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走る密室


自動車を評して「走る密室」との記述を見たことがある。
走りつづけている限り乗降は困難であり、周囲の世界とは微妙に隔絶されている。
推理小説に登場するような厳密な意味での密室とは異なるが、
女の子と二人きりになるには便利だわよ、と書いてあったのである。
若者向けのファッション誌に。油断も隙もあったものではないのである。

同様に、電車も「走る密室」と呼べる。
マイカーと違うのは、
公共の場所であり多くの人間模様が表面化で複雑に絡み合っていることである。
改めて考えてみれば、
現代社会において不特定多数の見知らぬ人間と数十分もの間、
同じ箱の中で並んで過ごすことは電車やバスでの経験を除けばごく稀な経験である。
そんな不思議な空間で目撃した事件について書いていこうと思う。

その日は随分と遅くなっていたが、私は疲れていた。
すぐの電車にも乗れたのだが、一本次の電車を待って、座って帰ることにしたのだった。
扉が開くと同時に車内に乗り込み、八人掛けとなっている座席のど真ん中に座り込む。
端に座ると、何かとわずらわしい。
最初から真ん中に座っていると、席が埋まった時でも窮屈な思いをしなくて済むのだ。

ほどなく車内は混み合ってきた。
金曜日の終電である。
座席はとうに埋まっている。
純粋な人数では朝のラッシュには及ばないものの、同様の密度を匂わせる混雑である。
人数が足りない分は、人の熱気で補われている。
酒が入った人間には、朝とは異なるパワーと熱気が宿るのだった。
朝は修行に耐えるように無言で立ち尽くしていただろう背広姿のサラリーマンが仲間と騒ぐ。
厚底サンダルのギャルが携帯電話で話している。
突然、「エーッッ」とわざとらしい声を上げても、誰も彼女に振り向かない。
スーツ姿のOLが彼氏の腕に寄り添っている。
無言でも、そこには秘めたる熱気が漂っている。
そんな車内を傍観者の立場で広く眺め、私はこみ上げる眠気に身体を委ねようとしていた。

電車は発車を待っていた。
と、扉付近の人混みがどどどっと音を立てて崩れ、すぐに元に戻った。
酔っ払い二人組が、走りこんできたのである。
扉付近の乗客は彼らに押され、一様にバランスを崩したものの、すぐに立て直したのである。
よくあることだ。
しかし、そこは金曜日の終電。そのままでは済まさない人間も乗っている。
根本が黒い金髪を肩まで伸ばし、蛍光イエローのジャージを引っ掛けた、
ま、平たく言うとヤンキーが人並みをかき分け、酔っ払い二人組に寄って行く。
イエロージャージの後ろに、茶色のパンチパーマが付く。
背広にネクタイの酔っ払い二人組に比べると、二百倍我慢ができなさそうな人種である。
しかし、酔っ払い二人組には「酔い」よいう最強無敵の味方(?)が」ついている。
ぶっちゃけて言うと、「揉め事発生」である。
彼らが口喧嘩を始めると、流石に車内は静かになった。
口喧嘩は一見収束の方向に向かっているように見えた。
が、私は最後までは見ていなかったのである。
好奇心よりも、眠気が勝った。
突然生まれた静けさが、私を優しい眠気に包み込んだのだった。
暗い、中に、そして柔らかに……。
……。
…………。

と、その時だ。

ゴンッ

音がしたのだ。
反射的に目を開ける。突然のことで、何もわからない。
眠気から覚醒すると、急速に視界が戻ってくる。
脳味噌が状況を把握しようと活発化する。
情報をつなぎ合わせるのだ。
音? 視線? 人? 鈍い音! …痛み!?
えーと、つまり、あーっと、う、オオ。

眠ったとき、頭を後ろのガラスにぶつけると、痛いけど恥ずかしいよね。

すぐ、また眠ったふりをしたのである。

 

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