後編

 翌日の早い時間、僕と叔父さんは道着、袴に着替えて、タクシーで綾崎邸に向っていた。
 その道中、叔父さんは最後の言葉をかけてくれた。
「いいか、最後に物を言うのは気合だ!きばって行けよ」
 どう解釈すれば良いのか困る言葉を最後に、叔父さんは腕を組んで沈黙を保ったままだ。
 いつしかタクシーは大きな門のある邸宅の前で止まった。
 いよいよ綾崎邸についたのだ。

「よしっ!」
 叔父さんから借りた竹刀を握り締めると、僕はその門をたたいた。
 しばらくすると、中居さんが大きな門の横にある通用門から顔をのぞかせた。
 もう事情は伝わっているらしく、僕と叔父さんを従えて道場の方へ向っている。
 先日の料亭「志もだ」にも負けるとも劣らない日本庭園を抜けると、道場があった。そこは
僕が高校の時に訪れた時、若菜が弓道の練習場としてたところだ。

 道場の扉を開けると、そこには心配げな顔をした若菜がいた。今日は道着、袴を着ている。
「どうぞ・・・・中へ。お爺様がお待ちです」
 僕となぜか目を合わせようとしないのは気のせいだろうか?しかし、若菜の瞳を見ると
今にも潤み出しそうだった。
 それを思うと僕は心のそこが熱くなってくるのを感じた。
 道場の中に入ると、同じく道着、袴姿の綾崎老が中央で仁王立ちとなり竹刀を立てて待ち構えていた。

「逃げ出さずに着たことは誉めてやろう。手加減はせんぞ・・・・」
 静かな宣言の声。
 若菜は何かに耐えるような表情で道場の隅に正座している。その瞳はおちつかなげに
僕のほうを見ていた。
 そして叔父さんはいつのまにか、道場の真ん中に立っていた。
「両者、前へ」
 僕と綾崎老はお互い一礼すると、中央に引かれた線のところまで歩み寄り、蹲踞の
姿勢をとった。そして立ちあがる。

「始めっ!」
 その言葉で道場の中が凍りつく。防具など一切つけない真剣勝負だ。
 僕は竹刀を青眼に構え、綾崎老の隙をうかがう。
 しかし、僕の目にはただ悠然と構えているようにしか見えない。
『どうする・・・・?』
 額に汗が流れ落ちる。呼吸が段々と早くなって行く。落ちつこうとすればするほど
心臓は暴れ出す。
 その隙を見たのか、綾崎老は一歩踏み出し、裂帛の気合を込めて僕の能天のに竹刀を
振り下ろす。
「面っ!!」
 防ぐ暇も、よける暇もなく僕はその面を受けてしまう。頭の回りに星が飛び、意識が薄れ
掛ける。

「面あり!一本」
 叔父さんは非情の判定を下す。
 僕は思わず膝をついてしまう。一撃で相手の戦意を奪うほどの強烈な面だった。
「こんなもんか?このようなものでか・・・・・」
 僕を見て吐き捨てるように言う。
 唇をかみ締め、気合を入れなおす。今度こそ!
「ま、まだまだ!」
 薄れ掛ける意識を強引に覚まし、竹刀を杖代わりにして立ちあがり、再び竹刀を青眼に
構える。

「ふ・・・・」
 綾崎老はなにも言わず、先ほどと同じような構えを見せる。
 僕は呼吸を正し、綾崎老の目を見つめる。そこにはなにも映っていないような、深く
静かな湖のような静寂がある。
『ダメでもともと!やるしかないっ!』
 僕は一歩踏み出し、綾崎老の篭手を狙う!
 しかし、半瞬早く綾崎老の竹刀は動き僕の篭手をとり、再び面を打つ!
 あまりの激痛に竹刀を取り落とし、後ろに吹っ飛ぶ。

「篭手、面あり、一本!」
 叔父さんの判定が遠くで聞こえる。
「っく、はぁっ・・・・・」
 意識が遠くに感じられた。上向けに倒された為、見上げる白木の天井が歪んで見える。
 頭の中が混乱し、自分がどのような格好でいるかも分からなくなっている。
『ナニヲシテイタンダッケ・・・・?』
 意識が混濁する。

「ジッとしておれ、勝負はまだまだじゃ!」
 それは僕ではない誰かへの言葉。
「・・・・・?」
 わずかに動く首をめぐらす。
 少し離れたそこには立ち膝となった若菜がいた。唇をかみ締め、悲しげな目でこっちを
見ている。
『そうだ・・・・若菜を・・・・』
 大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出す。

 頭の混乱は落ち着きを取り戻してきている。ゆっくり上体を上げ、竹刀を探す。
 そう遠くないところに竹刀はあった。
 それを見つけると、重い腰を上げてゆっくりと歩いていく。その間も呼吸を整える。
 竹刀を拾い上げ、綾崎老に正対し再び青眼に構える。

「・・・・ほう、ワシの面を2回もくらいながら立てるとは」
 少しばかりの驚きの響きをその声に聞いたような気がした。しかし今の僕にしては
なんの意味もない言葉に聞こえた。
 だが、ここで僕は気がつくべきであったのだ。綾崎老が本気になってしまった事を。
 最初、綾崎老は僕の力、というよりも根性が大した物ではないと思っていたらしい。
それゆえ実力の半分くらいの力でねじ伏せてやろうと思っていたのだ しかし実力の
半分と言っても、並み大抵の相手を失神させる事くらい朝飯前の腕である。にもかか
わらず、この若造は再び立ちあがり自分に向ってきているのだ。ふつふつと体の芯が
熱くなってくる事を綾崎老は感じた。

 僕はまだ朦朧としている頭を落ち着かせる為に、深く浅く呼吸を整える。
『次はない・・・・落ちつけ、落ちつくんだ・・・・』
 心臓の鼓動が段々と静まって行く事が分かる。
 再び綾崎老と目を合わせる。
 そこには熱く、猛り狂う炎を見た気がした。しかもその炎は白く燃え盛る炎だ。
 それに飲まれまいとして、気を入れなおす。臍の少し下、丹田に熱いものができる。
それは時間がたつにつれ、練り上げられ高まって行く。

『来るっ!』
 綾崎老の振り上げた竹刀が再び僕の能天を捉えようと迫り来る。
 それをわずかに竹刀を横に振って払いのけ、一歩踏み出して渾身の力をこめて綾
崎老の面を狙う。
「面っ!!」
 しかし、竹刀は空を切る!
 綾崎老は身を半身ひねった形で、僕の横を通りすぎて行く。
 それを認めた瞬間、僕も足はさばいて相対するように構える。

 これで最初に立っていた位置から逆になったわけだ。いままで綾崎老の後ろに若菜を
見ていたから、ちょうど僕の後ろに彼女がいることになる。
『くっ・・・・そう簡単には打たせてもらえないか!』
 しかし、僕には綾崎老の竹刀が見え、反撃さえしてみせたのだ。
 その欠片のような事であっても、今の僕には大きな自信につながった。
 一歩すり足で近づき綾崎老は竹刀の先を挑発するように払ってくる。払われたらすぐに
僕は体制を立て直す。

 流石、こっちから一歩踏み出そうとする事は出来なかった。何度も挑発的に竹刀を小
突かれ、一歩ごと後ろへとさがって行く。
『負ける、もんか!』
 今度は打てるという保証はないが、見切る事は出来たのだ、今度こそ!
 その心の隙が、僕の判断を誤らせた。
 次の瞬間、綾崎老は信じられないスピードで迫ってきたのだ。
 思わず後ずさりし、竹刀を横にして防御しようとした。
 が、半瞬。

 そうたった半瞬、綾崎老の竹刀は僕の能天を捉えていたのであった。
 竹刀を放り出し、後ろに吹っ飛ぶ。
 あまりに攻められたせいか、近くには道場の壁があったのだ。
 身体を壁に強く打ち付け、力なくそのままずるずると壁を這ってしゃがみこんでしまう。
 その途中、額に生暖かい感触がした。触らずともそれが頭からの出血だと言う事が
漠然とだが分かった。
「もうやめて下さい!!」

 若菜がたまらず叫んで走りより、僕を抱きかかえる。
 血で道着が汚れるのも構わずに若菜は僕を胸に抱く。
 やわらかな感触が僕を包む。それは遠き記憶の底にあるものと同じ、暖かく気持ちの
休まる感触。
 このまま若菜の胸に顔をうずめてしまいたかったが、ここで休んでいる暇はない。
抱きかかえる彼女の腕を力なく僕は払った。

「ま、まだまだ・・・・」
 よろよろと立ちあがる僕を見て、綾崎老は驚いた顔をしている。
 渾身の、しかも本気の面をくらいながらこの若造は立ちあがるか!!
「僕は・・・・若菜を・・・・」
 そこまで言って、僕の意識は遠く霞んでいった―――――


 どこか温かく心地よい感触の中、僕は宙に浮いている。それは記憶ではもはや無く
なった、母親の胎内にいる感触なのだろうか。
 しかし、宙に浮いていても上下左右といった感覚だけははっきり感じてれた。
 ゆらりゆらりと揺れながら僕の体は上に浮き上がっている。
 目の前はただ優しい青い光があるだけで形なすものはなにも映っては来ない『水の
中なのか・・・・?』
 青い光から連想されたものは「水」だった。

 しかし、浮き上がるに連れて青色は薄くなっていき、最後には白い光だけとなった。
 そこで僕は目を覚ました。
「・・・・・・?」
 額に冷たい感触、そして優しく頬を撫でる感触。頬を撫でられる度に僕は猫のように
目を細めてしまう。
 優しい手―――――
 遠い昔、風邪を引いて寝込んでしまった時に母親がしてくれた感触に似ていた。だけ
ど今の手はそれよりも優しく、慈しんでくれている気がする。
「目覚めましたか?」

 若菜の声。僕の顔を上からのぞき込んでいる。
 艶やかな髪を僕にかけないようにと手で梳いて止めている。
「あ、ああ、若菜・・・・ここは?」
「ご心配なく、ここは私の家の客間です」
「そう・・・・なぜ?僕はここに?」
 僕はてっきり道場からつまみ出されたものとばかり思っていた。なにせ綾崎老との
一騎討ちの果て、僕は一本も取れなかったのだから・・・・

 そうなってもおかしくないのに客間で僕は寝かされている。
「あの後・・・・貴方が気を失った後ですけど、お爺様がここまで運んでくださったのです。
手当ては私がしましたけど・・・・何処か痛みます?」
 そう言われて、僕は頭に手をやる。するとそこには丁寧に包帯が巻かれていた。
「いや、痛い所はないよ・・・・でもなぜ?」
「なぜって?どうかしましたか?」
「・・・・僕は君のお祖父さんと対決して・・・・負けて・・・・」
 声が段々と小さくなって、唇をかみ締めてしまう。

 今になって自分の不甲斐なさ、身のほどを知った気がする。
「そのことですけど・・・・」
 いよいよその時がきたかと覚悟する。
「そのことですけど、お爺様はただ『許す』と・・・・」
「え?」
「全てを許すとおっしゃってくださったのです」
「そ、それじゃあ・・・・」
「ええ!」
「若菜・・・・」

 思わず熱いものがこみ上げてくる。それは若菜も同じようだ。瞳には涙をが浮かんでいる。
 僕はそっと瞳からこぼれた雫を指でふいてやった。
「痛っ」
 篭手を打たれた所が痛んだのだ、そこを見ると青黒く張れあがっている。だが骨は折れ
ていないようだ。
 若菜はその手を慈しむように両手で包むと、胸に抱いた。
「あなたは・・・・ここまで私の事を・・・・・」
「ああ、若菜・・・・愛してるよ・・・・」

 若菜の手をそのままのせ、彼女のやわらかな頬に手を添える。
 手のひらに彼女の頬のぬくもりが伝わる。それは雛鳥を抱いているようなもろくも優しい
ぬくもりだった。
 そのまま少し僕のほうに手繰り寄せる。もう間近に彼女の顔がある。
「私も・・・・」
 そう言って若菜はそっと目をつぶり、僕の唇に唇を重ねた。
 目を開けると可憐な唇は名残惜しそうに離れ、若菜は恥ずかしそうにうつむいている。
 僕の手は頬から離れ、若菜の手にしっかりと握られている。

 と、そこへふすまを開けて綾崎老が入って来た。
 思わず手を布団の中へ引っ込ませてしまう僕。そして、何事もなかったように正座して
いる足に手をつく若菜。
「どうじゃ、調子は?」
 僕は痛む上体を起こす。それを若菜は僕の背に手を当てて手伝ってくれた。
「は、はい。どうにか・・・・」
「うむ、そうか・・・・」
 綾崎老の目には剣道の時に見せた峻烈な険しさはない。むしろ友好的な目である。
はじめてあった時とはかなり違う印象を持たれたようだ。

「貴様のように気骨あふれる若造がまだいたのだな・・・・若菜をよろしく頼みますぞ」
 それだけ言って綾崎老は部屋を出ていった。
『若菜をよろしく?』
 僕は疑問だった。剣道の勝負で負けたのになぜ?
「あの・・・・」
「なに?」
 若菜は先ほどと同じようにちょっとうつむいて話し始める。頬が少し赤くなっているのは
気のせいだろうか?

「・・・・私と貴方の交際をお爺様は正式に認めていただけたのですが・・・・」
「・・・・」
 それは喜ばしい事なのだが、なぜだろう?若菜はまだ大事な事を言い出せないでいる
ようだ。
「どうしたの?」
「ええ、その・・・・貴方を私の許婚にと・・・・」
「へ?!」
「お爺様は貴方のいつまでも立ちあがろうとする姿勢に惚れたとおっしゃっていました・・・・
許婚、私ではご不満ですか?」

 少し悲しげな顔をする若菜。この後に及んで否やは僕には当然あるはずもない。
「そ、そんなこと!」
 慌てて否定する僕。
「こちらこそよろしく、若菜」
 上体をひねって僕は華奢な若菜の身体を抱く。
「はい・・・・」
 僕の耳元で、吐息とともにささやくように言ってくれた。
 僕は嬉しくなってさらに若菜を抱く手に力をこめる。
 それに答えるように若菜もキュッと抱きしめ返す。
 しかし、次の瞬間。若菜は僕から離れ様とつき返そうとする。

「あ、あの、ちょっと・・・・!」
 若菜は僕が見ている間に顔を真っ赤にして、うつむいてしまった?
 なぜだろうと思って後ろを振り返って見ると、いつの間に現れたのか、僕の叔父さんが
ニヤニヤ笑いを浮かべて見ていたのである。
「で、話がまとまったところで、いいかな?」
「お、叔父さん!」
 まったくこの人にも困ったもんである。いったいつからここにいたんだろう?

「なんだよ、歌でも歌えってのかい?」
「いや、そうじゃなくて!・・・・もう、一体なんですか?」
「ま、彼女を取り戻せてよかったってことだけさ」
「あ、ありがとう。叔父さんの教え方がよかったのかな・・・・」
「世辞を言ってもなにもでんぞ、ま、めでたしめでたしだな!」
 この叔父さんには一生頭があがらないような気がする。でも不思議なのは綾崎老との
関係である。あの料亭以来不思議だったのだが・・・・・

「ああ、アイツとは幼等学校からの剣道仲間でなぁ。この間の試合も決勝で争った仲だよ」
 なるほど、これで綾崎老との関係がわかった。そうだよな叔父さんも伊達に剣道をして
いる人ではないのだから。お互いを知っていても不思議ではない。
「ま、二人とも仲良くな!」 
 そういってふすまを閉めて何処かへ行ってしまった。

 まったく人騒がせな叔父さんだ、だけど今回の事は叔父さんがいなければ何も出来ない
でいただろう。そのことの関しては大感謝だ。
「・・・・」
 若菜を見ると目が合った。
 そしてどちらからともなく笑みがこぼれた。
「うふふふふ」
「あはははは」
 久しぶりに心から笑えた。今までの苦労も、何もかもが吹き飛んでしまったかのように。
 笑うと痛む傷があったが、それも今となっては勲章だ。痛みをこらえて笑った。若菜も
心から嬉しそうに笑っていた。

 笑いが一段楽すると、どちらかともなく二人は寄り添い、再び僕達は唇を重ねたのであった。

―了―