JAI 日本水生昆虫研究所


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  このコーナーでは皆様から寄せられる質問の内、比較的多く寄せられるものや皆様の参考になると思われるものを取り上げています。

ecology world

2000/07/17更新

ALNOWさん、他多数の方からの質問


JAI 日本水生昆虫研究所 様

 HP、拝見させて頂きました。(自然保護講座)、(トピックス)はとても興味深く読ませて戴きました。
(トピックス)には「尚取り上げてほしい問題がある方はご要望をお寄せ下さい。」とありましたので、以下の2点を挙げさせて頂きたいと思います。

 1.(オオクチバス+ブルーギル)の外来性水界生物種セットが、日本の水界生態系に与えている影響について、時間経過による各段階の様相を踏まえて、解説をお願いします。既に(オオクチバス+ブルーギル)が日本の水界生態系に姿を現してから、かなりの年月が経過しました。人為的影響が強く歴史の浅い小さな水界(溜池など)から琵琶湖に至るまで、日本の水界が大きく変化した年月であったと思います。例えば、このままで進行すると水界生態系での極相状態はどのようなものになるか?等を交えて、ぜひお話を伺いたいと思います。またオオクチバスについては人間界の混沌も広く深く長くつきまとっている側面もあると思います。(中海干拓問題)のお話の手腕で切り込んだ解説をお読みしたいです。 (*トピックスにて取り上げました。
 2.ウシガエルが水界生態系に与える影響について、解説をお願いします。意外に思われるかもしれませんが、私はウシガエルが与える影響も大きいのではないか ?と感じるのです。水生植物が豊富でバスもギルもいない小さな溜池でも底生生物群や水生昆虫群が貧しくなっているのには、どうもウシガエルが絡んでいるよう に思えてしまいます。幼生期(オタマジャクシ)から成体までを含めた、定量的な知見があれば、ご紹介いただければ幸いです。


ウシガエルが水生生態系に与える影響について


ウシガエルの移入
 ウシガエルが日本に最初に持ち込まれたのは1917年のことです。 アメリカのニューオリンズから17匹のカエルが持ち込まれました。 食用ガエルの別名がある通り、食用商品の開発を目的に各地で養殖され、実際にアメリカに逆輸出されて外貨を稼ぐのに役立ちました。 戦後しばらくすると輸出されることもなくなり、国内需要の開拓にも失敗して養殖されていたカエルは全て捨てられました。 こうして捨てられたものや、それ以前に逃げ出したものが野生化して全国の池沼に住みついたものが、北海道を除く全国に残存しています。

 ウシガエルは東京付近でも戦前から戦後にかけて数多く生息していて、一部の住民はそれを捕獲、食料にしていました。 昭和30年代以前の関東平野には至る所に池や沼が存在し、水田を巡って小川が流れていました。 ウシガエルは実際に食料にする程生息していましたが、同時にアメリカザリガニや水生昆虫も数多く生息していました。 当時の豊富な水域と水際域の存在はウシガエルやアメリカザリガニが在来の水生動物種に大きな影響を与えることはなかったのです。 その後アメリカザリガニやウシガエルは大きな減少を見せないまま、在来の水生動物種が激減、その理由がウシガエルやアメリカザリガニの影響、特にアメリカザリガニが在来の生態系を破壊したのではないかと疑われました。昭和50年代以降東京付近ではウシガエル、アメリカザリガニ共に激減して、アメリカザリガニはいつの間にか"ふるさとの生物"になり、ザリガニが釣れる池の復活などが自然の回復として提唱されるまでになっています。
 ウシガエルとアメリカザリガニが在来の動物種と決定的に異なるのは大きさです。ウシガエルは在来のカエル(トノサマガエル、トウキョウダルマガエル、シュレーゲルアオガエル)と全く同じ生態を持っているわけではありません。 在来種は春に産卵し、幼生(オタマジャクシ)は夏の間に成体となって冬を待ちます。 一方ウシガエルは春から夏にかけて産卵期が長く、幼生はオタマジャクシのまま冬を越します。 ウシガエルのオタマジャクシは在来のオタマジャクシに比べて著しく大きく、このこともウシガエルの大きな特徴です。 それでもウシガエルは在来のカエルと同じような食性を持ち、それ故同じようなニッチェ(生態系の位置)を持っていると考えることができます。 ただしウシガエルの成体はその大きさから在来の生態系にはなかったニッチェをも占めることになりました。 それは核生態系(外来者を除いたミクロコスモスを構成する生態系)における食物連鎖の頂点という位置です。
 平地の池や小川で一般的な生態系のモデルを考えた場合、食物連鎖の頂点を成すものはタガメに代表される肉食性の水生昆虫です。 ナマズやコイは人間が放流しない限りどこにでもいるというものではありません。 学習図鑑などの挿絵でよく描かれているようにタガメの成虫はカエルを餌とします。 しかしウシガエルは逆にタガメを食べてしまいます。 アメリカザリガニが養殖用のウシガエルの餌として1927年にアメリカから輸入されるようになったことからも分かるように、ウシガエルはアメリカザリガニさえ食べてしまうのです。 従ってウシガエルは在来の水生生態系において新たなる食物連鎖の頂点を占める生物種として、在来の生物種を圧迫する要因になり得るということができます。
 しかしながら生態系の頂点を占めるものは、生態系の強者ではありません。 生態系における食物連鎖のピラミッドの頂点は下部構造の変化によって容易に壊れてしまうからです。 ウシガエルは大食漢ですから、食料が充分に確保できない所では生息することができません。 このことはたとえウシガエルが在来の生態系を圧迫する要因にはなっても生態系を壊滅させるまでには至らないことを予測させます。 実際神奈川県ではウシガエルが生息している場所では他の水生動物も比較的数多く生息する傾向があります。また生態系の頂点に位置するものは下部構造の制約を受けて、その数を大きく増やすことはできません。 1993年の夏東京都葛飾区の水元公園ではウシガエルのオタマジャクシが大量に見られましたが、翌1994年の夏には殆ど見つけることができませんでした。 東京の江戸川辺りは数多くのウシガエルを養えるような環境(水辺の状態と生物相)を持っていないのです。

 ウシガエルは一般的な日本の生物相の中ではずば抜けて体が大きく、タガメを除けばオタマジャクシさえ捕って食うような肉食性昆虫はいません。 それでも天敵がいないわけではなく、アオサギやダイサギのような鳥類やアオダイショウ、ヤマカガシ、シマヘビなどのヘビ類がウシガエルの天敵になるでしょう。
 しかし幼生を含めたウシガエルの大きさが有利になるのは天敵に対してではありません。 それは農薬に対して意味を持つのです。
 現在使用されている有機リン系農薬と有機塩素系農薬の全てが加水分解によって物質を変化させ、効力を失います。 有機リン系神経ガスのサリンなども加水分解してしまうため自然界に残存することはありません。
 殺虫剤の多くが虫を殺しても人間を殺さないのは、虫は体の水分含有量が少なく、人間は多いという理由に拠ります。 人間は体に大量の水分を含むため、殺虫剤を吸い込んだとしても薬剤が効力を発揮する前に分解されてしまいます。
 同様の理由で農薬は水中呼吸をする生物に対しては効力が減少します。 つまり魚類やアメリカザリガニに対しては効果が薄く、こうした動物種は農薬に対しても生き残る可能性があると言えるのです。
 一方、ナベブタムシのような例外もありますが、水生昆虫類の殆ど全ては成虫が空気呼吸をします。 トンボ類、水生カメムシ類(タガメ、アメンボなど)、水生甲虫類(ゲンゴロウ、ホタルなど)がそうです。 従ってこうした昆虫類が真っ先に農薬の犠牲になり、ウシガエルやアメリカザリガニが生き残ることになりました。 これが戦後しばらくしてから日本の水生生態系が壊滅した原因です。 生き残ったアメリカザリガニが在来の生態系を破壊したというのは事実ではありません。 何故なら昭和20年代まで関東平野の池沼や水路には食用にする程のアメリカザリガニと共に、数多くの水生昆虫が生息していたという事実があるからです。
 その後ウシガエルやアメリカザリガニを含めて水生生物群が減少した理由は、水路や池沼の護岸のコンクリート化です。 神奈川県では水田そのものがコンクリートに囲まれているのが普通です。 水田脇の水路は3面コンクリートで深く直線に掘られていて、アメリカザリガニでさえ生息できません。 神奈川県では在来の水生生態系はもはや存在しないと言ってよく、タガメやゲンゴロウは既に絶滅種となっています。

在来生態系に対するウシガエルの影響
 ウシガエルのイッチェを考えた場合、ウシガエルは在来の水生生態系に対する圧迫要因になり得るでしょう。 特に水際域の狭い、言わばプール構造の池ではその影響が強く現れるかもしれません。 しかし広い水際域を持つ池沼においては、ウシガエルの影響はごく限られたものに止まるでしょう。 見かけ上生物相は殆ど変化しないと思います。 神奈川県川崎市に小田急電鉄が経営する向ヶ丘遊園地があります。 現在では観覧車やジェットコースターがあり、バラ園としても有名で世界中から数多くの品種のバラが植えられています。 昭和30年代までここの入口手前付近に小さな池がありました。 それは草木の生い茂る山の斜面と斜面沿いに作られた道路との間にある側溝が広くなったような感じの池で、幅3m長さが10m程だったと思います。 この池は斜面からの水を排水するために作られたらしく池の端から水路が続いていたと思われます。 コンクリート護岸ではありませんでしたが、水生植物は全く無く、水生昆虫もいませんでした。 ところがこの池には数多くのウシガエルが生息していたのです。 遠目から見ても10匹くらいが確認できる程ですから、かなりの生息密度であったと思います。 イメージとしてはヒキガエルの初春のカエル合戦に似ているかもしれません。 ただしこの場合水中ではなく水辺陸上のことで季節は夏でした。 この池は間もなく埋め立てられてしまい、ウシガエルも姿を消しましたが、ウシガエルが人間の造ったプール上水域によく適応して生息していた例として考えることができます。 同時にウシガエルは単純な止水域では、他の動物種を排除してなお生息し続けるのではないかと推測することもできます。 当時向ヶ丘遊園地内には大きな池があり周辺にはアシが繁茂していました。 ウシガエルもいましたがギンヤンマやウチワヤンマなど数多くのトンボ類も見ることができました。 この池も今では埋め立てられて駐車場になっています。

 水生植物の豊富な池でもウシガエルが在来の生態系を脅かしているのではないかという指摘は正しいと思います。 特に池がプール上に深堀りされて水際域が狭く挺水植物と沈水植物の密集群落を欠き、スイレンのような浮葉植物が多い場所ではウシガエルの影響を緩和することはできないでしょう。 現在各地に見られる溜池の構造は、用地を効率よく利用するためにこうした構造を持ったものが多く、従ってウシガエルが生息する場合、その影響を避けることができません。 しかしながら広い水際域を持つ原生水域ではウシガエルの影響は極めて小さいことも事実です。 静岡県磐田市にある桶ヶ谷沼にはウシガエルも生息しますが、同時に本州一のトンボ相を持ち数多くの水生昆虫も生息しています。
 ウシガエルが在来生態系に及ぼす影響の大きさは結局人間が在来生態系に及ぼす影響に依存すると考えられます。 つまり水際域の軽度の破壊はウシガエルを増やす方向に働き、生態系の変化をもたらすかもしれません。 しかし重度の破壊はウシガエルをも消滅させてしまうということです。



T.Mさん、H.Kさん他からの質問

 はじめまして、T.Mと申します。
 このURLには、植物相と植生の違いについて検索していて見つけました。今、環境問題でバイオ・リージョナリズムについて調査しています。 流行の環境問題の解決は、バイオミミックリーだとか熱帯雨林に学べと言う文脈でお恥ずかしい限りなのですが。

 お忙しいところ、申し訳ないのですが、植物相と植生の違いについて教えていただきたくメールしました。

 実は生態系について会社の上司からきっちりと整理しろと言われています。私としてはそもそも生態系とはシームレスであり、そのような範囲とかは恣意的なものだから、要素還元的なものではない。おのおのの目的に応じて生態系など決定するものだと考えていたので、(少し理解が不足しているかもしれませんが)このURLを読んで勇気つけられました。
どうも有難うございます。
ではでは。

植物相と植生の違いについて

 新聞や雑誌を始めとした一般的な使われ方では、植物相と植生という言葉の意味の違いは然程考慮されていないように見えます。 中には文学的表現なのでしょうか、同様の意味のことを文章の中で使い分けているような例も見受けられます。 この場合でも両者の言葉の違いは漠然としたもので、“植物のありさま”のことを意味しているようですが、その詳細については全く分かりません。
 この両者の意味を厳密に理解して言葉を使っている例では、マスコミを含めて殆どないように思われます。
 しかし自然保護や環境問題について実際に問題を解決に導くような議論をして具体的な政策を立てる為には、こうした言葉の意味を厳密に理解して使用する必要があります。 状況や文脈の中で多の解釈の違いを認める柔軟性を持たせることも必要でしょうが、そうしたことも言葉の本来の意味を理解しているからこそ有効なものになります。

 植物相とはある一定の地域においてカタログ的に表示した植物の種類のことです。 厳密に言えば個々の植物の種類における個体数の多寡は問題にしません。 ただし議論の内容によっては個々の種類に加えてその数も考慮に入れることがあります。
 植生とはある一定地域における生態系を考慮する場合、特に植物のみに注目した言い方です。 “生態系のうち植物に注目したもの”と言ってもいいです。 生態系とはある一定地域における“生物を通じた物質循環”と“食物連鎖”を通じて考慮される生物世界の構造のことで、個々の生物種とその個体及びその個々の生物たちの関連の仕方によって理解される生物社会のあり方のことです。 そしてこのうち特に植物種に対象を絞った場合、植生と呼ぶことになります。
 ここで“ある一定地域”の区切り方は恣意的なものであっても構いません。 理屈の上では“ある一定地域”の範囲は生態系としてのまとまりを持った地域、例えば干潟、池沼、湿原、谷戸などの全体を考えてみることが望ましいのですが、現実の問題としては例えば開発予定地域など、人為的に区分けされた地域内において生態系を考慮しなければならない場合が多いからです。

 具体的に考えてみることにします。
 ある一定地域のA、B、Cについて植物種a、b、c、dが次のように分布しているとします。

aaaaaa bbbb ccc d
aa b c dddd
a b c d

ここでa、b、c、dの数はその植物種の個体数を表わしています。

 植物相という視点で見ればA、B、Cの地域の植物相は同一です。 しかし個々の植物種の個体数は異なりますから植生は明らかに違っていると言えます。
 厳密に言えば植生とは植物に注目した生態系のことですから、個々の生物間の生態的連関(係わり方)について考慮すべきだということになりますが、物質循環における植物の役割が(有機物)生産者に固定して考えることができる上、植物間の食物連鎖もありませんから、現実的にはその土地の植物の生育状況のみを考慮すれば充分です。
 (植物を生産者という場合、もちろん例外もあります。 ナンバンギセル、ギンリョウソウ、ヤッコソウ、ツチアケビなどは光合成を行なわず、他の植物に寄生したりして養分を吸収するので生産者にはなりませんが、植物全体から見れば極めて小さな部分を占めるに過ぎないため無視しても差し支えありません。 食虫植物についても同じことが言えます。 尚、カビやキノコ類については菌類として植物とは区別して考えることが一般的です。 菌類は分解者に属します。)

 A、B、Cの地域の植物の生育状況を見てみますと、Aについてはa種の数が多く優占種、b種、c種もそこそこ数が多く、d種は稀少種となります。
 Bについてはdが優占種でbもcも稀少種です。
 Cは全ての植物種について数が少なく植物が疎らな地域になります。
 従って植生に関しては、Aは全体としてaを優占種とした豊かな植生と表現することができ、Bはd を優占種とする植生、Cは植生が貧弱であると言えます。

 例えばある一定地域における植物種について、ノゲシ、キランソウ、ノアザミ、タチツボスミレ、ツユクサ、ホタルブクロ、ワレモコウ、オミナエシ、ヨメナ、アキノタムラソウ、ヤマホトトギス、ノハラアザミと羅列した場合、これはその地域の植物相を表わすことになり、「春にはノゲシやタチツボスミレが数多く見られ、キランソウ、ノアザミの姿も目立ちます。 夏にはツユクサが多く、その間にホタルブクロも咲き出します。 秋にはワレモコウ、アキノタムラソウが優占種となり、ヨメナ、オミナエシ、ノハラアザミの姿も見え、稀にヤマホトトギスが見つかります。」と表現すれば、それは植生を表わすことになります。
 尚、竹林、松林、雑木林、水田などの表現はいわゆる土地の植物の生育状況の外観を“ぱっと見て”表わしたもので、これは相観と呼びます。 相観からは植物相も植生も詳細を判断することはできません。



京都府 Sさんからの質問


 ホームページを読んでいていくつか疑問に思うことがあったのでよろしければお教え頂きたいと思っています。
  1. 自然保護をふまえた上で農業がどういったものであればその存在価値があるとお考えなのか
  2. その概念とは多少異なっていますが、実際問題として地域活性化と環境問題を両立しようというエコミュージアムやエコツーリズムのような試みに対してどのような考え方をお持ちなのか
  3. 実際問題としてもはや二次自然ですら自然とみなすような見方も必要ではないのか
  4. 自然保護論者と僕のような“農業推進派”との間にある歩み寄りの術は何があるのか
 僕は、自然保護の立場で農業や地域活性化を考えて行こうと思っているのですが何かご意見を頂ければよろしくお願いします。

ご質問の件についてお答えします。

 まず、"自然保護"という概念について説明します。
 自然保護における自然とは野生生物のことです。 保護とは野生生物の生命を守るということです。 具体的にはある一定地域において生存する全ての生物種がその種を未来に亘って継続することを保証するということです。 当然のことながらこれは動物愛護という概念とは異なります。 自然保護の立場からは生物種の自律的生存が確保されるならば、人間による如何なる生物個体の利用も容認されます。 漁師が海や川でいくら魚を獲っても、山の住人がいくら動物を殺し、山菜を摘んでも、それが生態系に大きな影響を及ぼさない限り、あるいは個々の生物種の将来に亘っての生存を脅かされない限り全く問題になりません。 ある特定の生物個体が残酷な殺され方をするとか、理不尽な動物実験の犠牲になるということが問題視されるとしても、それは自然保護とは直接関係がありません。

 自然保護における判断基準は次の通りです。
 ある一定地域において人間が何らかの物理的影響を与えた場合、その地域における前生態系が後生態系と比較して貧化または劣化した場合を自然破壊と定義するということです。 因みに後生態系が前生態系に比較して富化、または優化していると判断されればそれは自然創造と定義されます。
 生態系の評価の仕方についてはホームページの本文に詳しく説明してあると思いますが、一言で言えば生物相の多寡によって判断されるということです。 つまり生物種が減少すれば自然破壊と判断され生物種が増加すれば自然創造です。

@ についてお答えしましょう。
 農業とは産業の一形態でその他の産業との本質的な違いはありません。 どれも商品を生産して金を儲けようという人間行為です。 例えばある一定の土地に閉鎖空間つまり建造物を作り、その中でICを作れば工場、カイワレ大根やカーネーションを作れば農業です。 食料生産も必ずしも農業とは言えません。 パンを生産するのは工業、カーネーションは食べられません。
 農業に価値があるか否かを論じるのは工業に価値があるか否かを論じるのと同様に無意味です。 農業は産業として論じられるべきもので、最も大事なことは他の全ての産業と同じく国際的に競争力のある商品を作れるか否かということに尽きます。

 自然保護において問題となるのは、農業が他の産業と異なって広大な土地面積を必要としたために、その広い利用地の生態系をことごとく破壊してきた上、過去その自然破壊が躊躇されることはなかったということです。 しかし自然破壊については農業だけでなく工業も農業以上に積極的に自然を破壊してきたという事実があります。 東京湾の生物相豊かな干潟は殆ど全てが埋立てられましたが、これは主に工業用地の確保が目的で農業に利用された例はありません。

 農業が自然に対して大きな破壊的影響を与えるようになったのは戦後のことで、それまでは農業と自然とはある程度共存することが可能でした。 自然保護の定義に従って考えてみましょう。 例えば谷戸地形における谷津田の場合、水田を開く以前の生態系とそれ以後の生態系を比較して生物相に大きな違いは見られなかったと考えられます。 横浜周辺の植物相でいえば谷戸の原生態系の優占種はアシ、ガマ、コガマ、ヒメガマ、ショウブ、ウキヤガラなどで、それにコナギ、オモダカ、タカサブロウ、ヤノネグサ、アキノウナギツカミ、ミゾソバ、サワヒヨドリ、イ、カヤツリグサなどが湿地植生を形成していたと考えられます。 この湿地に水田が開かれて優占種がイネに取って替わられたとしても、おそらく絶滅種はなかったのではないかと思われます。 もちろんアシやガマは激減したでしょう。 しかし絶滅はしなかった。 そして周辺植物の中にも絶滅種はなかった。 そう考えられます。 これは現在の横浜市に残る寺家町の谷戸の植生などを調べてみても、極めて少数ではありますが、残存植物種と思われる植物種が意外に多いことから推論することができます。 横浜市の谷戸は近代農 業が普及した後、自然破壊が相当進んでいますが、それでも確実に絶滅したと思われるものは、ウキヤガラ、ナガバノウナギツカミ、オキナグサなど種としては多くありません。 ただし動物種、特に昆虫類は壊滅的打撃を受けていて、これは近代農業における水田の乾田化、水路の深堀りコンクリート化、農薬の使用によるものです。
 結論として近代以前の農業、例えば谷戸地の水田化は生物相を変化させなかった可能性が高く、従って自然破壊はなかったということができます。 つまり谷戸の水田化だけなら原生態系を構成していた生物種の殆ど全てが、個体数を激減させることはあっても、その種の存続まで脅かされることはなかったということで、そうした意味で農業と自然とが共存していたと言えるでしょう。

 農業が特定の生物種を優先的に育てるという技術的特性を持つ以上、農業の自然破壊的性格は避けられません。 しかし事実として自然破壊を行なうかどうかは農業者の志向によります。 そして過去における全ての農業者は自然破壊を躊躇うことはありませんでした。 前述した谷戸水田の例でも結果がたまたま種の絶滅を引き起こさなかったということで、農業者は水田中のイネ以外の植物を排除することに何の躊躇いもなかったでしょう。
 近代農業は農業のためならいくら自然を破壊しても構わないという志向の上に成り立ったもので、そもそも自然破壊という概念さえ最近のものです。 仮に現代の農業が自然に対する農業至上主義を踏襲するなら、自然保護の見地からは農業は縮小されるべき産業とならざるを得ません。 少なくとも野生生物の生存に何らかの価値を認めるならば、それを破壊しようとする行為は、その破壊を正当化し得る合理的理由が承認されている必要があります。
 農業がどうあるべきかを決めるのは農業者自身の問題で、それは農業者自身の自然に対する価値観の問題です。 仮に"農業のためなら自然はいくら破壊してもいい"という哲学を主張されたとしても、それはそれで価値観の一つとして認めざるを得ないでしょう。 問題はむしろ腹の中でそう思っていても、表面的には自然に配慮しているかの如く口で言いながら実際には自然破壊を推進している偽善的行為で、実例には事欠きません。 各地で行なわれている野焼き、植林の下草刈り、緑地の公園化、河川敷の草刈りなどことごとく生物相の貧化を伴うものです。

A についてお答えします。
 まずタイトルには何の価値もありません。 イベントにどんな名前を付けようとそれは主催者の自由で、どのようなタイトルの下でどのような活動を行なおうと他人が口を挟むことではありません。 問題にすべきはある行為の結果がある一定地域における前生態系をどう変化させたのかということで、後生態系において生物相が増加したというのならその行為は自然保護にとってプラスであったと評価されます。
 ここである試みがどのような意図をもっていたのかということは評価の対象になりません。 評価の対象になるのは事実としての生態系の変化のみです。 タイトルや意図は人によって考え方が違い、ある人が作ったタイトルや意図が他人から見てまったく違うものあることは珍しくないからです。 かって米国陸軍フォートデトリック研究所はサリンのような毒ガス兵器を"人道的兵器"と呼びました。 それは死体が血を流さず五体満足の姿でいられるという理由でした。
 現在までのところ生態系にとってプラスに作用したというイベントは聞いたことがありません。

B についてお答えします。
 自然保護の論理においては、原始生態系も二次生態系も全て自然と見做しています。 一次、二次の区別は基本的に自然の価値の評価とは関係がありません。
 問題とすべきはある一定地域における生態系においてそれを構成する生物種の数と生存の自律性であり、その生態系が成立した"きっかけ"ではありません。 これは本文において詳しく説明してあります。
 もしあなたの言う二次自然がアクリルハウス内のカーネーションのことを指しているということであれば、ここで言う二次生態系とは別のものです。

C についてお答えします。
 "工業推進派"という場合、これは一国の基幹産業を製造業に置くことを主張する一派のことです。 具体的には外貨を獲得するための主要商品を工業製品とする考え方です。 その意図は歴史的には富国強兵を目標にすることで、より具体的には武器を自給することにありました。 これは本質的に現在においても変化しておらず、また世界全ての国において変化していません。
 近代において"農業推進派"を主張したのはカンボジアのポルポト政権だけで、ポルポト派はその実現の為に多くの人々を抹殺しました。 現代においては"農業推進派"という言葉には事実としての具体的意味はありません。 もちろんポルポト派と同義であるというならば話は別ですが、もしそうでないならば、産業政策としての農業推進の意味を具体的に定義する必要があります。 現在における事実としての農業推進の実態は、国民から徴収した税金を補助金として農家にばら撒くということで、実質的な福祉政策のことです。
 農業者が自然保護論者と対等に話がしたいのなら、まず常識をわきまえ、合理的なものの考え方を保ち、そして嘘を付かないことです。
 例えば水田生態系という概念を持ち出して、水田が豊かな生態系を構成していることを論じ、それを守るためにも水田を保全する必要があるといった説明を止めることです。 NHKの番組で水田生態系を紹介したものがありましたが、その中でもタガメが生態系の上位として存在することが言及されていました。 日本の米所として有名な新潟県は1978年の時点でタガメの絶滅が報告されています。
 神奈川県内にさえまだ多くの水田がありますが、タガメ、ゲンゴロウ、ミズスマシは少なくとも水田からは絶滅しました。 しかし、NHKの教育番組における人間大学講座の環境生態学の学者は、"田んぼにはゲンゴロウもミズスマシもいます。"と主張しています。
 もしNHKの言うような水田生態系というものが存在し、タガメがその構成者であるならば、新潟県や神奈川県でタガメが絶滅したという事実が説明できません。 云わんやタガメが日本で絶滅に瀕している危急種であることが説明できません。 また、もし水田にゲンゴロウやミズスマシがいるならば神奈川県の水田でゲンゴロウとミズスマシが絶滅した事実を説明できません。(ここではゲンゴロウをゲンゴロウ類ではなくゲンゴロウのことと解釈しています。 ゲンゴロウ類ということであればヒメゲンゴロウやコシマゲンゴロウは神奈川県内の一部の水田で見られます。 ただしミズスマシについてはそれをミズスマシ類と拡大解釈しても全てのミズスマシ類が絶滅しています。)
 同様にNHKの番組で棚田について放送したものがありました。 棚田は放棄されると"荒れ果てて"木々が深く根を張ってしまって取り除くことが大変であると説明した後、棚田にしてイネを植えれば、イネが根を張って棚田の斜面の崩壊が防げると説明されていました。
 農業者が自己の利益のためにこうした理不尽な言論を続けている限り、他の全ての人との平等な対話は成立しないでしょう。

 自然保護の立場で農業や地域活性化を考えていこうとのことなら、目的を具体的に明瞭にすることが必要です。 つまり地域活性化という名称の金儲けのために自然保護という立場を利用するのかということです。 言い替えれば自然保護は目的なのか、手段なのかをはっきりさせるということです。 もし両立という考え方なら両立とは具体的にどういう事か定義しなければなりません。 自然保護の立場からは、この問題ははっきりしています。 その地域の生態系を貧化または劣化させないというのであれば、両立が成立します。

 自然保護の立場を具体的に分かりやすく説明しましょう。
 イギリス人がアメリカ大陸で始めて先住民(インディアン)に出会ったとき、イギリス人は彼らが人間であるか否かを議論しました。 果たしてインディアンはアダムとイブの末裔であるのか。 結論としてインディアンはアダムとイブの子孫ではない、少なくともヨーロッパ人と対等ではないということになりました。 この時からインディアンはイギリス人にとって"外部環境"になったのです。 ここで外部環境というのは主体に対しての周辺の物理的状況のことを言います。 それは政治環境、教育環境のような抽象的な概念から区別するために敢えて"外部環境"と表現します。 環境という概念は本来抽象的なもので、例えば過去東京の新宿で"環境浄化運動"がありましたが、これは風俗店の看板等を撤去するというものでした。
 アメリカが国家として成立してからアメリカ国民は自分たちの社会(ゲマインシャフト)を作り上げることに専心しました。 ゲマインシャフトとは家族、村落、地域社会、国家というように構成員の運命を託すような共同体のことを言います。 ここで彼らがゲマインシャフトの主体と見做したのはアメリカ人だけで、このアメリカ人の中にインディアンは含まれていません。 アメリカ人は自分たちだけを主体とした共同体を作り上げ、外部環境に対しては自分たちの都合のいいように手を加えていきました。 つまり森を切り開き農地を開拓し道路を作りました。 1830年にはインディアン強制移住法が成立して、全てのインディアンはミシシッピ川以東から完全に排除されることになり、デラウェア族やチェロキー族は事実上壊滅します。
 これがアメリカ人がインディアンを外部環境と見做した末路です。
 外部環境は共同体の都合によって利用され、手を加えられ、場合によっては破壊あるいは排除されます。

 自然保護の論理は自然としての野生生物を人間の外部環境と見做すのではなく、人間と同様の主体と見做すということです。 すなわちこれからの人間が作り上げるべき社会(ゲマインシャフト)は、人間と野生生物とが同様に主体となるべきだという考え方です。
 前述のアメリカの例で言えば、アメリカ人は先住民をアメリカ社会の構成員として先住民の生存をも考慮した社会を作り上げるべきでした。
 現在における野生生物の立場はこのアメリカ先住民の立場によく似ています。 1830年のアメリカでは先住民が人間(アメリカ人)と同等などということは思いも寄らなかったのです。
 従ってこれからの社会はその地域における全ての野生生物種の生存に配慮したものでなければなりません。 野生生物はもはや人間にとっての外部環境ではないのです。

 もうご理解いただけると思いますが、"自然保護の立場"という場合、自然を外部環境と見做さず、人間と同様の世界(社会)の主体とする考え方を基礎とするということです。 従って自然保護の立場と自然保護論とが対立するということはあり得ません。 同時に自然保護論が農業を否定するということもありません。 自然保護の論理では人間と野生生物を主体とした社会を作り上げていく中で農業を考えることになるだけのことで、それは例えば次のようなことです。

@ 地域の野生植物を栽培、商品化する。
A 地域の生態系に順応した植物種が最も栽培コストが安くなるので、コストの低減に重点を置いて栽培植物種を選択する。
B 徹底的に生産を重視した農地を作ると同時に野生生物のサンクチュアリとして決して開墾しない土地を残す。
C 海外の砂漠を農地化する。
D 海外で農業生産を請け負う。(その土地に合った生産物を生産輸入する)

 いずれにしても現在のままの農業で良いという立場でなければ、また自然保護に多少なりとも配慮しようという意志があるならば、自然保護と農業との共存の余地はあると思います。


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