光と闇を抱きしめながら section2
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(2)「風見鶏と彼女の気分」

東京に戻った僕たちはお互いの連絡先を交換して別れた。
10日後・・・
 

『 from さやか sub.出来た!!
こんにちは、さやかです。この前行った場所でスケッチした絵、出来たよ。割と自信作なのだ(エッヘン)。いつでもいいから、見に来て!!』

という内容のメールが、クーラーが停止しておよそ6時間、とんでもない暑さになった部屋で一枚しかかけていないタオルケットまで蹴り飛ばして、それでもまだ惰眠を貪ろうとする僕の睡眠欲を間抜けな着信音と共に吹き飛ばしてくれた。
布団から飛び起きると、着替えもそこそこに炎天下の中に飛び出した。
僕はあの時から、爽の書いた絵を見てみたいと思い続けてきた。
SAYAKAの絵と、あの丘でみた夢が僕に何かを伝えようとしているかもしれない、と。
それには、爽の書いた絵を見てみたい。
爽は、僕が美術館で見たようなトーンの絵を描くのだろうか。
風景画に自分を描くと言った彼女の事が、妙に気になった。
もし彼女の描く彼女自身が暗いトーンの林と海だったら?

 電車で10分・・・駅まで走って滝のように流れ出た汗を痛いほどに効いているエアコンが送る風のおかげでちょうど引き始めた、と感じた頃、目的地である爽の住む街に着いた。
駅前は少し雑然とした様子だった。駅前広場は狭く多くのバスが、一本しかない通りをひっきりなしに行き来していた。電線も無節操と思えるまでに錯綜している。
僕の住む町は、ニュータウンで整然として区画された広い駅前広場とバスターミナルを持っている。その対比が印象的だった。
駅前のバス通りに立ち並ぶ商店街を抜けて、昭和の始めに分譲されたという古い区画の街並みに入る。
今の、詰められるだけ詰め込んでしまおう、というニュータウンとは違って区画の作り方に余裕があり、何より周囲に家には広々とした庭があった。
「涼原」と表札の掛けられた家は、そんな住宅地に中にあった。
壁面は白く塗られて、屋根には風見鶏。昭和の始めに立てられた瀟洒な洋館のような雰囲気。
インターホンを押そうとした刹那、玄関の真上にある屋根裏部屋と思しき場所の窓が開き、そこからあの日と同じような白く、胸の部分に英語がプリントされているTシャツと、あの日より更にラフな膝に擦り切れた跡があるジーパンを穿いた爽が姿を現せた。

「うそっ、悠。メールしてからまだ1時間しか経ってないのに、もう来るなんて。そりゃあね、いつでもいいって打った覚えはあるけど。とにかく。そこで5分間フリーズ。いいこと?」

と慌てた調子で言葉を紡いだ爽は、バタンッと窓を閉めて家の中でなにやら大騒ぎを始めた。
僕はと言えば、海辺の丘とは違いアスファルトに照り返す太陽の光で倒れる前に中に入れれば良いな、と思いながら炎天下に立っている他なかった。
 爽が僕を家に入れてくれたのは、それから10分後だった。

「もう、来るんだったら連絡の一つも入れるのが普通でしょ。こっちだって色々と準備ってものがあるんだからね。でも、まぁとにかくいらっしゃい」

と半ば拗ね、半ば嬉しさを覗かせた口調で爽は言う。

「ごめん。でも、ずっと気になっていたんだ。爽の書いた絵を見てみたくて、メールを見た瞬間からいても立ってもいられなくて来ちゃった。迷惑だったかな」

と、顔色を窺うように尋ねる。よく考えてみれば少し常識外れだったかもしれない。
けれども、僕は何故かここに来ずにはいられなかった、行かなくては、と感じた。
彼女は、笑って

「ぜーんぜん。むしろ、すごく嬉しいな。私の絵をそういう風に待っていてくれる人がいることが」

 爽のアトリエは2階の上、屋根裏部屋にあった。壁紙などは張っておらず、壁は建材の木の板が剥きだしのままだった。掛かっているものもない。一言で表すならば殺風景な部屋だった。けれども、寂しい感じではなかった。天窓から入る光が部屋中を満たし、ふかふかのクッションの中にいるような雰囲気を織り上げていたからだ。

「今、何の色気もない部屋だと思ったでしょ」

と爽は僕の心の中を見透かすように、僕の瞳を見据えて、からかうように言った。

「・・・ちょっとだけ意外だった。アトリエってもっとお洒落なものかと思っていたからね」

「うーん、そりゃあね、お洒落なアトリエがないとは言わないけれども、そういうアトリエって何だか私にはアトリエだとは思えないかも。本当の仕事場って、何かしらそれ以外の要素が切り落とされているものだと思う。その人なりの、その仕事なりの秩序に組み替えられていくの。一見散らかっているように見えても、当人にとっては使いやすい、という意味で秩序があることだってあるでしょ。小説家やライターは。私にとってもそう。アトリエには余計な要素がない方が好き。周りに何かあると目に入って気が散っちゃう。これをこう描こうと思いつくのは本当に一瞬なの、その時に他のものが見えちゃうと、それはするりと逃げて言っちゃう。チャンスの前髪。だから・・・よ」

「でも、なんだかこの部屋光が満ちていて、柔らかい雰囲気がするよ。余計なものがない、というよりはあって欲しいものがある、と思うな」

「ありがとう。そう言ってもらえるとなんだかくすぐったいけれど」

そう言った後、彼女が目をやった先には白い布に覆われたキャンバスがあった。
かなり大きい、1メートル四方はあろうかというそのものには部屋全体がそのために存在していると確かに納得させてしまうような、存在感、説得力があった。
あるべきところにあるべきものがある、安心感とでも形容するのが適当かもしれないと思うほどにしっくりと部屋に溶け込んでいた。
これほど大きいものにも関わらず、僕が部屋に入ってから特に気がつかなかったのがその証左かもしれない。

「これが、その・・・絵?」

「そう。久々の完成品。この頃中々スケッチから完成品が出来なかったから。本当に久しぶりなのよ、こうやって出来上がるのは。だから嬉しいの。見て!」

と、よくテレビのニュースで除幕式の場面が映ったときのように、端からするするっとキャンバスを覆っていた白い布を爽は取った。

 一瞬、明るい光に包まれている部屋の中が更にその明るさを増し、天から純白の羽根が舞い降りたような白さ、明るさに辺りが包まれたように思えた。
そこなに広がっていたのは、鮮やかな光の世界だった。あの丘を俯瞰した視点。真っ直ぐに差し込む陽光を受けて、木々や草の緑はより明度と彩度が高く、風景そのものが光源となっているかのようだった。
そこには、僅かでも影の介在する要素がなかった。キャンバスの左上、下・・・右下・上、中央、どこをとっても明るい緑とその先に広がるスカイブルーの空と緑色の草の色に染められて緑みの青、シアン色をした明るい海。
雲の影はなかったし、木陰も存在していなかった。一言で言うと、コントラストが不在で、ただ圧倒的な明るさがあった。
そして、それは現実的光景としては確かにおかしいはずなのに、本当にそういう光景があるような強い印象を与えていた。

「これが・・・あの場所、あの時の君が感じた、真実の風景・・・。なんだか僕の覚えているのよりももっともっと輝いて見えるよ」

輝き、絵を一言で形容する言葉があるとするのならば、最もふさわしいのは確かにそれだった。
微かな痛みさえ感じかねない明るさ。そこには、彼女の楽しさ、前向きな気持ちが象徴されているようだ。
けれども、ほんの少し、違和感。ひっかかりにしても些細な。
それは、現実の風景との差異の問題ではない、と思う。
もっと本質的な何か、もっと大切な何かがやはりここにはない気がする。
だから、こんなに明るい、輝きに満ちた絵なのに、どこか・・・どこか?脆さがある。
輝き・・・とはもっと・・・。

「そう、これが”私”のあの日の光景なのよ。楽しかったから。多分、悠があの場所に来なかったらまた違っていたでしょうけれどね。だって、あなたったら初対面の私の前ですぐ寝るのよ。その寝顔を見ていたらおかしくって、でもなんだかこういうのもありかなぁとも思った。その時。今日は光だな、光のイメージ、ってインスピレーションが湧いたのは」

その時になって寝顔を見られていたという事実に気がついて、僕は赤面した。
さっきの何かすっきりとしない気分は消し飛んでいた。爽の笑顔には少しでも純度の低い色はどこにも存在していなかったから。
あの日の、丘から見た空のように、海の上をゆっくりと巡るように意識だけを飛翔させて眺めたかもめ視点の海のように、その心地良い微風のように。

「・・・そんなこと言ったら、さやかだって。最初に寝顔を見たのは僕の方だからね」

と反撃を試みる。

「いいですよ。私の寝顔なんて見られて減るものでなし。私は絵描きですからね。見られて困るものは・・・描かないわよ。もちろん自分含めてね。それにしても悠君ったら、かっわいい。寝顔見られて焦っているのね」

と茶化された。分が悪い気がするのは気のせいだろうか。爽はひとしきり笑った後、少し真顔になって問う。

「本当のところ、どうなのかな、この絵。自分としては、割りと良くかけたなって思う。言わずもがなの弁解かもしれないけれど上手いなんて自惚れているわけではなくて。今回は自分の気持ちを描くことに割合成功できたのかもしれない、という意味において・・・ね」

「さっき、あの日楽しかった、と言ったよね。それがさやかの気持ちだったならば、あの光のイメージに前向きな姿勢がすごくよく出ていると思う。プラスのエネルギーが絵から出ていて、これを見たらきっとその時の作者がどんな気分だったのかが見ている人に伝わるはずだよ。だから意図通りに成功しているのじゃないかな。ただ・・・」

「ただ?」

と逆説の接続詞を紡ぐ僕を見て、爽は眉を少し下げる。目の色も心なしか透明感が失われていくようだった。

「いや、そんなに深刻なことじゃなくて。言葉ではうまく言えないのだけど、この絵は強い力を感じさせる一方で、触れるのが怖いような、何かの弾みで壊れてしまいそうな、そんな繊細さも感じる」

「そう・・・」

と先ほどと同じ憂いを帯びた顔で少しだけ俯いてキャンバスを見つめて考え込んだ様子の爽に、不思議と心が波立った。
どうしてだろう。今まで見せてきた明るい顔とは別人のような気さえする。
確か・・・夕焼けを眺めていた時の彼女の顔にもそれと同じような陰翳が見えた。

「えっと・・・、さやかさん?別にこの絵をけなしたいわけじゃないから、気を悪くしたのならごめんね。本当に良いと思うよ。楽しみにしていた甲斐があったよ」

と沈思黙考を続ける爽に耐え切れずに僕が言うと、突然弾かれたように浮上してきた爽は、

「えっ。いや、そうじゃないの。何か言われたから落ち込んでいるとかじゃなくてね。人の意見を聞くと、自分なりにその人の視点に立ってみたり、また自分の視点に戻してみたり、色々と考え込んじゃうの。結構、私って周り見えなくなっちゃうから。それに、熱心に自分の絵を見てくれた人からの意見がどんなものであれ、悪く思うはずなんてないじゃない。そんなだったらもうとっくに絵なんて止めているわ。・・・改めて・・・ありがとう。久しぶりなの。こんなに色々と私の絵について言ってもらったのって。さぁ、それじゃあ今日は絵の完成記念ということで美味しいもの食べに行こうよ。もちろん悠君のおごりで」

後半部分に聞き捨てならない単語が含まれているような気がしたけれど・・・

「えっ」

と驚く間もなく、腕を捕まれた僕は、部屋からまた灼熱の太陽の下へと連れ出されたのだった。
アトリエを出るとき、ちらっと振り返った部屋の隅には端が黒く染められた絵が、覆いをかけられて何枚も重ねられて置かれていて、もう一方の端にはそれとは対極的に何も描いていないのではないかと思わせるほどの眩しい白を纏った絵が何枚かあった。
部屋の中央にはあの日の絵。そのキャンバスは天窓からの陽光を受けて、柔らかな影を床に落としていた。
 
 
 

to be continued...