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愛の献血運動


ボランティア活動が、苦手である。
ボランティア活動とはつまり、無償の社会奉仕活動のことである。
私自身にボランティア精神があるか否かと問われれば、ないのだと思う。
それ以前に、有償にしろ無償にしろ、
社会奉仕を第一義にして何らかの活動をするという行為ができそうにない。
反社会的というわけではないが、脱社会的なのだ。
かといって、社会の頼れる所にはすがり付いているわけで、
恥ずべき立場にいるとは感じている。

しかし、だからどうしたというのだ。

そんな私が唯一行う福祉活動が、献血である。
そう、たまに献血をしている。
大概、献血ルームに行く。たまに、出張で来るバスに乗り込む。
献血ルームには、気まぐれに行く。
時間が空いた時に行くことが多いが、帰り道にフラリと寄ってみたり、
稀に何も用がない日にわざわざ出かけて行ったりもする。

私の血液はA型である。
ありふれている。血液としての希少価値は少ない。
献血する人は多く、集まる血液も多い。
そして、医療現場で必要となる量も、多い。
血液というものはあまり保存が効くものでもないらしく、日によって不足している血液の種類が違う。
A型の血液が必要とされている日も多い。
献血ルームの近くの路上で、
拡声器を抱えた職員さんがA型の献血者を募集している光景にもよく出会う。
その声に耳を傾けることもあれば、素通りする日もある。

受付で200ml・400ml・成分の三種類の中から採血方法を選択する。
もし時間に余裕があったら…と、成分献血を勧められる。
成分献血とは採血した血液から血漿や血小板を分離して採取し、
残りを採血者の体内に戻す採血方法で、30分強の時間が必要となる。
時間的余裕なんてものは、ない。
あっても、ない。
白衣の天使の中に、唇天使が降臨すれば、考えないこともない。
採血されながら採血台に寝転がっている時間を得たくて訪れたわけではない。
現実問題としては、200mlか、400mlの二択となる。
医師による簡単な問診と血圧測定の後、検査で血液を抜かれる。
注射にはいつも緊張させられる。自然と唇の両端に力が入る。
そう痛くはない。頭ではわかっている。身体が過剰に身構える。
実際、ほとんど痛くはない。
薬品を使って、血液型などをチェックする。

ついに採血台までやって来る。
針は太い。先程の検査で使ったモノとは比べ物にならない。
やはり、緊張する。
痛い。鈍痛である。
針が刺さった瞬間の痛みではない。肘の内側に、筒状の金属が刺し込まれている痛みである。
看護婦さんにもよるだろうが、痛くない場合は稀であるように思う。
少しだけ、手の平の感覚が遠くなる。
血管が細いと、うまく刺し込めない場合も多く、何度も刺すことになるそうである。
友人であるS崎さんの肘にはその痕がたくさん残っていて、
何かクスリでもやっているのではないかと疑われそうな程だ。

私は血の巡りが悪いそうだ。
身に覚えがないわけではない。
地球人をトロい人とそうでない人にわけたら、私は前者に含まれるだろう。
頭の血の巡りも、ここ数年格段に悪くなっている。
そんなわけで、血液採取にも、標準よりも長い時間がかかる。
スポーツをやっている人間の方が、血の巡りは良い。

献血作業を終え、無料のジュースを飲む。
得した気分になるが、その前に血を抜かれているのである。水分の補充は重要だ。
ジュースはガブガブと狂ったように飲むべし。飲むべし。

ここからが、肝である。
献血ルームから出ると、太陽がまぶしい。
しばらくすると、気だるさが体を柔らかく包み始める。
平たく言えば、人為的な貧血状態なのだから当たり前だ。
そう、人為的に、合法的に、不健康にされたのである。
少しだけ、頭がボォウ、とする。世の中と、ぼやけた距離をおくことになる。
はっきり言おう。この状態、

気持ちいいです。快楽的です。ヨダレ垂れちゃいそうです。

この肉体的快楽を求めて、私は献血ルームに通う。
赤十字社には、少しだけ感謝をしている。

 

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