10 回サイコロを振って 1 が 3 回も 出たからといって、この宇宙の確率が変化したとはいえない。その 10 回が 100万回に代わっても程度の差であり、数の根拠は薄弱であり、 論理には関係しないことである(*)。

しかし、宇宙は作れないから実験すらできない。現在、宇宙についていうことは、観測の列挙の研究と考えられるものが多い。ひとつでも 観測の例を挙げれば、それがある考え(その観測が存在し得ないことを説明する理論)の反例となって、それを捨てさせることができる。 観測は、それがあり得ることの証拠であるだけである。常にそれはあるということではなく、ある条件の場合にあっただけかもしれない。

何らかの整合性をもつ理論を提示して観測を予言してそれを待つが、観測による例示は、反対の説の反例でしかない。しかし、理論を実験で 示せないことは、列挙による方法すら適用できないという状況なのである。それが存在の証明である場合、追加実験があって初めて無限列挙 の意味がある。証明と実験の手法が不可能な宇宙論にはこのような危険性があり、無意味な推論と言明の塊になる可能性がある。

(*)確率をいう別の論じ方はある。


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しかしながら、単純な数学的宇宙論は、物理的世界の記述としてこれほど明確なものはないほどに明確で、 これほど基本的なものがないほどに基本的なものである。そこで我々は、これまで科学的方法論としては 扱うことができないと考えられて来たものを扱うようになったことを自覚するのである。

特殊相対論は、時間と空間の性質を物理的に把握することを可能にした。一般相対論は、時空の一点の性質、 メトリックの物理特性を明確にするだけで、宇宙全体の全歴史を包括的に、全くのあいまいさ無くそれを 研究対象にすることができるようにしたし、宇宙論は、それを初めて行ったのである。 宇宙論は、哲学者の領域であった宇宙と永遠、始まりと果てを量的に、数学的扱いのできる物理にした (又はこれからする)のかもしれない。

この世界の果ての問題は、地球という我々の世界の形態の発見がその主題の解決の終わりでなかったように、 そして星々がこの太陽系世界と同様な世界であることの予想があって、星々の纒まりの天の河を銀河系、 巨大な星々のなす集団であることを認識し、さらには、その中にみえる小さな星雲が他の銀河系ではないか と議論して発見していった、それらは、人類の宇宙とみなす視野の拡大の歴史であると思われる。

おそらく、この宇宙の構造の確定も、それが他の宇宙の発見とともに前後して起こり、それらに依って 宇宙の定義の拡大が続くのである。今まで宇宙とされた領域をその一部として含むものを発見する、 そのようなことが今まで繰りかえされて来た。そのためには、今までの宇宙とされたものが、他にも あると気がつく必要がある。それまで小さな天体と思われた星雲が、それまでこの宇宙すべてと思われた 天の川銀河と同等の存在であるという認識の変化は、当時のことを知らない我々は、その驚きと思想的影響を 想像するだけである。我々には今後も、銀河の発見と同様なことがまだあると考える。

それは、我々が昔、あの小さな星々も実は太陽と同じものが遠くにあるため小さく暗く見えるだけではないだろうかと、 ジョルダーノ・ブルーノが確かめようのない疑問をもって火あぶりにされ、ガリレオ・ガリレイがコペルニクスの地動説を 宗教裁判で捨てさせられ、我々が1920年代に議論し、銀河の中のものと思われたあの小さな星雲は、もしか、天の銀河と 同等な外の銀河系かもしれないというばかげた疑問、負けた議論をエドウィン・ハッブルがひっくり返したように、ちょうど それと同じようなことが起きる必要がある。それは例えば、我々の周りの銀河分布が偏って存在していて集団をなしている、 ボークルールのメタギャラクシーというものを見出すこと、さらには、ある型の銀河系と見えるものが、恒星の集合ではなく 銀河系の集合ではないか、という疑いが出ることが必要である。宇宙論を、宇宙を起源から説くだけのように思うのは、 そして、ハッブルが膨張論を否定したことを伝えないのは、それらの先人の科学の精神、宗教思想との対決の歴史からみて、 全く間違っているのである。

(2011/11/19, 2018/8/6)


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注釈

(*) "A ならば Bである" (A⇒B)を、時間経過を伴った原因A、結果Bとし、過去にAという事象があれば Bという現在があると、確かなBを頼り にして不確かなAを主張する。これは、怪しい論理である。さらに、(A⇒B)を "A だから B" という言い方をするのは、論理的な誤りである。

(A⇒B)は、Aの正しさを主張しない。それはAを前堤とすれば、Bになるというだけの意味であり、前堤のAが真のとき、A⇒Bは、Bの真偽と同値になる、 これが通常の正しい使われ方であろう。しかし、Aが偽であり前堤が崩れるとき、(0⇒B)は Bの真偽に関わらず、恒等的に真で無意味になる。

そして、結論Bのほうが真のとき、"Aならば1"(A⇒1)も、無意味な真の恒等式である。Aの代わりに別の A'でも、つまり、Aでなくても言明は正しい。 主張の真意が過去のAである、"AだからBである"という論理は、Bが真のときBの援用はできていない。その裏の論理、現在Bのとき、"Aでなければ Bでない"(~A⇒~B)は、現実のBが真なら、(~A⇒0)は、過去の事象Aの主張であり、無意味ではないが Bの援用は意味をなさない。

Bが偽のとき、"Aならば0"(A⇒0)は、Aの否定に使われ、Aが偽でない限り偽である、Aは偽である(~A)を意味する。"A だから B である"という 言い方は、Aの真偽をBの真偽に同値とする(A⇔B)意味だろう。不確かなAの真偽を身近なBの確かさにすり変える、これは論理でなく強調である。 "これが正しかったら、私は坊主になる。"(ある学者の常温核融合に対する否定), "これなら、太陽は西から昇る" という言い方は前句の強調 否定である。根拠の連鎖は切れ主張だけが残る不快な表現である。"日は西より出ずるとも"、"たとえこの世が崩れ去ろうと"という言い方は、 さらにその先に行く論理だが、不快さは消え、Bの非現実性の真偽に関わらずA ((0⇒A)&(1⇒A))という強い主張である。

結局、A⇒B において根拠はAであるべきで、Bではない。Aの正しさを相手も認めるとき、Bの正しさが無理なく証明できるというのが"AならばB" の言明である。部分的言明はそれだけで納得できる必要がある。A⇒Bの真理値は、AとBがともに真またはともに偽、Aが偽、Bが真のときは真になる。 A⇒B は、~A | B である。つまり、"Aでないか、Bである" を意味する。この論理の解説を聞いて、驚く方が多いと思う。

+-----+------+
| A B | A⇒B |
+-----+------+
| 0 0 |  1   |
| 0 1 |  1   |
| 1 0 |  0   |
| 1 1 |  1   |
+-----+------+

論理は、真実を明示し、論敵を説得し、賢者をも欺く修辞(言葉の作法)の道具でもある。気を付けるべきは、冒頭の"AならばB"(A⇒B)の論理の変形、 "Aならば~Aである" は~Aだけで成立する。"A⇒~A ∴~Aである"は常に真であるが何も生み出さない。それに対して、"A⇒~A ∴Aである" は、常に 偽であるが、これは多くの例を生む。"Aは~Aを呼び出しそれゆえにAという資格がある"、"見るもの(主体)は見ることができない、それゆえに見る ものである"(これは、中村元による古代インド哲学の解説。これは眼耳鼻舌身意(六識)に置換される。我々が意識をどう把握すべきか、それらは 受容体と運動器管の複雑な連携でしかない。どこに主体が、どこに世界が存在するのか。)、"概念は、必ず反対概念を生み出し、それゆえにこそ 概念なのだ"(正反合の弁証法、時間とともに自ら開示する、概念の自己展開である。)、"反論可能な命題だけが正しい命題である"、"それが正しい 可能性があるためには、科学的に反論可能な論述かどうかをみよ"、"反論できない弁論は、詭弁か詐術と思ってよい"(これらは、科学的思考の 基本精神として、誰から教わったか分からない普遍的な指針である。)、"反論できない相手に向かってする批判は、行うことが間違いである"、 "反論できない相手を責めてはいけない。病人、貧者、弱者に、なぜかと問うてはならない。先ず救う以外の正しい方法はない" (倫理の原理と 行動への指令は、眼前の問題の解決を勧める。医師、学者、技術者倫理である。) という、さまざまな言い方を生み出す。すべて行為のための 論理である。"幸いなるかな、心貧しきもの、天国は汝のためなればなり"、"右の頬を打たれれば、左の頬を出しなさい"、"困窮し苦しむ隣人を 救え"、貧者、愚者、弱者への絶対的な肯定と否定が同居している。貧者は必ず富者となる。それゆえにこそ貧者である。冬は必ず春となる。 未だ聞かず、冬の秋と変われることを。この矛盾の論理は、一瞬、理解に苦しみ、その意味が後で分かって、深い感動を与える。そして、 絶対に反論できないのである。


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"AならばBである"(A⇒B)、これを逆向きの論拠に使うとき、議論は意味と乖離する。全ての言明と同じく、"AならばB"という言明は、 それ自身が正しさを証明するわけではない。これは言明であり主張であり真偽をもつ。他の言明である前句Aの真偽と、結句Bの真偽とは、 A⇒B の真偽を決定し、それらによって言明が意味を失うこともある。論理の全体として、言明は別の言明に結合し正常に部分性、連関性を 保つべきで、単独の声明の真偽は余り意味をもたない。連関のない、常に恒等的に正しい言明は、意味を失っている。

原因Aと結果Bという関係を認め、結果Bという証拠の存在で、原因Aを推定することがある。しかしそれは、因果関係を前堤とした、A⇒Bの不確かさ をそのまま含んでいる。A⇒Bが真で、Bが真でもAとはいえない。A以外でBになることがないだろうかと考えるべきである。Bという現実がAの証拠なら、 論理的にはA⇒BではなくB⇒Aとすべきだが、B⇒Aは、現在のBが過去のAの原因を意味する「因果性の逆転」であり、原因から結果への流れが時間を遡る。 これは、物理的過程としての原因結果ではなく、単なる事象と事象との間の統計的な相関であり、基本的にそれだけでは説明にはなり得ない。科学的 には常に偽であり言明すべきでない。

原因結果の関係は、物質の移動が光速未満に制限され、エネルギーと情報の伝達が光速以下に制限される。光速を超える物質エネルギー情報の伝達は、 別の慣性系から見れば、時間を遡るように見えることができるから、原因結果の関係にはなり得ない。我々が原因結果を間違うことはよくある。例えば、 人は病院でよく死亡するからと病院を人の死の原因とはしない。普通、病院は結果であり原因ではない。まれに医療ミスが原因の場合があり、それを 患者の側が証明する方法が殆どないのは、別の医療問題であろう。医師を批判するのは医師になってからすべきと医師がいうのは医師の傲慢さである。 専門家に許される医療行為は、この社会が仮に許しているだけである。時間経過に伴う事象間の原因Aと結果Bに現在のA⇒過去のBをいうことは、 過去のA⇒現在のBをいうのとは違う意味で真実性を欠く。ゆえにそれらは、共に避けるべき論理である。

論理素子として、(A⇒B)は(~A|B)であり、Bに0を入れれば~AになりNOT素子になり、それをAとの間に入れて(A|B)ができる。NANDやNORと同じく、 単一素子を組み合わせて任意の組み合わせ論理を組むことができ、EXOR(不一致)やEXNOR(一致)にはない論理素子として必要な "完全性" を持つ。 これを基本論理として使ってきた歴史をみればその重要性は明らかであるが、とくに我々の人間の自然言語の理解において重要であろう。A⇒B かつ B⇒C なら、A⇒C は推移則(3段論法)は、論理和と論理積の分配則を使い (~A + B)(~B + C) = (~A + B)~B + C = ~A~B + C = (~(A+B) + C) ⇔ ((A+B)⇒C)。∴ A⇒C。


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述語論理の A⇒B は、論理関数(~A| B)である。A⇒Bは、AからBへの原因と結果の関係を意味するかに思えるが、それを決して意味しないのではないか。 全ての科学は因果関係の解明であり、それを求めないのは何か適切でない、非科学的といえなくとも、明解な答えのない複数の答えを許すものである。 科学は本当にそうかと問い質しできるもので、そうでない科学もどきは許されない。科学は少なくとも人間の行動から離れずに確かなことはない。 確かなこととは、ある原因があれば、その結果が100% 導かれることである。科学、数学そして人の行動原理は、純粋に人間から独立した原因-結果の 対を求めるのである。A⇒Bは、Aという客観的な原因があるとき、Bという客観的な結果が得られることで、それ以外の理解はあり得ない。 さて、因果関係は、基本的な述語論理A⇒Bといえるのだろうか。

A⇒Bが、(~A|B) なのは、それが単にAでないだけで真となり、Bであるだけで真となるからである。 科学の求める原因結果は、原因が偽のとき恒等的 に真で、結果がすでに成立しているときも恒等的に真である。しかし、"Aならば" という条件付きの断定は、Aという原因が成立している場面には、 Bという結果を得ることを意味するが、条件が満たされないAでないときは、何も言わないのではないか? 確定値を持たないのではないか?

いやそうではない。なぜならまず、これは確定値を持たない論理ではない。常に確定値を与える。A⇒Bは、Aでないときは、BでもBでなくてもOK(真、1) なのであり 問題にしないのである。ベン図のAの領域が小さく0になると常にA⇒Bになり、Bの領域が大きくなり1になると、常にA⇒Bになる。 太陽が西から昇る(決して起こり得ないことが起きる)ならBは起きる。この言明(0⇒B) は常に真で、Bの否定(起こり得ない)(~B)という意図に反し 論理はBに影響を与えない。"Aが起きるなら、太陽が西から昇る"(A⇒0)はそれに似るが、Aよりも真なるべきBが偽だからAは偽(~A)であるという 論理記述であり、意味に合致する。

主語xに付ける修飾。"全ての"∀はAllから来る。∀x:p(x)は、全てのxについてp(x)である。"ある"∃は、存在Existenceから来る。∃x:p(x)は、p(x) である主語xが存在することをいう。部分的な意味で、或るxがp(x)である。前堤の主語の全修飾、結論の主語の存在修飾は省略される。一般に論理は 確率を言わない。それに対して確率は、事象と論理の確かさ、不確かさを言う数値的表現である。"AならばB"(A⇒B) は、"100%例外なく"、"全ての" という修飾が付いている。∀x: a(x) ⇒ b(x) それゆえ、"AであってBでない"、反例(A^~B)をひとつ見付ければ否定できる。つまり、A⇒Bは、反例 の非存在 ~(A ^ ~B)、~∃x: a(x) ^ ~b(x)と同義である。∴ (A⇒B) ⇔ (~A|B)である。

"逆もまた真": A⇒Bかつ、その逆(B⇒A)も成り立つなら、 AとBが "同値" A⇔Bである。
"裏もまた真": A⇒Bかつ、その裏(~A⇒~B)も成り立つなら、AとBは 同値 A⇔Bである。
科学が探求する原因A結果Bに相当する論理がA⇒BでなくA⇔Bと考えると、原因から結果への流れの方向がなくなってしまう。これはまずい。 Aが偽のとき、A⇒Bを偽ではないかと考えると、真理値表を作ればすぐ分かるが、A & Bになる。これも流れがなくなるので、適切でない。


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(**)条件確率、例えばAという条件のときのBの確率を、Pr(B|A)と書く。この "|" は論理和の意味ではなく、|の後ろのAを条件とするBの確率をいう。 ここで、患者をA、陽性をBとし、患者Aなら陽性Bという確率 Pr(B|A)が 1.0、"AならばB"(A⇒B)が成立するときの、逆方向の "BならばA" の確率の 例を挙げる。確率と条件確率を使って、逆方向の条件確率(事後確率)を求める。P(B|A)= 1、P(B|~A)= 0.002、P(A)= 0.001 のとき、明示されなかった 陽性者の確率 P(B)= P(B|A)*P(A) + P(B|~A)*P(~A) は計算する必要があり P(B)= 1*0.001 + 0.002*0.999 =約 0.003 から、陽性者Bの患者の確率Aは、 事後確率 P(A|B)= P(B|A)*P(A)/P(B)= 1 * 0.001/0.003 = 0.333 である。

感染者Aは全員、陽性Bになる Pr(B|A)= 1.0 ような完全な検査においても、陽性Bが感染者Aか Pr(A|B) は、感染者の確率P(A)が低ければ低い。 この問題では P(A) は与えられ、不明な P(B) は計算で求めたが、現在Bであるこの世界で Bの確率 P(B) を知るのは難しい。それはきっと、 かなり小さいが、A⇒Bが真のとき P(A) 以上である。現在Bが真だから P(B)= 1.0 なら、Pr(A|B)= P(A)が0なら、B⇒Aの確率は0。これを我々は なぜか、ほとんど確かな確率 0.998 と誤解する。(宇宙膨張Aなら赤方偏移B(A⇒B)が真でも、現在、Bだから、Aとはいえない。)

こうして、ベイズの事後確率は、誤りやすい逆方向の条件確率を明らかにする。現代の技術のなかで、事後確率の使用は、非常に強力な道具である (例えば"デコンボリューション")。確率を伴う事象では、論理変数は0/1の値をもつだけでなく、対応する[0..1] の範囲の確率をもつ。C=(A^B)のとき、Aの確率をa、Bの確率をbとすると、Cの確率は、c= ab。論理積の確率は各論理確率の積であり、論理和の確率は 確率和から確率積を引いたものである。C=(A|B)のとき c= (a+b-ab)。論理変数の論理式は、論理のままに用意し、各事象の確率から、組み合わせ論理を 容易に導出できる確率として表すことができる。ファジー論理は、論理判断よりも誤りに強い頑丈な(ロバストな)結果を得るとして、1987年から仙台 の地下鉄で実用されている。

よく議論の多いテーマにおいて、格好を整えた論文が、自らの主張の客観性を装うために、他者の意見では標準偏差の3倍、3σ離れるという言い方は 私は最初から疑う。すでに多くの推論を経た複雑なテーマで他の意見に自分勝手な多くの仮定を設け確率計算の数値を導入していう。考えは文で叙述 すべきで、推論や考察において、我々はさほど確かであり得ないが、計算はさらに確かでない。知りえない命題には何も言わないのが正しい。

述語論理は集合とは違い異なる公理に基づき演算も異なる、分野を混同した議論か、という疑問があるだろう。とくにこれは、原因結果との関係から 科学全般に重要である。ここで問題にした科学の論理は、論文がその分野の命題に対して持つ意味、証明、例示、又は反例提示であることなどの論理 を読み解き、考えるときに関係するかもしれない。(注釈 2015/7/29)


A⇒Bに伴う用語補足。"AならばBである" A⇒Bのとき、AはBを満たす1例であり、AをBにとっての「十分条件」といい、逆にBをAにとっての「必要条件」 という。これは、A⇒Bの対偶である、"Bでなければ、Aでない" (~B⇒~A) と読みかえれば理解しやすい。BはAを成立させるために必要な条件である。 「背理法(帰謬法)」はこれを使う。AならBを招き、そのBはあり得ないとしてAを否定する。A⇒B、かつ、Bでない、ゆえにAでない、というのである。 これは正しい論理だが、背理が使われているとき、なぜ背理か考えるべきで、直接にはAが否定しにくい、偽と見えない、そして、具体的な反例を 挙げられないのである。Aは真又は偽である。ある条件でAの実例があれば~Aは偽である。ある条件でAの反例があればAは偽である。

関係する分野と問題によるが、常識的に知るべき論理方法として、次のようなものがある。「イプシロンデルタ(ε-δ)法」どのような小さなεの値 にも対応する0でないδがあり、それによって等式を意図する不等式を証明する。任意の小さなεを設定しても、それより小さなδの値を導く式が組 めるなら直接に0を言えない問題に対応できる。十分なバッファをもち、どこからどれだけ一致し最初の不一致文字はこれ、という符号化が、エント ロピーに無限に近付ける証明にこの論理が使われた。カントールの「対角線論法」自然数を含む命題は、自然数iと自然数jを2次元に並べ、対角線位置 i==j にある命題を指摘することがある。自然数には無限が表われ、そのなかの実例間の対応関係を指摘して無限どうしの数の大小を判別する。奇数 と偶数の数は等しく有理数全体の数も等しい。無理数の全体の数は...。線分のなかの点の数と面のなかの点の数は等しい。「チェビシェフの不等式」 「ラグランジュの未定係数法」これらは、容易にいえないことをある限定された制限のもとで厳密にいう。容易に否定できないことを明白にする 論理は、論理を追えない者を屈伏させる高度な目的の信用できない修辞である。有名な論理に値するかを疑うべきかもしれない。(2015/8/9)