短編小説=空白の少女=
  「それは人に与えられた究極の命題なのか、あるいはただの幼稚な戯言なのか……。それは分からないが、僕は答えを求めている」
 それが己に課せられた使命であると気付いたのはいつ頃だっただろうか――。
 ある時、正義が悪に常に勝利する事に疑問を抱いた。
 ある時、勉強する事の理由が知りたくなった。
 ある時、己の存在に意味を問うた。
 それから一年。あらゆる疑問を抱いたが、何故だろう。考えても考えても理由が分からなかった。
 そして気付く。どうやら僕を取り囲んでいたのは、疑問に答える何かではなく、人間だけだったようだ。
 そして知る。自分がいるべき場所を。そして、自分が在る理由を。
 ――恐らくその時、自然と理解したのだろう。自分が生きている間、この感覚が消えぬまで……。
 己に課せられた使命なのだ。世界の在り方の探求。そして、自分がどこにあるべきなのかを知る事とは。
 それは存在意義の証明。だが、その努力を永遠に理解してくれるのは誰?
 人では無いのかも知れない。生き物ですらないのかもしれない。
 人の理解の範疇を超えた何か。それは人の幼さの延長上にある過ちの姿。
 例えば、魔物。
 例えば、精霊。
 例えば、怪物。
 例えば、神。
 それらいつかやってくるかもしれない邂逅――何処からやってくる客人《まれびと》のみが、人の真摯に報いてくれるのかもしれないが――。
 果たして、それは一体何なのか。それを知る事が、いつか僕をこの使命から解き放ち、――刹那の、しかし確かで揺るぎ無い安らぎと幸福を与えてくれるのだろうか?
 そうなる事を祈ろう。邂逅にすがろう。きっかけに敏感になろう。何故なら、結局のところ人はそうする事しか出来ないのだから。

 それは毒沼と呼ぶに相応しい、どす黒い沼だった。
 これは私の過去の苦しみと言う膿が溜まったものだと、当に気付いていたが、それを取り除く術を彼女は知らない。そしてこの毒沼から逃げる術も……。
 受け入れるしかないのだろう。これから酷い夢を見る。
 あの時からずっと続くあの酷い夢。
「ねえ、チョウちゃん、チョウちゃんってば」
 酷い夢に片足を突っ込んでいた私を、誰かの声が引っ張り上げた。
「う〜……ん」
 気だるげにため息を付いて私は顔を上げる。見るからに雑多でごちゃごちゃとした教室内で、私に視線を向ける少女が一人。
「あー静香。おっはよ……」
「チョウちゃん、そろそろ一時間目の数学始まるわよ」
「あー…うん。そういやそんなのもあったわ」
 面倒くさそうに、適当に受け答えする私に、静香は彼女ご自慢の長く黒いストレートヘアに手を当てて、呆れたような顔をして言う。
「宿題、やったの?」
「あー…宿題ね。宿題ねぇ……」
 と、私は再び机に突っ伏して、何度か宿題宿題とその言葉を反芻し、やがてその言葉の意味を理解して再びため息を吐く。静香の方へと顔を上げて、呟くように告げる。
「やっば、忘れてたわ」
 やっぱりと言わんばかりに彼女は嘆息する。その仕草を見て、再び私は声を出す。
「仕方ないじゃん。だって二年になってからやたら難しくなったし、でも別にそんな問題解かなくたって死ぬわけじゃあるまいしさ。いやむしろ無理矢理解こうとすると逆に頭がパンクしちゃうと思うなぁ私」
「チョウちゃんの場合一年の時からウンウン唸ってるじゃない。去年の数学の内申、結局ギリギリ三が付いたワケだし」
「そうだっけ? まあ体育とかは内申良いし」
「体育とかはじゃなくて体育だけでしょ。もう、一緒の大学に行くって約束したの忘れたの? このままじゃ同じ大学どころか進学出来るかどうかも……」
「大丈夫大丈夫。それに幼稚園からの無二の親友だもの。別れるなんて考えられないわ」
「ならはい後十分。さっさと写す」
「うー……はーい」
 差し出されたノートを受け取って、私はさほどの量も無い呪文の羅列を写し始める。
 ……それにしても、もう考えるのも誰かに聞くのも止めたのだから、いい加減に悪夢から開放して欲しいものだ。もう、それら命題の答えを求めるのは止めにしたんだからさ。
 それもこれも、全ては私の名前の所為だ。
 頂野空白(ちょうのから)なんていう、ふざけた名前の所為だ。

 彼女のそれに気付いたのはいつ頃だっただろうか? 正確な日時と時刻までは覚えていないが、僕が彼女のそれに気付いたのは、彼女が先生の授業を聞かず、退屈そうに空を眺めていたのを見た時だった。
 彼女自身は、もうどうやら考えるのを止めてしまったらしい。
 しかし、内心では答えを強く求めているようだ。誰も答えてくれない答えを望んで、誰も知らないところで駄々をこねているだろう。
 それがどうして僕に分かったのか。そんな事ははっきり言ってどうでもいい事だ。僕は僕自身が答えを探しあてる為に、訪れた運命を受諾するのみなのだ。
 とまれ、言葉を与える存在としては、彼女の前に現われる事こそ存在意義だと僕は思う。

「暑っつぅぃ……」
 数学のノートを片手に扇ぎながら、私は呻く。
 都会の夏は死ぬほど暑い。地方のように見るからに涼やかな川もなく、文明が生み出した偉大なる発明。とどのつまりエアコンだが、それだって外の空気まで冷やしてくれはしない。アスファルトの道路とミラービルから放たれる熱で、そこにいると自分がセンベイのように焼かれているような気分になる。ので、唯一清涼さを感じる事が出来るのは、この登下校に通るこの川程度だろう。それでも暑いが。
 学校のある都市部を少し外れた住宅街に私の家はある。その為学校の往来は片道一時間ほどかかり、登校時は家の近い静香と一緒に行くので退屈する事はないが、下校時は静香か部活で忙しい為私一人での下校になる。
 なので静香に自分と同じ部活に入るよう促された事もある。が、私に美術のセンスがあるわけも無く、また体力に自信があるからって、わざわざ運動部に入りたいとも思わなかった。が、家に帰ってもなんの楽しみがないので、私はこうして家の近くの川原でのんびりと初夏の昼下がりの日差しを味わっている。
 特にこれで安らぎを感じる事は無い。水面に向こう側の建物が映っているのをみて感動する事は無い。反射した光に眩しさすら感じない。
 要するに私は無気力なのだ。
(ヤだなぁ……、こんな人生)
 あー…と呻きながら、私は両手を広げて草原にゴロンと寝転がる。そうすれば私に憑いている何かが口の中から出て行くかもしれない。そういう小さい希望はあった……。
 もう答えを誰かに求める事も、考える事すら止めたと言うのに……。若さを喰らう悪夢は続く。私の身も心も焦がす鬼火は常に降り続いている。
 全ては単純な疑問から始まったのだ。
 それはとてもとても幼稚なものかもしれないが、だがしかし誰も答えてくれなかった、素朴で切実で純粋な疑問。純粋であるが故に、誰も正面から答えてくれなかった疑問。
 もしかしたらそれは人類の命題かもしれないと、私は昔何度も思った。誰も答えてくれなかったから。
 最初はテレビを観た時だったかもしれない。始まりを探っても意味は無いが、至極単純な疑問なのだ。
 人生に意味があるの? とか。
 どうして恵まれない人が生まれるの? とか。
 善ってなに? 悪ってなに? とか。
 どうして私は生まれてきたの? とか。
 人には価値があるの? とか。
 本当の自由ってなに? とか。
 何故人は死ぬの? とか。
 老けていくのに 何故綺麗でいたいの? とか。
 どうして人を殺しちゃいけないの? とか。
 その他諸々……。
 これらあらゆる疑問を誰かに投じても、誰も誠意ある言葉を返すものはいない。ある時は親戚のおじさんに。ある時はお隣のお兄さんに。ある時は父さんに。
 それら大人が聞かれて困る問いをいくつも投げてきたが、結局私の欲しい答えを教えてくれた人はいなかった。
 例えばどうして私は生まれてきたの? に対し、彼ら曰く、自分が生まれてきたのは望まれたかららしい。
 親に望まれたから生まれた。だか、本当にそうなら、どうして人は死ぬのだろう。本当に望まれて生まれるなら、永遠に生きてもいいんじゃ無いか。そして、望まれないなら死ぬべきなのか? 世界には望まれずに生まれる人もいるのに?
 例えば人生に意味があるの? に対し、彼ら曰く、人生に意味は無いが、その代わりに意味をプレゼントすればいい。だそうだ。
 そういう意味じゃ無いんだけどな。と内心思いつつ、自分の気持ちを言葉に表せなかった為それで終わった。
 例えばどうして人を殺しちゃいけないの? に対して、彼ら曰く、人が悲しむだからだそうだ。悲しむ人たちの気持ちに立って考えなさいだそうだ。
 では、何故人は人を殺すのかと聞く。人々が殺し合ったり、戦争で殺戮したり、悲しみや苦しみで世界を満たすのか。彼らが言ったように人生に意味を付与できるなら、それを何故他人が命と共に奪っていけるのだろう。どうして世界は戦争があって、悲しみや苦しみが在るの。どうせ生まれるなら、みんなみんな幸せで、毎日楽しく生きていけた方がいいのに。そしてそれば誰もが望む理想郷のはずなのに、だ。
 ……ここまで言うと、例えばこれが私と同級生の男だったら、生意気な小僧だみたいに言われて、あしらわれるか、色々と難癖付けられてボロクソ言われて強制終了だろうが、生憎私は女であるにして、彼らはとうとう困るしかない。
 結局、彼らは私の問いに正面から答えを出してこなかった。納得のいく答えを教えてくれなかった。納得行かない。意味が分からない。というと、
「まあまだ君は子供だからね。いつか分かるさ」
 の一言で片付ける。
 大抵これは社会で働くおっさん連中に当てはまる話しだ。まるで合い言葉のようにおっさんは全員この言葉で片付けようとする。分からないなら分からないと言えば良いものを、それを彼らの持つ妙なプライドや自負が許さないらしい。それが分かった途端、なんだか今まで憧れてきた社会像と言うのが突如色彩を失ったかのように色あせてしまって……。
 彼らはそれで満足なのだろうか? ただ凶悪さと狡猾さと欺瞞する事ばかりを発達させて、それによる恩恵を振りかざして私達子供を屈服させる。大人に庇護されてる分際で、みたいに。世の中を何も知らないただの子供。そう言って答えを求める機会を奪って、それで彼らは満足なのだろうか? みたいな。
 結局の所、これも反抗期と言うものだったのだろうか。一々考えても詮無いことなのに、自分の一生にどれだけ必要かも分からないのに、そんなつまらない疑問につまらない答えを得たいが為に私は貴重な中学生生活を食いつぶしてしまった。これが後悔と呼べるかどうか分からないが、だがもったいないと思った事は事実だ。
 だから私は考えるのを止め、青春を謳歌する事に専念しようと思った。
 が、それは結局できていない。誰かに恋をする事も出来ず、何か一つの事に精を出す事も出来ず、とどのつまり、やる事成す事信じる前に疑って、何かに夢中になって満ち足りる感覚を知らず、目の前の灰色の現実ばかりがちらついて、だるさばかりが私に残る。
 今の私はまるで抜け殻のように空っぽの存在。まさに私の名前通り、私は空白なのだ。
 が、以前私を形作っていた疑問は、そう割り切ったところで消え去ってくれるものでもない。疑問は新鮮さを失い、腐り落ちて私の心の最奥で毒沼となって腐臭を放っている。腐った疑問は泡を放ち、それは私の心を今もなお爛れさせているのだ。授業中も食事中もテレビを見ている時でも、その疑問は頭のどこかしらに臭いをこびり付かせている。もはや意識して考える事は少ないが、ふとしたとき――例えば今みたいに何もする事がない時、それらの疑問は突如としてぶくぶくとという音を立てるのだ。
(やだなぁ…、なーんにもやる気になれない)
 嘆息する。こうして私の青春は無駄になっていくのだろうか?
 何か夢があるわけでも、将来に希望があるわけでもなく、どうでもいい疑問にばかり捕らわれて、こうして目の前に広がる灰色の世界と去来する鬱に絶え続ける日々を送るのだろうか。
 つまらない。
 いっその事死んでしまおうか。
 それでいいんじゃ無いか? こうやってつまらない人生をダラダラと過ごすなら、別に死んだっていいのではないか? 自分で自分の命を断つなら、私は誰にも文句は言わせない。
 だって、みんなわがままばかりなんだ。私だけ迷惑をかけてはならないと言う道理なんて無いんだ。
 そうだ、死んでしまおう。このとらえどころのない苦痛から開放される為に。
 斜陽に眩しさを感じたわけではない。ふと側に気配を感じて、私は視線だけを横へと向けた。
「…………………………あんた、誰?」
 長い様で短い沈黙の末、とりあえず私はその少年に問いかけた。
 そこにはいつの間にか、しゃがみ込んでこちらを覗き込んでいる少年がいた。眼にかからない程度に切り揃えられた黒髪にブラウンの瞳。細い体躯と童顔の所為か、一瞬中学生かとも思ったが、私と同じ学校の制服を羽織っているので、おそらく一年生だろう。少なくても私は見た事が無い。
「……………あんた、誰?」
 もう一度、ただし今度は沈黙を半分ほど縮めて、私は改めて聞く。と、
「や、からちゃん」
「……………………」
 半眼になって、とりあえず私は状況を整理する為に、上体を起こし額に人差し指を当てて目をつむる。
 やがてそれが無意味である事を悟って、再びまぶたを開いて彼が居る方を見やる。と、そこにはやはりその少年がいる。とりあえず幻覚や幻聴の類では無いらしい。その分余計に訝って、三度同じ質問をする。
「あんた誰?」
「芸が無いと言うのはつまらない事だと思わないかい?」
「やかましい。で、あんた何? なんか私に用?」
 と、私がそう問うと、少年は立ち上がり大仰に両手を広げると、
「僕が君に干渉する理由を分かりやすく説明しよう。ついでに分かりやすくないなどと言う意味不明な異議申し立ては一切受け付けない事はあらかじめ断っておくよ」
 声は声変わりして無いと思えるほど幼いくせに、その口調だけを聞けば大人が話しているように感じる。
 まくし立てる様に言う彼に、私が多少あっけに取られている内に、彼は語り始める。
「例えば、基本的に人が居る事の出来る余裕がゼロから一までと考えた時、そのゼロと一の間には無限の位置が生まれるわけだね。故に人は誰一人として同じ位置にいる事は出来ず、人は他人を全て理解する事が出来ない。だからこそ、人は自分と近しい人と一緒にいたがるのだと僕は解釈している。それはつまり自分を理解してくれると思える人と言う事だからね。つまり、僕が君にこうして関わろうとするのも同じ理由なのだろうと思う。多分」
「…………あー、うん。分かった分かった……」
 分からなかったがどうでもいい内容だと思ったので、とりあえず私は適当に返事を返した。が、それでも一応は満足したらしい。
「ようするに」
 と言いながら人差し指を立てる。
「類は友を呼ぶと」
「……………………」
 何をどういうべきかしばし逡巡し、とりあえず思った事を言う。
「とりあえず言いたい事がそれなら、その一言ですんだと思う」
「クセなのさ」
 肩をすくめて彼は言う。
「前の学校でもかなり煙たがられたよ」
「まあそうだろうねえ……」
 納得したように頷くと、はっと気付いて私は顔を上げる。
「って、それってつまり私とあんたが同類って言いたいワケ」
「そこはそれほど気にするところでは無いし、同類と思われたところで誰が気にするのだろう?」
「気にするわよ。あんたなんかと同類にされたかないし……。って、あんだ結局誰なわけ? あたしになんか用?」
「みんな酷いんだよね。同級生でクラスメイトで、なのに誰も殆んど僕の事覚えてくれてないんだもんな」
 それが本当なら深刻な事なのかもしれないが、そこに彼の挙動や声音をまじえると微塵も哀愁を感じない。
 って言うか……。
「あんた一年じゃないの?」
「高木進。如何にも純朴で真面目な高校二年生B組は、やはりクラスメイトに名前すら覚えてもらえないのだろう」
 微妙に会話になって無いように感じたが、つっこみどころはそこではない。いつの間にか差し出されていた生徒証には、確かに彼の顔写真と、そして二年B組とある。
「あたしと同じクラスだ……」
「そうだってばさ」
「てばさ?……まあいっか。でも確かに見覚えがないわね。忘れてたんじゃなくて知らなかったのよ、多分。同じクラスメイトなのにどうしてかしら?」
「それは僕が積極的に人間関係を築く事をしなかったからさ」
「自業自得じゃん」
「別に僕は僕が一人ぼっちになった理由を議論しに来たわけじゃ無いんだ」
「……………………」
 その物言いに釈然としないのを感じ、何を言うべきかしばし逡巡する。が、一々反論するのも面倒になるだけと思い、私はとっとと本題に入ってもらう事にする。
「で、何か私に用?」
「あ、それは話していいって事かな?」
「ずっと話してるし……、て言うか用があるから来たんじゃないの?」
「別に用と言うほど用じゃないんだけれどね。からちゃんがあまりにも景色と同化してるものだから、ついつい」
「はあ?」
 大仰とまではいかないが、手を広げて言う彼に、私は意味が分からず嘆息する。
「そんなにがっかりしないで欲しい。若き者達は緩慢に過ぎ去る日常に刺激を求めているかもしれないが、恋と出くわす時は衝撃的なスタートばかりじゃない。いや別に僕がからちゃんの事が好きだとかそう言う意味じゃないよ」
 隠さずに嘆息した。再び彼が意味の分からない事を言う。
 口を開きかけて――
 ふと一番引っかかっていた事を思い出して、私は聞く。
「ねぇ、なんであんた、私の事からちゃんって呼ぶの?」
「うん?」
 意味が分からなかったのか、彼は短く呻いて聞き返す。
「だから、なんであんた私の事からちゃんて呼ぶの? 第一あんた私の名前知ってたの?」
「頂野空白でしょ本名。だからからちゃん」
「だからなんで知ってるのよ」
 食い下がる私に、彼はまた人差し指を突き出して言う。
「それはもちろん――」
 そこで暫し逡巡し、言う。
「気にしないで」
「なんで!?」
 悲鳴混じりに叫んで、私は思わず立ち上がって詰め寄る。と、彼もちょっとは驚いたのか、眼をきょとんとさせて言う。
「あれ、そういや君の女友達も君の事下の名前で言わないけど、もしかしてからちゃん恋人にしか名前は言わせないとかそんなタイプ?」
「だからそうじゃないって言うか何もかもが違う!」
「ところで君はサンタを信じるかい?」
「って今度はなんの話しよ!?」
「サンタさんを信じるのはいい事だと思う。決して恥ずべき事じゃ無い。夢見がちな乙女の方が夢が多くて良いと思うな」
「だから人の話を聞きなさいってば!」
「そんな言い方しないでくれ。いくら文明が進歩してるからって都会の現実にばかり振り回されて馬鹿を見るより、前時代的な考えでも客人《まれびと》とかそんな形而上的なもので不確かな何かを信じて夢を見ている君達の方が、よっぽどこの世界で豊かに過ごしていると踏んでいた僕の気持ちはどうなるんだ? あ、ちなみに客人《まれびと》って言うのは神様の事で――」
「会話をしなさい会話を!」
「僕は君じゃないし、君は僕じゃない。だから意思疎通の為に会話を用いたとしても齟齬が生まれるのは必然なのさ」
「それは違う全然違う絶対違う。何の話をしているのかよく分からないし、そもそもツッコミどころが多すぎてもう何をどう突っ込めば良いか全然分からないじゃない! 大体あんた、転入前でどーのこーの言ってた割に全然反省して無いみたいじゃない。ほんの一欠片でも後悔してたり反省してたりするんだったら少しは要点をまとめて分かりやすく簡潔に話しなさいよ! 性分なんか関係ないわ。今だってまとめようと思えばどうせ十文字程度ですむ話しに決まってるんだから、とっとと言いたい事言ってこのちんぷんかんぷんでトンチンカンな話を終わらせなさい!」
「案外良く喋るね。多分今ので四百字詰め原稿用紙半分ぐらい使ったんじゃないかな」
「うるさい! 早く言え!」
「しかも思いのほか凶暴だし……」
「あんたの所為よあんたの! 普段こんなに叫ばないし、胸倉掴む事すらないわよ!」
「今度は責任転嫁か」
「あーのーねー」
 地団駄を踏んで、……唐突に、自分が不毛な事をしているように思えて、私はげんなりした面持ちで言う。
「もういいから早く言いたい事言いなさいよぉ。それで言う事言ったらとっとと消えてちょうだい」
「そこはかとなく酷い事言ってない?」
「いーから、言え」
 半眼で言う私に、彼はあっさりと告げる。
「いやまた今度にする」
 そう言って、彼は私に背を向けて歩き出した。
「……………………」
 何をどう言っていいか分からず、私が言葉に詰まっていると、彼は一度こちらに顔を向けて手を振る。
「じゃね、からちゃん。また明日」
 彼の姿が消えるまで、私は自分の身に降りかかった何かを頭の中で必死に整理していた。

 存在と存在の間には隙間がある。
 諸行無常が示すとおり、世界が常に変化出来るように、無数の存在を創り、その間に隙間を生じさせ、存在と存在が何一つとして断絶される事無く関係を築き、世界は常に流れる事をよしとした。
 では、存在と存在の隙間を埋めるのはなんなのだろう。
 心。思い出。この言葉でそれを示すのはいささか無理があるように思える。
 ……因果。が、相応しいだろうか。因縁と呼んでもよさそうだが、あまり字面が好きになれそうにないので因果にしとこう。

 ホームルームを告げる鐘の音が鳴る十分ほど前、教室に辿り着いた私の眼に真っ先に飛び込んできたのはあの男子生徒だった。
「……………………」
 彼の姿を捉えても、何を言えばいいか私は全く思いつかない。高木進。あの訳の分からない演説を勝手に繰り広げた挙句、結局何の為に私に近づいてきたのか、理由を全然教えなかったあの男。
 今までは全く気にとめていなかった――と言うより存在すら知らなかった――はずの彼が、何故か今日は真っ先に私の網膜に入り込んだ。
 これは私が彼に罵詈雑言を浴びせるための天命だろうか? 一瞬そう思ったが、昨日の分ではどんな悪罵も一々気にとめないだろう。それ以前にきっぱり関わりたくない。もしそれが私の一方的な罵倒で終わらず、彼の流れに巻き込まれる様な事があったら、再びあの意味不明な大演説を繰り広げられる可能性があるからだ。
「チョウちゃん」
「わっ!」
 突然背後から声をかけられ、私はビクッとして振り返る。
「……なんだ、静香。驚かさないでよ」
「驚いたのはこっちよ。なによいきなりボーっとしちゃって、……何かあったの?」
「んー…と、何をどう説明すれば……」
 昨日あったことを言うべきか、しばし迷って、私はとりあえずあの男を指差す。
「あのさ静香、あいつ知ってる?」
「え、誰?」
「だからあいつよあいつ。あの席の一番奥で陰気な顔して外眺めてるヤツ」
「ああ、……………………うーん?」
 誰の事を言っているのかは分かったらしい。静香は頬に人差し指を当てる仕草をして首を傾げる。
 やがて、その指を今度はこちらに向けて言う。
「あれ誰?」
「いや聞いてるのは私だし……」
「まあねぇ。でも本当にあれ誰かしら? 全然知らないんだけど」
「全然?」
「全っ然! て言うか、あんたこそ良く知ってたわね。いつ気付いたの、あんな影の薄そうって言うか存在感ゼロのヤツ」
「うーん、まあちょっと色々あって……」
「色々って?」
「えっ……」
 と、即座に聞いてくる静香に、私は昨日在った事を話そうとも思ったが……。
(ワケ分からないし……)
「えっと、だからその……そうそう、昨日ね、下校中に黒くてデカイ犬に追いかけられてるヤツがいてね、それがあいつで」
「意味わかんないんだけど。第一あんな存在感の無さそうなヤツ、特殊な音でも発して無いかぎり犬に追いかけられるわけないわ」
「じゃあ発してたのよ。人の耳じゃ聞き取れないようなウィーンって音」
「ンなワケないでしょ。ナニ、あんたあいつと何かあって、でもあまり話したくない様な事だからごまかそうとしてるんじゃないの?」
「…………………………うん」
 意外と勘の鋭い静香に、私は正直に頷いた。
 途端、
「ふーん……」
 どういう意味で取ったのか、静香は突如双眸を崩してこちらを見やる。
「……何、その分かっちゃったぞみたいな顔……」
 嫌な予感がして、私は聞く。と、にんまりさせた顔をそのままに静香は口を開く。
「はっはあ、まさかあんたがねぇ」
「違う!」
 静香の肩をがっしり掴んで、私は声を上げる。
「まあまあそんな顔赤らめてムキにならなくても」
「誤解もいいとこよ! 第一あんた何をどう考えたらそんな結論に至っちゃったっていうの!?」
「ふふん♪ いっつもボケッとした顔してるあんたがそうやって声を荒げてるのが何よりの証拠よ」
「違う違う違う何もかもが違う!」
 頭を抱えて、私は彼女の誤解を否定する。
 が、むしろ誤解は深まったようで、静香は何故か私の肩をぽんぽんと叩いて、
「ま、初めての恋なんだから頑張りな」
「ち〜が〜う〜!」
 涙目になって否定するが、ちょうどホームルームを告げるチャイムが教室に鳴り響いた。

「う〜、どうしよう……」
 実際はどうしようもないが、私は哀愁さすら感じさせる茜色の空を背負って、一人途方に暮れていた。
 静香の誤解はもう解きようがないらしい。まるで楔でも打たれたかのように、完全に私があの高木とかいう男に恋心を抱いてしまっていると思い込んで変えようとしない。ついでに言えば私の片思いと……。
 あのホームルームの後の彼女の言動から、恐らく周りの女子に吹聴することはないだろうが、いつそんなワケの分からない誤解が尾ひれを付けて噂に変わるとも限らない。まあ、それ以前の問題であるが。
 刹那、私の耳に劈くような音が聞こえる。
『ミーンミンミン……』
 私が歩いていた道の傍らにあった電柱。その電柱にとまったミンミンゼミだった。ひとしきり鳴くと、電信柱から離れて、夕日を背負った里山の方へと飛んでいった。
 ふと思う。
「そうか、そういえばもう夏なんだ……」
 それを理解して、私は感慨深げに言葉をこぼした。
「て事は、もう夏休みも間近なんだ。何しようかな……」
 今回の数学のテストの点数から考えれば、もしかしたら塾やら家庭教師やら、あるいはもう少し簡素に一日一時間机にかじりついてろとか……。とにかく、そんな事を母さんに言われそうだ。
(それはヤだなぁ……)
 夏休みという学生に与えられた最高級の楽しみに、ネガティブな感情が真っ先に思い浮かぶようになったのはいつ頃からだろう。
 多分昔はあまり意識していなかった受験戦争とやらが、数多あるニュースから現実へと転換しはじめた頃――要するに中学二年生のこの時期からだと私は思う。小学生の頃は、例え宿題があっても、長期間の休みと言うのが魅力だったわけだから。
「あれ、そういえば夏休みって何日からだっけ? ……えっと、今日が七月の六日で金曜日だから、えーっと……」
「七月の二十一日。二十日の金曜日に終業式で、その次の土曜日から夏休みに入るよ」
「そうなんだ。じゃあ後二週間でもう夏休み――」
 気付いて、ずざっと後ずさりする。
「や、からちゃん」
「あ、あんた……っ」
 突然の事にどぎまぎしながら、私はその薄っぺらい笑みを浮かべた男子の姿を捉える。と、その男子は人差し指を立てて言う。
「高木進って言っただろ」
「あ、あんたなんてあんたで充分よ」
 彼のいる方を見ずに、私は裏返った声で言う。と、唐突だった所為で忘れてしまっていたそれを思い出し、私は高木進の胸倉をつかんで言う。
「そうよ。あんたの所為でねぇ、あたしは今とんでもない事になっちゃってるのよ! なんだと思う?」
「…………さあ」
「あんたの所為で!……静香――あたしの友人が、あたしがあんたの事を好きになっちゃってるって思われてるのよ! どうしてくれるのよ!」
「それは不運な事故だった……」
「事故!? 人災よ!」
 どう受け取ったのか、何故か儚げな表情を浮かべるそいつをガクガク揺らして怒鳴りつける。が、やはりそいつはあっけらかんと肩をすくめて
「保険に入ってないなら何も貰えないよ」
「馬鹿にしてるの!」
 突き飛ばす勢いで怒鳴り声を上げて、私は更に続ける。
「結局なんなのよあんた! 言いたい事があればさっさと言えば良いでしょ。それで満足したらもう二度と私に近寄らないで!」
「ああ、どうして人はみな結論を急ぐのだろうと悩む僕」
 ガ――!
「あー! もうやだ! 死ね!」
 顔面を痛打されて昏倒した男に、私はストレートな悪口を残して、さっさとその場を立ち去った。

 世界は変化する事に対しては無限に許す。だが、停まっている事に対しては摂氏マイナス二七三.一五度までしか許さない。……思うに、存在が本質を変化せずに存在としていられる許容範囲も、この摂氏マイナス二七三.一五度までなのだろう。
 存在は、その融通の中でのみ存在としてある事が出来る。
 とはいえ、人が人として生きられる範囲はもっと狭い。とても狭い。
 僕はその狭い世界の中で、一体なにが出来るのだろう?
 例えば、一つの究極に近づける? だろうか……。
 それは多分、僕には荷が勝ちすぎているだろう。
 しかしその答えは、もう少し時間が経てばいずれ出てくるだろう。
 なぜなら、僕は常に疑問に真摯なのだから――。

「あー……、どうっしよ」
 休日の朝。普段よりも早く起床して、私はいたたまれない気持ちを胸に、まばらに見える家と側に流れる川に挟まれた道を徘徊していた。
 昨日は流石にやりすぎた。と、そんな後悔が私に去来していた。確かに、あいつの言動は狂言じみていて不愉快極まりないものだったが、あんな風に罵ってあげく殴り飛ばしてしまうのは、いくら考えても酷すぎたかもしれない。自分が第三者としてあの場に立ち会っていれば、恐らく男を庇っただろう。……多分。
(謝ったほうがいいのかなぁ……。でも、元はと言えばあいつが圧倒的に悪いはずよね)
 元々私に非はないのだ。どういうつもりかは知らないが、あの男が私にワケの分からないちょっかいを出してきたのがそもそもの始まりで、その所為で私は友人にいらん誤解を受けるという被害を受けて……。
 とどのつまり、私は被害者だったのだ。あれはそれに対する制裁であって、リンチしたならともかく、一発殴った程度で私が負い目を感じる必要なんで全然無いはずだ。
(そうよ、私は悪くない。この日本の朝日に誓って、悪いのは全部あいつ。私は悪くないんだ)
 ぐっと拳を握って、私は勝手にそう納得する。もうこれ以上あいつの為に悩むのは止めよう。それが一番健康に良い。
 そう、私はどうでも良い悩みで青春を無駄にしたく無いのだ。
 時折見る悪夢。昔私が無数に抱いた人類の命題。
 何故、人は人権を謳いながら、人を殺すのだろう。
 何故、人は差別を否定するのに、恵まれない人が生まれるのだろう。
 何故、人は望まれて生まれたはずの私が、不幸な目に遇わなければならないのだろう。
 それら社会が、人類が抱える大いなる矛盾。
 誰もが幼稚とあざける命題。誰もが目を背けてしまう命題。誰もが答えてくれない命題。
 ああ、私は苦しい。今、私は悪夢を見ている。人は私に命題と言う苦しみを押し付ける癖に、誰も助けてくれないのだろうか。誰も救ってくれないのだろうか。
 そんなもの、丸ごとほっとけば良い。どうせ誰も真正面から考える気も答える気が無いのなら、私だけ馬鹿みたいに真正面から思い悩む必要なんてないんだ。
(そうよ、そうやって頭の中を空っぽにしていれば――)
 ふと前を見やると、少し先に里山がある。――小高い、あまり手入れのされていない雑木林に取り囲まれた里山の麓――つまり私が歩いているニ〇メートルほど先に、高木進がいた。
「うげぇ」
 あからさまに嫌悪の表情を作って、私はうめく。吐き気を催すとまでは流石に言わないが、まるでそれまで清潔だった真っ白な部屋が、突如として大繁殖した害虫に占拠されてしまった様な気持ちの悪さが眼《まなこ》を通して全身に巡る。
(逃げるか)
 その言葉が最初に頭に浮かんだ。が、何故私があいつの為に逃げなければならないのだろうか。むしろここで堂々とあいつの目の前に出て、きっぱり近寄るなと宣言してやった方が絶対に良いに違いない。
(そうよ、私があいつに遠慮する理由なんてどこにも無いもの)
 ふんと、鼻から息を吐いて、私はその男に向かって歩き始める。と、彼もこちらの存在に気付いたらしい。あの気色の悪い笑みを浮かべて、彼はこちらへと向かって――
 来ずに、こちらに一瞥だけくれると、雑木林の中へと入っていった。
「ありゃ?」
 意外な彼の行動に(知る限り彼の行動は全て以外というかおかしいが)、私はきょとんとした表情を浮かべてしまう。てっきり、今までと同じように無遠慮にこちらに近づいてワケの分からないちょっかいを出してくると思っていたが。
(ていうか、なんで雑木林の中に突っ込むわけ?)
 そちらの方が気になって、私は彼が先ほど立ち尽していた場所まで小走りして、彼が消えた方を見やる。と、目の前には何の手入れもされていない雑木林が広がっていたが、よくよく見ると雑草が一部はげ、森の中へと繋がっている。つまり、一応道になっているようである。
「こんなのあったっけ?」
 頬を掻きながら、私は疑問符を浮かべる。とは言っても、この里山は登下校の度に横切っているが、こんな荒れ放題の雑木林にいちいち興味を示した記憶が無いし、こうして注意深く見ない限り、まず気付く事なんて無いのだろう。
 そんなところに、彼はわざわざ何をしに?
(まあ、あんなヤツの考える事なんて分かるワケないか)
 常軌を逸した言動の持ち主だ。もしかしたら一々考えを読み取ろうとするのは詮無い事だろう。気楽である事を願うなら、今すぐ見た事を忘れ、そしてこのまま――。
「どらっしゃあああぁぁぁぁ!!!」
「ひゃああぁぁぁ!」
 雑木林から飛び出した奇声とその何かに、私は思いっきり驚いてその場に倒れこむ。
「ひっ…ひっ……!」
 まるで痙攣したような音を口から出して、私は突然飛び足したそれを凝視する。
 高木進だった。
「はっはっはっ」
「あ、あんたねえぇぇぇ!」
 満足そうに笑みを浮かべるそいつに、私は詰め寄って叫ぶ。
「一つ聞くわ! あんた自分の行動に疑問を持った事は無いワケ!?」
「ああ、どうして僕はこうも人の心を掴んで離さないのだろう」
 やはり訳の分からない事を口走って会話をしようとしないその男に、私は喉の奥から絶叫が迸りかけるのに気付いてぐっと息を呑み込んだ。更に反駁しようとして口を開こうとするが、
「さ、行こっか」
「……は?」
 意味が分からず、私は聞き返す。
「だから行くんだってば」
 辛抱強く再び聞き返す。
「…………どこに」
 高木進は、人差し指で行き先を示して告げる。
「森にだよ、決まってるじゃないか」
「……………………」
 無言で、私は踵を返す。
「待って、待って、待って」
 そう言いながら、そいつは私の前に立ち塞がる。
「どいて。って言うか、……死ね」
「うわっ、酷!」
 無視して、私は歩き出す。。
(どうして関わっちゃったんだろう)
 関わってもどうせ不愉快なだけなのに……。そう自分に呆れながら、私は高木進を横切る。
「命題の答えを求めているんだろう」
 が、その声が私の動きを奪った。
「答えを求めるなら、君は未知に挑まなければならない」
 振り返る。彼は森から目を離していない。ずっと目の前の木々を凝視していた。
「見てごらん」
 言われるままに、私は彼の見る森へと目を移す。
「ここにはなにがあるだろう?――木々の隙間。この空隙にもしかしたら君が知りたい命題、すなわち君にとって未知の何かがあるかもしれない」
 区切り、高木進は眼だけをこちらの方へと動かして続ける。
「でも、この場に君の親がいたらどういうだろうか? 先生がいたら? 警察がいたら?――周りが見える分別の付く人達は、森の奥に何があるかを知りたいと言う事より、周りの大切な人を森の中の危険から守る事を先に考えてしまうんだ。木々の空隙を恐れて、その中に居るかもしれない得体の知れない魔物から遠く離そうとする。でも、空隙にあるのは恐怖だけじゃない。未知は恐怖じゃない。だから、君は行かなくてはならない」
 今まで私を覆っていた何かが破れた異音が、頭の中に響く。
 彼に魅力を感じたわけでは無い。感じたのは、未知を知る事への小さな渇望――。
 再び、暗闇とも空白ともいえるその隙間。木々の空隙へと目を向ける。そこに本当に未知があるなら、私の求める答えがあるなら――。
「行こ」
 高木進が手手招きした。

 ほとんどの光を遮ってしまううっそうとした森の中を抜けた先には、やはり見た事の無い道があった。緩やかな傾斜になっている事から、多分里山の頂上へと続いているのだろう。その道は、先ほどまでの森をさ迷っている感に比べれば非常に道らしい道だったが、普通に道と呼ぶべきか獣道と呼ぶべきか判別しがたいそんな道でもあり、なんとなく熊が出るんじゃないかと不安になった。
 が、そんな不安感から私は口を開くのではない。
「なんかさ……」
 私の声を聞く者は私自身を除けば一人だけだ。
「上手く丸め込まれた気がするんですけど……」
 それを聞いて、目の前の男がはっはっと笑う。
「そんな風に言っちゃいけないよ。これは運命なんだからさ」
「……運命?」
 突拍子も無くそんな事を口走るそいつに、私は訝しげに聞き返す。
「そう、運命。人はさ、つまるところ邂逅によって関係が紡がれるのさ。――君が認識する僕。母が認識する僕。クラスメイトが認識する僕。先生が認識する僕。そして、僕が認識する僕。これは全て違う。僕はたった一つのはずなのに、僕と僕以外との隙間に生じるものは全て違う。自己と非自己。対立する存在だから、誰もが誰もを理解できない。――そして、だからこそ、人はその存在よりも、存在と存在の空隙、そこに生じるであろう因果を尊重しなければならない。巡り合わせという運命に従わなければならない。絆に素直に感謝しなければならない」
「意味分かんなーい」
 私が抗議の声をあげると、彼は少々困ったように呻きながら、きょろきょろと辺りを見回す。
「あ、あれ」
 と、突然木の根の側を指さして言う。
「あそこにミミズがいるだろう」
 彼の指差す先には……確かにミミズがいた。
「これも邂逅さ。君と僕とが出くわしたのと、なんら変わらない邂逅。つまり運命」
「……つまり、あんたにとって私はミミズと同価ってわけね」
 思いっきり嫌な声で、私は高木進に言う。
「そんな事は無い。一応会話出来るんだから、ミミズより君の方が何ぼかマシさ」
「……………………」
 その物言いには不愉快以前に違和感があったが――、
 不愉快な笑みを浮かべながら言うそいつに、私はやはり眼で意志を告げる。
 すると、彼は困ったような笑みを浮かべて頬を掻く。
「目は口ほどにモノを言うと」
「あんた、やっぱ分かってて言ってたワケ?」
 聞こえてたはずなのに素面で無視して、彼は再び歩き出す。
 私はやむなく、質問の内容を変更する。
「……ねえ、結局あんたどこに行きたいワケ? もう黙々と歩き続けて随分経つと思うんだけど……」
「うーん、そうだなぁ……」
 そう言いながら、こちらを指さして言う。
「どこに行きたい?」
「おい!」
 思わず前のめりになって、私は叫ぶ。
「冗談だよ冗談。ま、とりあえず一本道だし、辿り着くところには辿り着くでしょ」
「あんた、ここ来た事無いワケ?」
「今までもそうだけど、質問が多いね。友達と居るときもそんななのかい?」
「ンなワケないでしょ。あんたがワケの分からない事ばっか言ってくるからよ」
 反駁する私に、高木進はやはり薄い笑みを貼り付けた面を壊す事無く言う。
「まあ疑問に真摯になる事は大変素晴らしい事だ。けど、疑問に対して他人に答えを聞こうとするばかりじゃいけない」
「どうして?」
「答えを聞いて納得出来ると言うのは、要するに最初から知っていたのと同じなのさ。つまるところ、君が知りたいのは、他人の答えじゃなくて自分の答えを形にしてくれる言葉なんじゃないのかな? 君だけが納得出来る答えを形にしてくれる言葉。でも、その答えを形にしてくれる言葉ですら疑問のままでは形を作り出す事は出来ない。……だから多分、僕が今まで君に与えた言葉のほとんどを、君は覚えてないんじゃないのかな? その中に君が欲しい言葉があったはずなのに、見落としてしまって」
「あれはアンタがワケの分からない事ばかり言うからで――」
「そう思うのなら、君はただの駄々っ子だ。言葉に何があるかを考えようとしていない。言葉が持つ力と限界を理解していない。君はまだただの疑問に始まりに過ぎない。だから君は空白――からなんだ」
 ひとしきり聞いて――
「お願いだから、ややっこしい言い方しないで、少しはまともに話してよ……」
 とうとう私は頭を抱えて、嘆息まじりに言う。
「よく分かんないのよ。結局自分が何を疑問に思っているのか。特に最近は考えれば考えるほど頭がクラクラして……」
「……それで」
「どうすれば良いのか分からないの。本当は答えが欲しい。でも考えれば考えるほど気持ち悪くなって、まるで私が欲しい答えが、触れてはいけないもののように誰もが遠ざけようとするの」
「この森の様に?」
「だってさ、誰も真正面から答えようとしないの。私には荷が勝ちすぎている命題に、だれもが誠意を持って支えようとしてくれない。私の周りにいる人たち全てが抱える矛盾に、誰もが目を背けて、私だけにそれを背負わせようとする。――もう、多分疲れてるんだと思う。疑問を背負う事だけじゃなくて、好きだった人たちにそっぽを向かれる事にも」
「そうやって、君の心には知らない何かが染み込んでいくんだ。それは僕も例外じゃない」
 そう言いながら、彼は私の両肩に手をそえる。
 私はいつの間にか両膝を折っている事に気付いた。
「とても不幸な事だ。人が、こうして世界にいられる事自体が世界の融通だと気付かないと言う事は。疑問に立ち向かう事が、――答えを追い求める事が、辛くも美しい事だという事が。それが人に与えられた使命の一つであると言う事を忘れてしまうのは。――からちゃん、君は凄く清潔で無垢で果敢で脆弱だよ。今まで、君はたった一人でその命題を背負ってきたんだろう。その命題を食む答えを追いかけていたんだろう。悲観する事は無い。答えは、もう君の傍らにあるんだ」
 そう言いながら立ち上がる彼を、私は見ている。
「知ると良い。これから君は知りたかったはずの答えの姿を見る事になる」

 誰かが、僕にこう言ったんだ。
「そうだ、世界の姿を知ろうじゃないか。それは自分の母親がどのような格好をしているのかを知る様なもので、それはきっと、とても面白いものに違いない。世界は常に混沌としている。それは世界が赤子だからなのか、世界自体が複雑な命題を抱えているからなのかは僕には分からない。両極にして対立するものが世界にあるが故に、人はそれを矛盾と勘違いする。世界が例えば母親なのだとしたら、僕らは世界の子供達では無いのだろう。僕らは結局、世界が一つの答えを排出するためのプロセスでしかない。世界は、たった一つの極限が残るまで、融通を許し続けるのだろうか? そうだ、世界の姿を知ろうじゃないか」
 正直、僕にはその言葉の意味が分からないな。

 僕はまだ答えに行き着いていない。世界が対立を許した時点で、僕は純粋な極限には達する事が出来ない。不純な存在は純にはなれない。
 悲観する事は無い。結局僕らは混沌の怪物だ。それ故に僕は目の前の少女に恋する事が出来る。

 それはつまらない景色だった。
 里山の頂から見える、つまらない街の景色。
 それは全て、知っているはずのものばかりだった。
 しかし何故だろう、それはまるで子供の為に用意されたぴかぴかしたおもちゃのようで、幻想染みた何かを帯びている。
 私の表情に、高木進は満足そうな笑みを浮かべている。彼は私に恋でもしているのだろうか?
(これが答え?)
 存在と存在の隙間がある。それは未知に溢れている。私が通り抜けた森のように、無数の空隙が世界にはある。
(違う、まだ私の求めていた本当の答えじゃない)
 まだ、私の欲しい答えとは程遠い。
 この目の前にある世界にはまだ未知が多い。
 これほどの隙間の中に一体何があるのか、私は知らない。
 それが例え、人が永遠に触れる事の出来ない幻のおもちゃだとしても……
 その中には多分、私が欲しいきらきらした宝石があると思うから。
 何となく、思いついた言葉を口にする。
「そうだ、世界の姿を知ろうじゃないか」
短編小説=空白の少女=・完