親として人として

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 雑想ノート7/11/99より転載   友人のM君。中学、高校と同じで、彼も漫画好きなため非常に気があっていた。   しかも非常に学業が優秀。小学校時代通っていた日能研ではランキング20位以内の常連(ち  なみに母集団は10000人近い)。トップも少なからずとっていた。中学高校も常に成績上位  者の中に一席を占めていた超秀才だ。ことに理系科目の理解力、応用力たるやすさまじい。   大学に入って同じ学科に進めたのは幸運だった。彼には常に引っ張ってもらっている。   とまあ持ち上げるのはここまでにしておいて。いや、事実だけどね。   彼とはこの日記で書くような重たい命題についてよく議論するんだが、あまり議論が深化しな  い。理由は簡単、彼と俺の意見が食い違うことがほとんどないからだ。   議論というのは異なる意見の持ち主がそれぞれの意見を述べながら食い違いを検討し、すりあ  わせていくのが楽しいのであるから、ほとんど意見が一致する彼とはあまり長い間の議論はでき  ない。   しかし、何事にも例外はある。   「妊娠中絶の是非について」。これについては彼と意見が真っ向から対立。非常に熱い議論が  できた。延々4時間くらい?   そして今日の日記の本題もこれだ。いやあ、長いマクラだった。   あ、ヒジョーに重たい話題だから承知の上でどうぞ。   ベルセルク最新話はまた次の機会に。   俺は中絶賛成派。いや、賛成派というか、「なくては困るもの」だと思う。M君は反対派。文  字通り「ないほうがいい」という意見だった。あ、M君はクリスチャンではない。念のため。   M君の主張は、「妊娠したという事実の責任をとるのが当然」ということだ。正論である。   以下、俺の意見。   M君の意見は正論ではあるが同時に理想論であり、すべての人間が親としての責任能力を持っ  ているわけではないことを考えると、不幸な子供をわざわざ生み出す結果になる。   むしろ、決して親になるべきでない人間は決して少なくないのだ。この世の罪悪で俺が一番嫌  悪し、憎悪すらしているものがチャイルド・アビューズ。児童虐待である。   社会人としてのストレス、親としてのストレス、理由は多々あるだろうが自分の子供を虐待す  る親がいる。最低だ。他に言葉がない。   もちろん、反論が来た。   「親になると人間は変わる。社会的には人格者だと思われていた人間が児童虐待していた例も  多い。子供を虐待するかどうかなんて、実際子供ができなきゃ分からないんだから、それを理由  に中絶の正当性を主張するのはいかがなものか」   これも当然だ。未来は誰にも分からない。   しかし、実際問題として児童虐待をはじめ、不幸な子供が産まれている以上、選択肢の一つと  して中絶はあるべきだと思うのだ。   実はこの時点で少し議論が脱線して、出産規制の話になっていったので以下省略。   なお、M君が例外的に認めた中絶も勿論ある。一番極端な例を挙げよう。セックス&ドラッグ  という言葉がある。ドラッグを使用してトリップ状態のままセックスするということだが、性感  が高まって非常にいいんだそうだ。   これを常日頃やっている中毒者が、妊娠してしまったとする。これは中絶せざるを得ないだろ  う。障害を持って生まれることが予想されるし、麻薬中毒者に親としての責任能力があるとは思  えない。子供が不幸になる可能性が高すぎる。   また、出産するのは女性であるから、女性が傷つく出産の防止策としての中絶は必要だという  ことは当然ながら意見が一致した。とくに「性犯罪の被害にあった女性の望まない妊娠ほど悲劇  的なことはない」とはM君の言葉・・・だったっけ?まったくその通りで、まして望まない出産  などあってはならないのだ。   上記の例は論外として、一番問題になるのはごく普通の家庭を持った人が経済的な負担その他  の理由で中絶を選ぶ場合だ。これは難しい。「責任をとれ」というのも「やめておけ」というの  もそれぞれに正当性があると思う。   不幸になるかもしれない。しかし幸せになる可能性だって十分ある。さて、この場合の中絶の  是非はどうなるのだろうか。   生まれてくる子供の幸不幸が最優先命題として議論したのがこれである。   まず最初に不幸になる可能性がある子供であっても生まれるのが幸せなのか、生まれないのが  幸せなのか。そこから始めるべきだったのかもしれない。
 

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