物心ついたときから、あの風を知っていた。
私だけに聞こえる歌があった。
それは、まるで物語の世界のように。
・・・自分だけのものだと思っていたから。
諦めなければならないのだと、割り切りがついて。
初めて、自分が一歩、大人になったのだとわかった。
・・・でも、最後の別れのその時に。
自分は、台本どおり、上手く演技が出来るだろうか?
「歌だ。」
突然。顔を跳ね上げ、声を上げたセリスの所作に、オイフェがいぶかしげに食事の手を止めた。
「セリス様?」
「あ、ううん・・・何でもない。」
僅かに、はにかむように首を振り、小さな光の公子は食事を再開した。
これが初めてのことならば、気にもとめないだろうが。
幼い頃より、幾度も、この公子には他人には聞こえない歌が聞こえると言うのだ。
「セリス様、まさかまた・・・。」
「そういえば、明日はシャナン達が戻ってくるのだったよね。剣の稽古を久しぶりにしてもらえるかな。・・・少しはわたしが強くなったところを見せないとね。」
あからさまに話を逸らして、隠すようになったのは最近になってのことだ。
イザークの辺境、このティルナノグの隠れ里ですでに10年の歳月が流れた。
いまや帝国の支配は、ユグドラル大陸のほぼ全域に渡り、戦火の収束と共に、世界は上辺上安定を取り戻しつつあった。
グランベル帝国の絶対的な支配力に抗う者はもはやおらず、むしろどこの国の民衆も秩序と安定を求めその支配を容易く受け入れたのだ。
伝統的な貴族政治を打破し、身分を問わず能力ある者に道を開き、国や民族による差別のない、平等な社会を目指す皇帝の理想は、一部の、既得権益を取り上げられた貴族達の不満を除けば、広く民に受け入れられていた。
その出発点こそ血塗られたものではあったが、今やバーハラの惨劇は、古き体質を継ぐ諸侯の反逆と、それを打ち破り統一社会を実現した新皇帝の輝かしい栄光への起点として語られていたのである。
その反逆者の遺児である、この幼き公子は、その命こそ長らえたものの、この辺境の地で、いつ終わるともしれない隠遁の生活を強いられていた。
シアルフィ家の名誉の回復と再興を熱く語る、オイフェの熱弁をもってしても。
それが今では夢物語のように現実味のない未来だと誰にでもわかった。
何より、優しく穏やかな気質の公子自身が、自らの身を持って再び世を乱すことを嫌うだろうことは目に見えている。
この地で、父の汚名と自らの不遇に文句の一つも言うことなく、残された僅かの仲間たちと、静かな暮らしさえ続けられればと、望むのだ。
この少年は。
そう。
運命の紡人たる神が。
蜘蛛の巣のように張り巡らせた、運命の糸で。
その光の御子を絡み捕えることさえなければ。
”聖戦”は起こりえなかったのだ・・・。
真夏の夜の夢
夜も更け、皆が寝静まったのを見計らい、セリスはこっそりと寝所を抜け出した。
音を立てぬよう、気を配り、息を殺して周囲の様子を伺いながら、館の外に飛び出すと、後は全速力で森に向かって駆けた。
オイフェのしつけの賜物か、普段から、行儀が良く、素直で穏やかな少年が、このような行動を取ることを予想出来た者は少ないだろう。
実際、既に幾度目か数えきれなくなる程の、その夜の特別な秘密は、まだ誰にも知られてはいないのだ。
はあはあと、上がる息のままに、何かに導かれるように、道なき森の、木々の間を抜け、月光の僅かな光を頼りに森を走る。
やがて、森が開け、湖が月明かりを照り返す姿を確認して、少年は足を止めた。
「来たよ。レヴィン・・・。」
息を整えて、声をかける。
「うた、止めなくていいのに・・・。」
湖の中州にあった、影がゆらりと動く。
月明かりに照らされて、その白皙の面に宿る、魔性の紫玉が輝くのが見えた。
す、とその繊細な楽師の白い手が伸ばされたのが、合図。
「今、そこに、いくから・・・。」
戸惑うことなく、水に向かって足を進める。危険な深みもあることで、地元の者でも近寄らない場所。
しかし、踏み出した足の下に、目に見えぬ足場があるかのように、セリスは水の上を真っ直ぐに、歩いて中州へと渡った。
月光の下、神秘的な秘密の邂逅。まるで物語の中にでもいるかのように、ふわふわと現実味がないのは、その絵のような美しい光景のせいだろうか。
水辺を蛍の光が幾筋も舞う、幻想的な空間。穏やかな風がそよぎ、この世のものとは思えないような、あの魔性の声が音を紡ぐのだ。
「よく来た・・・。さあ、こちらへ。セリス。」
その不思議な声に導かれるままに、得体の知れないその存在の元へ歩みを進める。
膝を折って、眼前に腰を降ろすと、挨拶代わりにどちらからともなく、軽く口付けを交わした。
「うた、うたって・・・。」
続きを促す声に、楽師は5本弦の琴を再び構えた。
「・・・どうした?」
穏やかな低めの甘い声が、囁くように流れた。その繊手が、セリスの目許にかかった前髪を優しくすく。
「ううん・・・。今までのこととか、思い返してた。レヴィンのこと。」
「私の・・・?」
「ずっと、ずっと小さい頃から、うた、聞こえていたよ。」
少し、はにかむような表情で、少年はその大きな瞳で上目使いに見上げた。
「風を・・・追いかけられるようになったのが、6才のとき。ここで、あなたに出会うことが出来た。湖を越える勇気を知るのに、それから一年かかったよね・・・。」
「・・・。」
「それから5年。触れあうくらいに近づいて、たくさん話をして、こうして過ごせるようになった。」
甘えるように、擦り寄って、そのまま柔らかい草地に寝転ぶと、暖かい手が上から頬を包み込んできた。
「もっと、近づける?・・・もっと触れあえる?もっと、色々、あなたのことが、知りたいよ。」
「お前が、望むなら、いくらでも・・・。」
「嘘。待つのは嫌だよ。どうすれば手に入るのかな?」
不安気に見上げる幼い顔の上に、くつくつと喉の奥で噛み殺したような笑い声が降ってきた。
「私が、欲しいか?セリス・・・。」
「うん。」
「お前次第だ・・・。光の公子。」
囁き声。
仰向けの小さな顔を反対側から、両手で包み、魔性の紫玉が少年の瞳を覗き込んできた。月を背負って・・・。
「どうすればいいの?」
「”契約”を・・・。」
「契約?」
「お前が私の駒として、歴史を紡ぐ人形となるのなら・・・。」
「・・・。」
「私は契約が果たされるその時まで、知恵を授け守護を与えよう。・・・お前のものとしてお前と共にあり続ける。」
魔性の囁き。
まるで、悪魔に魂を売る儀式ように、人を魅了し取り憑き、引きずりこむ、その恐るべき存在。
運命の糸を張り巡らせた罠の中へ。
「レヴィン・・・。」
その手の内に捕えられ、魅入られて尚、賢明な理性の光を失わない少年の瞳が僅かに揺れた。
「最初から・・・、それが目的だったの?だから優しくしてくれた?だから求めてくれた?」
「・・・生まれた時から、お前は私のものだった。セリス。・・・失われたお前の父と交わした誓約ゆえに・・・。」
「・・・え?」
父、という言葉に、セリスは反応を返した。
「だがせめて、お前の意思をもって決めさせてやろう・・・。だから、・・・時を待ったのだ・・・。」
ふわり、とかすめるように口づけられた。
「考える時を与えよう。答えが出たなら・・・、再び私の元へ来るといい・・・。」
「レヴィン!」
跳ね起きた、セリスが手を伸ばす間もなく。
一陣の風と共に、その姿はかき消えていた。
「誰も、再び、世が荒れることを望んではいない・・・。」
「セリス様・・・?」
「オイフェは、私が、亡き父の遺志を継ぐ、と言ったらどう思う?そこまでして、シアルフィ家の名誉にこだわることに、価値があると思う?」
「セリス・・・、突然、どうかしたのか?」
鋭く、細められた視線はシャナンのもの。
久しぶりのイザーク王子の帰還に、ティルナノグの里は夜を通してのお祭り騒ぎになっていた。
とはいえ、外で明かりを照らす程、無用心でもないために、大きな円錐状の屋根を持つ宴会場の中に、里中のものが集まり、ろくに身動きも取れぬほどの熱気だ、
若干12歳の少年も、オイフェの目を掠めて注がれた白濁した甘い酒を啜り、顔を僅かに上気させていた。
「だけど、わたしがそうすることで、救われる者達がいるのならば、旗頭に奉り上げられても、構わない。」
「セリス様。それは本当に貴方の意思ですかな?」
「・・・変なの。オイフェは、こう言ったら喜ぶと思っていたけれど。」
「むしろ疑いますな。何かあったのかと。」
鋭い視線に、公子は困ったように肩をすくめて見せた。
「オイフェ、わたしは父の汚名を晴らすことには執着していないよ。例えそれが濡れ衣であったとしても、過去の怨嗟に振り回されて、未来を見失ってはいけないと思う・・・。」
「賢明ですな、公子。」
「でも、わたしは世界の真実を知りたい。繰り返される人の業や、砕けて消えた数多の想いのこと。光の影で蠢く闇に、・・・目に見えない所で、捕われた過去の、魂達を救いたいとも思う・・・。そして、今、誰にも知られず、運命の歯車は回りはじめてる・・・」
遠く視線をさまよわせて呟く少年の言葉は、微妙に文脈が通っていない。
母譲りのそれか、時折見られる少年の、神託のような言葉は驚くほどいつも、事象の本質を捉えていたけれど。
常のそれとは異なり、徐々に陶酔するように言葉が浮きはじめた少年に、兄代わりの青年が頬を軽く叩く。
「酔っているのか、セリス。おい、大丈夫か。」
「やや、セリス様!まさか酒を飲まれましたな?!」
「オイフェ、シャナン・・・。二人とも・・・胸の奥に、引き裂かれたまま、埋められない傷が口を空けている・・・。それは置いてきた、過去の業?」
「・・・・。」
「・・・・。」
「わたしはもう子供じゃない。いろんなことを知っているよ。この里を出たこともないけれど、世界中のことを。愚かな・・・人の歴史の裏側もね!」
「セリス様、お話しなさい!何があった!」
「話してくれる人がいる。教えてくれる人がいる。・・・何でもだ!オイフェが教えてくれないようなことだって。」
「一体誰が!・・・いつ?」
問い詰める、オイフェの言葉を払うように、セリスは手に持っていた杯を一気に空けた。
「教えない。あの人は夢の中の魔物だから。わたしにだけ見える。わたしにだけ”うた”がきこえる。」
勢いのままに立ちあがる少年を、引きとめようとした手を払いのける。
常日頃の少年からは、考えられないような所作。
「やはり、魔性に魅入られていたのか。しっかりなさい公子!」
「・・・っ!」
「セリス様!」
「”うた”が聞こえる!・・・行かないと!」
弾かれたように、人波を巧みにくぐりぬけ、少年はそのまま広間を飛び出た。
振りかえることもなく、セリスはただ必死に森の中を駆けていた。
二度と会えなくなる前に、伝えないと・・・。
もう夜にこっそり抜け出すことなんて、出来なくなるに違いない。
一息に煽った酒のためか、足元がふらついて定かではない。思考能力すらあやしいものだ。
どうやって、辿りついたか知れぬうちに、光片の舞う泉に出ると、そのまま立ち止まらずに中州へと、水を渡った。
「レヴィン!どこ?」
ここまで来れば、もう誰も邪魔出来る者もいない。
ようやくにふらつく足を止めて、必死に辺りを見回した。
「出てきて!レヴィン!」
いない?
不安が声色を悲痛なものにしたが、さわさわと、風が水辺の草を撫でる音が聞こえたかと思うと、木陰から紫玉の光を宿した影があらわれた。
何故か、さもおかしげに、くつくつと笑いを携えている。
「レヴィン!」
「・・・どうした?何か、天地がひっくり返る程の大事でも起こったかな。」
そして再び笑い出す、その声は変わらず穏やかで、先程の喧騒を遠く夢の彼方に追いやってしまうに充分な力を持っていた。
足元に仰向けに倒れこんで、収まらぬ息を整えようとする少年の額に、す、と風のように挨拶代わりの口付けを落として。
「心配はいらないさ。彼らは、ここまで追ってこれない。」
全て、見知っていたかのように、言葉を先取りする。
「酔っているな・・・いけない子だ。」
ほんのりと赤く上気した頬を撫でて、指先で唇をなぞる。
その楽師の白い手を捕えて、引き寄せると、しなやかな長身の身体が少年の上に影を落とした。
「いったい、いつになったらわかってくれるの?」
「・・・何がだ?」
「わたしが、あなたに本気だってこと・・・。」
「・・・。」
「契約してあげる。好きにしていいよ。」
「投げやりだな。どうでも良くなったか?」
「悪魔に想いを寄せた哀れな少年の末路だよ。父に懺悔しながら堕ちることにする。」
「誰が悪魔だ・・・。」
さも心外だとばかりに、一瞬、僅かに眉を吊り上げる表情は人のそれであったが。
「計画どおり、獲物を手にいれたご感想は?」
「悪くない。」
否定もせずに含み笑いを抱く、傲慢な美貌を引き寄せる。
「さあ、レヴィン、どうすればいいのか言って。」
「誓いは神聖にして不可侵なるもの。お前がその強き意思を持って、世界の光となることを望めばいい。」
「それだけ?」
「引き換えに、私はお前に全てを与えよう。あらゆる名声、地位、富、権力・・・。望むもの、全て。」
「わからずや。いらないよ、そんなもの。」
そのまま、首に手を回して体重をかける。
ふわりと、草むらの上にふたつの影が倒れこんだ。
「では言葉か?身体か?何が欲しい?」
「よく言えるよね、そういうこと。」
楽師の白い喉に、その小さな形の良い唇を押し付けながら。
「じゃあ家族が欲しいって言ったら叶えてくれる?ちゃんと血が繋がった家族。」
囁き声のように呟く。
「探しておこう。」
「ほんとに?」
返事の代わりに、残酷な微笑を浮かべる魔性を見て、少年は眉をしかめた。
「嫌な予感。ぜいたくを望むとバチがあたるんだ、きっと。」
「わかっているじゃないか。」
「手に入らないものを欲しいとは望めない。消えてしまうものに溺れても仕方ない。」
「・・・賢明だ。」
「でもいつか、復讐するよ。わたしを弄んだのが、間違いだったって、思い知らせてあげる。」
そう言って、まだ赤く上気したままの顔で精一杯睨みつける。
「怖い子供だ。」
月下の魔性が、小さく笑いながら柔らかく瞼の上に、口付けを落とすと、拗ねたように少年は首を竦めた。
「いつまでも子供じゃないよ。・・・もっと触れあえる方法を教えて。」
「忠義の騎士が心労で倒れるな。お前がこんな子に育っているとは知らずに。」
「・・・心配いらないよ。わたしは。皆の前では模範的に良い子だから。」
「・・・そこがお前の怖さだ。」
つきかけたため息を、途中で小さな唇が奪った。
ついばむように、触れあってから、吸いつけられるように深く、重ねあわせる。
まだぎこちない少年の舌に、楽師は優しく応じて、引き寄せ、導く。
風が、凪ぐ、永遠のような時間。
絡みあう影が離れると、熱を帯びたままの白い息が散った。
「今日が最後じゃないよね?また会えるよね?うたきかせてくれる?」
「・・・お前が望むだけ、与えよう。」
「もう、わたしはここに来れないかもしれない。それでも?」
「”契約”がある限り、私とお前の絆は絶対だ。光の公子。」
「契約を破って逃げ出したら?」
「私から、逃げられなどしないさ。」
「・・・。呆れた。誰かあなたを裁ける人はいないのかな。」
くすくすと、笑いを転がして、飛びつくように抱きつく、小さな子犬のような身体を受け止めて。
その澄んだ深い青の瞳を、まっすぐに、至近から覗きこむ。
神秘的な魔性の、紫玉の揺らぎに魅入られるように、少年の瞳が焦点を失った。
そのまま、す、と楽師の指先が少年の項を辿ると、鋭い風の刃に撫でられたように一筋の緋が伝わった。
ゆっくりと。
その首許に顔を埋め、血を舐め取ると、ぴくんと、小さな身体が震えた。
「赫の契約は互いの血を交換するものだ。」
続いて、楽師は自らの右手首の内側を左手の人差し指で辿り、赤い筋を伝わせる。
そのまま、憑かれたように、その白い手首に吸いつく子供の耳元で、一言、二言、呪のような言葉を紡いで。
「これでお前は私のものだ。セリス。」
力を失って崩れ折れる、子供の身体を抱いたまま、浮かべた笑みは、何故か自嘲的なもの。
月を仰いで呟く言葉は、誰に聞かれることもなく、宙に漂い、消えた。
「約束通り、・・・お前の息子は頂いたから、な。・・・シグルド。」
セリスが目覚めたのは次の日の朝。
そこはいつもの、自分の寝台の上だった。
跳ね起きて、周囲を見渡したところで求めた影があるわけでもなく。
まるで、昨夜の出来事が夢であったかのような、いつも通りの朝の光景。
「レヴィン・・・」
思わず呟いた言葉を、扉の外にいたらしい人物に聞かれてしまった。
「やはり、な・・・。」
「シャナン?」
「何か、おかしな夢でも見たのか?」
静かに目を細めて歩み寄る、兄代わりの人物を見とめて、セリスの瞳が僅かに泳いだ。
シャナンには、いつか話そうと思っていたのだ。でも・・・。
「シャナン、昨夜、わたしはどうしたんだっけ?」
「酔っ払って忘れたのか?後でオイフェに大目玉をくらうぞ、覚悟しておけ。」
「うたがきこえて、外に飛びだした。」
「そのまま外で倒れて、気を失った。オイフェと私でお前をここまで運んだんだ。」
「うそ!だってわたしは・・・。」
「楽師に会ったのか?レヴィンという名の。清緑の髪の・・・風使いだ。」
セリスは続ける言葉を失った。
イザークの王子は、寝台の脇に腰かけて、少年のすぐ傍で声を潜めた。
「・・・何故今まで私に話してくれなかった?」
「シャナン、どういうこと?何で・・・。」
「セリス。お前が私に話すことが出来なかったように、私にも話したくないことはたくさんある。」
「ちが・・う。ごめんシャナン!だって・・・、怖かった。・・・誰かに知られたら、うた、聞こえなくなるかもしれないと思って・・・。」
「”彼”の目的は、お前自身だ。いかなる手段を持ってしても、お前を取りこもうとしたはずだ。・・・私は、お前がそれを選ぶならば止めるつもりはないが。無意味にお前が傷つくことは、止められたかもしれない。」
「シャナン、意味がわからない。シャナンは”あの人”を知っているの?」
不安を露わに、セリスの言葉は震えた。
「セリス。彼は・・・。」
「セリス様!」
突然、扉を開け放って部屋に飛びこんできたのは案の定、心配性の騎士だった。
セリスが思わず、身を竦める。
「目が醒められたようですな。」
「ごめ・・・オイフェ!昨日のことは・・・。」
「・・・そのことは、まあ百歩譲って大目に見ることにしましょう。何より、懸念していた”魔物”の正体もわかったことですし。」
やれやれと、大袈裟にオイフェは眉間に皺を寄せてため息を吐いた。
「え・・・。」
「セリス様!何故今まで、我々にきちんと話して下さらなかったのですか!それに、”あの方”に何か失礼なことでも・・・。」
「オイフェ。私は一介の楽師だ。余計な気を回されると困る。昔と同じでいい・・・。」
楽を奏でるような、柔らかな美しい声が、流れた。
穏やかな風をまとい、す、と扉の影から現われた姿に、セリスは言葉をかけることも出来なかった。
夜の、月明かりの下でしか見たことのない姿だったから。こうして日の光の下に、まるで人間のように、存在していること自体に違和感を覚える。
「レヴィン様、貴方も貴方だ。我々に何故声もかけずに・・・。」
「済まなかった。そう怒らないでくれ。旅の途中で、亡き親友の子の成長が気になって立ち寄っていただけだ。様子がわかればそれで良かった。」
涼やかな声で、セリスの父を友と呼ぶ。
だがその容姿は見方によればオイフェよりも若く映るし、老然たる雰囲気はまるで数百年もの齢を重ねているようにも感じられる。
その違和感が、彼の存在を、人間離れさせて見せるのだ。
「逆に我々がむやみに接触し、帝国にそれが漏れることがあれば好ましくない事態になるだろうからな。」
「確かにそうかもしれませんが・・・。」
どうにも納得出来ない様子で、渋面をつくる騎士を見ておかしそうに楽師は笑いをこぼした。
「老けたなオイフェ。まだ若いというのに、数十年分、歳をとったようだ。」
「貴方は変わらず容赦がないですね。いや、全く変わってないというべきか、変わってしまったというべきか・・・。」
オイフェの理知的な瞳の光が、僅かに図るような色を帯びる。
シャナンもまた、硬い表情のまま、声色に緊張感を乗せた。
「レヴィン。何故我々の前に姿を見せた?”時”が来たのか?」
「いや・・・。少なくとも、あと7、8年。時が満ちるにはまだ早い。・・・だが、いずれその日が来る。」
風が歌うように、言葉が流れる。
「その子は我々の、果ては世界の光となるべき子供だ。小さな希望の光、絶やさぬよう、これからも見守ってくれ、オードの剣聖。」
「・・・貴方に言われずともそうするさ。私にとって、これはもはや使命でも懺悔でもない。」
「そうか。」
その言葉に、風の化身は優しく目を細めて。
「では私はもう行こう。これからも、幾度か折を見て立ち寄るが、お前の成長を楽しみにしているからな。・・・光の公子。」
「・・・何?どういうこと!」
それまで、言葉もなく凍りついていた少年が、声を張り上げたのは、楽師が場を立ち去ろうと背を向けた時のこと。
その剣幕に、空気が一瞬揺れ、場にいた3人の視線が少年に集中した。
「どういうこと?説明してよ!どうして、オイフェやシャナンがレヴィンのこと知っているの?3人だけでわかったような会話して!」
自分だけのものだと思っていた、存在。
幼い少年にとって、物語のように、夢の中の特別な、憧れであった存在が。
自分以外の者と言葉を交わし、彼らと、自分の知らない何か、を共有しあっている。
突き放され、裏切られたように、瞳を揺らして、戸惑いと、怒りと哀しみを露わに、子供は、幼い顔を歪めていた。
「だましたの?わたしを。・・・説明してよ!」
「セリス。彼らと私、お前の父は、かつて共にあり、分かちがたい時間を共有した仲だ。戦友とも呼べるかもしれない。」
「じゃあ、どうしてそう言ってくれなかったの?わたしのこと・・・何だとおも・・て。」
ぽろぽろと、小さな涙を落として、握りしめた拳が震える。
明るく表情豊かに見えるようで、実際のところ滅多に、その本心とも呼べる感情を露わにしない少年のその姿は、失意の大きさの程を物語っていた。
「セリス・・・。」
兄代わりの青年が、そうなることを予め予測できていたかのように、非難めいた視線を楽師に向けた。
楽師もまた、ため息を一つ、風の吐息のようについて。
「オイフェ、シャナン、少し席を外してくれないか。」
ふわりと身を翻し、寝台の近くへ歩み寄った。
「うそつき・・・大嫌いだ、あなたなんて・・・。」
「お前を騙したつもりなどないが。」
二人が去ると、声を低く潜めて、風がふわりと少年を包んだ。
「私を見なさいセリス。」
「いやだ。・・・約束したのに。・・・うそつき!わたしのものになるって言ったじゃないか。」
「セリス。”契約”がある限り、私達の絆は、絶対だと。言ったはずだ・・・。」
耳元で。囁く。魔法の声。
二人だけの秘密のように。ひっそりと。
そこではじめて、大きな瞳を潤ませた少年は、視線を上げ、至近から見下ろすその紫玉に絡ませた。
「契約・・・。夢、じゃなかった・・・?」
「だから私はここに来た。お前が私を、呼んだから・・・。」
巧みに言葉を操り、人の心を弄ぶ魔性の気配。
先程の会話では、微かに感じられた人らしさが抜け落ちて、夢の中から召還された魔物のように、その瞳の光が強くなる。
その、長身の影に抱きついて、セリスは声を震わせた。
「どちらのあなたが本物?月の夢の中の魔物と、日の光の下で、人間の姿をしたあなたと・・・。」
「どちらも、私だ。」
「うそ。どちらもあなたじゃない。わたしにはわかる。」
矛盾した言葉を投げかけながら、真実を見通す瞳を持つ光の神子は、正面から紫玉と対峙した。
「手に入れた瞬間から、諦めなければならないことがわかるなんて。・・・こんな残酷なことってある?」
「・・・。」
きゅ、とその腰に腕を回してしがみつく。
「こんなに近くにあるのに。わたしは・・・努力しなければいけないんだ。あなたへの想いが、過去のものになるように・・・。」
少年の言葉に、楽師は僅かに首をかしげた。
「セリス。私はお前に全てを与えられる。」
「じゃあ、心を頂戴。」
「お前がそれを望むならば。」
「うそつき!そんなもの。持ってもいないくせに!」
き、と睨み上げる少年の瞳に、ちら、と楽師の瞳の光が揺れた。
「胸の奥で凍りついている。縛られている。誰も溶かすことが出来ない。だってそれは過去の幻だから。今のあなたには演じることしか出来ない!」
「・・・。」
「見えるよ。たくさん。凍りついた氷の破片。砕けてきらきら光ってる。綺麗な翼を生やした天使のような女の人。白馬に乗って、光を背負った男の人。笑い声の可愛いちっちゃな女の子。それに、黄昏の雪原。・・・泣いている。あの小さな男の子は誰?」
弾かれたように。楽師は一歩、下がった。
「・・・ばかな。」
明らかに、浮かべられた動揺の光。両手を伸ばしてそれを引き寄せる。
偽らない。真実を映す鏡。光神バルドとナーガの直系たる聖者の証。
「セリス。・・・お前は、ありえないものを見ている。」
「そう。ありえないよね。心を失った人が。捨てきれずに抱えている幻があるなんて・・・。矛盾だ。」
哀しげに、再びその瞳を潤ませて。しがみつく。
「大好きだよ、レヴィン。・・・だから。あなたの為に、泣くのはこれが最初で、最後だから・・・。」
静かな、静かな美しい涙の滴。
幾多の想いを、洗い流す雨のように。優しく柔らかく、光を放つ。
「あなたを、わたしが救えたら、よかったのに・・・。」
切ない囁きは風に乗って。
・・・あの、乾いた魂に、届いただろうか。
私達の絆は絶対。
これから共犯者だね。
だから誰にも、言わないでいてあげる。
わたしが見た。
あなたの。
心の真実・・・。