自然保護の考え方

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 環境問題というテ−マがあります。これは人間の生活をより快適なものにするために、経済的豊かさとは違った生活環境の改善を考えるというもので、具体的には公害、ゴミ処理、資源のリサイクルなど身近なものから、さらに地球環境問題と呼ばれるような大きなものまで含みます。

 地球環境問題というのは具体的には次のようなテ−マについて言われるものです。
 つまり

というようなものです。

 こうした問題は一括して考えられるような簡単なものではありません。この中には相反するような問題を含んでいる場合さえあります。
 一例を挙げますと地球温暖化の原因に「温室効果ガス」の影響がありますが、その代表的なものは二酸化炭素(CO2 )、メタン(CH4 )、亜酸化窒素(N2O )、対流圏オゾン(O3 )、クロロフルオロカ−ボン(フロン,CFC)の5種類の気体です。メタンの多くが水田などの農業地から発生することが知られており、亜酸化窒素については農業における窒素肥料(硫化アンモニウム等)の使用などがこの大きな原因の一つであると言われています。
 温暖化への影響については、二酸化炭素を1とするとメタンで約10倍、亜酸化窒素で約100倍、対流圏オゾンで約1000倍になります。オゾン層の破壊が問題とされるならば少なくともオゾンによる温暖化とどのような係わり合いを持つのか、当然の疑問が生じるところですが、まだ詳しくは解明されておりません。

 自然保護という概念は以上述べたような環境問題と関連して考えられるか、あるいは環境問題の一部として論じられることが多いようです。地球環境問題の一角に熱帯林の減少が挙げられるのもそうした考え方によるものでしょう。

 ところが自然保護という考え方はいわゆる環境問題とは全く違う視点を必要とするものであり、それと無関係とは言えないまでも、ほぼ独立した領域を構成するものです。その大きな違いは環境問題が多かれ少なかれ人間の生活の快適性や利益に反する問題を改善していこうとする方向性を持った事柄ですが、自然保護というのは必ずしもそうではありません。むしろ人間の利益と衝突するような内容が多くを占めており、まさに人間の利益との調整が自然保護問題の本質と言えるからです。

 例えば渡り鳥の保護に対してビジブル(目に見える)な利益を得る者は誰もいません。この場合ビジブルな利益とは主に金銭的評価の可能な利益、つまり経済的利益のことを言います。注意して頂きたいのは利益という概念を拡大解釈してはならないということです。つまり渡り鳥を保護しようとする者は彼らの元気な姿をみているだけで充分幸福なのだから、幸福感という利益を得ているのだという考え方をしてはならないということです。そうした拡大解釈をすると人間の積極的行動は全て各自の満足感や幸福感という利益と結びつけられてしまうために、社会のために、そして自然のために有意義な行動をしようと志している人々を冷笑することになり、まさに自己の利益(欲得)だけのためにしか行動を起こさない人たちを擁護する結果になってしまうからです。

 近年、長良川のサツキマスを守ろうとした多くの人々も、自己の利益を主張したものではありませんし、無定見なゴルフ場の開発に反対する人々もおそらくは自己の経済的利益を念頭に置いたものではないでしょう。一方、トキやコウノトリを守ろうとしている人々がおり、またメダカやトンボの棲む小川を作っていこうとする人々がいます。自然保護は必ずしも大きな社会問題ではなく、各個人の意志と努力で改善される場合も数多くあるのです。

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「自然保護」という言葉は重要な2つの概念を組み合わせたものです。つまり「自然」と「保護」です。
 どちらの言葉も日常的に使用されているもので、今更何を言っているのかと思われる人も多いと思います。
 ところが、この2つの言葉、特に「自然」という言葉は非常に曖昧な概念で、その使われ方は千差万別であるため、最初に言葉の整理をしておかないと議論が混乱する恐れがあります。詳細は避けますが常識的な範囲で説明をしておくことが話を進めるためにどうしても必要です。
 「自然」という言葉を使用してよく聞かれる表現に次のようなものがあります。

  1. 人間も自然の一部である
  2. 美しい自然
  3. 自然の営み
  4. 大自然
  5. 人間は自然の力の前に無力である
  6. 自然の法則
  7. 日本の自然
  8. 自然保護

 まだまだたくさんありますが、限りがないのでこの辺で止めておきます。もとよりここでは「自然とは何か」を厳密に議論することが目的ではありません。多くの人は上に述べた文章の意味を理解しているつもりでおられることと思います。しかし現実に使用される場合、これらの自然の意味が混乱していることが多く、そのためおかしな結論が導かれることがあるのです。

 自然とはそもそも抽象的な概念であり、実際に自然という言葉が使われる場合には、それが具体的に何を意味しているのか考えてみなくてはなりません。

 1.では人間が自然の一部であると言っています。この場合自然とは何でしょうか。あるいは自然でないものとは何でしょうか。少し意地悪い理屈になるかも知れませんが、人間であることは自然であることの十分条件を満たしており、人間であることは自然そのものということになります。7.の日本の自然という場合、それが気取り屋の東京人やお調子者の関西人を指すことはありません。

1.で使われる自然の意味は、せいぜい人間そのものが自分たちの意志によってできたものではなく、地球の歴史の中でその大地を母体として生じた多くの生物と一緒なのだというようなことでしょう。そうでなければ自然イコ−ル地球上の全てのものという等式が成り立ち、自然という言葉が意味を成さなくなります。ここで自然でないものとは人間が作った人工衛星や核ミサイルのようなもののことだという反論があるかもしれません。しかし人間が自然の一部だとする考え方を採用するならば人工衛星や核ミサイルも自然の一部ということになるのです。何故なら同じく自然の一部であるアリが作ったアリの巣やハチの巣、ミノムシのミノ、アリジゴクの穴、鳥の巣などが全て自然の一部と考えられるからです。

 2.美しい自然という場合の自然とは風景のことです。特に人間の手が加わっていない天然の景観を指すことが多いのですが、時として田園風景のように人為的景観を指し示すこともあります。「美しい」という表現は人間個人の価値観と極めて強く結びついた言葉であり、自然を論じる場合は避けた方がいいでしょう。
 作家の立松和平氏は「熱帯雨林は美しい」、「砂漠も美しい」と表現しました。熱帯雨林と砂漠は美しさにおいて同格だというわけです。このような考え方では熱帯雨林が焼き払われて砂漠化したとしても美しさという価値観から判断する限り何ら問題がないことになります。
それでは美しくない自然というものがあるのでしょうか。立松氏によれば熱帯雨林が美しく、砂漠が美しいと言っているのですからサバンナや草原、あるいは高所山岳地帯や南極のような氷床大地のどれかが美しくないのかもしれませんが、そもそも自然景観に関する個人的感動を議論しても意味がありません。

 3.自然の営みという場合、四季の存在や雨期や乾期などの季節の変化を表現することが多いようです。あるいはそれに伴う生物の生活行動の変化や繁殖行動を意味している場合もあります。

 4.の大自然という場合、その意味はさらに広くなります。それは雄大な景色から小さな草花の生殖行動、小昆虫類やクモ類の生活行動まで含めたもので、NHKが大好きな表現です。「生きもの地球紀行」を語る柳生博氏の声と結びついてご記憶の方もおられることでしょう。ここでいう自然とは1.の自然の概念から人間を除いたものと考えられますが、実はそれだけではありません。正確に言えば、人間を完全に部外者、あるいは傍観者という立場に置いて、地球の自然景観や生きものの生態を捉えられる場合のみ使われる概念です。ここでは人間が係わるような生き物は注意深く除外されています。それはカビや白癬菌のような菌類、家ダニ、ハエ、ゴキブリ、カマドウマ、細菌類、そしてエイズなどのウイルス類です。

 5.の人間は自然の力の前に無力であるという場合の自然とは主として自然現象のことです。それも物理的力を伴う自然現象のことで、台風、地震、火山の噴火、津波や洪水などがこれに当たります。
 これらの自然が「美しい自然」でないことは明らかで、また「人間がその一部でない」ことも自明のことです。解釈の仕方によってはこれらは「自然の営み」であり、「日本の自然」あるいは「大自然」であるかもしれませんが、それは一般的な使われ方とは違います。

 実は人間は物理的な自然現象をいろいろ利用しようと努力してきました。風車や水車、ダムの建設などがこれに当たります。台風や地震、津波や洪水などの自然災害に対しても自分の無力を認識するどころか、頑丈な雨戸、耐震建築、延々と続く高所堤防など力に対する力の構築を行なってきたのです。数年前の北海道南西沖地震で被害を受けた奥尻島青苗地区には現在巨大な防波堤が建設されています。
 このような人間の努力がたまたま報われなかった場合に人間は無力感を感じるのかもしれませんが、人間が自然に対する無力さを認識することは今後も永遠にありえません。

 6.の自然の法則とはニュ−トン力学に代表される物理法則のことです。宇宙物理学のように壮大なものから、ロウソクの科学まで広範囲について使われますが、そこに生命の影が入ることはありません。

 7.の日本の自然とは主に生物相のことです。つまり日本で見られる各種の生物種をカタログ的に表現したもので植物相(フロ−ラ)と動物相(フォ−ナ)の総称です。この他に日本列島の気候や地形、河川の流域の配置、造岩鉱物などを指すこともありますが、この場合には日本の地理と表現されることが多く、また気候を意味する場合にも四季に見られる生物の変化、いわゆる気候の生物表現として使われることが殆どです。

 8.自然保護という場合には、自然は極めて具体的な概念になります。

などが挙げられますが、地域的な各種生物種の保護や屋久島のようにまるごと一地域の生態系を保護しようとするもの、水鳥の棲める湿地の保護なども例として挙げられます。


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 以上長々と自然の概念について述べたのは、自然という概念が如何に異なったものを表現するかということを知って頂きたかったからです。比較的よく使われる表現に次のようなものがあります。曰く、『偉大な自然の力を見ていると人間が自然を保護しようなどという試みは人間の思い上がりではないか』というものです。かつて雲仙の普賢岳やフィリピンのピナツボ火山が噴火した時、大手新聞がこのような旨述べたことがあります。このような考え方が自然という概念の混乱から生じたものであることはご理解頂けるものと思います。<火山の噴火>と<イリオモテヤマネコの保護>とは何の関係もありません。

それともこの大手新聞は火山を保護しようと思ったのでしょうか。

 自然保護に関しては既に幾つかの考え方が知られています。
 代表的なものに「ガイア」という概念があります。これは地球そのものを1つの生命体として捉え、生命の営みの調和の中に人間の存在を探ろうとするものです。 考え方は美しいのですが、論理が漠然としており具体性に乏しいため、身近な自然保護を考える上であまり役に立つとは思えません。 

 もう一つ環境倫理学的アプロ−チがあります。これは自然に存在する野生生物や景観にさえその存在が保護される権利があるとするものです。 権利という用語はすぐれて法学的概念で、これを具体的に有効なものとするためには法制化という手続きをしなければなりません。しかし人間においてさえ現在の人権の考え方やそれを保障する法律体系を整えるのに数千年の歴史を要し、時には流血の戦いを経なければなりませんでした。今なお人権の問題が解決されているとは言えず、それが国際社会で度々問題にされていることを考えるならば、同じような考え方を人間以外のものに適用しようとするのは非常に難しいだろうと思います。

 理論とは物事を理解するのに必要なある一定の考え方のことです。理論は1つではなく幾つあってもいいのですが、それは目の前にある現実を上手に説明することができるだけでなく、その現実を改善するために必要な実効ある政策を提言できなければなりません。自然保護というのは人間の合目的的活動ですから、その目的がうまく達成できるかどうかが大事なポイントになります。

 ここでは<ガイア>の考え方や<環境倫理学>的な考え方とは別のアプロ−チを採ることにします。

 既に自然という言葉がいろいろな意味で使われていることを紹介しましたが、本稿において自然保護における自然を次のように限定します。
 

自然とは地球上における人間以外の生物のこと


です。それは草や木や土壌に蠢(うず)く数知れない微生物、虫、獣(けもの)のことであり、海に川に生きる全ての生物のことです。それは氷床の大地でも緑の大地でもなく、灼熱の砂漠でも雄大な山脈でもありません。清冽な水を湛える川や湖でもなく、人の心を和ませる美しい景色でもありません。

 我々が守ろうとしているものは生命なのです。生命はそのものでは存在しません。それは具体的な生物という形になって様々な姿でこの地球に存在します。それは人間の目には必ずしも心地よいものばかりではありません。むしろ大多数の生物、特に動物は多くの人にとって薄気味悪く見えることでしょう。

 我々が山を守ろうとするとき、川を守ろうとするとき、あるいは干潟を守ろうとするとき、それはそこに住む数々の生物を守ろうとしているのです。山の形や、川の水や、あるいは干潟の泥を守ろうとしているのではありません。仮にそのような主張をするときでも、それはそこに棲む生物にとって必要な環境という理由の為であり、目的が生物の保護であることに変わりはありません。生物の存在しない山や川や干潟を守ることは本稿のテ−マではありません。従ってここでお話しようとする自然保護における自然の概念は先ほど紹介した8.の自然保護の自然よりさらに狭い意味になります。

 美しい自然景観を守るということも大事なことかもしれませんが、そのためにはここで説明するものとは違った別の理論が必要となるでしょう。

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何故生命を守るのか

 これは非常に難しい問題ですが既に多くの説明が試みられています。その答えは大きく2つのものに分類できます。1つは生物資源を守るというもの、もう1つが我々の情操にとって重要だというものです。

 まず生物資源を守るということについて簡単に触れておきましょう。
我々の生活を支える資源は鉄やアルミニウムのような鉱物資源、あるいは石油や石炭のようなエネルギ−資源の他に、生物資源と呼ばれるものがあります。木材や医薬品の原料の他に、食料の全てがこれに当たります。歴史的に見れば人間の生活は殆ど生物資源に支えられてきました。昭和初期頃までの日本人の生活を見てみますと、木造家屋に畳、家具、衣類の全て、食料の全て、そして燃料となる薪炭が、元をただせば生物であり、コンクリ−トの建築やプラスチック、ナイロンのストッキングができたとはいえ、現在においても生物資源の重要性は変わりありません。

 もう一つが人間の情操を豊かにするというものです。美しい自然とそこに棲む生物は人間の心を癒(いや)し、限りない郷愁を誘って見る者の心を豊かにしてくれるというものです。理解できないことではありませんが余りに情緒的であり、現実の理論に適用するのは難しいと思います。物質的な豊かさはある程度客観的評価が可能ですが、心の豊かさというのは極めて個人的な問題であり殆ど評価不可能といっていいからです。さらに生命の豊かさが必ずしも人間の情操にプラスに働くとは限らないという問題が挙げられます。熱帯雨林のジャングルの中は人間にとって決して心地よいものではなく、事実ブラジルでは森林(セルバ)を<緑の悪魔>と呼んでいます。

 生命を守ることの意義に以上のような2つの事柄が含まれることを否定するつもりはありません。以上の説明の共通点はどちらも生命を守ることは結局人間の利益になることだと主張していることですが、我々はこのような考え方を離れて無条件に生命を守ることの意義を受け入れたいと思います。地球が他のどの星とも違って宇宙に輝いて見えるのはそこに生命があるからです。人間の存在が地球を価値ある星にしたのではなく、生命の存在が地球を価値ある星にしたのです。
 三葉虫の時代も恐竜の徘徊していた時代も地球は現在と同じように価値ある星でした。我々はその生命の歴史を受け継ぎ、また他の全ての生物がその生命の歴史を受け継いで存在しているのですから、我々がその遺産を守ってゆくのは当然のことです。既に申し上げた通り生命は様々な生物種となって存在しています。その一つ一つが生命の歴史の賜物であることを考えるならば、我々が種の絶滅という形でその生命の歴史を終わらせてはなりません。だからこそ保護が必要なのです。

 価値というのは人間のみが表現し得る概念ですから、人間を離れて価値を論ずることは無意味であるという方がおられるかもしれません。古代ギリシヤの哲学者プロタゴラスが言ったように<人間が万物の尺度である>というわけです。実際、現在においても<自然は人間の役に立って初めて価値があると言える>という考え方をする人も多く、口には出さないまでも現実の人間の行動はこうした哲学の上に成り立っているといっていいと思います。しかし我々はこうした考え方を採りません。我々は「生命に価値がある」ことを無条件に受け入れます。これを公理とすれば、我々は次のようなことを自然保護の判断基準にすることができます。

  1. 地球上の全ての生物種は人間によって絶滅させられてはならない。
  2. 地球上の生命は多い程良い。

1.については例外を求める人がいるかもしれません。例えば一部の細菌やウイルスなど人間にとって非常に都合の悪い生物のことです。しかし原則的には人間はそのような生物でさえ共存を考えるべきで、病気に関していえば対症療法に重点を置くべきです。止むなく撲滅を考えるという結論になったとしても、それは本当に止むを得ない例外としての最後の手段ということになります。

2.に関しては少し説明を加えておきます。
 生命とは生物のことです。生命が多いということは生物種が多く、その個体数が多いということです。これは地球規模での表現ですが、もっと狭い地域においても適用することができます。つまり、ある一定の地域において、そこに棲む生物種は多い程良く、それぞれの個体数は多い程良いというわけです。ただし地域についてはもう一つの条件を付け加えなければなりません。それは固有種を優先するということです。地域固有種には地理的隔離によって偶然生じたものが多いのですが、固有種というのは総じて一般種より生命力が弱いことが多く、人間が他の生物を移入すれば容易に種が消滅してしまうことがありえるのです。
ここで絶滅と言わずに消滅と表現したことには理由があります。
 絶滅とは遺伝子が断絶することですが、消滅では必ずしも遺伝子の断絶は起こりません。つまり混血によって種が消えるということがあるという意味です。詳細は別の機会に論ずることにしますが、このことはゲンジボタルやニホンバラタナゴなどで近年注目されているテ−マです。

 以上述べたことを整理しますと、次のような生物相に対する基準ができます。
   ある一定地域において

  1. 生物種は多い程良い
  2. 生物量は多い程良い
  3. 固有種は優先される

2.で生物量というのは乾燥重量、つまり乾質量のことです。ここで個体数と表現しなかったのは次のような理由のためです。 一般に高等生物で体が大きい種ほど個体数は少なくなる傾向があるため、生物種を問題としないで個体数を見ることは意味がなくなるのです。トラやゾウの数と土壌微生物の数を比較してもしようがありません。そこで個体数ではなく質量という基準で生物量を比較する必要が生じます。このような比較をすることによって、仮に単純植生の地域を比較した場合、砂漠より草原が、草原より森林が優れた植生であると判断できるわけです。

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 次に「保護」という言葉が具体的にどのようなことを意味しているのか考えてみることにします。

 保護とは守るということですが何を守るのでしょうか。また何から守るのでしょうか
ミヤコタナゴの保護という場合、ミヤコタナゴを守るに決まっていると思われるかもしれません。そして絶滅から守るのに決まっていると思われるかもしれません。しかしこれは具体的な内容とは少し異なります。

 ミヤコタナゴを守るという場合、たとえば人間が人為的な飼育という方法で個体数を増やすということが考えられます。この場合保護とは増殖目的の飼育ということです。何から守るかというと個体数の減少を防ぐ、つまり個体数の減少から守るといえます。

 また野生のミヤコタナゴを保護するという場合、その方法は生息環境(地理的条件と生物相)の保全と、人間の乱獲の防止という2つの方法が考えられます。

 保全とはある状態を恒久的に維持しようとすることですが、生息環境の保全という場合、直接守られるのはミヤコタナゴではありません。守られるのは生息環境であり、それは水の流れや周辺の植生、またマツカサガイを含めた動物相です。何から守るのかといえば、そのような環境に手を加えようとする人間から守るのです。人間の乱獲の防止というときも、当然のことながら人間から守るということになります。

 さらにミヤコタナゴが生息できる状態を野外に積極的に作っていこうとすることも考えられます。失われた自然環境を取り戻そうとする運動なども同じような考え方によるもので、生息環境の創出と表現することができます。こうした人間活動がスム−ズに行われるならば何ら問題がないのですが、経済的にわりに合わない事柄には必ず抵抗する人間がいるものです。この場合にも、破壊状態を維持しようとする人間から守ると表現して差し支えないでしょう。

 既に述べた8.の自然保護の例について同じような検証を行なってみましょう。

 トキの保護の場合、増殖のための飼育がその活動の全てですから、この場合には文字通りトキを絶滅から守ると言えます。

 イリオモテヤマネコの保護の場合には、捕獲の禁止と西表島の自然環境(地理的条件と生物相)の保全が直接の活動内容になりますから、イリオモテヤマネコとその生息環境とを密漁者や開発業者から守る、つまり人間から守るということになります。

 ムニンノボタンの場合は、生息地における盗掘の禁止、生息環境の保全、そして栽培による個体の増殖が行なわれています。  動物を育てることを飼育と言いますが、植物を育てることは栽培といいます。栽培漁業という言い方がありますが、これは無責任な使われ方をした表現が一般用語として定着したものであり、例外と考えていいでしょう。
盗掘を禁止し、生息環境を保全することはミヤコタナゴの場合と同様に人間から守ることであり、増殖のための栽培は、トキの場合のように絶滅から守ると言えると思います。と言うのも事実本種の個体数は野生種がただ一株と言われ、栽培増殖という作業が不可欠になっているからです。

 ベッコウトンボの保護の場合にもイリオモテヤマネコの場合と同様に、捕獲の禁止と生息環境である桶ケ谷沼の保全がその保護の内容です。


 地域的な生物種の保護には地方自治体によるものから小さな市民団体によるものまで様々です。対象生物種は比較的人間に受けがいいものが多く、各種の渡り鳥、ギフチョウ、ヒメギフチョウ、オオムラサキなどの昆虫類、カタクリ、サクラソウ、クマガイソウなどの野生花類です。 また特定の大樹を保護しようとする例もありますが、いずれにしても共通していることはいわゆる見映えのするものに限られていることです。

 保護の動機については各々の保護主体にそれぞれの理由があるのは当然ですから議論は控えますが、保護の内容は既に申し上げたことと大差ないことが多いようです。中には条令だけ作って実際には何もしない自治体があったり、自治体と市民との連携がうまくいかずに混乱するケ−スもあるようですが、その骨子は開発と保全をどう調和させるのかということに尽きます。
 保全に相対する言葉は開発です。破壊ではありません。破壊というのは開発によって生じた状態を一定の判断によって評価した結果の表現です。つまり理屈の上では破壊を伴わない開発というのもあり得るのです。この判断の基準については既に一部紹介しましたが、詳しくは改めて論じることにしましょう。

 屋久島の自然保護というのは、島の生態系をまるごと保全しようというものです。この場合生態系の代わりに生物相と言い換えても差し支えないでしょう。

 保全というのは開発をしないということです。開発というのは人間の行為ですから、何から保護するのかということになれば、当然人間から保護するということになります。

 水鳥の棲める湿地の保護という場合、保護の対象は水鳥です。あるいは水鳥を含めた生物相と言えるかもしれません。しかし実際に保護されるのは湿地そのものであり、湿地の保全という形で開発しようとする人間から保護することになります。

 よく聞かれることですが、日本では何かをしようとすることよりも何もしないで放っておくことの方が難しいと言われます。お節介な人達が多いせいかもしれません。

 しかしながらこれは正確な表現ではありません。正確にはビジブルな利益を得るために、何らかの形で自然環境(地理的条件と生物相)に手を加えようとする人の行動を抑制することが難しいということなのです。とりわけ経済的利益を求めて一定の土地を利用しようとする人の行動を抑制しようとすることは想像以上に難しいのです。
例えば日本ではゴルフ場開発において地域の監督者である知事や市町村長が賄賂を介して業者と結託する例が多く、またブラジルでは森林を保護しようとする者が牧場開発業者に殺される例が後を絶ちません。

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 以上述べたこととは別に、自然保護に関する具体的な活動には次のようなものが挙げられます。
 まず特定植物種を保護しようとするとき、生息地の自然環境が開発の結果維持できないと判断されるときには、その植物種を別の土地に移植するということがあります。
 また野生生物の生活を支援する活動として越冬中のツルなどの渡り鳥に餌を与えたり、シマフクロウや小鳥の巣をかけたり、また怪我をした動物に手当てを施したりすることがあります。最近では特定の樹木の健康状態を維持する樹木医のような人も増えています。これらの活動は、特定の生物種を窮状から救出ないし手助けするということですから、全体としては生活の補助と表現することができるでしょう。

 これまで述べてきたことを整理してみますと、自然保護における保護とは次のような活動のことです。

 @ 一定地域における特定生物種の採取、捕獲の防止
 A 生息環境(地理的条件と生物相)の保全
 B 生息環境の創出
 C 生活補助
 D 増殖のための栽培、飼育

 @において禁止という言葉を使わずに防止と言ったのは次のような理由からです。
 禁止というのは人間の活動に法的制限を加えることですから、防止よりも狭い意味になります。実際に盗掘や乱獲を防ぐ場合は、法律による禁止規定を作るよりも個人のモラルに依存することが多いのが現状です。

 Aの生息環境の保全はおそらくこのリストの中で最も難しい問題でしょう。それは自然開発に係わる全ての人間及び人間集団(官公庁、企業)の活動を抑制しようとすることですから、おのずから彼らとの対立を内包しているからです。 近年長良川のサツキマスを守ろうとした多くの人々が結局その志を達成することができなかったのも、開発勢力のパワ−の大きさを示しています。

 B生息環境の創出、C生活補助、D増殖のための栽培、飼育というのは人間の積極的活動の分野です。 自然公園の創設や大規模な飼育設備などを必要とする場合もありますが、必ずしもそればかりではありません。
 農薬(殺虫剤)の使用を制限すれば、多くの土壌微生物や昆虫、鳥類に生活の場を提供することになりますし、個人の庭の状態を自然植生に近づけることも同じような効果があるでしょう。街路樹の樹種をバラエティ−に富んだものに並び変えてみたり、公園のヒマラヤスギをエノキやクヌギに変えてみる方法も考えられます。
 問題はむしろ人間の意識ですが、色々な生物に思いやりを持って接する人が増えてくれば、事情も改善されるだろうと思います。

 Dの増殖のための栽培、飼育というのは、本来豊かな生物相が存在する場合にはさほど重要な事柄ではないのですが、各地で生物相の貧化が進んでいる現状を鑑みればこれから重要性を増してくるかもしれません。

 結論として、自然保護というものが極めて難しい問題を含んでいると同時に、誰でもが各自のできる範囲で容易に参加できる事柄であることも理解していただけたことと思います。



この稿 おわり


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