る輪廻は運命の輪の中に鐘を鳴らす

 
 時代という名の檻に囚われた魂達も
 宿命という名の業に翻弄される漂泊の船人達も
 
 岩崖に砕け
 去り行く時

 皆、その声を聞くのだ。

 

 吹き渡る風の遠き嘆きの声を・・・


















 赤き葬送

















 さわさわと、穏やかな風が薄く編まれた壁掛けの衣を揺らす。

 厚い石造りの室内は、奢侈な調度品で飾られ。まるで分厚い布に幾重にも包まれ金糸で縁取られた、飾り箱のような趣きである。
 シアルフィの丘陵地を包む、柔らかく穏やかな午後の日差しは、戦の到来が遥か遠き国での夢物語であるかのように、日常を彩っていた。
 だが、重く世界を食む影は、日々濃く深く、全てを侵食し続けているのだ。



「・・・悪夢にしては・・・喜劇じみているな。」

 淡々と。だがその声色の陰に長き歳月に倦み疲れた、複雑な感情を深く滲ませて男は低く呟いた。

 豪奢な内装の部屋も、飾り立てられた壮麗華美なその姿も、まるで虚構で彩られた鍍金のように、空しく揺れる。
 緑豊かな丘陵地に建つシアルフィ城は、重々しくも華やかな警護の兵によって厳重に護られている。
 ここには今、グランベル帝国皇帝が駐留するためだ。
 例えそれがいまや、形ばかりの皇帝であったとしても。
 赤いビロードのカーテン。・・・真紅の絨毯。鮮やかな赤で皇帝のためだけに彩られた室内は、今は鈍く重く、錆ついたように輝きを失って見える。
 だがそれでもなお、真なる王の背に見えるは・・・光の残照であろうか。


 人心は疲弊し。懐疑が恐怖を呼ぶ。恐怖は支配の糧となり、混乱が世界を統べる。
 理想であるはずの国、に自由は生まれなかった。
 その萌芽は”大いなる理想”を利用する者に無残にも刈り取られ、規律を与えるべき法は、熱にうなされた統一思想を体現するために洗練された。
 人心が絶望に散じようと、目に見える現実は、あくまでも一つの支配の内に収斂していく。
 救いを求める叫びが現実を変えぬと知ったとき、人は自らを同質の夢に染めようとした。
 隷従か、祈りか。

 かつて邪教と貶められた教団は、祈りを捧げる場を求める信者で溢れ。
 幼子は国に売られ養われる他、生き延びるすべを持たない。
 皇帝が理想とした夢は、あてどなく漂流する大海の木切れのように、道標となる星の光を失い彷徨い続けていた。
 天に見定められた王。かの真紅の皇帝が。
 何を想い、自らの君臨した巨大な国家を、民の姿を、理想の行く末を眺めやるのか。
 ・・・もはや、知る者などいないかのように・・・。



「・・・何故、再び、私の前に現れた。」
 厚く冷たい石造りの窓から、遠く、緑連なる山並を見詰めて。混乱の世を担い続けた皇帝の広き背だけが、存在の確かさを刻みつけていた。
 赤き情熱の色を持つ癖のある長き髪は、かつての鮮やかさを失い。端正な顔立ちの面影を残した目元、口元には労苦の歳月が刻まれている。
 ぬめるような重々しさの支配する空間に。
 対する風は、あくまでも、穏やかに甘き薫りを纏わせていた。

「私は世を渡り歩く風来の楽師。」

 その声は甘く、人を夢に誘う。
「・・・。」
「末世の事情にも少なからず通じているゆえ、お役にたてることもあろうかと参じたまでです。皇帝陛下。」
「・・・反乱軍はミレトスを陥としたな。」
「陛下のお力添えには感謝しております。」
「・・・さて、・・・意味がわからぬが。」
 重く、静かに、振りかえる皇帝の。深く、射抜くような鋭さを持つ視線に、楽師は口端に僅かに笑みを湛え応えた。
「次はシアルフィへの進軍について、直接ご相談を。」
「寝言を申すな。」


 敵陣に単身乗りこんできているとは思えぬ穏やかさで。
 楽師、を標榜する解放軍軍師は、客人に振舞われた甘い飲み物を気楽に口元に運び、柔らかい肘掛付きのソファのうえで寛ぎを見せている。
 艶やかな翠色の長い髪を揺らすその風貌は、年すらも定かに出来ず。
 白き四肢はその指先に至るまで、人のものとは思えぬ優雅な美しさを湛える。
「事実、子供達の救出には一刻の猶予もなければ、同時に失敗も許されぬこと。それは陛下ご自身が全てをよくご存知のはず。」
「・・・。」
「東の岬への道であれば、子供の足でも逃れやすい。保護のため、手の者の一部に待機させましょう。」
「では我等がそこを急襲すれば、反乱の鼠どももたやすく散らすことも出来ようか。」
 低く笑いを含んで言葉を返す皇帝に。楽師はあくまでも穏やかに応じた。
「全ては陛下のご慈悲とご高徳を信じるのみ。戦に力を持たぬ子供は関係がない。・・・王たる陛下の徳を天下にお示しになる時です。」

 ゆらりと、皇帝が身を返した。
「同時に戦は綺麗ごとでは済まぬもの。それはお前が一番よく知るはずのことだ。・・・罠のつもりか?」
「・・・。」
「目的は・・・交渉だけではなかろう?レヴィン。私は駆け引きは嫌いではないが・・・、お前の、その目は昔から好かぬのだ。」
 低く重い呟きが場を支配する。
 まるで巨大な影のように、悠然と歩み寄った皇帝は、艱難たる歳月を忍ばせる骨ばった武人の手で楽師の細い顎を捕えた。
 鋭く獲物を捕える鷹のような、王の強い瞳の光と、紫色の艶やかさで人を惑わす楽師の視線が交錯する。
 だが二人の偉人の間の空気は僅かとも動きを見せない。
 その支配の階に陰りを見せ始めて尚、大陸の広大な領土を支配する帝国の、唯一絶対であるはずの皇帝と。
 今や強大な勢力として帝国支配を根底から脅かす存在となったイザーク解放軍(今は連合解放軍)を操る一人の男の。
 それは、・・・静かな攻防。
 互いに腹の内を見せずに、そこにあるのは意思を窺わせぬ沈黙の時間だった。


 ふ、と口元を緩め、目を逸らさずに楽師が笑う。
「そう冷たい目をするな。アルヴィス。私は、久しく古き友に会いに来ただけだがね。」
「昔話をしに来たわけではあるまい。」
「それも悪くはないがな。」
「では私を、・・・笑いにきたのか。滑稽な話だと・・・」
「らしくもないことをいう、アルヴィス。お前程の者が。」

 言葉を受けて、皇帝は自嘲的に口端だけで笑みを見せた。
 常ならば、神秘の気配で他者を圧倒する楽師の紫色の瞳を、至近で射ぬくように覗きこむ。
 神をも支配すると称された皇帝の、強き力を持つ視線に。珍しくも、一瞬、僅かばかり逃げるように楽師は瞳を泳がせた。

「天はまだ私を見捨てはせぬか・・・。」
「・・・。」
「お前が反乱軍の命脈を握る知策を司る者なら、これ以上相応しい人質もおるまい。」
「・・・愚策に滅びるなアルヴィス。もとより、私が戻らなければすぐにでもシアルフィの丘は戦火に覆われる。」
 返す楽師の口元は、それでもまだ余裕を笑みの形で返した。
「軍の戦意は高く、この地の民は皆、真なる主の帰還を祝砲で迎えるだろう。・・・私は友たるお前に。光の皇子は仇敵であるお前に、それでも王への誠の敬意のために、戦を回避する最後の警告を選択肢の一つとして残したまでのこと。」
「戦を回避・・・だと?それが出来ぬことがわからぬお前ではあるまい。・・・それとも、我が元で滅びの挽歌を歌うか、楽師。」
「アルヴィス、運命の扉は開かれた。私が失われようと、もはや宿命という名の業は変えられ・・・」


 突然。
 覆い被さるように身を落とした影に楽師の言葉が止まる。
 有無を言わせぬ、王者による支配的な口付けを、動じる素振りもなく受け止めて。
 反対に、深く、柔らかく舌を絡ませ与えてみせる。
 支配者は、長き触れあいの後にようやく解放した後も、濡れる唇を吐息のかかる距離に捕えて離さぬままに見下ろした。
 だが、至近で対峙する二人の間に甘美な空気は流れない。
 じっと、視線を逸らさぬままに見詰め合う瞳の奥に、二人の策士の計れぬ意思が秘められている為だ。

 す、と、支配者の手が、腕に捕えた囚人の細い首に移される。
 まるで玩具を扱うように乱暴に、その身を柔らかな長椅子に投げ倒すと、酷薄な笑みを湛えて黒き影で覆い尽くす。
 だが、圧倒的な力の前に組み敷かれた身体は、抵抗の気配も見せず、反対に甘やかな薫りのたつような誘ないをもってアルヴィスに手を伸ばした。
「・・・天に見初められた王者は、アルヴィス、お前だけだ。それは今も昔も・・・変わらぬこと。」
「・・・。」
「どうした、何を迷う?数多の宿命に抗い、全ての者がお前の前を去り消えた。もはや失うものも、あるまいに・・・。」
「黙れ・・・。」
 押し殺された呟きは、苦々しげな、王の慟哭を滲ませる。


「あの時、お前を手に入れていたのならば・・・全てが変わっていたというのか?」
「・・・。」

「答えろ、レヴィン。それとも今再び、お前を取り戻すには、力でもって奪い返せば良いのか・・・。」
 それは問いというよりも、独白に近く。苦しげに紡がれる言葉は悔恨をにじませる。
 だが風は、笑みさえも湛えて、甘やかな囁きで返した。
「必要のないことだ。何故なら我が身も心も、過去と等しく変わらず、アルヴィス、お前の命じるままに、あるというのに・・・。」

 紫色の光が瞬いた。
 それは真実を夢の海に沈める合図であるかのように。


 失われた過去の、甘き情景が幾つもの泡の中に映され消えゆき、沈む。









”契約、してやるよ・・・”

 かつて、彼が耳元で囁いた甘い囁きが蘇る。

”・・・どういう意味だ。”
”君のモノになってやるって意味さ。アルヴィス”





































 それは遡ること・・・二十年以上も昔のことになる。

 当時シレジアの王子であったレヴィンが、家出、正確に言えば国を出奔して最初に転がりこんできたのは、旧知の仲でもあったアルヴィスのところであった。


 グランベルを代表する有力な公爵家の跡取りであったアルヴィスと、海を隔てた隣国である北の王国、シレジアの王子であるレヴィンは、幼い頃より、貴族社会の社交場の上で見知った以上の仲である。
 彼らがまだ少年と呼ぶべき年であった頃より、レヴィンは年上のアルヴィスに良く懐き。
 事あるごとに注意を引こうと近づいてきたのだ。



 そんな少年の時分に、流されるままに(半ば襲われるように)関係を結んでしまったのは、アルヴィスにとっては事故のようなことであった。



 高位の貴族であればこそ、男色の真似事も作法の一つであるかのように互いに身につけてはいたが。
 だが、例え有力な公爵家に取入ろうとする作意があるにしても、王子であるレヴィンが身を売る理屈も立たず。流石に公の立場を見てみればそれは、国家を巻きこむ問題になりかねないわけで。
 それでも何故か積極的に彼に慕情を示してくるレヴィンに、かといってそこに恋慕の情があるとは読めなかったアルヴィスは、・・・結局その理由もよくわからぬままに、その不思議で奇妙な関係を続けてしまっていた。
 一つは、年の離れた弟を可愛がっていた彼の、保護欲の延長のようなものであったかもしれないし。一つは、駆け引きを好むアルヴィスの性格に、本質的なところで互いが似ていた為かもしれない。
 一度関係を持ってからは、グランベルを訪れるたびに何かと理由をつけてはアルヴィスのもとに転がりこむレヴィンを、突き帰す事も出来なかったのは。アルヴィス自身もその不思議な関係と、彼自身に、・・・少なからず好意を抱いていたためだ。




 それは彼が公爵家を継いでから幾時もたたぬ頃のことである。
 政務を終えて自室に戻ったアルヴィスの前に、馴染みの彼が現れた。
 一体どこから入りこんだのか。涼やかな風の舞いこむ窓辺に腰かけ、小さく歌を歌っている。
 手厚い警備の最中の突然の侵入者ではあったが。常より正面から門扉を叩いて入ってくる彼ではないから、別にそのことに驚いたわけではない。
 ただ、その時分にシレジアの王子が、海を渡ってグランベルに顔を出すような催しでもあったか、と考えても特に思い当たることはない。
 声を出さずにひととき立ち竦むアルヴィスを目に止めて、彼は輝く翠色の瞳に悪びれた笑みを湛えて見つめ返した。
「フリージのレプトール卿にドズルのランゴバルト公爵・・・。野心も高く立ち回る連中を焚きつけて、今度は何を企んでいるんだ、アルヴィス?」
「・・・何のことだ。」
 挨拶もなく、無粋に話を切りだす彼を横目に、アルヴィスは手脇に抱えてきた書類を机上で整理する。
「冷たいな。俺に隠し事はするなよ。・・・いつだってあんたを応援してやっているのに。」
「いらぬ世話だ、レヴィン。・・・一体何の用だ?今はお前のお遊びに付きあっている暇はないが。」
 突き放すようなアルヴィスの言葉にも構わずに、レヴィンは戸棚の中に並べられた高価な果実酒を我が物顔で漁っている。
「俺、決めたんだ。」
 そのまま許可もなく年代物の果実酒の封をあけると、手近にあったグラスに自分の分だけ注ぎ、勝手に味見をしながらレヴィンは悠然と振り向いた。
「アルヴィス。お前はやっぱり俺が見込んだ通りの男だ。だからさ、俺が、あんたの手足となって動いてやるよ。」

 手を止め、一瞬の間を置いて顔を返したアルヴィスの目に、絡みつくような紫色の光が飛びこんできた。
 今までも、時折見かけてきた彼の。虹色に変幻する瞳はいつも。美しさよりも危険な警鐘をアルヴィスにもたらしてきたものだ。

「何だと?」
「次代の王たるべき者、宿命を紡ぐ光を持つものには。・・・塵芥のような愚鈍な人間達より、俺の方が傍にあるに相応しいだろう。」
「・・・。」
「何を望んでも構わない。君の命じるままに動いてやるさ。そうだな・・・、レプトール卿はともかくも、ランゴバルトのおっさんは少々手乗り駒としては単純すぎるな。ボロ出されると困るから、俺が代わりのスケープゴートを仕立ててきてやるよ・・・。」
「レヴィン。」
「あんたが望むものは何でも叶えてやる。まずはグランベルの統一か?シレジアが欲しいならくれてやってもいい。理想の世界を実現するためには、多少の犠牲も必要だ。地位に安寧と富利を貪る無能な貴族どもの支配の世を覆し、力あるものに平等に支配の果実は分け与えられるべきだ、そうだろう?生まれによって罪なくして偏見と差別の迫害を受けねばならぬ者達の魂を救ってやりたいのだろう?世に満ちる腐敗と堕落を打ち払い、新しい未来のために変革が必要だと考えているのだろう?」
「レヴィン!」
「君は誰も信じることが出来ない。年の離れたあの可愛い弟君だけが、君の真実であったのに。彼もまた君から逃れようとしている。君の周囲に満ちるのは、謀略と、裏切りの連鎖。君は自分自身しか信じられない。弱みをつくるわけにはいかないからだ。だから誰も愛せない。自らの心の内を暴かれたくない。こうして・・・俺が近づくことを、・・・求めて、同時に恐れている。」
「やめろ!黙れ!」
 バンっと、机を叩きつけて制止の大声をあげたアルヴィスに、レヴィンは喉奥で笑いを噛み殺して返した。
 己が心の内を見透かされ暴かれる不快感に、知らず鼓動が高鳴り、息が詰まる。
「お前は王者に相応しい男だ。・・・孤独で、才知に富み、思慮深く、強靭な魂。光も闇も、全てを身の内に孕んでいる。・・・完璧な存在だ。」
 陶酔したように彼のもとに歩み寄るこの不思議な存在を近くに寄せたくはなくて、アルヴィスは彼を突き飛ばした。
 だが、再び手を伸ばし絡みつく風に、身体が麻痺したように支配される。
「一体何のつもりだ、レヴィン。人のことに首を突っ込む前に、自分の足元を見ろ。シレジアは王位継承を巡り内紛が起きていると聞いたが。」
「叔父上達のことか?あの人達は身の程をわきまえずに、ただ支配の果実に食らい付きたがる飢えた野犬さ。だが、望みは叶えてやる。王になりたいなら、させてやるさ。・・・俺、国を出てきたから。」
「何だと?!」

 今度は流石のアルヴィスも絶句した。
「だってさ、そうでもしないとこうして君の傍にはいられない訳だろ?」
 あまりのことに当惑し、返す言葉を失った若き公爵に対して。彼はきらきらと猫のように輝く瞳に、艶めかしい紫色の光をたたえて、告げたのだった。


”契約してやるよ”


「レヴィン、・・・意味がわからない。」

 以前より、彼が口癖のようにアルヴィスに告げていた言葉がある。
 自分にはやらなければならないことがあるのだ、と。
 幾度も、幾度も。まるでそれは何か熱に浮かされた使命感に支配されているかのように。告げる彼の、やらねばならぬこと、が何なのかはアルヴィスにも読めはしなかったが。
 そのために、自らが持つ地位も、負わねばならぬべき責任も、全てを疎んじ、逃げ出したがる彼をことあるごとにアルヴィスはたしなめてきた。
 だから、その使命とやらも、裏を返せば彼の無責任な逃げ口上に過ぎぬのかもしれないとも考えていたのだ。
 だが、彼が自分を拝するその熱を帯びた視線が、度を越えた行動と言葉を紡ぐに至って、流石にアルヴィスも混乱した。
「それで一体お前は何を得られるというのだ?国を捨てて、私の元に下る意図はなんだ。」
「わからないのか?アルヴィス。君は光なのさ。とても強い・・・宿命を紡ぐ光だ・・・。」
 うっとりと。アルヴィスというよりは彼の背後にある目に見えない何かに羨望の眼差しを向けるように陶然と囁くと。
 若き公爵を誘惑するように、その甘やかな美声で耳元で睦む。
「俺が欲しくないのか?・・・王になりたくはないのか?」
「・・・なんだと?」
「全て手に入る。富も、名声も・・・風の加護によりもたらされるだろう・・・。契約は絶対だ。俺は決して君を裏切ることはない。君は望んでいる。裏切ることのない温もりを。・・・俺なら与えられる。」

 言葉はあくまでも甘やかに、若き公爵の内に眠る柔らかき心を包み込む。
 だがアルヴィスは彼を拒絶した。確固たる意思というよりは、混乱が彼に警鐘をもたらしたのだ。
「断る。」
「・・・アルヴィス?」
「レヴィン、もう、やめよう。私達は少し距離を置いたほうが良い。お前を大切に想えばこそ、私は政治の道具として、お前を利用したくはない。」
 心の内の禁じられた領域に、他人に土足で踏み込まれたような漠然とした不安。目の前の不思議な人物に対する不信感。
 そうした負の感情に重なるのと同時に、レヴィンに対する好意ゆえに彼の身を案じる想いもあった。
 一国の将来を担う王子が、自分の傍にありたいがために国を捨て飛びだすなど理解しがたい事態である。
 紫色の強き瞳の輝きのもたらす誘惑を振りきり、アルヴィスは彼をたしなめるように叱りつけた。それも旧来の友に対する想いゆえのことだ。
「とにかく、もうお前に近くにいて欲しくはないということだ。」
「な、何言ってるんだよ。あんたらしくないな。俺が良いって言っているから良いんだよ!利用出来るものは利用するのがあんたの信条だろ?」
「いい加減にしないか、レヴィン。度を過ぎた遊びをすると、今後一切の出入りを禁じるぞ。」
 禁じるも何も、身分上では名目と言えど王子であるレヴィンが上ではあるのだが。
 日頃の行いを見ても、お忍びで隣国の公爵家に通う放蕩王子の挙動は世間的に何の言い訳もできないものであるがゆえに、立場的にはアルヴィスの方が主導権を握るのが常であった。
「私にも、お前にも、今後このような深い関係を続けるのは害あっても利にはならんだろう。友としてお前のことを好ましく思っているのは変わらないが。」
 だがレヴィンは理解出来ないというように、首を傾げて哀しそうに背を落してしまった。
「俺のこと捨てるのか?アルヴィス。わからない。君が俺を拒否するわけがない。だって俺は君の望みを・・・」
「誰も捨てるなどとは言っていないだろう。私はお前のことをただ案じているだけだ。・・・わかってくれないか。レヴィン。」
「・・・。」
 子供のようにしょんぼりと落ちこむ彼に思わず心が痛んだが。アルヴィスは、その優しさゆえに説得を重ねた。
 自らの欲求さえも、揺らがぬ理性で覆い隠し・・・。
「お前も国には大切な人がいるだろう?」
「大切な・・・人。」
「お前の行動は、お前を大切に想う人々の心を傷つけている。人として、立場ある者の責任を自覚しろ。」
「人として・・・責任・・・?」
 アルヴィスの言葉は少なからず彼の心に動揺をもたらしたようで、翠色の瞳を揺らし目を泳がせる姿には、断ち切れぬ迷いが読み取れる。
「ああ・・・だから、戻れない・・・。これ以上・・・もう、俺には。いや、俺は・・・。わからない。どうすればいい・・・?」
「レヴィン。」
「俺は・・・。」
 混乱が言葉を濁す。
 狼狽する彼の姿は、日頃見れない程に、自信を失って小さく見える。
 アルヴィスが優しく彼の肩を引き寄せ、俯いた額に軽く口付けを落としてやると。一瞬身体を震わせて、ますます怯えたように肩を小さくしてしまった。
 長き時間の末、しばらく彼の腕の中で沈黙していたレヴィンは、やがて一人で納得したように呟いた。
「そうだ・・・きっとまだ・・・時が満ちていなかっただけだ。」
「レヴィン?」
「アルヴィス、俺は諦めないよ。」
「・・・。」
「・・・また・・・来るから。」
 アルヴィスが止める間もなく。
 傷つき、哀しそうに揺れた瞳は、そのままアルヴィスを見つめ返すこともなく。
 風のように。
 レヴィンは彼の元を去った。
 最後に彼を呼ぶアルヴィスの声に応えた彼の言葉は、遠く風に乗り、掠れるように、散り消えた。

”俺は、常に光の傍にあらねばならない。時を紡ぎ、世を俯瞰し、人の営みを見守るために・・・。”





 また来る。
 ・・・そう言った彼は、その後。
 

 姿を見せることはなかった。









 皮肉な運命の歯車は。まるで白と黒の盤目を入れ替えるように光と闇を逆転させる。
 最後に会ったのは、既に時が巻き戻せぬ運命の扉を開け放った後の事。
 宿命の舞台。バーハラ。
 炎に包まれた惨劇の場で、悲痛な叫びを上げたレヴィンの声を聞いた。
”ああ、何て事だ・・・シグルド!俺の・・・光・・・”
 シグルドを護ろうとファラフレイムの炎のさなかに飛びこんできた。その一瞬の間に、二人は対峙した。
 それは懐かしい友との再会の場と呼べるものではない。

 決定的な決別の瞬間。

 かつて、君の為に国を出たんだよと、笑って彼の懐に飛びこみじゃれていた友は。
 悲しみと、怒りを湛えた双眸を隠そうともせずに、アルヴィスを睨み上げた。

 彼との奇妙で不可思議な関係。
 ・・・それでも彼が熱心に慕ってくれた想いは、長き年月を経た分、幾分かでも、アルヴィスの中では暖かな真実の一つであった。


 それは残酷にも、一枚のガラスが砕け散るように、一つの真実が失われた瞬間だった。

















 廻る裏切りの連鎖。
 怒りも、憎しみも、哀しみも越え。
 ただ、そこにあるのは冷たく凍えた心だけ。

 貫いた身体を掻き抱き。
 大きく揺すってやると。
 媚びるように甘い嬌声が漏れる。
 白き四肢は闇にもがく蝶のように舞い。
 美しき声は悦楽の歌を奏でる。

 失われた過去の断片から、さほど変わりもしない若き肢体は、在りし日の睦み合いを思い起こさせるには充分な程で。
 支配的な王者の腕の内に翻弄されるしなやかな身体は、以前より艶めかしい媚態を演じてみせる。
 快楽に遊ばれる瞳は遠く、夢遊病のように焦点を定めず。
 艶やかな髪が打ち振られ、潤んだ紫色の瞳が瞬く。
 それでも、皇帝の重き心は冷たく、醒めたままに、どこか遠い場所で全てを静観していた。
 全て。そこに。真実などないのだと、わかっていたからだ。

「・・・足りぬな、もっと媚びて見せよ。・・・言葉の通り私に全てを捧げ、奉仕し、満足させてみせろ。」
 王者の低い囁きに身を震わせた楽師は、腰を揺らし従順に身を擦り寄せる。
 それすらも。もはや、かつてのような温もりを互いにもたらすことはなく。
 ただ、時の果てに置き残し、擦違った真実を虚しく起想させるのみであった。
「レヴィン。」
 名を呼ぶとぴくりと肩を揺らして反応を返した。
「・・・・い、けん・・・は。」
「・・・。」
 絡みつくように白い繊手をアルヴィスの背に廻しながら。紫色の光が再び揺らめいた。
「・・・聖剣は・・・どこ、に・・・」
 ・・・それが真なる目的の一つか。
 醒めた心の奥底で、皇帝の心が虚しく笑う。
 二度と手に入れることの叶わぬ風の魂は。
 今は揺らめく幻惑のうちに王者の意思を支配しようと、妖しく誘なう。
 その、空虚な行為は、彼が全てを捧げた何者かの為のものであって。

 現実を支配する自分のものでは、決してないのだ。


 そして激情が。
 炎のように、凍りついた心を襲い、支配する者の劣情を呼び起こした。




「・・・っ!!」
 突如激しく、狂ったように動きを高めた王の姿に、楽師の身体が跳ねる。
 本能的に逃げ出そうとするかのように、身体を捩り暴れる白き肢体を力で抑え込み、調伏させる。
「ア・・・ルヴィ・・・」
 自らの身の内に流れる暗き闇の血が。そして炎の力が。
 風の化身を捕え従わせることをアルヴィスは知っていた。
 だが、そうして手に入れたところで、一体何がもたらされようか。
 虚しく空ろな心の内を激情で覆い隠し、押さえつけた身体を思うままに弄ぶ。
”あつ・・・い・・・熱い!”
 悲鳴のように繰り返される風の言葉に。
 ・・・かつての友の声を聞いた気がする。
 凍りつかせた心に、炎の情熱をあてられることを恐れるように。
 先刻までの余裕を失った風の化身は、ただ、最後まで逃れようと四肢で空を掻いた。



 理性をとばす白き世界の中で。
 紫色の光が翠色に揺れるのを見た。

 わななく唇が、何か・・・言葉を象っている。
 幾度も。幾度も。

 ・・・何かを伝えようと苦しげに。訴えるように。
 だが、それは決して声にならぬままに。
 熱に溶かされるように。
 ・・・消えゆく。





 風と炎の最後の交わりの中で。彼らが見た真実とは何だったのか。
 言葉は意味をもたず、ただ、溶け合わさる熱のうちに、心を繋ぎ合わせるかのように。





 交わり・・・。
 散り消えるのみ・・・。









































 朝の光は、静かに、重暗い室内を白く照らしつける。
 忍び寄る、破滅の鐘の音を遠く、地平の裾野に響かせながら。




「時間がない。・・・すぐに城を離れろ。レヴィン」

「アルヴィス?」
 窓辺に静かに佇む皇帝が、低く、唸るように呟いた声に、柔らかな肘掛椅子でけだるく身を休ませていた楽師が意外だというように言葉を返した。
「私を逃すのか?気変わりにしては、自滅的な選択だな。」
「無駄口を叩く暇などない。すぐに私の目の前から消えろ。」
「・・・もう遅い。」
「・・・。」
「アルヴィス、・・・最後にお前に問わねばならぬことがある。お前の娘のことだが・・・。」






 トクン。




 室内の空気が脈打つように、動いた。
 暗くぬめるように濃密な、闇の気配が辺りを支配する。
 何か、圧倒的で絶対的な存在が、現出したときの重苦しさが空気に満ちた。
「これは父上殿、お客様があったとは露知らず、不躾に失礼しました。」
 朗々と、声をあげて室内に入ってきたのはまだ年若き少年だ。言葉とは裏腹に、我がもの顔で皇帝の居室に足を踏み入れる。
 赤く光る瞳が、白き風の化身の姿を目の端に捕えると、ふんと鼻を笑わせ、口端に笑みが形作られた。
「ユリウス・・・、無礼だぞ、父に対してその態度は何だ。」
「これは申し訳ないですね。父上。」

 それは全てを支配する闇の化身。

 その身を一歩進めるたびに、室内に満ちる圧力は増し。
 二人の偉人もまた、その力の前に成すすべもなく無力である。
 もはや傀儡の皇帝としてただ操られるのみとなった、炎の賢人が絞りだすように言葉を紡いだ。
「楽師よ・・・そなたの仕事は終わりだ。早々にここを立ち去るが良い。」
 場を支配する闇の気配を振り払うように、自らの息子に対峙しようと歩み寄る皇帝を闇の化身はその視線の一瞥で押し留めてしまう。
「ああ、これは丁度良い。イシュタルと共に、ミレトスまで遊びに来ていたところなんだ。・・・折角だ。皇帝陛下気に入りの楽師であれば、一曲歌を献じてもらおうか。」
 歩み寄った暗黒の皇子に手をかざされると。
 自らよりも強き生き物に服従の意をあらわす動物達がそうするように、風の化身は喉もとを晒し首を斜めに傾げるような仕草で返した。
 そこにあるのは、絶対的な強弱の摂理。
「楽師。お前は余程、人間共と睦み合うのが好きと見える。程々にしてやれ。」
 闇の皇子はくっくっと笑いを噛みながら、従順に従おうとする風の王の翠色の髪を弄んだ。
 皇帝は苦々しげに、自らが生み出した狂気の産物を見やる。
 人の世の全てを手中に納めた王者にも、彼を惑わし駆け引きを演じる人外の風の化身にも。
 そこに存在する、唯一の者の前に、抗うことが出来ないという皮肉な現実を思い知る。
「そうだ、フォルセティ。お前好みの人形を幾体か造ってみたのだ。良い機会だから紹介してやろう、来るが良い。」
 闇の王に真名を呼ばれ、言葉通りに後に従う風の化身は、皇帝の姿を振り返りもしない。
「ユリウス!ここは戦場になる。遊んでいる時ではない。」
「鼠共と遊んでいるのは父上の方ではないですか。あなたが影で帝国の民を裏切り続けていることを知らぬ私とお思いか。早々に奴らを散らし、少しは国の役に立つ王の権威を示したらいい。」
「・・・。」
「ご心配などなさらずに。あなたが奴らに敗れるようなことがあれば、この者もここに残し後を追わせましょう。帝国の盾となり散り行く哀れな魂達に鎮魂の歌を奏でてくれるでしょう。あなたも死に行く時ぐらいは一人ではなくなる。」
 高らかな笑い声と共に、場を去る暗黒の皇子の声を。
 噛み締めた口端に滲む無念と共に、アルヴィスは見送る他なかった。
 先程まで手の内にいた者の身を護ることさえ叶わずに。

 あの狂気の皇子が、今まで、一体どれだけの者を、彼の周りから奪い、皇帝の気高い心を貶めてきたのか。
 重なる悲劇と屈辱、ありとあらゆる不幸と侮蔑に半ば心が麻痺したままに。アルヴィスは茫洋と虚空を見詰めていた。

 何故このようなことになってしまったのか。

 全ては己の成した僅かな心の隙ゆえのこと。
 後悔しても尽きぬ思いに心が蝕まれる。
 大切にしていた唯一人の弟が、泣きながら彼に刃を向けてきたその瞬間も。
 愛した妻が自分の腕の中で他の男の名を呼んでいたその時も。
 まるで全ては、彼の高貴な心を貶めて、闇の誕生への賛歌と為すべく紡がれたかのような現実。
 彼の理想は、ただ、人々に、真の自由と幸せを与えること、それだけであったのに。

 己が数奇な宿命ゆえに、幼い頃から悲しみと苦しみに仮面をかけて生きてこなければならなかった、自分のような存在を。
 少しでも減らせればよい、そう思っただけのことなのだ。
 血濡れた道程も、呪いの言葉も、自分だけが受け続ければ良かった。
 ただ、彼の護りたかった大切な者達が、何故次々と呪わしい宿命の刃に無残にも切り捨てられていくのか・・・。
 次代を託すべく、期待を寄せて、彼の持つ全てを光の名の元に継がせようと大切に育てた息子が。
 口端に血の笑みを浮かべて、母親を無残な死に追いやった。その瞬間に。
 彼を支えてきた何か、が、音を立てて崩れ落ちた。

 生き地獄のような、生を、その後も血を吐くように歩んで来たのは。
 ただ、自分の成してきた全ての現実に、責任を持ち続けようとした、王者の最期の意地であったかもしれない。



”君は光なんだよ、アルヴィス”

 風の化身が紡いだ囁きに、遥か昔の憧景を夢の如く思い起こす。
 今にして思えばあの時が、輝かしい自分の生の全てであったのか。
 そして何も知らずに優しく美しき妻に癒された穏やかな日々が、在りし日の最期の挽歌であったのか。
「ユリア・・・。」

 人の世の希望が、失われぬことを、・・・ただお前に・・・。

 自身の宿命の写し絵のごとく、正対する宿星を持つ双子に。
 自分を光と呼んだ、あの言葉が、真実であって欲しいと、最期の希望を託して。



”アルヴィス、俺が・・・君の傍に・・・”



 あの時。
 もしも、あの時。


 風の導者を手にいれていたならば。
 全ては。












 全ては、今と異なる現実を歩んでいたのだろうか?























”・・・人の世の運命は皮肉と嘲笑に満ち、例え神の御手によっても、未来の全てを読み取ることなど不可能なこと。”

 舞い上がる炎の赤き海のさなか。
 佇む皇帝に応えたのは、やはり揺れる風の気配だった。

「炎の皇帝よ。貴方は確かに光であったのかもしれない。・・・だが、強すぎる光は、同時に大いなる闇をも引き寄せてしまった。」

「・・・。」

「真なる闇の前には、風の力も無力に抗うすべを持たず。・・・宿命を変える力などないに等しいのです。」

 炎の海の只中に、清廉と佇む風の御子は、まるで”見てきた”かのように、真実を代弁する。

「運命を紡ぐ岐路がどこにあったのか。それは数多絡み合う未来から解くしか見つけるすべもない。だが、父の伸ばした手を拒んだあの瞬間に、一つの現実が紡がれたこともまた真実の一つなのです・・・。」

「もういい。・・・全ては終わったことなのだ。唯一つ・・・私が最後に知りたかったことは・・・。」

 重く、独り言のように呟かれた皇帝の言葉に、風の御子は静かに目を伏せて返した。

「・・・アルヴィス、父はあなたを裏切った訳ではない。ただ、あの人にとっては契約を交わした相手が全て。それだけのことです。」
「・・・。」
「・・・父はどこです?」
「・・・。」

「貴方にはまだ、王として最期の仕事が残されている。次代を継ぐ聖王に、託すべき想いと遺志があるはずだ。」

 ゆらり、と身を返す皇帝の重き影が。
 答えを返す間もなく、何らかの気配を感じ取ったのか、風の使徒は既に身を消していた。
 ただ静かに炎の海を見詰める皇帝の目に、鮮烈な光が突き刺さる。
 凛と佇む若き盟主の姿は、炎に赤く照らされた舞台に映えるように、光を背負い立つ。
 彼の父がかつてそうであったように。炎の海の中で宿命に対峙するその姿。

 ただ一つ異なるのは・・・。
 仇敵であるはずの皇帝を前に、ただ、彼は静かに。深く青き瞳でアルヴィスを見詰めていた。
 怒りも、憎しみも、悲しみもない。全てを許し、慈愛で包み、見届ける。聖者の瞳。
 それは、皇帝が唯一愛した、あの妻の。聖母の眼差しを受け継ぐ光を宿しながら・・・。
「そうか、お前が・・・。」
 光の公子の手の内に握られた、聖剣ティルフィングの白き輝きを見止めて。
 アルヴィスは肯いた。
 ようやく。・・・ようやく待ち焦がれた安息を得られる日が来たことを、確信して。

「それでいい・・・。」

 呟きが虚空に散り。赤き火花が大地を揺るがした。





















 夜空に幾筋も弾ける炎の舞いを。
 楽師はただ静かに見詰めていた。
 轟音が大地を揺るがし、城が各所で崩れ落ち地鳴りをたてる。
「それでいい・・・。」
 赤き皇帝の呟きに重なるように、想いを紅の夜空に散らしながら。

「父上!」
 倒壊する柱の中から、白き風が人の形を象った。
 ここは、城の小さな中庭の一つだ。
 見事な白き大理石の柱廊は見るも無残に崩れ落ち、彫刻の飾られた泉は水を枯らし、灰塵にまみれている。

「遅い。」

 駆け寄る息子を一瞥し、一言、不満そうに呟くと。また空を見詰め、茫と身を休ませる。
「・・・。」
 助けられる人間の言葉にしては偉そうに悠然と構えたものだが。
 常ならばそれでも素直に謝る息子が無言のまま、自分を睨みつけているのに気付き、風の化身は首を傾げて見せる。
「何を怒っている。」
「・・・怒っているのは、私だけではありませんよ。」
 常になく不機嫌な息子は、それでも父の足元に繋がれた金色の足枷を確認して、溜息をついて膝をついた。
 開錠の術言を唱える息子の姿を目の端に見やると、楽師は再び空を仰ぐ。






 一瞬。

 夜空が白く閃光を放ち。






 辺りを静寂が覆い尽くした。
 舞い落ちる火の粉が光る雪のように、はらはらと夜空を彩りながら・・・。









「終わりましたね。・・・これで、シアルフィは解放され、同時に一つの時代が清算された。」
「・・・。」
「父上、御身足が傷ついているようです。治癒の術をかけます。他に痛むところは?」


「痛い。」
「どこがです・・・?」





「心が。」






 一瞬、驚いたように風の御子が顔を上げたのは。
 それが彼の父の口から紡がれたとは到底思えない言葉であったからだ。
 だが静かに虚空を見つめる父親は、次には自嘲的な笑いを喉に殺した。
「これでいい。セリス。全てはお前が手にいれる、王の御座と栄光と名声、新しき未来のため。」
「・・・。」
「お前の父親であるシグルドも、そしてアルヴィスも、光持つものの屍を贄としてお前に、捧げてやろう・・・。」
 掠れた声で笑う風の神の姿に、彼の息子は目を落とし呟きで返した。

「父上。人の想いは強く、儚く、いかに神の御手によろうとも操れぬもの。」


 そこにあるのは確固たる人の意思。
 静かに、彼の言葉は、世を嘲笑する神々に向けられる。


「世の全てがあなた方の思うようになるとは、考えぬことです。」













 漆黒の夜空に、赤く燈り明滅する光。
 ・・・それは暗き焔の葬送。








 激動と悲劇の時代を孤独に生き、果てた、高貴な一つの魂への、鎮魂の歌。
 その声無き嘆きを聞く者は・・・もうどこにもいない。






 天より落つる灰色の雨のみが、ただ、全てを語っていた。

 ここに、一つの時代が。
 終焉したのだと・・・。



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