2001+0421=

かつてグリュミオーのモーツァルトが詠嘆された時代があった・・・

Messiereurのモーツァルトを聴いた今となってはグリュミオーを過去形にしてしまっても良いと思う。Messiereurさんはターリッヒ四重奏団でファーストバイオリンを弾いていた人。ターリッヒ四重奏団は、ファーストが地味すぎるという欠点を長所に変えてしまうような周囲の美しいサポートが最大の売りだったのだが、しかしMessiereurさん演奏のモーツァルト:ヴァイオリンソナタも素晴らしい。
 最初はなんのインパクトもないのだが、聞いているうちに曲の美しさがダイレクトに伝わってきているのにふと気付いて、あせる。いい音楽がそこにある。ヴァイオリニストはこの演奏のヴァイオリンを誉めないだろう。ピアニストはこの演奏のピアノを誉めないだろう。自己主張しないだけでとどまらず、相手に尽くすことさえしていない。いわゆる親密な室内楽テイストもそこにはない。

「天才は才能を感じさせない」というウィトゲンシュタインの言葉を思い出すのはこういうとき。

 僕は自分で楽器を弾くときは、いかに自分がユーモアや機知に富んで気がきいた演奏ができるかを誇示するように演奏したいと思ったり、親密さを得意げに威張ってみようと思ったり、相手の良さを引き出すべく伴奏に徹しようと思ったりするのだけれど、そういう発想ではMessireurさんのような演奏はできない。どんなにうまく弾けたとしてもデュメイとかグリュミオーどまり。

 たとえば楽しい飲み会と美味しいお酒の関係。
 たとえば楽しい飲み会と 酒席の面々の親密さ。
 最高の料理と最高の相手がいれば最高の飲み会!という幻想が幻想に過ぎないことはなんとなく同意を得れそうだけれど、だからといってこんな普通 にきこえる演奏に「最高」という印象を抱いていいんだろうか。

 Messireurさんの演奏は奇跡が起きたことさえ気付かせない。部分部分はどこも美しくない。けれど聴覚にダイレクトに訴えかけてくるんだ。時間が過ぎる感覚がダイレクトに。
  いまモーツァルトを聴いていて、とてもうつくしい音楽。

 もしかしたら演奏会でこういう演奏をしても大拍手で迎えられないのかもしれない。なんの煽りも昂揚もない。寝ちゃうのかもしれない。僕も寝ちゃうのかもしれない。
 けれど、いまそういう音楽を聴いて、モーツァルトを聴いている。

 

 

 

 


hirase kenichiro