「桜、舞う頃」
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桜舞う4月午後10時。
夜の帳はいよいよ濃くなり、その心地よい暖かさで眠りに落ちる者、桜を愛でるよりも酒を
愛でる者もいるような時間。
僕は自宅の電話の前で焦りにも似た感情に包まれていた。
受話器の向こうから聞こえる呼び出し音はすでに10回を越えていた。
いつもならすぐにつながる電話であるのに今日に限って違うようだ。
20回目を心の中で数えた時、僕は受話器を置こうとした。が、その瞬間、呼び出し音の無
機質な音とは違う「声」が聞こえた。
僕は置きかけた受話器を急いで耳にあてる。
「もしもし?!若菜?」
若菜しか出るはずのないプライベートナンバーだとしても思わず聞いてしま
う。
「はい、あなたですね?もうそろそろかと思ってました・・・・・」
いつもよりちょっと落ちこんでるような声だ。どうしたのだろう?
「そう、よかった!」
僕は気持ち少しばかり明るい声で言った。若菜の声の沈みが僕にそうさせたのかもしれ
ない。
そして、他愛のない会話。お互いが離れている為に自分の身の回りで起きた事に終始
する。
話しが一段落すると、しばらく沈黙がお互いをつないだ。
その沈黙の中、若菜の聞き逃してしまいそうな小さいため息を聞いた。
「・・・・?、若菜?」
受話器を持つ手に力をこめてしまう。何か悩みでもあるのだろうか・・・?
「はいっ?!何か・・・・」
はじかれた様に返事をする若菜。いつもの明るい若菜の感じがしないのは、電話を通し
ているからと言う事ではないようだ。
「どうしたの?なにか悩みでも・・・・」
「いえ、別に・・・・」
そしてまた沈黙が訪れる。
僕はもう一歩踏み出して聞いてみるべきなんだろうか?
「ごめんなさい・・・・今日はちょっと体調が優れないのでこのへんで・・・・」
「ああ、分かった。またね、おやすみ」
「おやすみなさい」
これで僕と若菜をつないでいた細い一本の線は立ち切られてしまった。
僕はしばらく受話器を持ったままだった。若菜になにかあったのだろうか?
いつもの声とは違う事なんてすぐにわかった。
受話器からはツーツーという機械音。
それがやけにハッキリ聞こえる気がした。そして僕は受話器を電話に戻した。
高校3年の春休みの初日、僕は1通の手紙を受け取った。
丁寧な女性の筆跡でただ一言、「逢いたい」と。
その手紙の主を探して、僕は高校生活の大半を旅をして過ごした。
そしてようやく、それが若菜からの手紙だと言う事が判明したのは極最近の事だった。
僕は旅を通じて若菜との絆を深くして行った。
だが、そこには大きな一つの障害があった。
それは若菜のお祖父さん、綾崎老のことである。
高校を卒業する時、彼女は綾崎老に僕と付き合っていると言う事を告白した。しかし、
それは大きな裏目に出てしまった。
綾崎老は激怒し、僕との交際を絶つように命じたのであった。
それに若菜は強く反対したが、綾崎老は聞く耳を持たなかった。
それでも僕達は密かに連絡を取ったり、わずかな時間の逢瀬を重ねた。
しかし、その時間もわずかなものとなっていった。
それは若菜が「綾崎家」の教育や付き合いが多くなったからだ。高校を卒業を待って
いたように夕食会や歌舞伎や能の鑑賞などがそうだ。
そんな隙間、ほんのわずかな時間を僕と若菜は大事にした。
お互いがお互いしか必要としないほどに僕達はなっていた。
そんな二人の自由な空間は、電話という限られた空間でしかなかった。そのため、
どんな場所でも若菜に連絡をとれるように携帯電話を大学生になってからすぐに買った。
その事を話したら、若菜も携帯を買ったらしい。しかし、その携帯を鳴らす事は少なかった。
出掛ける事の多い彼女の事、もし万が一を考えて僕は携帯に電話したことは数回しか
ない。
それに携帯よりも彼女のプライベートナンバーにかける方が多かったからだ。
そう、僕と若菜には綾崎老というおおきな障害を持っていたのであった。
しばらくなにとはなしに電話を見つめていたその時、下の階から両親が僕を呼んでいる。
ノロノロと腰を上げ、僕は階下に向った。
居間に行くと、両親は僕に今週末を空けておけといわれた。なんでも京都で僕の叔父さん
に当る人が何かの賞をとったので祝いがあるというのだ。
祝いの席と言う事で、京都でも有名な料亭で行うらしい。
それに僕の一家も呼ばれたと言う事だった。
それを聞いても、僕の心は京都に行けるのかと言う事だけで別段嬉しくもなかった。
数日後―――――――
夜十時。
いつもの電話の時間だ。
僕は受話器を取り上げ、若菜のプライベートナンバーをプッシュする。
数回のコール音。
「はい、綾崎です」
今回はすぐにつながった。それにホッとする僕。
「ああ、若菜?」
「はい・・・・」
聞こえた声は前にも増して沈んだ声だ。この間の事といいどうしたというのだろう?
「若菜・・・・疲れてる?」
「い、いえ、そんなことは・・・・・」
慌てて打ち消そうとするが、いつもの声の艶がない。
「嘘だ、若菜、何か悩みがあるなら打ち明けてよ、僕で良かったらだけど・・・・」
「・・・・」
数瞬の沈黙。
それは若菜が何をどう言い出そうか迷っている事の証であり、またそれは僕の心の
準備の時間でもあった。
「・・・・あの、私・・・・」
「うん?」
「その、あなたにしか聞けないことです・・・・」
「僕にしか・・・・?なに、言ってみてよ」
「私・・・・今度、お見合いをする事になったんです・・・・」
「お見合い!?」
思わず声が上ずってしまった。これは思いもよらない言葉だった。
しかし、綾崎家の一人娘の若菜の事、高校を卒業してからそのような申し込みは多い
ことであろう。
なにせ京都でも随一の名家、綾崎家であるから・・・・
「き、急だね。お見合いって・・・・」
「ええ、お爺様のお付き合いなされている方のご子息となのですが・・・・」
「・・・・そう、お見合いをするんだ・・・・」
「ええ、あなたはどう思いますか?」
「え、どう思うかって・・・・・」
言葉に詰まってしまう。いくらお祖父さんの言いつけとはいえ、お見合いをするのは
僕にとっては穏やかでない。
彼女にとっても僕という存在が幾ばくかでもあるはずだ。しかしいまでも絶対の権勢を
もつ綾崎老の言い出した事であっては若菜であっても断ることは出来ないだろう。
「・・・・若菜、自分自身はどうなの?」
「え・・・・私自身ですか・・・・?」
「そう、君自身の気持ちが一番だと、素直になるのが一番だと思うよ」
「私自身の気持ち・・・・素直になる・・・・」
つぶやいたまま沈黙が降りる。
電話の向こうでどのような葛藤が若菜を襲っているのだろう。
しばらく経って聞こえてきた若菜の声は、わずかな湿りを帯びていた。
「どうして・・・・?」
「え?」
「どうして貴方は・・・・もっとしっかりした事を言って頂けないのですか・・・・?」
「ど、どうしてって・・・・!」
「もっと・・・・どうして?私の事を・・・・・!」
嗚咽と叫び声が僕に届いた最後の言葉だった。
受話器からは相手が電話を切った事を知らせる無機質な音。その音を消そうとするか
のように僕は受話器を握り締めた、壊してしまうくらいに。
『どうして?』
彼女が叫んだ言葉だ。
僕に、一体僕にどうして欲しかったんだ!
僕に、この何もない僕になにを言って欲しかったんだ!
そう、考えて見れば若菜と僕は釣り合いのとれていない人間かもしれない。
僕は大学に入り立てのなにも出来ない若造、そして若菜は京都でも有数の名家の
一人娘。
そう、高嶺の花なのだ。
その花を僕が手折ってしまって良い道理がない!
・・・・でも、心の深い所でそれは、僕は否定していた。
彼女を想う気持ちは誰にも負けない、負けるはずがないのだ。
そう、一番の原因は彼女にはない。
それは綾崎老に認めてもらえてない僕自身に腹が立ったのだ。
しかし、どうすれば認めてもらえるほどの男となれるのか、僕には分からなかった。
週末、着慣れないスーツに身を包み、僕は憂鬱な気持ちで京都の地へと降り立った。
京都の駅からはタクシーで東山へと向う。そこで祝いの席があるというのだ。
東山の少し奥まったところに、その料亭「志もだ」はあった。
この料亭は日本庭園を全室から望める事を売りとしていた。しかも知る人ぞしる名料亭
でもあった。
そんなところへ呼ばれたのも、料亭なるものに入るのも初めてだった。
緊張して部屋に通される。
部屋の上座には叔父さんが上機嫌で座っている。
そして左右の列にお膳が並んでいる。
そこのかなり上座から離れた場所に僕達は座らされた。身内が近い場所を占拠する
のもおかしいものだから、当たり前の席順なのだろう。
そしてしばらくして席があらかた埋ると、顔を見るのも初めてな(多分)親戚が乾杯の
音頭を取って祝いが始まった。
叔父さんは剣道の有段者で、その為か京都でも各地に剣道を教えに行っている。
その功労を府の教育委員会や府議会に認められて、特別な功労賞と日本剣道会の
理事の栄誉を貰ったのだそうだ。
僕も小さい頃、この叔父さんの家に遊びに行った時、剣道の真似事のような事をやら
された記憶がある。そして、なぜか叔父さんは僕のことを気に入っている節があるようだ。
なんでも息子には剣道の「け」の字も教えられなかったからだそうだ。
僕も少しくらいなら型を知っている。だがそれも錆付いているに違いない。
いつしか場は砕けた空気になっていた。
この叔父さん、剣道に付いては一筋の隙もなく生真面目な人なのであるが、一歩剣
道を離れてしまうと、ただの気の良い叔父さんと化してしまう。
今も上座を離れて僕の目の前にビールのビンと日本酒のトックリを持ってきている。
僕まで来る前にかなり飲まされたのか、ほろ酔い気分で良い感じになっている。
「おう、久しぶりだな!」
会場全体に響き渡るほどの朗々とした声で僕に向って言う。なにやら僕に会えたことを
嬉しがっているようだ。
「ええ、お久しぶりです」
「うむ、で、どっちが良い?」
ビールと日本酒を掲げて見せて叔父さんは僕に迫ってくる。
「あの・・・・僕未成年ですけど・・・・」
「なに硬い事いっとるんだ!どっちだ!?」
この叔父さんには一生勝てない気がする。
観念した僕はグラスを手にとった。
「ほれ、男だったら一気に行って見ろ!」
注がれたビールは並々とあわ立ったいる。
それを一気に喉に流し込んだ。苦さとほんの少しの清涼感が喉を過ぎて行く。
「おーっ、良い飲みっぷりだ!もう一杯いけ!」
ドコドコと再びグラスに注がれる。当然それも一気に空けないと叔父さんは許して
くれないだろう。
「あの、僕より周るところがいっぱいあるのでは・・・・」
なんとか一気を逃れ様と話しを振って見る。だがそれは裏目に出てしまった。
「なぁ〜にをいっとるのか!ワシはお前さんに飲んでもらいたくてココにいるんじゃ!
さっ、ぐーっといけ、ぐーっと!!」
お手上げである。
僕は覚悟を決め、グラスのビールを一気に空けた。
流石に酒に慣れてないせいか、酔いが早くも回り始めた。
両親に目配せしても、苦笑するばかりで助けてはくれなかった。この叔父さんには
人を魅了してやまない魔法でも使えるのではないだろうか?
僕の両親にも手八丁口八丁でいい加減な事を言っては、僕に酒を飲ませている
三杯目に行こうとして、ビールのビンが空だと知ると、今度は日本酒を薦めて来た。
こうなると後のことを考えることなく僕はお猪口を差し出していた。
日本酒を飲まされること数杯。
叔父さんは知り合いの人に連れられて他の席に行った。
僕はホッした。これ以上薦められていたらどうなる事かと思った。
宴はたけなわ、叔父さんを中心とした輪はかなりの盛り上がりを見せている。
僕はその隙にそっと部屋から出た。
部屋から出ると外の空気が心地よい。中居の人にトイレを聞いて早速向う。
あまりにも急に飲んでしまったから無理もない。
トイレから出てスッキリした僕は、日本庭園に出て見る事にした。縁側にはちゃんと
庭に出れるようにと草履が置いてあった。
それを足につっかけ、庭に出て見る。
大きくうねった松をくぐり、庭の中央にある池に行って見る。
そこには大きな鯉が悠然と泳いでいる。
あたりを見まわすと色々な形の木々が茂り、庭園の技術や知識のない僕でも立派な
ものだと分かる、それだけ本格的なものなのだろう。
ふと、顔を上げてみると、奥の廊下から伸びる離れの一室が目に入った。いくら離れと
言っても、いかにも特別な作りであるのは一目でわかる。そしてそこには2組の男女がいた。
少し興味を持った僕はその一室に近づいて行って呆然としてしまった。そう、そこには
若菜がいたのだ!
僕は胸のポケットから携帯電話を取り出すと、彼女が携帯電話を持ってる事を祈るように
彼女の番号をプッシュした。
「はい、若菜ですが・・・・」
見ると、若菜は縁側に立ち、後ろの相手に気遣うように会釈している。聞こえる声は
密やかだ。
「髪を結い上げた若菜ってはじめて見たよ・・・・」
吐息のように僕は言う。
「それに和服姿も・・・・」
それを聞いて若菜は驚いたような声で言う。
「・・・・!な、なぜ?なぜわかるんですか?」
あたりを見まわす若菜。僕のいるところは少し茂みになっていてから、僕のことは見え
ないのかもしれない。
「どこです?どこにいらっしゃるんですか?」
やもたても堪らず、若菜は縁側のたたきにある草履をはくと、庭園の方に小走りでやっ
てくる。
少し歩を進め、茂みから出ると若菜は僕を見つけたようだ。
一瞬驚いた顔をしたが、すぐにこぼれるような笑みを浮かべて僕のほうへと向ってくる。
その後ろで、綾崎老が縁側から身を乗り出し怒声を発してる。でも僕には目の前にいる
若菜しか見れない。
「若菜!」
若菜は僕の胸に飛び込んできた。それをしっかりと抱きしめる。
「ああ・・・・」
若菜は震えながら僕の胸に爪を立てる。瞳には今にもこぼれんばかりの涙があった。
「こんな、こんなことって・・・・」
震える声で若菜は言う。万感の想いが胸を付きぬけ、言葉が出てこないようだ。
「いいんだ、若菜、もういいんだよ。僕が悪かった・・・・・」
「いいの、もういいの・・・・」
ほっそりとした人差し指を僕の唇にあてる。
そんないじらしい若菜を僕は力いっぱい抱きしめた。折れそうでいてしなやかな弾力を
持つ若菜の身体。
若菜は僕の胸に顔をあてて泣いていた。
そこに、怒髪天をつくような勢いで綾崎老がやってきた。
綾崎老はたたきにある草履を履く間も惜しんだのか、足袋を汚してまでここに降り
立ってきていた。
「貴様!この若造が!!若菜から離れろ!!!」
普段の僕ならこの気迫に押されて若菜を離してしまいそうだが、今日の僕は違っていた。
それは酒の勢いもあったろうが、なにより胸の中に若菜がいるのだ。
キッと僕は綾崎老をにらみ返す。
「離れろと言うんじゃ、この若造!」
「離れません!私は・・・・若菜はこの方と決めています!!」
僕の胸のなかで振りかえると、若菜は毅然とした態度で綾崎老に叫んだ。
その言葉に少しばかりひるんだ綾崎老であったが、それだけだった。
若菜の細い手首をつかむと、僕から引き剥がそうとする。
「何をなさるんですか!やめて下さい!!」
ガッシリとした、綾崎老の腕を取ると、僕は力をこめて払いのけた――――はずで
あった。
古木のようにしわ枯れた腕は見かけとは裏腹に、僕の力を寄せ付けない。
「いやっ!お爺様、わかって!!」
若菜も細い腕に力を入れて綾崎老を拒絶している。
しかし時間が経つにつれ、若菜は綾崎老に引きずられて行く。
『ここまでなのか・・・!?』
そう唇をかみ締めた時、この場にはそぐわない声が振ってきた。
「お〜やおや、悪いジジィは若い子好みってか!?」
三人はその声で固まってしまった。その声の主探すと、すぐ傍にいた。
そうそれは僕の叔父さんであった。いつあの会場から抜け出してここまでやってきた
のか、腕組をして僕達のことを冷やかすような目で見ている。
そしてここで意外だったのが綾崎老の反応だった。
「貴様・・・・?」
若菜の手を放すと、綾崎老は叔父さんに向きなおった。
その隙に僕は若菜の手を取り、綾崎老から距離を取る。
「ほほ、誰かと思ったら綾崎殿ではないか、それにお前、どうした?」
飄々とした様子で綾崎老の鋭い目をはずし、僕の方を見る。
「ワシの孫娘に変な虫がつこうとしていたのでな、それを追い払追うとしてるだけじゃ」
「・・・・変な虫と我が甥を言いなさるか?」
叔父さんの声に剣呑な響きが入る。こんな声を聞いたのは初めてだ。
「なに?貴様の甥だと?」
ジロリと僕のほうを睨み付ける。
「・・・・そうじゃ。我が甥がなんぞしたか?老いた者が口を出すようなものではあるまい、
この若い二人には、な」
僕たちのほうを見て剣呑さを消す。若菜に向ってにっこりと笑ってさえ見せた。
「貴様の出る幕ではないわ」
「そうもいかん、我が甥の事だからな」
二人の間に稲妻が走る。どちらも一歩も引き下がる事を知らない勢いだ。
「・・・・ま、可愛い孫娘をどこぞの馬の骨にやるのがもったいないと見える。そこでだ、
お前さんの得意な剣道で勝てば我が甥を認めてやっちゃくれないか?」
「この若造がワシに剣道で勝つだと?面白い事をいいよるわ!」
さもバカにしたような口調で言う。
それに関しては一言もないけど、叔父さんは何を言い出すかと思えば!
僕と綾崎老で一騎討ちをやらせようなんて!!
「お前はどうだ?やるか?」
僕のほうを見て叔父さんは言う。冗談で言ってる目ではない。そしてその瞳は「男だっ
たら受けて立て!!」という無言のプレッシャーを僕にぶつけてきた。
若菜を僕の後ろに立たせると、綾崎老に向って深くお辞儀し丁寧な口調で言った。
「・・・・綾崎老、どうかこの勝負受けて頂きたい」
「ふん、面白い事をほざく若造だ。いいだろう。明日、我が家の道場で待っているぞ。
一本でもワシから奪えばお主の勝ちじゃ。若菜、それで良いか?」
しかし若菜は綾崎老の目を見ずに、僕のほうに心配げな顔をして見せた。若菜の
いいたい事は痛いほどわかった。しかしこれ以上は男の意地として負けられない。
僕は若菜に向って一つ頷くと、彼女の背を押して綾崎老の方へ向けた。
「分かりました・・・・若菜、必ず・・・・」
微笑んで若菜を綾崎老のもとへ歩き出させる。心配そうに振り向きながら若菜は
綾崎老とならんで先ほどの離れへと姿を消した。
それを見届け、いっぺんに力が抜けてしまった。
「ほほ、お前も意外と骨のあるところがあるんだな。いっちょあの子の為に頑張るんだな!」
叔父さんは僕の肩をどやしつける。それによろけてしまうあたり、僕は情けなさを感じる。
「・・・・コリャ心配だな。よし、今日はうちに泊まれ!剣道の『け』ぐらいは教えてやる!」
ありがたい言葉である。今日は寝かせてもらえないのを僕は覚悟した。