二子玉川の歴史

 

二子玉川の歴史! ★文章の最期の青い文字のところをクイックすると当時の写真が見れます。  (最終更新日2月10日)

二子玉川の始まり 二子の渡し 多摩川の砂利船 兵庫島 玉川遊園 二子玉川の料亭 花火大会

高島屋の誕生 新玉川線・田園都市線・大井町線 二子玉川駅の名称

 

○二子玉川の始まり

天保2年(1831年)西の丸内府の遊覧があった前後から、文人墨客(作家や芸術家)のらいえんが盛んになり、二子玉川周辺は「玉川八景」とか「行善寺八景」と称さえられる風景がもてはやされ、これを題材に紀行文学や絵画などが生まれ、木版画なども発行されました。


○二子の渡し

多摩川の水量は現在よりはるかに多く、船も大きく一艘に牛車8台を積んで運ぶことができ、船頭は2〜5人でこいだそうです。現在でもある世田谷のボロ市の日には、混雑したそうです。河原には簡単な船頭小屋があり通行人はそこで料金を払いました。料金は、大正初期、一人片道2銭・自転車5銭・荷車10銭でした。渡しの権利は、瀬田村(現在の玉川・瀬田など)にあったため村人は無料で乗れ、収益はお祭りの費用などに使い、残りは分配したそうです。二子の渡しは、大正14年二子橋が出来ると同時に終了しました。


○多摩川の砂利船

江戸時代から多摩川の砂利採取が行われていた。砂利の採取場所は登戸(神奈川県)・二子・丸子あたりであったといわれ、長さ七間(12、726m)から十二間(21,816m)の平底の船に砂利を積み、下流の平間(神奈川県)または宮内(神奈川県)で海船に積み替えて市中(町中)へ運んだといいます。明治時代になると事業の活発化にともない、大量の砂利が必要となり、東京近郊の多摩川の砂利が着目されました。砂利は、船で川崎(神奈川県)に運ばれ、そこから市中へ汽車で輸送されました。また、明治40年(1907年)には、この砂利を青山方面へ運ぶため玉川電車が作られました。玉川電車は、砂利を運んでいたため「砂利電」というあだ名でみなに親しまれていました。当時、砂利は大丸組・大鍋組の土建会社が仕切っており、多くの朝鮮人の方も働いていました。その後、二子橋より下流での砂利採取が一切禁止になり砂利舟はなくなりました。写真(6)番


○兵庫島

昔、新田義貞の子、義興が上野国より鎌倉へ向かう途中、敵に謀られ(だます事)て最期を遂げたとき同じ船に乗っていた家臣、由良兵庫助の首が流れ着いたという言い伝えから、兵庫島といわれるようになりました。


○玉川遊園

玉川電鉄は砂利電が軌道にのると、明治42年頃には玉川神社の下の土地を借り受けて、「玉川遊園地」と造りました。そして、二子玉川と瀬田駅の間に遊園地駅を設け、この駅から園の入り口までに桜並木を植え、一万坪にわたる園内には滝の落ちてくる池や藤棚、ブランコや遊動円木を造り、小動物を飼い会社の運動会などの出来る広い運動場も設けました。さらに高台には、玉川閣(ぎょくせん)と名づける百畳敷の広い演芸場も建設されて、夜は芝居や浪花節会が催されたのでした。その後、玉川閣は火事でなくなりました。

○玉川第二遊園地

大正11年に、多摩川の土手に沿った地に玉川第二遊園地を開園させました。これに続いて、この土手の続きの先の土地に玉川プールも造りました。このプールは、水が井戸水だったため水温が低かったそうです。玉川プールは、その後東急電鉄→明時大学へと所有者が変わっていきました。また、この玉川第二遊園地は数々の国際試合が行われて、アメリカの映画「ターザン」で知られるワイズ・ミューラーなどもやってきました。


○二子玉川の料亭

早くから「旅館柳屋」・「割烹水光亭」のほか、「中島」・「町田軒」・「月の家」・「富玉」など次々に川沿いに料亭が建ち並ぶようになり、また料亭ではお酌をする人を遠くから呼ぶなどの不便さもあって、この地を三業地(料亭・置屋・待合のそろった所)としました。全盛期は、昭和6年で三業地は、昭和34年に廃止されました。写真(9)・(7)番


○花火大会

夏の風物詩となっている二子玉川の花火大会は、元は料亭の客寄せのための行事でした。


○高島屋の誕生

昭和38年に、東神開発会社がこの地に目をつけて玉川高島屋の建設に着工しました。当時、この辺の土地は一坪7〜8万円くらいのところを坪20万という高値で先ず2千坪を買収しました。この建設の時には地面を掘るとすぐに砂利が出てきたといいますから、昔はまさしくこの辺は川だったのです。昭和44年高島屋開店


新玉川線・田園都市線・大井町線 (新玉川線物語 山本泰史著 多摩川新聞社 参照)

@新玉川線・半蔵門線の歴史

明治29年11月18日、玉川砂利電気鉄道が東京市内で需要が拡大していた砂利や砂を多摩川から採取し運搬することを目的に、「三宅坂ー玉川」間の電気鉄道敷設を出願した。この出願は、明治35年に区間を「渋谷ー玉川」間に限定し特許されたが、渋谷には市電すら通っていなかったため、多摩川から採取した砂利や砂は、市内へは馬車に積み買えて輸送することとされた。

明治39年には着工、40年3月6日に「道玄坂上ー三軒茶屋」間が、同年4月1日に「三軒茶屋ー玉川」間が、さらに同年4月1日には「渋谷ー道玄坂上」間が開通し、玉川線の「渋谷ー玉川」間が全線開通した。

昭和11年10月13日には、東京横浜電鉄の傘下となり、のちに昭和14年10月1日付で姉妹関係にあった、東急横浜電鉄と目黒蒲田電鉄とが正式に合併し、東京横浜電鉄となった。

昭和44年5月10日「玉川線」「砧線」  閉鎖

昭和45年5月11日 「渋谷ー二子玉川」間は、代行バスで運行。

昭和52年4月7日 地下鉄の新玉川線「渋谷ー二子玉川園」が開通。

昭和53年8月11日 営団地下鉄半蔵門線は、「渋谷ー青山一丁目」開通

昭和54年9月21日 営団地下鉄半蔵門線は、「渋谷ー永田町」開通

昭和57年11月10日 営団地下鉄半蔵門線は、「渋谷ー半蔵門」開通

昭和58年1月22日 新玉川線・田園都市線に急行が通る

平成12年8月6日 新玉川線という名称を廃止し田園都市線となる。

○新玉川線の地下鉄は、駅ごとに壁のタイルの色が違うが、これは親しみやすさと、地下鉄のため目印になるように色をそれぞれ変えているらしいです。また、駅ごとに色の意味もあるらしいです。

用賀駅は、「住宅街で静か」というイメージでブルー

桜新町駅は、「桜」ということでピンク

駒澤大学駅は、「公園が近くにある」ということでグリーン

渋谷は、「接続する営団地下鉄11号線(半蔵門線)の電車のラインが紫」なので紫

○電車賃の値上がり(渋谷ー二子玉川園)

昭和59年1月25日 150円

平成1年4月1日 160円

平成6年9月1日 190円

 

A田園都市線・大井町線

「玉川ー溝ノ口」間の溝ノ口線は、昭和2年7月15日に開通。この区間は、昭和18年7月1日に大井町線が乗り入れる。

昭和41年4月1日に、田園都市線「溝ノ口ー長津田」開通

昭和43年10月11日に、快速を運行する。(つくし野ー長津田ー青葉台ーたまプラーザー鷺沼ー溝の口ー二子玉川園ー「ここから各駅となる」−大井町)

昭和54年8月12日に、大井町線とは分離し田園都市線は新玉川線と乗り入れする。

昭和59年4月9日に、田園都市線「二子玉川園ー中央林間」開通し、これを記念して「スタンプラリー」が始まる。

 

Bその他

○新玉川線と田園都市線には、「田玉線」(でんたません)という総称があるみたいです。

○昭和62年 「弱冷房車」導入

○昭和60年5月6日 現在の天皇・皇后両陛下と紀宮さまが、東宮御所のある「青山一丁目駅」から「こどもの国」まで往復ご乗車になられた。


二子玉川駅の名称

○二子玉川駅の名称は、「二子玉川駅」から出発ー昭和14年3月「よみうり遊園駅」ー昭和15年12月「二子読売園駅」ー昭和19年11月「二子玉川駅」に戻るー昭和29年8月1日「二子玉川園駅」となる。ちなみに、二子玉川という名前は、この近辺の通称として以前から用いられていたらしい。平成12年8月6日に、二子玉川駅と一番初めの名称に変わる。

二子玉川駅→よみうり遊園駅→二子読売園駅→二子玉川駅→二子玉川園駅→二子玉川駅

 

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