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笑顔の理由


私は人の顔に表れる「表情」が好きだ。
人と話しているとき、話の内容と話者の表情のコンビネーションを観察していると、
多くの情報が得られるように思う。
話の内容に対する反応が直接表われるのが表情であり、
その変化の速度や組み合わせによって、
話者の感受性を逆算的に識別できる気がするのだ。

表情は人格を表す。それゆえ、常に魅力的だ。

このことを前提として話す人物というのも、面白い。
表情を計算している。
話相手に伝えたい自分のキャラクターを分析し、表情を演じて見せるのである。
営業スマイルの最上位機種、と書くとボキャブラリの不足が顕わになってしまうだろうか。
演者の技量にもよるが、これを見抜くことは難しい。
表情の一瞬の遅滞や筋肉の微妙なこわばりなどに注意を払わねばならない。

かく言う私は、感情が顔に出る人間である。
嘘がつけない。本人は隠しているつもりでも、相手にはバレバレである。
かと言って、表情がクルクル変わる方でもない。
基本的に「無表情・無愛想・死んだ魚の目」のダメ人間3要素を備えている。
誰かが私を評して言った。
「表情自体は多彩なのに、それが出る場面は少ない」

弁解させていただこう。
何故、表情が変わらないのか。
それは主に次に挙げる三点に由来する。

・感情を左右するような状況因子、すなわち「感動的場面」は少ない。
・表情を無理に変える必要もないと思う。。
・何よりも、いちいち表情を変えるのは面倒くさい

先に述べたように、私は感動を表情に出さずにはいられない人間なのである。
本来、四六時中ビヨンビヨン表情を変えていてしかるべき人間なのである。
『のび太の海底鬼岩城』ではバギーちゃんの決死の行動に涙した人間なのである。
その私が表情を変えない、すなわち感情を動かさないのは、
世の中が何となくくだらないもののように感じられる、ということなのである。
虚無感。倦怠感。無力感。諦念。
詰まる所、私が無表情でいるときは、
単純に「だからどうしたの」と思っていると考えていただいて間違いない。
特別につまらない、というわけではないのだ。
別に面白くもない、ということなのだ。

意外なことに、私は一人で歩いている時の方が表情を顕わにしているという。
本人の自覚はない。友人たちからの指摘である。
優しい笑顔を振りまきながら歩いているわけではない。
地球に溢れかえるセンス・オブ・ワンダーに驚いた顔をしながら歩いているわけでもない。
めちゃめちゃ不機嫌そうな顔をしているらしい。
「見かけたけれども、機嫌悪そうなんで、声かけなかった」
大変に申し訳ない。

機嫌は悪くない。歩くことが不愉快というわけでもない。
多分、考えごとをしながら歩いていたのだ。

「さっきのラーメンは麺の湯切りがイマイチだったなぁ」
「財布に残り2000円しか入ってないや。映画やめようかな」
「ムムッ! あの3人の唇偏差値は高目だ…」
「あの透けて見えるブラジャーは、パステルブルー!?」
「あ、あの人の顔、昨日食べた小籠包にそっくりじゃん」

考えごとをするときに顔の筋肉が緊張して、ちょっと不機嫌に見えるだけなのである。
仕方がないのである。

そんな私でも、歩いていてふと顔の筋肉が緩むときがある。
そのときの表情は、分類するならば笑顔に属するだろう。
菩薩のように慈愛に満ちた、赤子のように安心しきった、純粋で汚れのない表情である。
その表情は私を自ら癒してくれるのである。

目的のラーメン店を視認した瞬間の、至福の表情のことである。

 

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