光と闇を抱きしめながら section2
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(2)「風見鶏と彼女の気分」
東京に戻った僕たちはお互いの連絡先を交換して別れた。
『 from さやか sub.出来た!!
という内容のメールが、クーラーが停止しておよそ6時間、とんでもない暑さになった部屋で一枚しかかけていないタオルケットまで蹴り飛ばして、それでもまだ惰眠を貪ろうとする僕の睡眠欲を間抜けな着信音と共に吹き飛ばしてくれた。
電車で10分・・・駅まで走って滝のように流れ出た汗を痛いほどに効いているエアコンが送る風のおかげでちょうど引き始めた、と感じた頃、目的地である爽の住む街に着いた。
「うそっ、悠。メールしてからまだ1時間しか経ってないのに、もう来るなんて。そりゃあね、いつでもいいって打った覚えはあるけど。とにかく。そこで5分間フリーズ。いいこと?」 と慌てた調子で言葉を紡いだ爽は、バタンッと窓を閉めて家の中でなにやら大騒ぎを始めた。
「もう、来るんだったら連絡の一つも入れるのが普通でしょ。こっちだって色々と準備ってものがあるんだからね。でも、まぁとにかくいらっしゃい」 と半ば拗ね、半ば嬉しさを覗かせた口調で爽は言う。 「ごめん。でも、ずっと気になっていたんだ。爽の書いた絵を見てみたくて、メールを見た瞬間からいても立ってもいられなくて来ちゃった。迷惑だったかな」 と、顔色を窺うように尋ねる。よく考えてみれば少し常識外れだったかもしれない。
「ぜーんぜん。むしろ、すごく嬉しいな。私の絵をそういう風に待っていてくれる人がいることが」 爽のアトリエは2階の上、屋根裏部屋にあった。壁紙などは張っておらず、壁は建材の木の板が剥きだしのままだった。掛かっているものもない。一言で表すならば殺風景な部屋だった。けれども、寂しい感じではなかった。天窓から入る光が部屋中を満たし、ふかふかのクッションの中にいるような雰囲気を織り上げていたからだ。 「今、何の色気もない部屋だと思ったでしょ」 と爽は僕の心の中を見透かすように、僕の瞳を見据えて、からかうように言った。 「・・・ちょっとだけ意外だった。アトリエってもっとお洒落なものかと思っていたからね」 「うーん、そりゃあね、お洒落なアトリエがないとは言わないけれども、そういうアトリエって何だか私にはアトリエだとは思えないかも。本当の仕事場って、何かしらそれ以外の要素が切り落とされているものだと思う。その人なりの、その仕事なりの秩序に組み替えられていくの。一見散らかっているように見えても、当人にとっては使いやすい、という意味で秩序があることだってあるでしょ。小説家やライターは。私にとってもそう。アトリエには余計な要素がない方が好き。周りに何かあると目に入って気が散っちゃう。これをこう描こうと思いつくのは本当に一瞬なの、その時に他のものが見えちゃうと、それはするりと逃げて言っちゃう。チャンスの前髪。だから・・・よ」 「でも、なんだかこの部屋光が満ちていて、柔らかい雰囲気がするよ。余計なものがない、というよりはあって欲しいものがある、と思うな」 「ありがとう。そう言ってもらえるとなんだかくすぐったいけれど」 そう言った後、彼女が目をやった先には白い布に覆われたキャンバスがあった。
「これが、その・・・絵?」 「そう。久々の完成品。この頃中々スケッチから完成品が出来なかったから。本当に久しぶりなのよ、こうやって出来上がるのは。だから嬉しいの。見て!」 と、よくテレビのニュースで除幕式の場面が映ったときのように、端からするするっとキャンバスを覆っていた白い布を爽は取った。 一瞬、明るい光に包まれている部屋の中が更にその明るさを増し、天から純白の羽根が舞い降りたような白さ、明るさに辺りが包まれたように思えた。
「これが・・・あの場所、あの時の君が感じた、真実の風景・・・。なんだか僕の覚えているのよりももっともっと輝いて見えるよ」 輝き、絵を一言で形容する言葉があるとするのならば、最もふさわしいのは確かにそれだった。
「そう、これが”私”のあの日の光景なのよ。楽しかったから。多分、悠があの場所に来なかったらまた違っていたでしょうけれどね。だって、あなたったら初対面の私の前ですぐ寝るのよ。その寝顔を見ていたらおかしくって、でもなんだかこういうのもありかなぁとも思った。その時。今日は光だな、光のイメージ、ってインスピレーションが湧いたのは」 その時になって寝顔を見られていたという事実に気がついて、僕は赤面した。
「・・・そんなこと言ったら、さやかだって。最初に寝顔を見たのは僕の方だからね」 と反撃を試みる。 「いいですよ。私の寝顔なんて見られて減るものでなし。私は絵描きですからね。見られて困るものは・・・描かないわよ。もちろん自分含めてね。それにしても悠君ったら、かっわいい。寝顔見られて焦っているのね」 と茶化された。分が悪い気がするのは気のせいだろうか。爽はひとしきり笑った後、少し真顔になって問う。 「本当のところ、どうなのかな、この絵。自分としては、割りと良くかけたなって思う。言わずもがなの弁解かもしれないけれど上手いなんて自惚れているわけではなくて。今回は自分の気持ちを描くことに割合成功できたのかもしれない、という意味において・・・ね」 「さっき、あの日楽しかった、と言ったよね。それがさやかの気持ちだったならば、あの光のイメージに前向きな姿勢がすごくよく出ていると思う。プラスのエネルギーが絵から出ていて、これを見たらきっとその時の作者がどんな気分だったのかが見ている人に伝わるはずだよ。だから意図通りに成功しているのじゃないかな。ただ・・・」 「ただ?」 と逆説の接続詞を紡ぐ僕を見て、爽は眉を少し下げる。目の色も心なしか透明感が失われていくようだった。 「いや、そんなに深刻なことじゃなくて。言葉ではうまく言えないのだけど、この絵は強い力を感じさせる一方で、触れるのが怖いような、何かの弾みで壊れてしまいそうな、そんな繊細さも感じる」 「そう・・・」 と先ほどと同じ憂いを帯びた顔で少しだけ俯いてキャンバスを見つめて考え込んだ様子の爽に、不思議と心が波立った。
「えっと・・・、さやかさん?別にこの絵をけなしたいわけじゃないから、気を悪くしたのならごめんね。本当に良いと思うよ。楽しみにしていた甲斐があったよ」 と沈思黙考を続ける爽に耐え切れずに僕が言うと、突然弾かれたように浮上してきた爽は、 「えっ。いや、そうじゃないの。何か言われたから落ち込んでいるとかじゃなくてね。人の意見を聞くと、自分なりにその人の視点に立ってみたり、また自分の視点に戻してみたり、色々と考え込んじゃうの。結構、私って周り見えなくなっちゃうから。それに、熱心に自分の絵を見てくれた人からの意見がどんなものであれ、悪く思うはずなんてないじゃない。そんなだったらもうとっくに絵なんて止めているわ。・・・改めて・・・ありがとう。久しぶりなの。こんなに色々と私の絵について言ってもらったのって。さぁ、それじゃあ今日は絵の完成記念ということで美味しいもの食べに行こうよ。もちろん悠君のおごりで」 後半部分に聞き捨てならない単語が含まれているような気がしたけれど・・・ 「えっ」 と驚く間もなく、腕を捕まれた僕は、部屋からまた灼熱の太陽の下へと連れ出されたのだった。
to be continued...
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