・・・一つに、清廉たる風の力、神器フォルセティに宿り、光君を導く
二つに、英明なる王の知蔵、賢者の石に宿り、真理を伝える
三つに、地の精なる巨限の魔力、蒼碧の腕輪に宿り、時を渡る・・・
月影に紛れるように、木立の中を風が吹き渡った。
柔らかく、新緑の芽葺きの窺える雪と土の大地を。
音も立てずに二つの影が進む。
静かに・・・しかし舞うように軽やかに。
さわ・・・と一瞬。渦を巻くように風が梢を巻き上げると。
月明かりの下に、陽炎のように、二対の白き影が歩みを止める。
広場のように、大地の肌蹴られた空間の僅かばかり手前。
青白き月光を撥ね返す、銀の衣装に身を包む樹林の舞台に、まるで精霊のように人の手に触れられぬ神聖さをその身に纏わせながら。
遥か天へと聳え立つ険しい山並を背景に、眼下には堅牢な王都の街並が夜の眠りの最中にあり。
ただ、静かに風の音だけを渡らせる山中の、人為的に拓かれたその空間には、朽ちかけた石柱の列が寂れた影を落とす。
山腹の固い岩盤を彫られて築きあげられた巨大な石の門は、そこが古来より人が何かを奉る為の建造物であることを窺わせ、歳月に廃れて尚、荘厳華美な装いを残していた。
「母上。神殿の・・・、門の前には番兵が2人程いるようです。・・・近くの小屋に・・・交代の兵士が・・・4人。」
声変わりもとうに済んだ少年の、甘やかな心地よい声が密やかに紡がれた。
それを受けて、隣に佇む優美な女性の影が静かに、言葉を返す。
「事を荒立てることなく、必要な事のみを成さねばなりません。」
「わかりました。・・・お任せを。」
言葉と同時に身を翻す息子の後ろ姿を頼もしそうに見つめ、フュリーは天高く、静かに冷たい光を放つ月を見上げ、目を細めた。
遠く、大地の全てを照らし見渡す光に想いを馳せるように。
「時を越え継がれる想いは、幾万の光の結晶となり・・・。」
囁くように紡がれる、風の国の王妃の声は、澄んだ空気を鈴音のように飾る。
「それは夜空に瞬く星のように、闇を照らす灯火となるでしょう。」
その言葉はまるで預言か祈りのように、月へと捧げられた。
希望と、願いと、・・・そしてほんの僅かな
哀しみの色を乗せながら・・・
永遠よりも遠い未来
春。
さらさらと、雪融けのせせらぎが朝靄の中で光を瞬かせる、シレジアの春。
その日は、いつにもまして、天気は穏やかで、涼やかな風が雪解水の清々しさと、春の芽ぶきの暖かな気配を運んでいた。
フュリーは幾分昂揚した面持ちで戸棚の中の宝飾品を鼻歌混じりに物色していたが、ふと顔を上げると嬉しそうに鈴色の声をあげた。
「まあセティ、早かったわね。遠慮せずに入っていらっしゃい。」
声と共に、音も無く扉が開くと。今まさに扉を叩こうと手を上げたままの体勢で、驚きに目を瞬かせた彼女の一人息子が姿を現した。
「・・・よく、おわかりになりましたね。」
穏やかな春色の瞳が、母の姿を認めて僅かに心配そうに陰を湛える。
「母上、お身体に障ります。お休みにならなくてもよろしいのですか?」
「毎日身体を休ませてばかりいればかえってよくないわ。たまにはね。」
「まあ、それもそうですね。・・・で、ご用件は何でしょう?」
言いながら、薫る春の気配を纏わせて歩み寄った息子は、”失礼します”と一声掛けて、まるで騎士のような立ち居振るまいで母の身繕いに手を貸した。
「出掛けられるおつもりですか。お望みならば・・・どこへなりともお供いたしますが。」
「あなたは、話が早くて助かるわ。ついてきてくれる?・・・シレジアまでよ。王都まで。」
細い銀色の首飾りを留める手が止まる。
「ご冗談を。」
「本気です。だからあなたが忙しいのも承知でお願いしているんじゃない。」
「・・・。」
言葉に窮したまま立ちつくす息子をそのままに。
王妃は軽い旅装の身なりを整え終ると、窓の外の晴れやかな景色を目を細めて眺めた。
「飛ぶには絶好の日よりだわ。」
「母上、まさか天馬で・・・」
「貴方が手を貸してくれれば、一日で着くことも不可能ではないわ。」
「それは・・・。」
確かに不可能なことではない。が、何より母の身を案じてセティは言葉を詰まらせた。
天駆ける天馬で大空を舞うことは、多くの人間の羨望を受けることである。それゆえに、天馬の産地であるこのシレジアは、他国の人間、特に少女達にとって、御伽の国のように語られ憧れられる地でもある。神秘的な翼の生えた白き馬は、女性しかその背に乗せぬと言われ、雪と風の加護に護られたこの北の地は、大陸南西に位置する森と泉の国ヴェルダンと並び、精霊の住まわる大地と神聖視されている。
だが、天馬に乗ることは人々が想像する以上に厳しい行為でもある。特にこの厳しい北の大地で、高き峰の連なるシレジア山脈を縦断するとすれば、想像を越える高度を滑空することになる。天馬の不思議な翼がもたらす加護を受けて尚、身を切る風は体温を奪い霜を降らす。また、極端に薄い空気はとても人の生命活動に充分な酸素量をもたらさない。それゆえに天馬騎士達は特別に訓練された呼吸法を身につけ、なおかつシレジアを守護する風の神に、巫女として血と祈りを捧げその加護を得ようとするのだ。
当然その、空を舞う能力だけをとってみても個人差は大きい。巫女であるどころか、奉られた風神の祭壇を足蹴にその上で昼寝もしてしまうような姫君のフィーが、幼い頃から「今日は下界のお天気悪いから、雲のお布団の上でお散歩してたのよ。」などという驚異的な飛行能力を発揮していたのは、彼女の乗騎のマーニャの能力は言うに及ばず、風神の不平等な贔屓の賜物であるとしか言いようがないのだ。
つまるところ、一日でシレジアの国土を南北縦断しようなどという発想は、最高位の飛行能力を持つ王妃であるからこそ平然と発言された言葉ではあるのだが。
それでもなお、弱る母の身体を思いやるために、息子が心配するのは当然のことでもある。
「えー、母様ってばお兄ちゃんとデート?いいなぁ、私も連れてってよ。」
ひょっこりと、扉の陰から顔を出したかと思うと、頬を膨らませて乗りこんできたのはフィーだ。
兄の腕に自らの腕を絡ませると、口を尖らせて抗議する。
「お兄ちゃん、春になったら北の泉の青い花、見に行こうって約束してたのに!忙しそうだからって遠慮してた私の立場は何?」
「ごめん、フィー。今度、一緒に行こう。今日は母上の希望だから特別だよ。」
本当に申し訳なさそうに兄は声を落す。生来の性質なのか、明るく屈託なくお転婆なこの姫君は、誰からも甘やかされて育ってきた。にも関わらず、逞しい精神力で世を屹然と渡り歩くこの少女に、特に兄は甘すぎるぐらい甘く、その我侭のほとんど全てを許容しては可愛がっているのだ。それゆえに、逆に妹のほうが自覚なき自己犠牲精神の甚だしい兄を気遣い、色々と気をまわしているという構図がある。
だが、あくまでも自然体で感情を表現する彼女は、自分の好きな母と兄が揃って自分を置いて出掛けるという事実に不満を隠そうとしない。
「す、すねてやる〜。」
まるで小動物のような身体の柔らかさで、母の寝台にちょこんと座ると枕を抱きしめ丸まり転がる娘の姿に、王妃は思わず笑いを零した。
「まあ、本当にお父様そっくりね、あなたは。」
「はあ?」
母親の言葉に、素頓狂な声を出して固まる娘を後目に、王妃は機嫌も良く早々に外出の準備を整えてしまった。
「フィー、お留守番をお願いね。それと、貴方の天馬をちょっと借りてもいいかしら?」
「うーん、母様のお願いだから仕方ないけど・・・、留守番かあ。フェミナと一緒にホークつついて遊ぶかなぁ・・・。それともアーサーの奴、どつきに行こうかな・・・。」
早々と部屋を出る母親の後ろ姿を見送りつつ尚、口を尖らせたままの妹の言葉に、兄は苦笑を湛え、宥めるように近づくと、それでも穏やかにたしなめる。
「こら、フィー。彼らも忙しいのだからあまり邪魔ばかりしては・・・。」
「お兄ちゃん。」
「ん?」
「母様をお願いね。」
心配そうな声色。
何だかんだと物を言いつつも、つまるところ母の身を案じているのだ。
「・・・ああ。わかっている。」
優しく微笑み返す兄の姿を見れば、心配事など全て杞憂にすぎないと心が晴れるのが常ではあるが。
フィーの表情は何故か不安に彩られたままだ。
「お兄ちゃん。夢を・・・見たの。」
「夢?」
「ううん、ごめん、こんな心配するなんて、私ってば変よね。母様も、お兄ちゃんも・・・。」
私を置いてどこかに消えちゃったり・・・しないよね?
母子は質素な旅装を整えると、トーヴェの村の館脇にある厩に出た。
厩と言っても、賢い天馬達を繋ぎとめることはせず、基本的に天馬は自由に野山に放たれている。ここは彼らの寝所であり、かつ待ち合わせ場所のようなもので。澄んだ小さな泉と雨避けの子屋根の下に、柔らかなまぐさが敷かれただけの簡素な造りである。
王妃が出てくるやいなや、呼びもしていないのに、一頭の天馬が青き天空に姿を現し舞い降りてきた。
「おねえさま。ごきげんよう。」
服の裾を僅かに手繰り上げ、軽く足を曲げて貴族式の礼をする。
娘の乗騎である天馬のマーニャに対して、王妃はいつもこのような態度をとる。それは、天馬の名にあるように、かつての内戦で命を落した彼女の姉の姿をこの白き天の御使いに投影しているのであろうと、周囲の者に評される行為ではあった。
「セティ、あなたは確かフィーと一緒に、もう幾度か、天馬に乗ったことがあるのよね。」
「ご存知でしたか。すみません、フィーが乗せてくれると言うものだから、つい・・・。」
元来天馬は女性しかその背に乗せない。それゆえに、例え天馬が許し、特別な理由があったとしても男性がその背に乗ることは、シレジアの礼法に反することなのだ。
「いいのよ。あなたはね。・・・望めば、シレジア中の天馬が貴方のために背を空けてくれるでしょう。あなたのお父様と同じように。」
「それは・・・光栄なことですが。」
涼やかな声に戸惑いを滲ませる若き王子に、王妃は緩やかな微笑で返す。
そのまま、病床の身体であることが嘘のように軽やかに天馬に飛び乗ると、長く美しい髪を風になびかせてフュリーは気持ちよさそうに目を細めた。
「さあ、行きましょう。セティ。」
「お待ち下さい。母上・・・、あの何故、帯剣しておられるのですか、そのような・・・。」
颯爽と天馬に跨る母の装束を見て、その腰に下げられた剣に、いつそれを指摘すべきか否か、迷っていたようである息子が声を上げる。
「まあ、セティ、騎士であるならば騎乗、外出に剣は必須。何をそのようなことで慌てるのです。」
「・・・はい。いや、構いませんが・・・」
少々、納得しかねるといった表情ではあるが、母の意思を尊重しようというのだろう。
セティはそのまま何も言わずに天馬に飛び乗った。体重すらも感じさせずに、それはまるで羽毛が地に舞い落ちるような感触で。
二人の貴人を背に確認すると、天駆ける天馬は、前足をあげ、翼を2,3回はためかせると天空に舞いあがった。
螺旋を描くように高度をあげていくと、眼下の景色はあっというまに、広大な山野に埋もれ。美しい春の煌く陽光の中に絵画のように動きを止める。
「シレジアまでは距離にして一日半程ね。」
「では予定通り風の助けを借りましょう。・・・一日掛からずに着くはずです。」
言葉と共に、セティが軽く右腕を振るうと、天馬の翼は目に見えぬ力に支えられるように僅かに震え、急激に飛行速度を増しはじめた。雲を切り弾き、大気が流線を描く。だが、背に騎乗する親子の周囲は、あくまでも穏やかなまま、地にいる時と変わらぬ程に一髪の乱れも起こらない。
「・・・セティ。気遣いは嬉しいけれど、あまり無理をしてはだめよ。」
「ご心配なく。これしきのこと、さしたる負荷ともなりません。」
涼しい顔で変わらず、穏やかな笑みを湛える息子の表情を確認すると、フュリーは安心したように小さく吐息をついた。そのままゆっくりと背を凭れかからせるように倒すと、ふわりと暖かい温もりに抱き止められる。
「母上?」
子の成長は早い。背に受けるその温もりを確かめるようにフュリーは目を閉じた。
日々、見守り続けているとはいえども、知らず幼かった我が子が、急に一人前の姿と変じたかのような感慨。
「母上こそ・・・どうかご無理はなさらないで下さい。フィーもとても心配していました。」
「・・・。」
「夢を見たのだと言って・・・。」
「夢?」
「・・・私も、夢を見ました。」
「・・・。」
「今までにも幾度か、時折・・・。繰り返されるものですから、ご相談しようかと思いつつ、詮無いことかとも思えて・・・。」
「呼ばれたのですね?」
「・・・。」
母親の痩身を包むように抱きとめる腕が、僅かばかり感情を宿して揺れる。左手首の聖印を隠すように伏せながら。
「・・・、抗える限りは、抗うつもりです。ですがもう・・・。」
「良いのです。時が・・・、近いのでしょう。」
母の声色は変わらず穏やかなままで、むしろ珍しく不安を露わにする息子を慰めるように優しく響く。
「・・・母上・・・申し訳ありません。私は、どうすれば・・・。」
「貴方が思うようにすれば良いことです。ただ、それが自分の意思であることに確信が持てぬのなら・・・。」
「・・・。」
「いえ、そうであればこそ貴方の助けとするためにも、貴方に渡しておきたいものがあるのです。」
「母上?」
「行き先は・・・。」
「シレジア王都北の岩窟神殿よ。巫女として・・・母として、貴方への・・・最期の贈り物を・・・。」
静寂と月明かりの最中。
ただ、緩慢と任務にあたる彼らにはそれは風の遠き音色に聞こえたかもしれない。
突如として急激な睡魔に襲われ崩れ折れるも、大地にしたたかに頭を打ちつける前に、風の揺り篭に抱き止められ。形ばかりにも神殿を守護する兵達は、思考が認識へと至る過程を経ずに、その役割を放棄することとなった。
王都近郊、隠された神殿を内部に抱くシレジア山脈の最西端の山塊の端に、舞い降りた時刻はすでに夜半となってはいたが。こうして予想外にも賊のような行いを強いられることになった状況においては、かえって都合は良いと、セティは伏せた瞳の内に苦笑の色を浮かべた。
人の訪れることのない寂れた至聖所と言えども、今や帝国支配下にあり、ロプト教団の管理の元にある。片やそこを訪れた彼らは、宝殿の元来の主であり、同時にそこを守護するべき血脈を汲む者でもあるが、今は天下の賞金首であり、彼らの身を狩ろうと狙うならず者や賞金稼ぎ、ロプト教団から派遣される刺客らに常に狙われる身だ。幸いにも彼らを慕う旧シレジアの国民達や、周囲の友人達、シレジアの自然という地の利にも助けられ、彼らの日常は概ね穏やかなものではあったのだが。
いたずらに騒ぎにしてはならないと、守備兵のみならず、詰所に控える兵士達にも思念を飛ばし深き眠りへと誘うと、セティは愛用の小振りの聖杖を振り、石門の周囲に簡単な結界を張った。
「母上。どうぞこちらへ。」
息子の声に促され、月影の内より姿を現した母の姿は月光を輪郭に滲ませ、女神さながらの陶然とした美しさを放っている。容貌の良く似たと評される彼女の息子にして、その姿に思わず目を細め見入る程のそれは、例えるならば死を前に最期の光を放つ蛍のように儚く、絶としたもので。むしろその違和感に、不安になったセティが手を伸ばし肩口を抱き寄せようとするも、それを躊躇させる程の神威があった。
「人の精神を掌する術は負担も大きいもの。セティ。自身の限界を知り、身を制御することを常に怠ってはなりませんよ。」
「心得ています。」
石造の扉に向かう母に道を空けながら僅かの間、セティはただ一つ、疑問を口にすべきかどうか逡巡した。
母が病床の身を押して、急に遠出すると言いだした時は、母の願いであれば何も問わずに叶えてやるべきだと判断したのだが。その実、このような場所に自らを導いたのは自分に何かを伝え、託す為だという。一瞬、幼い頃に父が自分に神器継承をさせた時のことが思い出されたが、同時に母が導くこの地に眠るものが何か、彼にも思い当たるものがない。
いや、それよりもむしろ、まるで遺言を託すかのように”最期”と言った母の言葉を確認する不安が、彼を躊躇させたと言えるかもしれない。母の身に負担がかかるようであればむしろ、何かを得ることよりも今すぐにでも母を連れ帰るべきなのではないか、と。
神器継承を成した後、彼らの前から姿を消した父のことを思い返す度に、別れという認めたくない現実への警鐘が、彼の中で恐怖を伴って蘇る。
「貴方の能力は高すぎるがゆえに、貴方の身を滅ぼしてしまいかねない。・・・ここに私が来たのは・・・、」
隣に楚々と佇む息子の揺れる不安を感じたのか、フュリーは静かに口を開いた。
重く巨大な石造りの古びた扉に、王妃が手をかざすと、さしたる力を加えもせずに扉は内へと重苦しい音を立てて開いた。まるで真なる主の帰還を祝すように。
「・・・私から貴方へ、巫女として、使命の承継であると同時に。」
漆黒の、暗く冷たい闇を背景に、王妃はじっと息子の碧色の瞳を覗きこむ。数多の想い、願い、意思をこめて。
「”あの方”への最初で最後の反抗かもしれませんね。全ては貴方を護るため。母として・・・。」
暗き回廊は長く闇を纏い、重く湿った黴臭さが長き歳月の封印を窺わせた。
空間の大小も把握できぬ暗闇を、惑うことなく凛と歩む王妃の足取りは何の不安も感じさせない。ただ足音を弾く澄んだ反響音から、横幅にして人5・6人分、縦幅にして2人分程の空間が広がっていると取れるだろう。
後ろに添い従う若き王子にとっても、闇は歩を進める妨げにはならない。だが、それでも母を案じて僅か声を潜めてセティは問いかけた。
「母上。お待ち下さい。御足元に光が必要でしょう。」
「・・・いえ、セティ。視界を・・・開けば逆に貴方が心配だわ。」
「・・・母上?」
「動かないで。」
突如。
歩みを止めた母の声に、問い返そうと声を上げかけたまま。
後ろに寄り添う暖かな風の気配が小さく息を飲み、凍りつくように固まったのを感じ、フュリーは腰の帯剣を静かに抜いた。
軽い金属音。そして・・・僅かに・・・。
「は・・・はうえ。」
「大丈夫。さしもの貴方でも気配を察知できぬ程なればこそ。闇を徊する汚らわしきものから、貴方を護るのは私達騎士の役目・・・。恐れずに。歩みなさい。その身、その血の一滴たりとも貴方に触れることはないでしょう。」
言葉と共に闇の中を一筋の流線が銀色の光を放つ。同時に右手前方に、裂かれ吹き飛ばされた小さな物体が床を打つ音が続いた。
「あ・・・。」
気付けば四方八方より、そぞろに床を這い、鱗を鳴らす擦れた音。
時折身近に、天井より幾体か地に落ち蠢く気配が重なる。
歩みを進めるより以前に、足が地に縛りつけられたかのように立ち尽くす風の神子の周囲を、暗闇の中、舞うような剣撃の鋭い弧が幾筋もの軌跡を描いた。
「セティ!」
「あ、は・・・い。」
勇気を振るい、再び奥へと歩みだす我が子の傍ら、気配だけで剣を振るい障害を取り除くその王妃の振る舞いはまるで手馴れたもの。
「おそらく帝都の教団の者がすでに神殿を調べたのでしょう。しかし、奥の間へは巫女の血脈に連なる者しか開けられない。それゆえに、このような汚らわしき生物を放ち道を封じたのです。」
激しい運動にも息一つ乱すことなく、その声色は静かで穏やかなままだ。
初めて、セティは自身の母親たる王妃が、恐るべき剣技の使い手たる事実を眼前にした気がした。彼女はかつてかのバーハラの激戦を生きぬいた勇士であり、シレジア最高峰の天馬騎士である。母に憧れる娘のフィーの、天馬騎士としての近時の成長は著しいが、病床に伏すこの母の真実の能力を知る者は今は少ないだろう。妹に、語って聞かせてやりたい気もするが、正直、暗闇の中で庇われるだけの我が身の無力にセティは参ってもいた。
気配を探ろうにも、風は四方も上下もわからぬほどに惑い、刃を飛ばそうにも力が籠められない。かの生物・・・蛇に対する、別人のような己が無力を認識したのはこれが初めてのことではない。しかし、今ほど、それが決定的に自身の弱点となりえる事実の恐怖を痛感したこともない。高すぎる己が能力に日頃安寧とし、立ち向かうべき事実から目を逸らしてはこなかったか、自問が頭を巡る。今この場で、母がいなければ、自分は闇を切り抜ける力がないのだ・・・。
「祭壇の間の扉が近いわ!セティ、開錠の術は唱えられそう?」
「え、ええ・・・。」
暗闇の中、よろつく足取りのままに、手を伸ばすと再び重い石扉の気配が間近にある。
触れる一瞬手前にフュリーの描く銀弧の軌跡が、扉の前で舞った。
恐らくは、扉に絡みついていただろう幾体かのそれらも、闇の中、セティ自身には僅かも触れることはなく周囲に散り飛んだようだ。正確に彼の身を護り続ける母の腕を信じているとは言えども、周囲に満ちる生暖かい気配と、鱗の擦り合わさる音の重なりを聞くだけで、セティはおぞましさに今にも力が抜けて場に座り込みそうになった。母の手前、そのような醜態を晒す訳にはいかないという自負のみで耐えてはいたが。
重く苔むした石扉の手触りを確認すると、心の中で可能な限りの短縮詠唱を試みる。
と、間も置かず、重く軋んだ音を立て扉が奥へと道を開けた。
その僅かな隙間から滑りこむように。
母子は揃って祭壇の間へと飛びこんだ。
「・・・。」
「セティ、大丈夫?」
「・・・ええ、申し訳ありません、母上。このような・・・、恥ずべき姿をお見せすることになるなんて・・・。」
祭壇の間を封じる重い石造の扉を再び閉め、場が静寂を取り戻したのを確認して、セティは懐から愛用の小振りの杖を取り出すと、光呪によって場を照らしだした。
必死に平然を装っているものの、その顔は今だ青ざめ、ほんの僅かに肩口に震えが残る。息も若干上がっているようであった。
「恥じ入ることなどありません。・・・仕方がないのよ、あれは。貴方のお父様も同じでした。よくこのようにしてお守りしたものです。」
「・・・。」
「でも、これからいつも貴方を護る者がいるとは限らないことを自覚しなければいけないわ。」
「・・・はい。」
「貴方自身が護らねばならぬ者があるならば、尚更のこと。」
「・・・。」
「・・・大丈夫、貴方はきっと克服できると信じています。だって私の息子ですもの。」
にっこりと。普段余り見せぬ王妃の、力強い笑顔に、セティは随分と励まされる心境だった。
最近特に、彼の内を支配し湧きあがる、彼自身も説明の出来ない衝動に、人知れず振り回されることが多くなっていたせいもある。それは時には夢の形をとって現れ、時には左手首の聖痕の、痺れるような疼きであったりする。根拠の無い、”光”への強い渇望、焦燥感にも似た使命感。蛇に対する極端な嫌悪感も同様だ。いや、根拠は常に彼の左手首のそれに刻まれてはいるのだが。
気を抜けば知らず、人知の外、大いなる秩序の支配する力の世界へ引き込まれそうになる彼の心は、”母”の存在によって、人の世に引き戻されることが多かった。自分を”人”たらしめてくれる母の存在。自らの身の内を流れる母の血が、いつか、自分を救ってくれる最後の砦となるような気がする。
「母上こそ、お身体が心配です。・・・ご無礼お許し下さい。」
そう言ってセティは、剣の血糊を払い腰に納める母の痩身を抱き寄せた。弱る身とは思えぬ剣技を見せた母ではあるが、痩せた身体は彼の腕の内にすっぽり納まり頼りが無い。知らぬ間にまた、痩せたようであった母の身に、セティは複雑な感情を瞳に宿した。
「まあ、怪我などしていないのに。」
自身を柔らかく包む暖かな癒しの気配に気付いたのか、フュリーは既に己より背の高い息子の顔を見上げ、次いで顔を僅かに赤らめて俯く。少年であった彼女の息子が、一体いつの間に一人前にも男を感じさせるようになったのか。成長期にある我が子の姿に知らず感慨に胸が熱くなる。
幾千・・・幾万に分岐する可能性の未来の中から、産まれ出で。そこにあることが、さも当然であるかのような顔をして、今ここに在る奇跡。
その現実の神秘への感慨は、親となった者にしかわかりえぬ密やかな感情だろう。
「詠唱もせずに術を行使するなど、一体いつからそのような事が自由に出来るようになったのです。貴方は。」
半ば照れ隠しのような勢いで、フュリーが呟くと、身を離し、光呪を周囲へ広げながらセティは苦笑した。
「いつからと言われれば以前より。・・・ただ近頃、詠唱技術の研究に特に取り組んでいたこともあって、だいぶ安定するようになりました。」
そう言ってから一息呼気を整えて、セティが聖杖を高く掲げ、周囲を見渡すと今度は祭壇の間全体が、穏やかな光で満たされた。
さほどの広さはないだろう。故郷の村にもある小さな石造の教会程の空間は、長く人を迎え入れたことがないのか、今にも崩れかかりそうな石壁が補修されることもなく、湿った苔と黴の独特の臭気に満ちていた。
中央の小さな祭壇には錆びて朽ちかかった青銅の宝物箱が、ひっそりと捧げられている。
「母上・・・一体あれは何なのです?」
「貴方は仮にもこのシレジアの王子であるのですから、この国の至宝についての知識はあるわね?」
息子を場に残し、フュリーは一人祭壇へと歩み寄りながら確認するように背後の王子に問いかけた。
「ええ、もちろんです。シレジアに伝わり、王家と巫女達が代々守り続けてきた3種の至宝・・・。」
シレジアを象徴する国宝。
”神器フォルセティ”は今、彼の手に在る。
求める者にあらゆる知識を授けると言われる王の証。
”賢者の石”は、彼の父、消息不明である現国王が子供の頃、祭典時に貴族達の目の前で粉々に割ってしまったというのは、今だに王の放蕩遊惰ぶりを揶揄する例え話の一つに語られる有名な話で、既に現存していないことは明らかだ。
残るのは・・・。
「まさか・・・。」
「貴方の想像通りよ。」
「いや、でも母上。あれは・・・。」
最後の至宝。
”蒼碧の腕輪”と以前は呼ばれていたそれは、祭具としての性質を持つもので、歴史的には巫女達の祈りとシレジアの大地の力の象徴とされてきたものである。長く、祈りを受け続け、北の大地の魔力を緩やかに吸収してきた宝珠の嵌め込まれた腕輪は、巨大な魔力を内在させる秘宝となり、シレジアを代表する至宝といつしか呼ばれるようにもなった。このように、長き時を経て魔力を帯び秘宝となったものは、何もこの国だけに存在するものではなく、各国それぞれに姿形を変え伝えられていることも多い。また、大なり小なり、こうした歳月の魔力の蓄積を帯びた品が、聖杖や魔導具に宝珠として使用されるものだ。
だが、同時にこのような品は、強力な魔力を有するがために、恩恵をもたらす宝となるとばかりも言えないことがある。事実、かつて至宝と呼ばれたそれは、ある時から呪いの腕輪と恐れられるようになった。身に着けた者の魔力、ひいては生命までをも奪うようになってしまった為である。
シレジアの巫女の家系でもある現王妃の時代には、既にこの宝は、封ずるべき危険な魔導具として巫女達の手によって厳重に封印され、王の命なくば封を解く事が許されぬ、最も厳格な取り扱いが必要とされるものだったはずである。それだけの注意を払って、選ばれた者にしか封を解く能力が与えられていないからこそ、帝国管理下において荒らされることなくこうして残されたとも言えるのだが。
「・・・。」
それを自身に承継させようとする母の意図を察しかねて、セティは沈黙のうちに思考した。
一方で、王妃は静かに祭壇の前に進み出ると、両膝を着き、両腕を胸の前で組む祈りの姿勢をとる。
「・・・まさか再び、このような仕事をする日が来るとは思いませんでした。」
僅か、祈りの時間の後に。
両腕を付きだし、ふ、と見えない鍵を回転させるように回す。
と。
ガラスが割れたような甲高い反響音が、一瞬、空間全体に満ちた。
恐らくは、巫女の血脈を汲む者にしか外せない錠を解いたのだろう。
その後少しの間、何を思うのか、王妃はその場に沈黙を保ったまま座していたが。
意を決したように立ちあがると、祭壇に捧げられた青銅の小箱を手にした。
「では、セティ。これを貴方に・・・。」
「・・・っ?!・・・いけません、母上、動かないで!」
「?!」
突如慌てたように声を上げるセティの声に、フュリーの動きが止まる。
「セティ?」
「次元結界が張られていたようです!下手に動くと次元の狭間に落ちてしまいます。母上・・・少し、お待ち下さい・・・。」
セティは声と共にゆらりと、僅かばかり空に身を委ねるように預け、目を閉じる。
彼の言葉がなければ、何の変哲も無い、先程と変わらぬ空間。
だが王妃のいる祭壇を中心に、そこには今、目に見えぬ結界が作動し、複雑な魔力の力場が侵入者を排斥しようとしているらしい。
離れた場から、解呪の法を探るつもりなのだろう息子の姿を確認して、フュリーは祭壇の前で小さく溜息をついた。
身の周囲をじりと、奇妙な摩擦感のような気配が満たしているのがわかる。
「・・・あの方の仕業ね。」
「・・・ああ、このような・・・、複雑な印を視るのは初めてだ。」
目を伏せたまま天を仰ぎ、見えぬ何を見ているのか。セティが眉根を寄せて困ったように呟く声が聞こえる。
「セティ・・・。」
このような事態が起こる可能性は、彼女には充分に予想出来たことではあった。何故ならこの国の王自身が、その秘宝の宿す可能性、力を恐れたことを王妃である彼女は良く知っているからだ。
これは長期戦になるか、いや、結界を張った人物が何者であるか思えば、破界は不可能かもしれないと。半ば我が身の諦めを感じたフュリーが、せめて腕輪だけは息子に託そうと思いを巡らせ始めた頃だった。
結果は彼女の予想を遥かに上回る速さで、有能な息子が導いてくれたようだ。
「母上、ご心配なく・・・、そろそろ、・・・ああ、視えました。大丈夫。・・・この道にいたしましょう。」
まるで、奏楽の指揮者がタクトを振るような素振りで、目を伏せたままセティは腕を振る。
恐らくは風を手足のように操り場を読んでいるのだろう。
「よろしいですか?母上。・・・今から私が言う通りに、歩いて下さい。結界の出口までご案内します。」
「ええ、わかりました。セティ、お願いします。」
「今いるその場より、後ろに2歩・・・丁度足幅です・・・、そこから右へ3歩・・・肩幅より拳一つ分狭く・・・そうです。」
傍から見ればそれは不思議な光景であったに違いない。さほどの広さもない石室の中。息子の指示に従い、青銅の小箱を手に持ったまま、フュリーは慎重に、かつ恐るべき正確さで歩を進めていた。
それは恐らくは、後ろ向きに、見えぬ綱を渡る芸当に等しい精度を要求される行為なのであろうが。
「後ろに・・・2歩、左に・・・ここは拳3つ分です・・・1歩、そう。・・・それから・・・」
「・・・。」
「母上、あと少しです。ですがここは少々、難度が高いですから、くれぐれも慎重にお願いします。」
「どれぐらい?」
「今お履きになっている靴の、爪先・・・親指一つ分しか”道”がありません。」
「わかりました。」
要求する側も要求する側だが、平然とそれを受け入れる側の神経もかなりのものである。
す、と美しく爪先立ちの姿勢を取るとフュリーは静かに息子の言葉を待った。
「では。・・・そこから後ろへ真っ直ぐ7歩、歩幅にして丁度、母上の御身足2つ分です。」
「1・・・2・・・・」
・・・3・・・4・・・
まるで踊る劇場のプリマドンナのように。膝を深く曲げて一歩、重心を正確に移し、振り子のように残る足を伸ばし・・・。
・・・5、6・・・
「・・・7・・・っ!」
「はい、到着です。母上、お帰りなさい。」
ふわり、と。
最後に後ろから柔らかい風に抱き止められる。
暖かい胸の鼓動。包み込む腕の優しさ。
耳元に安心したような息子の吐息がかかり。
重い水の中から突然外界に放り出されたような感覚を感じる。
どうやら、上手く、結界の外へ抜け出したようであったことが、フュリーにはわかった。
「大丈夫ですか?母上。」
「・・・見事です、セティ。お父様の封をこうも簡単に破るなんて、・・・成長しましたね。」
目を細めて母に誉められ、流石にまんざらでもないのか、セティの白い頬に珍しくほんのりと赤味がさした。
「・・・そんな、とんでもないです。中にいらしたのが母上でなければ、別の法を探らねばなりませんでしたから・・・。」
結界の外に無事に退避したことを確認し、フュリーは手に持った、錆びた小箱を開いた。
中には、実に簡素な造りの、細い銀色の腕輪が一つ。小さな台座に、小石程の大きさの蒼碧の宝珠が嵌め込まれている。
不審の面持ちで慎重にそれを取り上げたセティが、四方から眺めまわすのをしばらく見守り、フュリーが口を開いた。
「どうかしら?セティ。」
「・・・ええ。外部からは、不思議な程に一切の魔力が感じられません。これが、道端に落ちていようと、店先で売られていようと、誰も、魔法の品であるとさえ気付かないでしょう。」
「・・・。」
右手の親指と中指で対極を挟むように持ちかえると、輪の中を覗くように腕輪越しに母を見る。
「しかし、御覧ください。腕輪の内側です。・・・。非常に、強力な、次元断層が生じています。・・・強い力だ。」
そう言いながらセティが腕輪の輪の上に左手をかざし、数度扇ぐように往復させると、薄く風の流れが渦を巻くように、輪の周囲からその内へと引き寄せられ、流線を描く様が視認出来るようになった。
「母上・・・、歴史上警告されてきたように、これはとても危険な呪物です。誤って人が身に付ければ死に至り、内在するこの力を悪意あるものが使用すれば・・・。」
「それはセティ、貴方が自らの意思で管理すべきものですから心配していません。それに、貴方なら、それを身につけても問題ないはずです。」
「母上、しかし・・・。」
「事実、貴方はかつてこの腕輪を嵌めたことがあるのよ。それもほんの小さな赤ん坊の頃に。」
「え?」
流石に予想外の母の答えであったのだろう。2、3度、目をしばたたかせてからセティは母を凝視した。
そんな息子の反応に楽しそうにフュリーは笑い出す。
「思いだすわ。あの頃から貴方は本当に育てやすい親孝行な子で・・・。」
夜泣きもせず、いつもおとなしく大人達の話をじっと聞いているような、セティはそんな赤子らしくない穏やかな赤子と評されていた。
自身の幼い頃の話をこうして母の口から聞くのはとても珍しい。母がこうして楽しそうに過去の話をすること自体が珍しいことなのであるから、セティには少なからず、語られる全てに興味があった。その時代の話について聞くのは全く初めてという訳ではなかったから、多少当時の状況について理解はある。
シレジア内乱平定直後の長い冬。グランベルの有力な公爵家、シアルフィ家の公子シグルドの話。母の口から今までもまれに語られることのあった過去の話は、現在歴史として語り継がれ記録されている事実とは、随分と異なるものである。フィーなどは、語られるシグルドの悲劇の英雄像にすっかり心酔し、幾度も母親に当時の話をせがんだりしたものだが、その度に母がいつも哀しそうな顔をするものだから、いつのまにかねだるのをやめてしまったようだ。
セティは、シグルド軍がシレジアに庇われていた時代。シレジア内乱終結直後に産まれていた。父母と暮らした乳児時代が約半年。その後、当然幼すぎたためにバーハラ遠征へ従軍した父母とは離れて半年以上、彼の面倒は祖国シレジアの前女王。ラーナ王母が見ていたらしい。
「あなたはいつも、まるで大人達の話がわかっているみたいに聞き分けの良い子だったわ。本当に、あの頃から言葉がわかっていたのかもしれないけれど。」
「・・・そんな訳がないでしょう。」
セティが思わず嘆息して返すとまた、フュリーは少女のように楽しそうに笑い出した。
「お父様のことが大好きで、しがみついたまま離そうとしなかったわね。それが貴方の唯一の我がままで・・・」
「・・・。」
その頃から。そうだったと言われても、自分で自分に呆れるしかないだけで、セティにとってはもう不可抗力の領域である。
「それで、問題が起こったのは冬が明けたばかりの頃ね。突然、おとなしかった貴方が泣きやまなくなって・・・。レヴィン様も私もつきっきりであやしたのだけれど、私達を離そうとしなくて、・・・結局シグルド様の出発をひと月ばかり遅らせるほかなくなったのです。」
「・・・。」
「今から思えば貴方は、当時、すでに予感していたのでしょう。シグルド様達の悲しむべき末路を・・・。」
「・・・いえ、母上。今から思わなくても・・・あの、そんなことがわかる訳ありません。・・・本人が違うと言っているのだから信じてください。」
実の母親にして、赤子の自分に何か特殊な能力があるかのように語られても、自覚無き当人としては否定する他ない。
赤子の自分が。駄々をこねて一軍の行軍を遅らせるなどという展開自体。信じがたいような、話の流れである。
「それで母上。腕輪と私の関係は・・・。」
「ええ、つまり、それで、泣きやまない貴方に困り果てたレヴィン様が、腕輪の封を解く許可を出し、・・・腕輪の力によって貴方をおとなしくさせてやっと、私達は旅立つことが出来たということよ。貴方には申し訳ないと思ったのだけれど、あの時は、仕方がなかったのです。」
「・・・。」
しばらく。言葉もなくセティが黙りこんだのは、さしもの賢明な彼と言えど、混乱に支配されたためかもしれない。
話の流れは実に簡明だが。
赤子の自分が駄々をこね、両親を困らせたのは理解した。それが理由で、シグルド公子の行軍が遅れたというのも、何か極端で理屈がまとまらない感もあるが、当時の様々な事情を窺い知ることのない自分に判断しきれるものではない。
だが、いくら泣きやまぬ赤子に手を焼いたといえど、命に関わる危険な魔導具を幼き我が子に、それも長き歳月の封を破ってまで、与える理由があるのだろうか。
「母上・・・。」
「私はとても心配したのですが、レヴィン様が大丈夫だとおっしゃるものですから、信じるほかありませんでした。」
「・・・。」
「ラーナ様のお話では、その後特に貴方の身体も問題なく・・・、ただ置いていかれた貴方はその後ずっと放心状態のように無口だったみたいで・・・思いだすと本当に、母として、申し訳なかったと反省しています。」
「母上、一つだけ質問をお許し下さい。・・・私が泣きやまなかったのはわかりましたが、それを腕輪の封を解く原因とするにはあまりにも根拠薄弱ではありませんか?」
「あら、まあ、セティ・・・。」
息子のもっともな問いを受けて、フュリーは初めて大切な事を言い漏らしたことに気付いたのか。それとも、息子に自覚がなかった事実に気付いたのか。大きな翠色の瞳をぱちぱちと動かした。
「だって貴方・・・、貴方が泣きやまないおかげで、春の街道は閉ざされてシレジアのあらゆる交通路は遮断されましたし、もちろん、天馬が飛べる状況でもない上、溶けかけた雪山は相次ぐ吹雪で雪崩続き。もちろん春も近く食料の備蓄も底をつきかかっているのに、そのような真冬の嵐に一月近く襲われてごらんなさい。」
「・・・。」
「王都にいながらにして遭難。シグルド様達の軍など、戦わずして危うく死者が出るところで、大惨事寸前だったのですよ!赤子の貴方に罪はないと言えども許されることでもありません。」
「・・・。」
沈黙。
あっけにとられたように固まり尽くす我が子を見て、フュリーは仕方がないわね、というように苦笑を浮かべた。
セティはと言えば、最後に絞りだすように声を紡ぐのが精一杯の様子である。
「母上・・・あの、しかし、お言葉ですが、私には決して天候を操る力も天災を呼ぶ力も・・・。」
「セティ。貴方に振り回された私達が貴方の事を一番理解しています。知りませんでした、では済まぬことが世の中あるのですよ。」
「申し訳・・・ありませんでした。」
おおよそ、納得できるとは言い難い内容に混乱したまま。
とりあえず自分が過去に何か厄災の原因であったらしいという事実に、セティは一応頭を下げておくことにしたようだった。
「・・・。」
その後沈黙のままに腕輪を見つめる息子の様子を、フュリーは目を細めたまま見守った。
意を決したのか、セティは目を僅かに伏せ、腕輪の留め金を外す。母の意思、その意図を汲み取ったのだろう。
それを己が手首、・・・左手首にあてがう。
・・・聖痕。
神の血脈を汲むと言われる神聖の証。
特に神器を使いこなす選ばれた直系嗣子にしか現れぬ、黄金の輝きを持つそれは、国や民族を越えて畏敬と信奉の対象とされる聖者の証と言われてきた。
しかし。
それを持つ者の、言い知れぬ複雑な心の内幕を、・・・この母は何も言わずに理解していたのだ、と。
改めてセティは自らの左手首の内に刻まれた刻印を見つめながら思った。
そう、それは、彼にとっては”刻印”だ。
逃れえぬ、見えぬ巨大な力と意思に、聖痕を通して常に監視されているような感覚。拭い去れぬ渇望と使命感に支配される感覚。
それは人知を越えた巨大な理力を彼に与えてくれると同時に、目に見えぬ糸で常に彼を操り、意思を送り続ける。
自分という存在が、自分のものではない。自分の意思すらも、自分のものではない。
それは自我への確信を打ち砕き、存在への不安を影のように心に落とし続ける”刻印”であった。
そして同時に。
セティの瞳が僅かな躊躇に揺れる。
この呪わしき痕は、甘い期待を彼にもたらすものでもあった。
この刻印が、今は彼と父を結ぶ、最後の絆である、と。
・・・いつの日か。自分の存在が必要だと。力が必要なのだと。
父が。・・・自分を。・・・求めてくれるのではないかと・・・。
「セティ!」
「・・・はい。」
一瞬脳裏をよぎる甘やかな想い。それすらも。意思の支配の一環に近しいと。警鐘を鳴らす理性と母の声に、セティは我にかえった。
身に刻まれた聖痕を視界から隠すように腕輪で覆うと。
それを拒絶する意思のどこかが苦い罪悪感を生み出した。
「・・・っつ!」
「大丈夫?!セティ!」
腕輪を身に付けたとたん、ふ、と一瞬全身の力が抜けるような感覚が襲う。
続いて強烈な重力による負圧が全身にのしかかるように身を圧し。セティは思わず崩れこんで地に膝をついてしまった。
腕輪の吸魔力に力の源たる聖痕を捧げて、能力が制される。それはまるで重き枷に繋ぎ囚われた感でもあった。
「・・・。」
「セティ?」
「いえ、・・・大丈夫です。母上。・・・想像したよりは、さほど不自由はない・・・。」
少し、間をおいてから。
セティは2,3度首を振り、手を閉じたり開いたり、自らの様子を窺った。
確かに身は少し重く感じられるようにはなった。
だが、変わらず、風を編み、魔力を操ることが問題なく出来るようだ。人の命を奪うとまで言われた呪物たる腕輪は、しかし高い潜在能力を有する神子たる彼には、さほどの影響力を及ぼさなかったようである。
むしろセティは、何か、夢から醒めた時のような意識の冴え、不思議な現実感を感じていた。
自らの身を大地に縛る確かな重み、血の脈動、手首に走る僅かな痛み。
額に手を当てるとほんのりと僅か、汗をかいていたようで、しっとりとした湿り気を通して自身の体温が手の平を通して知覚出来る。
ふ、と呼気が白く散って大気に溶けた。
当り前の感覚。当り前の・・・全て。
身の周囲を取り巻く、大気、土、風、苔むした石壁の独特のにおい、闇のゆらめき・・・。
ぼんやりと、セティは自身の周囲を見回し、再び自らの両手に目を戻した。
何故、当り前のそれらに、自分は今驚いているのだろう、と。
忘れていた訳ではない。気づいていなかった訳でもない。
だが、いつのまにか自分は・・。当り前の”何か”を失いかけていたのだろうか、と。
「セティ・・・これが、母からの、・・・貴方への贈り物です。」
「・・・。」
「これから貴方は、貴方自身が思うように、自分の道を選べばいいわ。・・・誰も、何も、貴方の真実の意思を縛るものはありません。」
「・・・。」
「・・・自信を持って・・・貴方の意思は貴方のもの。・・・この、”大地”に足を付け、1歩づつ・・・」
地に生きる草木の呼吸が・・・生命を育む土の暖かさが・・・
共に生き、手を差し伸べてくれる人々の想いが・・・
貴方をこの・・・大地に繋ぎとめてくれる・・・
「・・・はい・・・」
セティは自らの身を抱くように、両腕を廻し目を伏せる。
母が腕輪を己に託した真意は、彼には痛いほど理解出来ていた。
己が身の内の呪縛を解き放ち、”人”であれ、と・・・
心を共有するかのように、己が理解者として常に道標となってくれた母。
何故だか、母の言葉は彼に最期の別れを告げているようでもあり、心が締めつけられる。
この先・・・、まだ見ぬ遠い未来。
彼女は・・・彼女自身は、真実の笑顔を、幸せを取り戻すことが出来るのだろうか。
母が自分を救ってくれるように、自分は彼女を救うことができるのだろうか・・・。
「・・・母上。」
ありがとう、ございます・・・・
想いは・・・
時を越え、継がれる想いは、幾万の光の結晶となり
夜空を照らす星々の瞬きのように闇を照らす
母が託したその願いの全ての意味を、彼が知ることになるのは
この後、数年の後を経てからのことであり
そしてその時には既に
彼を見守り続けてくれた母の 暖かく優しい微笑みは
この世界のどこからも
失われ
取り戻すすべはなくなっているのだが・・・
夜明けの薄い白光が東に遠く連なる山峰を染める。
薄い夜空には既に、冷たく哀しい輝きを放った夜の月の存在はなく。
瞬く星達が日の光を浴びて、夜明けへの歓喜と期待にその身を白く染めていた。
「母上、どうか少しお休みください。帰路はまた、長き旅路になります。」
幾筋かの雲を眼下に見下ろす、高き飛行の翼上。
神殿の内部から外へ。またそこから天馬の待つ森へと。腕輪をつけた身での2度の転移を易々と成し遂げ。
また天空の馬上とも思えぬ穏やかな大気で母を護る息子が、腕の中の細い身体に声をかける。
「ええ、そうね。・・・少し、疲れました。私、少し眠る、わ・・・。」
「母上!」
一瞬。
母がこのまま、眠りにつき、目を覚まさないのではないか、という恐怖に捉われ。
慌てて声を掛けたセティは、不思議そうに見返すフュリーの瞳を間近にして、気まずそうに目を外した。
「ああ、いえ、何でもありません・・・、どうかご心配なく。後は私にお任せ下さい・・・。」
「ええ・・・。」
「・・・。」
「・・・。」
「・・・母上。」
「・・・何?」
休んで下さいと言っておきながら、つい不安に小さく声を掛けずにはいられない。
心に影差すこの嫌な予感が、気のせいであれば良いのだが。
「聞いてもよろしいでしょうか?」
「・・・どうしたのセティ。」
「母上は・・・。・・・”あの人”を・・・ずっと、これからも、待ち続けるおつもりですか?」
「・・・ええ、そうね・・・。」
「ずっと?」
「・・・ええ。」
「父上が、戻ってこられる、と・・・。」
「違うわセティ、・・・会うのですよ。」
「会う?」
「ええ。」
「いつ?どこで?」
「いつか、どこかで・・・。」
「母上には確信がおありなのですね。」
「ええ、だって、夫婦ですもの。契約したわ。」
「契約?」
「会えるわ、必ず、きっと・・・それは・・・」
永遠よりも遠い未来に・・・
「母上。」
「何?」
「戻ったら何をお召し上がりになりたいですか?」
「セティ?」
「そうだ、暖かいスープをおつくりしましょう。栄養たっぷりの。」
「ええ。」
「最近フィーも料理を少し覚えて・・・二人でつくりますね・・・。」
「嬉しいわ。」
「春の新芽を山から摘んできて・・・、そうだ、母上が元気になられたら皆で共に山菜摘みにまいりましょう。」
「・・・。」
「とても良い場所を知っているのです。山の空気はきっとお身体にも良いし・・・。」
「・・・。」
「母上。」
「一体どうしたのセティ。」
「・・・どうか。」
「・・・。」
「どうか、いつまでもお元気で・・・どうか・・・。」
「ええ・・・心配ないわ。」
心配・・・ないわ・・・
もう貴方達は一人立ち出来るから
これから訪れる
激動と、悲劇に満ちた、戦乱の世に・・・
生き抜く、強さを持って・・・
心に落ちる重暗い予感を振り払うように。セティは朝焼けの空を遠く見つめた。
胸に眠る母の身は軽く、夜の終焉と共に去ってしまうのではないかと。不安に幾度もかられたが。
静かな寝息に、自身の心配も必要以上の杞憂に過ぎないのだと、苦笑に流す。
白い朝焼けは何故か、新しい変化を運んでくる使者のようで。
それが、彼にとって、いや、時代を生きる全ての者にとって、歓迎すべきものなのか、セティには判断がつきかねた。
安穏と時代の揺り籠に身を任せ眠るには、既に、彼は多くのことを知りすぎていた。
時の背後で踊る闇の影を。知ってしまっていたから・・・。
巡る、時の輪が。
新しい世代、新しい時代にその舵を渡し。
世界は、短き眠りから醒めようとしていた。
その先に待つものが何なのか。
旧時代を生きたある者は、証人として世を見守り。
また、ある者は、それを知ることなく、眠りにつく。
それもまた世の摂理。
延々と繰り返される輪環の運命・・・
そして結局・・・
彼が、母親の元気な姿を見たのは
・・・この旅が最後となったのである。