それは迫る宴の終わりにも似て。
もはや誰にも止められぬ、時代という名のうねりは、金色の糸雲となり世界を覆い。
闇は孤高の神を一人残し、その力を再び永き眠りの棺に封じ、散りゆこうとしていた。
まさにいま、帝国中枢部、バーハラの城下に展開する解放軍は、夜明けを待ち焦がれる人々に歓喜の声を持って迎え入れられ。
暗黒の御世の終焉が聖王の手によってもたらされるその瞬間を。
誰もが固唾を飲んで見守っていた。
赤く染まった夕暮れの陽は、かつてこの地で散り去った魂への鎮魂歌。
世代を超えて継がれた、希望という名の新たな太陽を迎え入れる前の・・・。
ひとときの瞑目の時間。
光の導き手であり、時の傍観者でもある風の使徒達は。
ただ静かに。
・・・その、”終わりの日”を見届けようとしていた。
落日の都
夕暮れの、黄昏た西日が長い影を落とす小部屋。
黄金色の刻(とき)はとうに過ぎ。落日の陽は、僅かばかり時の歩みを緩めて、窓辺を薄く染め上げていた。
・・・まるでそれは、宴の喧騒を飲み込み沈む、その前に。
残された篝火の、暖かな光の名残を惜しむかのように。
別れという未来から目を伏せて。
いましばらく最後の邂逅に思いを馳せるかのように。
「・・・誰も入れるなと、言いつけておいたはずだが。」
窓辺に近い寝台から、呟くような柔らかな声が空間の静寂を破った。
まるであかがね色に染められた絵画の影が、音を発したように。
何の揺らぎもなく。
「扉に鍵も掛けたはずなのだがね。」
「知りませんね。」
もう一度。
窓辺の影が僅かに揺れ、屋内に首を巡らせて告げた言葉に、幾筋も落ちた陰の一つが揺らいで反応した。
まるで風がそよぐかのように。
「様子を診に来ただけです。用が済んだらお望み通りすぐに退出いたしますよ。レヴィン様。」
心持ち、凍りついた冷ややかな声で。
”何もない空間”から、突如として現出した白い人影は、音も立てずにふわりと寝台の脇に歩み寄った。
同時に寝台の人物から苦笑とも溜息ともつかぬ、吐息が零れる。
「やれやれだ。・・・今度は結界でも張っておかねばならないかな。」
「医者ぐらい素直に傍にお通しなさい。貴方が御自身で身の管理が出来るとおっしゃるなら別ですがね。」
「お前が医者なのか?」
「他にいるなら代わっても構いませんが。」
おかしそうにくつくつと笑い始める寝台の影を冷たく一瞥すると、白き相貌の医者は脇の小棚に持参の小道具を並べはじめた。
同時に、部屋の隅に置かれていた小さな丸椅子や小机、手桶がコトリと音を立てて宙に浮く。
冷たい風が空間の一点に集中し、キラキラと氷の輝きを放ち始めたかと思うと、炎の刃が宙を舞う。
それは夕暮れ色の絵画に描かれた、不可思議な奇術でも見ているかのような一瞬の間の光景だった。
彼が、持参の皮袋から薬瓶やら小鉢やら、小さな木の実や薬草を取り出し終わる頃には。最初からさもそこにあったかのような自然さで、寝台の周りには小さな作業場が出来ていた。
手桶には澄んだ冷たい水がなみなみと満たされ、宙に浮いた小鍋を炎が炙る。
涼しい顔でそれを成した魔法使いは、小さな丸椅子に腰を落ち着けると、寝台の人物に目もくれずに薬の調合作業に入った。
「・・・呆れた奴だ。」
落ち着いたトーンの甘やかな声が響く。
その透明な美しさを湛えた相貌から覗く、紫色とも翠色とも取れぬ虹のように揺らぐ光彩の瞳は、陶器のように白い冷めた横顔をじっと見つめたままだ。
「怪我の様子をみて、薬と解呪の法を選びます。上着を脱いで。」
「・・・。」
「・・・。言うとおりにしないと、知りませんよ。」
じっと、時を止めたように動こうともしない寝台の影に焦れたのか、声色はますます凍えた冷たさを湛えた。
だが話を逸らそうとするかのように、風の王は苦笑を湛え答える。
「親を脅す気か?・・・悪い子だ。お前をそんな子に育てた覚えはないが・・・。」
「あなたに育てられた覚えはありませんね。」
「怪我はとうに治った。休めば何も問題ない、帰れセティ。」
「父上。」
沈黙。
それは物言わぬ無言の圧力の衝突だった。
何かを互いに含ませながら、視線をゆっくりと絡ませる。
だがあっけなくも先に折れたのは、寝台の患者のほうだった。
一瞬紫色の強い瞳の輝きを宿したと思うと、溜息と幾度かの瞬きとともに、諦めたように落ち着いた深い湖水の碧が姿を現した。
「好きにしろ。」
投げやりにも、無気力ともとれる呟きに、風の御子は再び冷たい怒りともとれる瞳の色を閃かせた。
「ここにきて尚、貴方は私のことなど信じようとも頼ろうともしない。」
「そんな事はないさ。」
「言ったでしょう。もう二度と貴方を失わせなどしない。」
「・・・。」
はだけられた白い陶器の肌は、傷一つなく、透明な美しさを宿している。
まるで人のものではないような。それは・・・奇跡的な造詣物として”化身”した肢体。
だが顔色も変えずに、ただ瞳に神妙な翳を宿した息子は、壊れ物でも扱うかのように、同質の肌を持つ細い指先で丹念に胸元を辿った。
「・・・っ!」
「・・・やはり・・・。」
指先が腹部に近い一点に触れた所で、小さく身体を震わせて反応を返すその様子を確認して、眉根を寄せて呟く。
息子のしなやかな手を払いのけて、風の王は息の乱れを隠すように強い調子で言葉を継いだ。
「・・・お前はここにいるべきではない。最後の刻が近づきつつある。セティ、私に代わり使命を果たせ。」
「それは貴方と共にだ。幾度も私に同じ事を言わせないで下さい。」
覚悟を決めたように、風の御子は寝台の脇の作業台に用意してあった、銀色の、細い針のような短剣を火で炙り、聖別の術言を唱える。
「少々手荒いですが許してください。舌を噛まぬようにこの布を口に含んで。」
「無理だ。もういい・・・全ては済んだことだ。」
「父上、これが我々とあの闇の使徒達との長き因縁の最後の決着と言うべきものです。あの憎むべき暗黒の司祭を屠り貴方を取り返そうと、このような形で再び汚されたのでは何の意味もない。過去の轍を再び踏むだけだ!」
「・・・・っ!!」
白い肢体が痙攣するように跳ねる。
拒否の意を表す父親に無理矢理布を噛ませると、続けざまに銀の短剣を狙いたがわず腹部に打ち込んだのだ。
細長の刀身は白い細身の身体を貫き、寝台にまで達していた。
流石に流麗な美貌を歪ませて、苦痛を訴える父親の様子には目もくれず、今度はやや幅厚の黄金の短剣を取り出すと、準備していた薬湯に漬ける。
法衣の袖を手繰り上げ、冷水に自らの左腕を肘先まで浸し清めると。
「あらゆる方法を考えましたが、やはりこうするしかないようだ。」
真っ赤な鮮血が白い肢体を染め上げた。
風の御子が黄金の刃で、露になった父王の腹部を真横に欠き切ったのだ。
そして間髪いれずに自らの左手を、傷口から父親の腹部に差し入れる。
流れ落ちる血が寝台を紅く濡らし、裂けた肉襞の間から見える内臓が痛められるのも構わず白い腕を肘まで埋める。
それは、妹姫のフィーがこの場にいれば、悲鳴でもあげ動転するに違いないような光景だった。
「ぐ・・・うっ・・・っつ!」
痛みに眉根を寄せて頭を振る父親とは対照的に、玲瓏たる美貌を僅かばかりも変化させずに、風の御子は何かを探り当てるかのように手を動かす。
「父上、暴れないで。」
空いた右手で父親の両手を纏め、自らの身体を使って跳ねる肢体を押さえつける。
痛みに耐えるように、楽師は目を閉じ顔を伏せるが、それでも少し落ちついたように荒く息をついて身体の力を抜いた。
常人ならば気を失ってしまうであろう苦痛に違いないが。
有能な魔道士である彼の息子は、身を引き裂きながら腕を進ませると同時に、器用にも治癒の術をかけ続けているのだ。
「・・・このようなものを。よりによって貴方の身に埋めるなどと・・・」
低く、湧き上がる怒りを隠そうともしない呟きとともに、その白い相貌が曇る。
避けられぬ生理的な嫌悪感によるであろう汗が、その額にうっすらと浮かんだ。
「父上、方法がない。力づくで引き出します。出来るだけ身体の力を抜いて・・・。」
「・・・!!」
返事を待たずに判断を下した息子は、銀色の短剣を引き抜くと、腹部に差し入れた手を力いっぱいに引いた。
身の内に絡みつくそれを、無理矢理に引き剥がす行為に、肉と内臓が千切れる嫌な音が響き、血の香が辺りに広がる。
流石に、風の御子の表情にも必死の相が浮かんだ。
そう、それはまさに、彼等、風の眷族達にとって嫌悪と隷従の証となるべき存在(もの)。
風王の身の内に棲まわる呪いの根源。
闇を操るかの司祭が死してのち、尚、神の高貴な血を吸いその意思さえ随従させようとするその忌わしい呪いの権化とは。
黒き蛇。
暗黒神の化身。・・・呪われし闇の眷属。
「ああ・・・。」
自らの身の内から引き出された、黒光りする蛇を視界の端にみとめ、風の王がたまらず隷従の意思を吐息にのせる。
只人ならばむしろ、汚らわしい一匹の生物にしか思えぬそれも。大いなる存在であればこそ、それは逆らえぬ絶対的な真理となりえるのだ。
ぬらぬらと血に濡れた輝きのままに漆黒の蛇が、それを素手で掴み出した王子の白い腕に絡み付いて暴れている。
「・・・くっ!」
既に銀色の短剣で、風王の身体ごと頭部を貫かれていたはずのそれだが、神竜の血を吸い神性が増しているのか。
もしくは、それを放った暗黒の司祭の強大な思念がそうさせているのか。
滅びぬどころか、今度は風の御子の白い腕に噛み付き、瘴気を放っている。
たまらず床に膝をつき、セティは小さく呻き声をあげた。
彼もまた、風の神の血を濃く受け継ぐ神子。
黒蛇による、屈従を促す圧倒的な意思に思考がくらみそうになる。
「悪いが・・・父のようにはいくものか!」
空中に十字の閃光が走る。
その白く薄い皮膚を噛み破り、その身の内に潜り込まんと身をのたうちまわらせる蛇を確認し。自らの腕ごと聖光の直中にかざして蛇の身体を焼き切ったのだ。
ばらばらと、黒い灰のように呪いの化身が身を崩し去る様を見届けると、白き賢者は大きく息を整え直した。
「・・・セティ。」
流石に楽師の美しい声はかすれ、呼吸は喉にひっかかったような音を立てている。
父親の言葉には無言のまま、風の御子は身を起こすと。何事もなかったかのような仮面の表情と共に手際よく後始末をはじめた。
強力な治癒の術で腹部の傷を一瞬の間に塞ぐと、薬を湿した布で血に汚された身体を拭き清める。
「・・・無茶なことをする。」
「・・・。」
呟くように弱々しい父王の言葉にも冷たい氷の面を崩そうとせずに。
その感情を押し殺した人形のような白い面を、虹のように変化する二つの瞳が静かな意思を湛えて見つめていた。
それは不思議なほど、穏やかな暖かさを宿しながら。
「お前は・・・何故・・・このような真似ができる。」
「何故?・・・私が蛇を克服できることが不思議ですか?」
「・・・。」
そう、恐らくは。あの黒蛇こそは、この風の使徒達を労せずして葬ることが出来るだろう、唯一無二の呪いなのだ。
かつて父王自身が彼に告げたことがある。
水が凍り氷塊となり。果実が引力に従い地に落ちると同様に。
我等は暗黒神の眷属たる黒き蛇には抗えない。
これは万物の”摂理”なのだ・・・と。
「では、反対に問いますが。何故あなたはあのような一介の汚らわしい生物ごときを恐れねばならないのです?」
「それを言わせるのは、・・・お前の中の人の血か。」
息子の言葉を聞き、全てを納得したように目を伏せる父王の姿に、セティは不満気に僅かに眉を跳ね上げた。
「全てをおわかりになるのなら、何故私を信じてくださらないのか・・・。何故自らを縛る鎖を断とうとされないのか。」
「断とうとしないのではない。それは私にとって不可能なことであり、同時にそこに絶対の理があるだけだ。」
まるで流れる大河に身をゆだねるがごとく諦観し。ただ、あるがままを受け入れる穏やかな声。
それは確かに、掴めぬ風の姿そのままであるのだが・・・。
「では”望んで”ください!私が全てを叶えます!”言葉”も、”感情”も。あなたが失ったものは全て取り返したと思った。あなたを取り戻したと思った。・・・なのに何故・・・。」
らしくもなく、激情を隠そうともせずに頬を高潮させて語気を強める息子を、風の王は不思議そうな目で見つめた。
手を伸ばし、その陶器のように白い頬に柔らかく触れながら。
「お前は私に何を望めと言う?」
「貴方は常に与える側であり続けたがゆえに、与えられることの意味が理解出来ない・・。それも”摂理”なのでしょうか・・・。」
「・・・。」
「だが”人”であった貴方は多くを望み、多くを願い、宿命に抗い、足掻いていたはずだ。・・・それを思いだせないのですか?」
「・・・お前の言葉は、遠く、海に寄せる細波のようだ。」
楽師の美しい声は、まるで夢のように、黄昏時の空間にヴェールを落とし。
怒りも哀しみも嘆きも、あらゆる感情を泡沫の花弁に覆い隠すように穏やかに響く。
寝台に横たわる自らの身の世話をする、息子の白く細い手を取り、自らが創りあげた作品の出来栄えを改めて確認するように眺める。
その様子を、風の御子は何も言わずに、ただ、させるがままに静かに見つめていた。
「ああ、私の許可なく、このような傷を残してはいけない。」
検分の視線が、一点を射し留まった。
白い手首に残るそれは、黒き蛇がもたらした噛み跡だ。
父親の治療を優先し、自らの治癒に気をまわさない息子をたしなめるように。
風王は黒い跡の刻まれた手首を自らの口元に寄せると。柔らかく傷に口づけた。
風の御子の澄んだ表情がほんの僅かに、切なげな感情を宿して揺れる。
傷口は見る間に塞がり、白き肌は完全な美しさを取り戻した。何事もなかったように。
それを満足そうに確認すると、優しげな包容の瞳で風の神は息子に語りかけた。
「私に出来ることは多くはない。お前が加護を望むのなら私は”盟約”の名の下に更なる力と、知識を伝えても良いと思っている。」
「永遠を得られぬ盟約など、私には必要ありません。」
「・・・かもしれぬな。お前は・・・完璧だ。私が意図した以上の、成果をあげた。最高の作品だ・・・。もはや私の力も存在も・・・必要とならないだろう。」
「・・・そんな言葉は・・・欲しくない。」
言葉が、揺れる。
かつては、この父に認められさえすればいいと願った。
がむしゃらに走り続けた幼い日の自分を思いだす。それは満たされえぬ飢えと乾きであり、喪失への恐怖であり、悲しみであった日々。
ただ自らのレゾンデートル(存在理由)がそこにあった。
・・・だが、今ならはっきりとわかる。
追いかけ続けた父の背中。
呼びかけても留まってくれぬのならば。
摂理を歪め、世界の理を曲げても。奪い、取り戻す手が、救いになるのだと信じて。
全てを見てきた。
全てを奇跡のように乗り越えて。・・・今がある。
微笑み。優しく自分を見つめ、名を呼んでくれる。この父があるのは、全ての・・・結果だ。
誰かを救うために、手を伸ばし闘った結果なのだ。
何もかもが元通りになったわけではない。
人と神性の狭間を危ういままに行き来する、目の前の父の姿を護らねばならないと思う。
やがては、時間がすべてを取り戻してくれると信じたい。
時の彼方で出会った。”人”であったあの父は。・・・確かに少しづつ返りつつあるのだ。
だが。
非情な時の流れは、猶予の時を与えてはくれない。
全てが終る。・・・全ての宴が。
それは聖戦の終幕。
・・・ぬぐいされぬ警鐘。別れの予感。
何故こんなにも不安になるのか。
全てが終れば。全てがうまくいくはずなのだ。
国に帰り・・・、そう、父と共に国に帰り。
・・・新しい世界を・・・。
「・・・セティ」
「・・・。」
「どうした?・・・気を乱している」
「いいえ。何でもありません。・・・薬湯を煎じましょう。少し滋養もとらねば・・・。貴方の身体は・・・だいぶ弱っているようだ・・。」
思考の螺旋を断った父の声に我に返ったかのように、風の御子は顔を背け寝台脇へ自らがつくった作業場に身体を返した。
だがその声は語尾が消え入るように頼りなく消える。
あとはただ黙々と。持参の薬草で薬を煎じ、陶器の器に手際良く注ぐ。
その様子を静かに見守りながら。風の王が小さく笑いながら囁いた。
「贅沢な薬だな。貴重な品ばかり・・・いったいどこから集めてきたのやら。」
「・・・。」
そんな父の姿を軽く一瞥すると。
何を思ったのか、セティは黄金の短剣で治癒したばかりの自らの手首に傷をつけ、その血を薬代わりに、混ぜ合わせた。
息子の行為を確認して、父王の顔色が変わる。
「・・・お前は、何と言うことを・・・」
「以前、私が倒れた時。あなたは自らの血をもって私を救われました。今度はその逆をするまでのこと。」
「セティ。わからぬわけではあるまい?我々が血を交わすのは、可能な限り避けるべきだ。」
「ご心配なく。契約を強制させるつもりはありません。」
「そのような事を案じているのではない。」
「・・・私に依存することが怖いのですか?」
「・・・。」
沈黙で返す父親の前に、薬湯の器を差しだして。
「お飲み下さい。今はお身体を治すことが先決です。そして明朝にもここを発ち共にセリス様のもとへ合流いたしましょう。」
静かに見つめる息子に、溜息を僅かな抵抗とばかりにつくと。風の王は身を起こし、素直に薬を飲んだ。
薬効によるものか、血の気のない、白い顔に僅かに赤みが戻り。ほっと息を抜くように、風の化身は身を落ちつかせる。
「・・・礼を言おう。だいぶ楽になった。」
「・・・必要ならば、・・・いつでも言ってください。」
「・・・。」
事実、彼の父の身体は明らかに、弱りつつあった。それは、黒き呪いのせいばかりではない。
まるで止めていた時の針を無理に動かした振り子時計が、緩やかに狂い壊れ行くように。
親子が心を通じあわせたその瞬間から。
それが・・・叶えられた望みの。
・・・全ての代償であるかのように。
認めたくはない。
・・・それはおそらく、自分と父が犯した罪の証。
強大な力を用いて、自然の理を歪ませた罪。
捻じ曲がり、ほつれた糸は、元の姿には戻らない。
いかな神とても、摂理がもたらす罰から逃れられぬとでもいうように。
認めたくはない。
自分のしたことが、過ちではなかったのかと。
優しく微笑む父の姿は、自身のつくりだした身勝手な幻想にすぎないのではないかと。
全てを知り、そして、残された僅かな時を。
ただ、自分の望むままに。愛情を与えるように演じているだけではないかと・・・。
・・・砂の塔が崩れゆく。
「セティ?」
「・・・。」
閉じ込め続けた心の堰が抑えきれぬように。
突然、病床の父親に縋り付き身を寄せた息子に。少し驚いたように風の王は表情を変えた。
「・・・何をおびえている?」
きゅ、と上掛を握りしめた手は小さく震えながら、血の気を失うほどに固く閉じられ。
息をつめたまま伏せた顔を胸元にすり寄せ、必死にしがみつこうとする。
時折、彼が見せるその姿は、遠き昔日の写し絵。時計の針を凍りつかせたままの・・・幼い子供の仕草に他ならない。
「私はここにいる・・・。セティ。どこにもいかない。」
もう、幾度も飽きるほど繰り返した言葉。まるで小さな子供をあやすように。その柔らかい髪を撫で、抱きしめ背を叩く。
「どこにもいかない。」
幾度父王が繰り返そうと、決して離そうとしない幼い子供。それは傷つき続けた幼い心への退行。
「セティ・・・どうか、泣かないでくれ・・・」
「・・・泣いてなど・・いません。」
「泣かないでくれ・・・。」
あやす楽師もうわごとのように繰り返す。
ただ、あの時の。遠い日の、切り絵が、彼らの全てであったように。
捩れた糸を解きほぐして。あの時から、失われた時間の全てを取り返そうとでもいうように。
だがそれは決して戻りえぬ過去。
帰りえぬ、落日の刻(とき)。
夕暮れの部屋が、安息をもたらす夜の香に包まれる。
現実は。泡と消える、ひとときの夢。
このまま時が止められたなら。
どんなにか幸福なことだろうか。
だが。
選択は。なされねばならない。
未来へ、歩むための選択を。
世界が蛹から蝶へと羽化するように。
変わらねばならない。
今度こそ。
ゆっくりと。
風の御子は、自分から身を引き離した。
自らを暖かく抱きしめてくれる腕。
それは夢にも描けなかったような小さな小さな望みの姿。
固く閉じた指を。今度は自らの意思で、ひとつひとつ、解きほぐすように離し。
自身に言い聞かせるように。
ゆっくりと、身を離す。
それは歩みを止めた過去の自分を乗り越えるための儀式だ。
「セティ・・・。」
案じるような父の優しい声。甘い、魔法の声。
顔を合わせることも出来ずに、身を返す。
暗く影だけが揺れる夜の窓辺。
ほんのりと、光を発するように白い風の影は。
切なげに。頼りなく揺れる。
「・・・では、私はこれで失礼します。今晩はゆっくりと、身を休めてください。明日また、お迎えにあがります。」
吹けば飛ぶ霞のように。小さく震える声で。
身を翻し逃げ出そうとする風を。
暖かな手がひきとめた。
彼が求めつづけた、優しい手が。
「セティ。」
「・・・。」
「長く・・・私は眠りというものを享受した記憶がない。」
「・・・。」
「だが、お前がいてくれると、久しく安んじることが出来るような・・・気がする。」
傍にいて、くれないか・・・
「それが、・・・私の・・・”望み”だ。」
夜の帳は、ただ、甘やかに。
彼らの夢を、包み込む。
解放軍はまさに今、帝都を包囲し。
夜明けと共に、光を解き放つ。最後の聖戦がはじまろうとしていた。
風の紡人達が織り成してきた運命の衣は。
今は人の手の中にあり。
葉先からこぼれ落ち、掬い集められた滴は、とめどなく流れる、変革の大河に注がれ世界を駕する。
使命の行方を観望する彼らの前には。
今はただ、静かな。
夜の音が息づいていた。
たとえ別れの足音が。
・・・すぐ傍まで忍び寄っていようとも。
今は。
今だけは・・・耳を塞ぎ。最期の夢を見つづけるために。
SSTOP