それは想像も絶する程、美しい存在だった。
白銀の、流れるような優美な曲線で描かれる姿態。透き通った光を放つ翼。時の彼方を遠く見渡す紫色の光。
燐光を発する身体がしなやかに、風のように揺らめく度に、淡雪のような光が舞い散る。
その巨大な姿の全てが、繊細で完璧な造詣物であるかのように。
神々しく、見るものを圧倒する存在感。
細い首を巡らせて、喉を震わせて、それは・・・歌を歌っている。
歌。
・・・恐らく歌なのだろう。
最初はそれを音だと認識することも出来なかった。
この世のものとは思えないほど、美しい、・・・美しい音。
遥か時の果てにも届く、・・・音。
何故かそれは切ない程に哀しげな色を湛えて、胸を締めつける。
その足元に控える小さな影。
私は思わず声を上げようとした。
・・・が。
音は喉につかえて口から出てこない。
何者も、この美しい歌声を汚すことは出来ぬとでもいうように。
淡く輝く巨大な存在の足元に揺らめく小さな人型の姿は。
・・・愛しげに、白銀の光に擦りよって。
そして、地を這うように柔らかく跪き、恭しく、その足先に口付けを落とす。
「セティ様!」
・・・やめてください!
”人”である私の声が、空間を汚した。
伏せた人の影が私を振り返ろうとしたが。
輝く銀色の、光の翼に護られるように覆われて、私の視界から・・・消えた。
風が。場を揺るがすように、渦を巻く。
「セティ様!」
声を一言発するごとに世界が失われる。
「セティ様!」
見失ってしまいたくはなかった。
例え、近づくことも、触れることも叶わぬ存在であったとしても。
世界が崩れる。
共鳴する音叉の渦に飲み込まれる。
眩暈と共に訪れる失墜感とともに。
ただ、あの美しい音が最後に残った。
The Silent Night
寝台の上に飛び起きたのと同時に、私にはそれが夢だとわかった。
寝起きのためか、やたらと鮮烈な夢の映像を引き摺っているためか、頭が茫洋とする。
2,3度強く頭を打ち振り、息を大きくついた。
月光の光がささやかに、窓辺を青白く染め上げ、遠くから。
夢の続きのような、歌、が聞こえた。
ああ、そうか。
これで自分が、あの奇妙な夢を見てしまった理由も納得できる。
あの、魔物のような楽師が、また歌を歌っている。
それは静かな夜更けに、世界を支配するかのように。満ちている。
この美しい音の連なりは、意識を強く持たねば、再び自分を夢幻の世界に誘い込みそうなほどに。奇妙な力を宿しているのだ。
夜を支配する風の王の奏でる音色に、そのまま眠りにもつけずに、外套を羽織って外に出た。
姿の見えぬ主の居場所はおおよその検討がつく。
案の定、風を受ける小高い丘の、背の高い岩場の連なりに、もたれるように身を寄せ腰かけて、歌に意識を飛ばしている王子の姿が見えた。
声を。
かけようとして、憚られた。
魅入られたように。
魂を抜かれたように、意思の映らない瞳。
いつも、こうだ。いつも。
あの歌は、この人の全てを狂わせてしまう。
それでも。
その切ない想いが、願いの全てだと言うのならば。
私は、何も語らず、何にも触れることなく、ただこの柔らかく息づく世界を見守ろう。
・・・そう。
本当に。
それがこの人の意思であるならば、だ。
永遠に凍えた時の中で温もりを求めるように。
小さな小さな風の吐息が全ての意思と想いを包みこんで漏れた。
この世界を壊すことなど出来はしない。
私はただ、影のように.
密やかに在るのみ。
また、夢を見た。
歌が・・・、私を捕え、夢幻の淵へ誘おうとする。
二つの影が、あの丘の岩場で、月明かりの下に揺らいでいる。
白い、魔物の腕が、風を捕え、逃さぬように絡み引き寄せる。
「ああ・・・父上・・・。」
熱い声と共に、楽師の白い喉からはだけた胸元へ、愛しげに口を寄せる。
白い魔物は、月光を弾く艶やかな髪を掻き抱き、喉を震わせて笑い声を噛み殺した。
「・・・いい子だ。」
耳元で囁かれた影が、甘い言葉に身体を震わせた。
「さあ、もっと・・・、私を楽しませろ・・・。」
「・・・はい、父上。」
まるで、糸に引かれる操り人形のように、御子は白い魔物を掻き抱く。
その光景は月光に彩られ、この世のものとは思えないような凄絶な美しさを放つ。
夢のまた彼方の、夢。
意識の波間に漂いながら。
私はただ、何の感傷も抱かずにそれを受け止めていた。
それはまた、別の夢だ。
そこは、水辺の柔らかな草の褥。
気まぐれな魔物の遊び道具のように、片手で弄ばれ乱れる白い肢体。
月光を吸い取る紫色の瞳に捕われ、決して癒されぬ渇きに支配されるままに、その身体を求め続ける口元が、とある言葉を紡いだのだ。
その言葉は。魔物を怒らせたようだった。
「ちがっ・・・申し訳ありません、お許し下さ・・・っつ・・・」
悲痛な声で、許しを請おうと上げた声の端が悲鳴のように途切れた。
「煩わしい。私には必要の無い・・・言葉だ。」
吐き捨てられた言葉に、潤んだ瞳が、震える喉が何かを伝えようとわななく。
抑えきれぬ哀しみと苦しみの色は、しかし決して目の前の存在には伝わらない。
「許して・・・ください。・・・ちちうえ・・・捨てないで・・・。」
まるで、小さな子供のような言葉が。繰り返される。
「捨てないで・・・。」
求める手が必死に宙を掻く。
「お前は、誰のものだ?」
「・・・あな、たのものです。父上。」
自分の言葉に、感じ入ったように、白い肌を紅潮させて。
「・・・ちちうえ。あなたのものです。すべて・・・。」
それを伝えられる喜びが抑えられぬとでもいうように。
小さな含み笑い。
乱れる髪を梳く白い手は、残酷な程に優しげで。
「お前は良く出来た・・・道具だ。」
返される言葉は凍てついた氷の刃。
上がる息使いは唯一人だけのもの。
抑圧された想いが熱さとなって声を震わせる。
”告げてはならない”言葉を、音にせずに幾度も幾度も。
わななく唇が象って。吐息となって、消える。
心に痺れるような痛みが走る。
どうして?
どうして、貴方がこれほどに苦しまねばならないのか。
残酷な風の王は、凍えた心で玩具のように人の心を弄ぶ。
・・・突き放しては引き寄せ。
・・・手繰り寄せては傷つける。
一途に、澄んだ、想いをずたずたに引き裂いて。
貴方の苦しみが続く限り、私の心もまた。
迷いと悪夢に捕われたまま。
どうして?
どうしてですか・・・。
「それをお前に問う権利などない。」
月明かりの下。青白い景色の中、紫色の瞳が私を射抜いた。
「陛下・・・、どうか、これ以上、あの方を苦しませないで下さい・・・。何故、貴方は・・・。」
息が詰まる。
圧倒的なその静寂の威圧感に、押しつぶされそうになる。
「・・・。」
絡む複雑な想いが言葉を濁らせる。傷つけないで欲しい。応えてあげて欲しい。
身体ではなく、心で。
「それがお前の本心か?」
・・・本心?
・・・そうだ、私は心の底から。
あの方の幸せを願って・・・。
ずきずきと、膿んだ痛みが心の底で疼く。
見てはいけない。
己が心から目を逸らして。
くつくつと、魔物が笑う。
・・・美しい、声。
滑稽な私の心の内を見透かすように。
「お前は矛盾している。・・・それが人の証でもある、か?」
そうして再び笑い出す。
・・・これは、夢?
夢でなければ、対峙する勇気は持てなかったかもしれない。
思い知らされる。
目の前の、この人物は・・・。
いや、この”存在”は・・・。
「私は”あれ”の望みを叶えてやっている。」
「あなたは、何も理解していない!理解できないのだとしたら、それは・・・」
乾いた声はまるで、自分のものではないようだ。
「あわれだ・・・。どうして、貴方は・・・。」
私の言葉が不思議なのか、風の王は柔らかく首を傾げて思案する素振りを見せた。
「私は”あれ”の望みを叶えてやっている。」
遠くに目をうつろわせてもう一度。同じ言葉を繰り返す。
瞳の光が僅かに、戸惑うように揺らいだのは気のせいだろうか。
「まだ、働いてもらわねば、困る。お前達には・・・」
一瞬虚空に泳いだ視線が、再び私を貫いた。
それは、紫色の魔珠。
眩暈がする。
夢の世界が崩れる。
美しい声が遠くに響く。
「次は・・・そうだな。」
・・・お前の望みを・・・叶えてやろうか?
深くたゆとう水底から。
急速に水面に引き上げられるように意識が覚醒する。
ふたたび、月夜の小高い丘の岩場に自分がいることに気がついた。
夢の続きを見ているように、青白い、世界。
「気がついたのか、ホーク・・・良かった。」
小さく安堵するような声は、何故か自身の腕の下から聞こえた。
「・・・セティ様?」
「何も聞かなくていい。どうか気にしないでくれ。」
少し早口に、そう告げると、王子はふわりと私の腕の中から抜け出した。
開いた胸元を、自然さを装って合わせる。
状況が理解できない。
・・・自分は一体、何をしようとしていたのか。
心の片隅に答えが眠っている。
だが、認めたくはない。
「セティ様・・・、私は・・・。」
「夢にひきずられたのか?ホーク。君がまさか・・・、いや、仕方がないか。」
呟くような風の御子の言葉は、複雑な戸惑いを滲ませる。
その理由は・・・。
「私は・・・。」
「言わなくていい。君は悪くない。わかってはいるけれど・・・、仕方のない人だな、あの人は。」
澄んだ碧の瞳が遠くに、誰かを映して、揺れた。
「・・・夢を、見ました。」
「ならばそれは、全て夢であって、それ以上でも以下でもない。」
そう言って、少し痛みを抱えたような笑みを浮かべて、王子は身を翻した。
耳の奥でじんじんと、余韻のような、あの歌の音色が残っている。
静かに目を閉じる。
考えてはいけない。メビウスの輪のような迷宮の世界。
青き月夜の夢幻の世界も、やがては白い僥倖に洗われ明けてしまうのだから・・・。
朝の目覚めは常と、変わらぬもの。
先行して出発する部隊の行軍の足音が、天幕の向こう側で調子を刻む。
冴える頭の端で、何かがおかしい、と思う。
昨夜はこの天幕から出ることはなかったと、事実を告げる確かな意識。
しかし、夢のような月夜の丘の記憶が脳裏に焼きついている。
夢と現の境が判断できずに、僅かに思考が混乱した。
「どうした?ホーク、ぼうとして、君らしくもない。」
柔らかな薫風が脇を通りすぎた。
「私達も早く発とう、飛竜の騎士舞うこの地は、長く留まれば危険を伴う。」
「ええ・・・、すみません、少し・・・」
頭を振って起き上がる私を促すように、両手で法衣の襟元を整えながら、王子が振り返る。
「何かおかしな夢でも見たのかい?」
「・・・ええ。」
「私は、良く眠れたよ。久しぶりに。」
そう言って、晴れやかな笑みを浮かべる。
いつもと変わらぬ朝。変わらぬ空気。
・・・全てが、夢だったのだ。
外へと消えた風の御子を無意識に目で追いながら、もう一度強く頭を振った。
だから、忘れればいい、全て。心を押し殺して。いつも通り。
時計の針が変わらず刻まれていくように。
だから・・・。
何も問うことは出来なかった。
僅かに垣間見えた。
貴方の、首許に咲いた、小さな・・・
赤い痕・・・
SSTOP