カクテルの歴史


ミステリアスな名前の秘密
カクテル=Cocktailを日本語に訳すと“おんどりの尾”
何故ミックスドリンクがこのような名前で呼ばれるようになったのかについて
数多くの説があって、定かではありません。
“材料を混ぜ合わせるときに鶏の尾羽を使った”とか
アメリカ独立戦争の祝勝祝いに作ったミックスドリンクに、反独立派の家で飼っていたおんどりの尾を飾って喝采を浴びたというアメリカ建国の歴史に結び付けた話しもあります。
また、ミックスドリンクを作った男の名前からとったと言うような人物名に由来する説もあり、いずれも伝説の域を出ていません。

史実の中のカクテル
酒に何らかの材料を交ぜて飲むことは古い時代から行われていました。
紀元前のエジプトではビールに蜂蜜やナツメヤシのジュースを加えて飲んでいました。酸化したビールを飲みやすくするために考え出された人間の知恵でありましょう。
また、ギリシアやローマではワインをジュース湧き水、海水なので割って飲んでいたといいますし、7世紀半ばの唐(中国)ではワインに馬乳をまぜた乳酸飲料があったといいます。
中世ヨーロッパの人々は冬になるとワインにスパイスを加えて暖めて飲む“ホットワイン”というものがあります。このホットワインはフランス北部や北欧で時代と共に形式を変えながら現在も親しまれた飲み物です。

近代のカクテル
17世紀後半になるとインドで考案されたといわれている“パンチ”が東インド会社の社員を通じてイギリスにもたらされ、家庭でも飲まれるようになりました。
パンチ:近代インド語で“5”を意味する言葉で、貴族階級での大切な5つの習い事の一つで、インドの蒸留酒アラック、砂糖、ライム、スパイス、水、を混ぜた飲み物
“カクテル”という名所が使われた最も古い事例は、1748年にイギリスで出版された“ザ・スクァイア・レシピース”という冊子での記述です。
1750年代にはイギリスの社交界で“カクテル”と呼ばれる飲料が飲まれていました
1836年にはアメリカで“バーテンダー”という言葉が誕生し、1862年には“ザ・ボン・ヴィヴァンツ・コンパニオン・カクテルブック”が出版されました。
1875年にはミュンヘン工業大学のカール・フォン・リンデによって製氷機が発明され四季を通じて氷が手に入るようになりますと、現在のような氷で冷やすカクテルが本格的に作られるようになりました。
こうした現代的なカクテルは20世紀初頭に多民族国家で歴史も浅く固定した飲酒文化の伝統を持たないアメリカで誕生し、大きく成長していきました。
既成の概念や形式にとらわれない自由の国アメリカで生まれたカクテルはやがてヨーロッパの主要都市に多数のアメリカンバーを登場させました。
イタリアをはじめとするヨーロッパも自由奔放なアメリカンスタイルとは対をなす伝統的な要素を加味したヨーロピアン・スタイルを確立していきました。
その後、ロンドン市内のサヴォイホテルのアメリカンバーのチーフ・バーテンダー、ハリー・クラドックが“サヴォイ・カクテルブック”(1930年初版刊)を出版しました。
1920年代から14年間続いた20世紀最悪の法律アメリカの“禁酒法”でこの時代に数多くのバーテンダーがヨーロッパに渡ったことも、カクテルの世界的な普及をいっそう進めていきました。
日本にカクテルが伝えられたのは比較的早く、明治の初期鹿鳴館時代には上流階級の人々の間で飲まれていました。
横浜、神戸などの港町を訪れる海外からの船員や渡航者相手のホテルがオープンし、日本人バーテンダーの創成期にあたる人々はここで聞きなれない英会話に悪戦苦闘しながら実力を貯えていきました。

カクテルの現代
本格的にカクテルが普及したのは1945年第二次世界大戦後、全国の都市にスタンド・バーが増えてからです。
社会情勢も少しずつ安定期に入り国産ウイスキーをはじめとするスピリッツ、リキュールの製造販売がよりカクテルの普及を早めました。
戦後の開放された社会風潮もあって若い世代を中心に爆発的な人気となりカクテルブームを呼び、この時期から女性の飲酒の広がっていきました。
昭和50年代のトロピカル・カクテルの流行し、カクテルの人気が最高潮になったのはバブル景気のときで、おしゃれで高級感があるカクテルバーがもてはやされました。
バブルの崩壊でカクテルバーの人気はバブル経済のときよりはおさまりましたが、バブル後のワインブームや地酒ブーム、発泡酒の販売によって日本での飲酒文化はますます広がり、カクテルは一過性のブームではなく、多様化する嗜好にこたえ、豊かな飲料文化を象徴する飲み物として確固たる地位を築いているのです。

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