都市トーヴェは、大陸の最北端に位置する。
そこは、厳しく長い冬が一年の過半を占める北の小国シレジアの国土の中でも、永久凍土に覆われた山脈に連なる、氷の都。自然の要衝に守られ、いまだ帝国支配の影響を直接には受けずにいる最北の都市の環境は、シレジアの民であっても住まう者を選ぶ。
”トーヴェ村”は、元来、名も無き村であった。
北の都トーヴェに程近い距離にあるものの、北に氷海を臨み、東に広大なトーヴェ河、西に深い針葉樹の森、南にシレジア山脈へと連なる山並みを抱え、まるで陸の孤島のように隔離された小さな村だ。
そしてここは、限られた者にしか門戸を開かない、幻の村。
何故なら、村の周囲には、強力な理力によって特殊な結界が幾重にも廻らされ、外界との接触が断たれている。そこに確かに存在しているにも関わらず、存在を知覚させないのだ。
当時私は、ただ魔導を学ぶ者としての純粋な好奇心から、この不思議な空間の継ぎ目を興味深く見回した記憶がある。
理由があるから護られている。
護られるべきものが、存在が、そこにあるのだ、と。
トーヴェ村の小さな館の一室。
内装は豪奢ではないが、それでも特別な者達の為にしつらえられたことが一目でわかる。
貧しい村の中で、考えられうる限りの贅が尽くされているのは、村人達のせめてもの心づくしであろう。
何も知らされず、北の果てのこの小さな村まで連れてこられ、「国王陛下に拝謁する。」と言われれば混乱もする。ただ少なくとも、村全体が結界によって存在を抹消されているほど大切な、護られるべき何か、の理由だけは、これで理解できた。
自分がこの地へ導かれた、その事情も何も知らぬままに部屋まで通されて、“彼ら”の姿を目に捉えて、何か物語の世界に迷いこんでしまったかとさえ思った。
無理もない、と今では思う。
何より、その時私はまだ8つの子供であったのだ。
The Promised Land
柔らかい暖炉の火がはぜる音を背において、まるで、絵に描かれた夢幻郷の住人のように美しい王妃様が、私に向かって優しく微笑んだ。幼い小さな姫君を、膝に抱いている。
国王陛下は、長い肘掛つきのソファの中央に深く腰かけていた。
雪と天馬が舞う風の王国の盟主にして、天上の詩人と詠われる。話に聞くだけでも雲の上の存在のような人だから。そのどこか不思議な印象も、線の細い透明な美貌もそういうものなのだ、と感じたような覚えがある。
とにかく緊張して、その時私は顔さえまともにあげられなかったのだ。
目の端に、王の脇に寄り添って腰かけた、小さな、王子の姿が映った。
何故、自分がここに呼ばれたのか、そんな単純な疑問さえ口に出す余裕もなかった。
そう。王家の人間が生き残っているという噂は本当だった。
彼らが「本物」だ、という証拠を提示された訳でもないのに、それは本能的に確信出来た。
「良く来てくれた。」
まるで、歌うように、陛下が言葉を紡いだ。
音を連ねるだけで楽を奏でるような。奇跡のように美しい、声。
「名はホーク。先月、旧シレジア王立魔導学院において、子供でありながら”賢者”の称号を獲得し、話題になった天才少年。」
確認するように告げられて、風もないのに周囲の空気が動いた気がした。
本能的に、緊張で身が硬くなる。
「残念ながらあそこは半年ほど前に帝国の所轄に代わってしまったがね。本来ならば、伝統ある学院の式典には私も招かれることになっていた。」
さほど感慨もなさそうに柔らかい声が告げる。
そう。
もうこの国は私達のシレジアではない。
あっけない程簡単に、帝国に屈し、国の、伝統も誇りも奪われてしまった。
国王の選択に対する、国民の風当りは今でも強い。
帝国占領後、姿を消した王家の人間が生き残っているという噂は、公然と囁かれたが、王が自らの保身の為だけに、国を売ったと揶揄する声まである。
以前より、この国王に対する国民の評価は二分されていた。
シレジアの守護神の化身であると心酔する者もいれば、放蕩者の楽師で政務の能力などないのだ、と見るものもいた。私が幼かった頃、王位継承を巡る内乱が起こったが、当時平和ボケで暇を持て余していた国民は、良くも悪くも貴族のゴシップを娯楽にしていたのだ。
平和だった北の小国に、騒乱の種を持ちこみ、反逆者に荷担して結果として国を滅ぼしたのだが、それでもまだ、この不思議なカリスマを持つ王に期待を寄せている者が多いのも事実。
そして、幼いが既に聡明な資質を発揮していると噂される、小さな王子の存在に、人々は王家再興の望みを抱いているのだ。
私自身はそれまで、王家の人間達がどのような人物であるかには、さして興味を抱いていなかった。噂が真実を指し示しているとは到底思えない。しかし、人々の評価には相応の理由があるはずだ。
王が、少なくとも民の声に耳を傾け、己が立場を知る最低限の素質を持つ者であるならば。ほんの少し、演出しさえすれば、粗末な噂などたてずに済んだのではないだろうか、と。
少なくともこの時までは。私は、自分は須らく客観的で、常識的に物事を判断出来るという自信があった。
それはある種の過信であったかもしれない。
実際に、“あの存在”を目の前にした人間が、どこまで、その存在の“真実”を探り当てられるかなど知れないのだ。
ただ私は、幸運にも、あの賢明な風の御子の傍らで、その真実の一端に、触れてはきたけれども。
「お前の噂は以前から聞いていた。既に帝都バーハラからも将来を期待して声がかかっているそうだな。その歳で既に、帝国の宮廷魔導士として、輝かしい将来が約束されている。」
陛下は、ごく自然な口調で、流れるように柔らかく言葉を紡いだ。甘い、不思議な響きのテノールトーンが、頭の芯に直接伝わってくる。
何故だか。ただ聞いているだけで、全身が催眠術にでもかけられたように痺れてくる。
言葉を、返すために、私は、酷く労力を必要とした。
「・・・陛下。私は名もない平民の生まれです。身に不相応な世界の事は考えが及びません。」
「優れた資質を持つものに、家柄も血筋も関係はない。違うか?」
「・・・しかし」
「ではお前を、駆り立ててきたものは何かな?何故魔導を求めた?」
何、と言われても上手く説明できる言葉が見つからない。
私の父は、小さな村の村長をしていたから、私は村の期待と財産を一身に投資されて、伝統ある王都の学院に入ることが出来た。
振り向いたり、立ち止まったりする余裕すらなく、私には知識を求めるべき理由があった。
「私を支援してくれた者達の生活を、助けなければなりません。まだ小さな妹もいますし・・・。」
「それでは答えになっていない。」
心の底まで見透かされて、既に相手は答えを知っているかのような素振で。
恐る恐る、僅かに目を上げると、不思議な輝きを宿した紫玉の瞳に射竦められた。
美しいと思うより先に、本能的な恐ろしさを感じて、身が竦む。
目が、逸らせなくなる。
「禁断の知識はその扉を開けた者の心を喰らう。魔導は、貪欲な者に寛容だ。」
すう、と陛下の瞳が細められた。
場の雰囲気が変わった気がする。
穏やかなものから、酷薄なものへと。
全身を寒気が襲うような、奇妙な感覚。
目の前の存在から、言葉にならない程の威圧感を受ける。
「お前は知らず、それに触れた。真理を見たいという欲求ゆえに、禁断の扉を叩き、闇を・・・知った。違うか?」
「わ・・・かりません。ただ、私は・・・、光の魔導の力を得れば、妹を、助けられるかもしれないと・・・だから」
「貴方の妹さんが、どうかしたのですか?」
王妃様の助け舟に、ようやく私は瞳の呪縛を逃れることが出来た。
呼吸するだけで、乾ききった喉から、息が擦れたような音をたてて漏れた。
「・・・実は。」
小さな妹のフェミナが、原因不明の不治の病に冒されていることを私は語った。
教会の高名な司祭様にも、救う手立てはないと言われて、皆、既に諦めていたけれど。
「私は必ず妹を救う手段があると信じています。」
「なるほど。では何故、僧になって祈らなかった?」
治癒の魔導を学ぶには、その道の方が早い。
「それは・・・。」
あらゆる知識が必要だったから。そして戦う力も。
何故なら、恐らくは・・・。
「お前の妹は病気ではない。」
言おうか言うまいか、逡巡しているうちに、言葉を取られた。
「病気ではない。あれは、”呪い”だ。”暗黒神”への”魂の生贄”に選ばれた・・・。」
「・・・・・・。」
言葉が出せない。
何故、陛下が知っている?
いや、それよりも。
誰も信じないような、馬鹿馬鹿しいような事実を、さらりと言葉に乗せた。
”暗黒神”。”呪い”。”生贄”。
それが指し示すもの。
王妃様が小さく息を飲む音が聞こえた。
「お前のことを全て調べさせた。もちろん妹のことも。」
囁くような声は、それでも頭の中に直接、神託のように響く。
「ホーク・・・。今はまだ幼き光の賢者よ。交渉をするからには、私も見返りを用意しよう。お前の身と引き換えに、妹を助けると約束する。」
「な・・・んですって・・・?」
妹が・・・フェミナが助かる。
それが本当ならば。
いかなる手段がそれを可能にするのか、知ることが出来れば。
自分の短い生涯の全てに価するとさえ思った。
何より、妹が苦しむ、全ての責任は・・・自分にあるのだから。
「本当に・・・、妹は助かるのですか!?」
「お前次第だ。」
陛下が、小さく笑った。口の端を僅かに上げて。
そして、ちら、と脇に座る小さな王子に目をやった。
その時だ。
私が初めて王子と目を合わせたのは。
小さな風の王子は、幼子とは思えないほど落ち着いた静かな瞳で、私をまっすぐに見ていた。
澄んだ、清冽な瞳。
その湖水の碧に、吸い込まれて。・・・魅入られたのだ。
陶器のような白い肌。艶やかに流れる、瞳と同色の頭髪。整いすぎた容貌は美しい造りもののようで。まるで、神が、最高の材料を用いて、自分好みに創った人形のようだと私は思った。
それでいて、隣に座る存在に比べたら遥かに人間めいていて、むしろ好ましい。
血の通った存在感が、確かに、そこにある。
そして、幼い王子は、私の視線を正面から受け止めて、静かに笑いかけてきた。
「私は・・・何をすれば良いのでしょうか。」
目を奪われたまま、問いが口をついて出た。
陛下が、ふ、と笑う声が聞こえ、場に再び穏やかな空気が流れた。
「お前には、これの・・・私の息子、セティの、教師としてついてもらいたい。」
「・・・え?」
内容はまるで予想外のものだった。
「王城と違って不自由な環境ゆえに苦労をかけるかもしれないが。出来れば、教師としてだけではなく、兄のように、友のように、助けとなって欲しいのだ。常に共にあり、成長を見守り、そして支えてやって欲しい。」
自分が?王子の?
いや、正確に言えば、目の前の人物ももはや”王”ではなく、幼子も”王子”ではないのだが。
しかし、シレジアの民にとってこの国は今でもシレジアであり、彼らが国の象徴であることは決して変わらない。
何よりも、受け継がれ続ける聖戦士の血脈のために。
「な、何故、私・・・なのでしょうか?」
何故自分が。そんな大事な役回りを頼まれるのかわからない。次代の”王”となるべき人の、最も近くに立つことを求められる、その意味が。
相応しい者、自分より有能な者など他にいくらでもいるはずだ。
どれほど評価されたところで、私はまだ子供なのだ。
名の知れた貴族の血筋でもない。家名も財産もない。どう考えても身に不相応だ。
「お前以外に適者はいない。どれ程高名な賢者も、忠義の騎士も、徳のある司祭も、勇壮な戦士も、・・・責務は果たせないだろう。ついてこられる者は限られている。」
「・・・・。」
「ホーク。・・・私は命じているではなく、お前と交渉しているのだ。お前には拒否する権利もある。」
私に、選ぶ余地などあるだろうか。
妹のこともある。
そして、私が歩み始めた道は、今のままでも十分に危ういのだ。
世界の裏でうごめく闇に、触れてしまった為に・・・。
禁断の知識は諸刃の刃。後戻りは出来ない。
何より。
・・・・・・・。
小さな王子を再び目に捉えて確信する。
私は、この人と共に歩む為に、この世に生を受けたのではないか。と。
陛下が目を伏せて、小さく囁いた。
「これは誓約。言霊が支配する理は神聖にして不可侵なるもの・・・。良く考えてから、答えるといい。」
”誓約”の言葉に、王妃様の瞳が僅かに揺れた。
その意味すら、その時の私にはわからなかったけれど。
しかし迷いはなかった。
「・・・拝命・・・いたします。」
頭を垂れ、はっきりと、そう告げると、小さな白い手が私の方へ差し出された。
「よろしく。」
言葉もまた、幼子とは思えない程、落ち着いていて・・・。
私は、ゆっくりと、その手を取った。
決定的な選択。でも決して後悔することはないと確信出来る。
王妃様は僅かに、顔を伏せたようだった。
陛下は、満足気に笑みを浮かべた。
「案ずることはない、光の賢者よ。地位、富、名声・・・。お前もまた、全ての望みを手にすることが出来るだろう。」
まるで預言者のように確信めいて。その言葉は高らかに告げられた。
「シレジアはやがて、再び我らがもとに還る。人心は国の旗の下に固く寄り集い、この子の未来への期待と賞賛を惜しまないだろう。・・・生まれ変わる、輝かしい未来を共に分かち合うと良い。」
あの時のことを。
セティ様は、覚えていると言った。
そして小さな声で、すまない、と目を伏せた。
・・・謝らないで欲しい。
貴方と出会って、私は、あらゆることに新しい価値を見出した。
貴方と共にない人生は、意味さえ持たないというのに。
それでも、再び、すまない、と告げられた。
王子は私に話してくれた。
それより更に遡ること半年程前、王都が落城する直前だ。
帝国との決戦を控えて、王城に面した街の広場には、高揚する民衆が押し掛けて、まるでお祭り騒ぎのようだった。私も、その時その場に居合わせたから覚えている。
熱を帯びる民や貴族とは正反対に、余りにも冷めた王は、民衆の前に姿も見せなかった。
しかし、セティ様の話では、高台となった王宮の一室から、遠くその様子を眺めていたのだという。
「あの人は、氷のように冷たく笑っていたよ。その数週間後には、無条件降伏することを、あの時あの人だけが知っていたのだから。」
そしてその時、王は小さな王子に、誕生日の、贈り物をくれると言った。
あの中から。欲しい物を選びなさい、と。
遠く、湧き立つ人の波を指差して。
「セティ様?」
一瞬、王子の言わんとする意味を捉え損ねて、聞き返してしまった。
「・・・、ホーク、大切なことだから覚えておいて欲しい。」
王子は、淡々と静かな表情で、もう一つ付け加えた。
王は。まだ言葉も話せない、幼い姫君にも、同じことを聞いたらしい。
もちろんその時姫様が、父王の言葉を理解できるはずもないだろうに。
姫様は、ただ、空を舞う白い天馬の姿を指差して、王妃様の腕の中ではしゃいでいたのだという。
そして数日後、父王は姫君のために、どこからともなく、生まれたばかりの天馬を連れて来た。
雪のように白く、艶やかな毛並み。しなやかな翼、宝玉のような瞳。これ以上ない程に、美しい。最高級の白馬。
・・・まるで神の御使いのような。
名前は最初から決められていたのだという。
・・・”マーニャ”と。
それは残酷な。
運命の紡人からの贈り物。
その意味を。
どう受け止めるべきなのか。
ただ血の気の引く思いで。
私は。
言葉を失った。
「ホーク、君がここにいることを、君自身が望んだことなら良いけれど・・・。」
迷うことなど無い、真実。時の起こした、偶然。
それでも、”あの存在”が関わると、全てが狂えて見えてくる。
あらゆることが。何かしらの、意味を持つかのように、錯覚してしまう。
「・・・王子。私がここにいるのは間違いなく私の意志。・・・いかにあの方といえども、人の想いまで操ることなど出来はしない。その事は貴方がよくご存知でしょう?」
「どうだろうホーク。・・・私は私の意志が、本当に自分の物なのか、時折疑問に思うことさえある。あの人と対峙して、自分を見失わずにいられるのは、とても難しいことだ。」
淡々と、呟くようにそう告げた王子は、目を伏せた。
「人が人である心を持つ者。つまり、純粋さゆえに、心に闇を抱いたもの。光を絶やさぬ者に対して、あの人は興味を抱くんだ。」
私は、”選ばれた”のだろうか。
数瞬の後。
澄んだ叡智を湛えた瞳が、真っ直ぐに、私を見据えた。
「運命や宿命、描かれた未来、定められた結末、それら全てを否定しようとした人が、時を紡いでいるのは、皮肉なことだと思わないか。」
「・・・・。」
「ホーク、憶えておいて欲しい。私達には・・・これから。2つの戦いが、ある。」
一つは”聖戦”。
世界を覆う昏き闇との戦い。
二つ目は・・・。
「人の未来は人自身が切り開くもの。・・・・私は、あの人を、永遠に縛り続ける、宿命の糸を断ち切るために、・・・あの人自身と、戦わなければならなくなるだろう。」
静かに、王子はそう宣言した。
「ホーク、誓約は君を、決して縛りはしない。どうか、君が君自身の意志で、これからも私の傍にいてくれたら、と思う。」
例え、神の手の上で弄ばれただけだとしても。
この出会いを感謝せずに、いられるだろうか。
「・・・それでも、私は、純粋に、君を贈られたことがとても嬉しかったよ。」
そのまま、珍しいことに顔を僅かに赤らめて、俯いてしまった白い横顔を見て思う。
間違いなく、ここに私の望みがあるのだと。
誓約の履行と引き換えに、全てが手に入ると言った。
あの方の言葉には大きな誤りがあるけれども。
この道の果てに、何があるのか。
見てみたい。
永遠に、手に入れることの叶わぬ、想い人の。傍らで。
彼の抱く。切ない、唯一つの、願いを、叶えてやれたなら・・・。
また一つ。
鎌首をもたげた、心の、闇を・・・押さえつけて。
・・・思いを馳せる。
本当に。
人の力で。
辿りつけられるだろうか。
あの、約束の地へ。